俺は詩を一瞥してから部屋を出る。
詩はひらひらと手を振り「お願いね!」とご機嫌だ。
また階段を下りてリビングで明日の朝食の準備をする母親の背中に声を掛ける。
ちょうどテレビがついていてその音にかき消されたのか母親は俺が下りてきたことに気が付いていない。
「あのさ、」
我ながらぶっきらぼうな声を出したなと思ったが構わず続けた。
母親はビクッと肩を揺らしてエプロン姿で後ろを振り返る。
「どうしたの?」
「…夜食とかもらえると助かる」
「夜食?」

更に驚いた様子の母親に俺はくしゃりと髪をかき上げ、目を逸らす。

「最近…食べ盛りで」
「食べ盛り?」

母親の疑いを含む目を見ることは出来ないし、そもそも急に食べ盛りという意味不明なワードを自ら発しておいて後悔していた。だけどこのまま何も言わずに部屋に戻ったらきっと彼女は怒るだろう。
「あー、別にわざわざ夜食用のもの用意しなくても夕飯多く作っておいてもらえたらそれでいいから」
「そうなの?分かった、用意しておく。お母さんがいない時は出前分のお金少し多めにおいておくから。今日はそうね…あまりもので良ければあるからあとで温めて食べて」
「ありがとう」
意外にもすんなりと了承してくれた。用件だけ言うと俺はそそくさとその場を離れる。
自室に戻ると詩は嬉しそうだった。
「やったー!私も食べられるんだね!ちなみに今日の夕食は何だったの?」
「肉じゃがとかそんな感じ」
「へぇ、お母さん働きながらちゃんと手の込んだもの作ってくれてるんだね。いいお母さんだよ」
「そうかな」
詩は俺に何度も『蒼君のお母さんは良いお母さんだよ』という。俺にそれを刷り込ませたいのかと思うほどしつこい。
母親が風呂に入り先に寝静まると俺は自分の部屋に今日の分の夜食を運んだ。
 詩は嬉しそうにそれを平らげる。
確かに入院生活が長いとそれだけ色々な治療をしているわけだから、体力も無くなるだろうし食欲不振にも陥るだろうなと想像した。美味しいものを美味しいと感じることが出来るのは当たり前ではない。体が元気であることが前提なのだと思った。

 意外と母親がいても詩の存在がバレずに過ごせるような気がして、詩は隣の部屋ではなく俺の部屋で眠ることになった。
二階に母親が上がってくることなどほぼないからだ。二階の掃除は基本俺がやっている。

「大丈夫かなぁ。朝起きてお母さんが部屋覗きに来たら一発でバレちゃうよ」
「来ないよ」
「来たらどうする?」
「来ないって」
「じゃあ、来たら彼女ですって言うね」
「…余計なこと言うなよ」
 からかっているのか、少女漫画を読んでいる時のように楽しそうだ。ちなみに既に最終巻まで読んでしまったらしい。もう少しゆっくり読みたかったらしいが面白すぎて読み進める手を止めることが出来なかったらしい。
彼女らしいと言えばそうなのだが…。

「蒼君ってポーカーフェイスって感じだけど今はちょっと照れてない?」
「照れてるわけないだろ、何言ってんの」
「ええ~そうかなぁ」
「あまり騒ぐなよ。母親起きてきたら大変だから」
「分かってるよ。ねぇ蒼君」

 間接照明が部屋をぼんやりと照らしている中で詩の声色が変わった。
言いにくそうに間を置き、「何?」と訊いても数秒無言だった。
寝たのかと思ったが布団が擦れる音がして息を吐くのがわかる。

「やり残したこと手伝ってくれてありがとう。でもあれに書いてないこと頼んじゃダメかな」
「書いてないこと?何?」
「で、デートしてくれないかな…」
「……」
 徐々に眠気が襲い瞼が重たくなってきたというのに完全に目が冴えてしまった。
デートしてほしいなど生きてきて一度も言われたことなどない。
「デート…って、何すんの?」
「デートはデートだよ!二人でどこか行ったりするの!」
「詩だってしたことないから分かってないじゃん。ていうか二人でどこかに出かけるって既にしてるんだけど」
「そう言われると…言い返せないけど…デートしよう!って言ってするのと全然違うと思うの」
「そういうもの?」
「そういうものだよ!」
 がばっと上半身を起こして「してくれるの?」と俺が眠るベッドの縁に手をやり小さな子供のようにそう言う彼女に拒否は出来なかった。

「いいよ、デート」
「やったー!」
「だからあんまり大きな声出すなよ」
「ごめんごめん。じゃあお休み」
「うん、おやすみ」
 多分詩は少女漫画の読み過ぎでおかしくなったのだと思った。
デートというのは本来好きな人とするものではないのかと再度襲ってきた眠気と闘いながら思った。
好きでもない男として楽しいのだろうか。一か月しか時間が残されていないのであればだれでもいいからデートがしたいという思いはわからないでもない。