母親が入院をしている間、内山さんは病院へ行くため、自然と一人の時間が増えた。
いつもはリビングでくつろいでいるのだが、初めて出産という儀礼を体感し、直接関わることがなかったが疲労していた。五月に入ろうというのに、温かい布団から出たくなかった。
そしてようやく正午になって、ひまりはベッドから這い出た。
自室は二階にある。カーテンは閉じていたが、隙間から漏れる陽光は今日が快晴であることを示していた。
次女が誕生したことのめでたさを堪能するように、勢いよくカーテンを開いた。それから窓も開ける。一気に部屋が明るくなる。寝間着姿のまま全身で太陽を感じた。
空を見上げると、真っ青な空に白い雲が疎らに散らされていた。向こうの山の緑が強調されて見えた。やけに景色が明るい。それらは初夏の訪れを感じさせた。
別に何をすると言う訳でもないが、心が躍った。そうして視線を空から家の中に戻そうという時、あるところに視線が吸い寄せられた。
窓の向こう、少年がこちらを見つめていた。それは小さな道を挟んだ向かいの家の少年で、ひまりはその人物を誰よりもよく知っていた。
少年はひまりを見るなり、目を鋭く細め、敵意の含んだ視線を送った。
まるで自分が人殺しと言われているようで、あの光景がフラッシュバックした。胃の奥の方で液体が押し上がる準備をしていた。
せっかくの気分が台無しだった。
その怒りをぶつけるように勢いよくカーテンを閉めると、ひまりはそのままトイレへと向かった。少年の顔を見ることによって無理やり思い出させられた過去は、吐瀉物へと形を変えて現れた。十分ほどして胃の中が落ち着いて、思考を整理する。
しかし整理の段階であの景色が再び脳裏をよぎり、吐瀉物は再び胃の奥から引っ張り出された。
太陽が沈むころ、ひまりはようやくトイレから出ることができた。
顔でも洗おうかと洗面所へ行くと、鏡に映った自分が自分ではなかった。病的に真っ白な顔は冷や汗まみれで、ほうれい線が強調されたような表情。鏡の向こうに、海外映画のゾンビを見ているようだった。
昨日親父のことを思い出した時には何もなかったのに、どうして今になって吐き気が襲ったのだろうかと思ったが、そんなものは考えるまでもなく少年のせいだった。
遠い記憶の中で、確かにあんな視線を送った記憶があった。羨望と私怨、そして諦めの含んだ濁った瞳。秋村翔太という人間がどれだけ歪んでいたのかが理解できた。そして今の環境が、たとえ「高木ひまり」とは異なろうとも、一つの幸せであるのだと理解できた。
秋村翔太にとって、両親がいることが何より大きな幸せなのだから。
その日は自室のベッドで眠れなかった。いつ見ているのか、常にあんな視線が送られているのかと思うと、まるで吹雪の夜のように身体が勝手に震えた。
おかしな話だ。だってそれは、昔の自分が行ってきた行為であるはずなのに、将来の自分がそれに苦しんでいるのだから。
「高木ひまり」として生まれ変わっておきながら、何とも滑稽な姿だろうか。
ひまりは真っ暗な部屋で、自嘲気味に笑った。
そしてその出来事で理解した。自分はまだ、人と関わることができないのだと。これだけの長い間、家に引きこもっていながら、結局自分は何も変わっていないということ。
結婚したのも、子供を産んだのも、全て両親だ。
そうだ。自分は関係ないことなのだ。今の幸せも、ひまりがいてもいなくても変わらず存在しただろう。それ以上に、ひまりがいなければさらに幸せだったに違いない。
ひまりの手でそのカーテンを開けることは、この先ほとんどなくなった。
いつもはリビングでくつろいでいるのだが、初めて出産という儀礼を体感し、直接関わることがなかったが疲労していた。五月に入ろうというのに、温かい布団から出たくなかった。
そしてようやく正午になって、ひまりはベッドから這い出た。
自室は二階にある。カーテンは閉じていたが、隙間から漏れる陽光は今日が快晴であることを示していた。
次女が誕生したことのめでたさを堪能するように、勢いよくカーテンを開いた。それから窓も開ける。一気に部屋が明るくなる。寝間着姿のまま全身で太陽を感じた。
空を見上げると、真っ青な空に白い雲が疎らに散らされていた。向こうの山の緑が強調されて見えた。やけに景色が明るい。それらは初夏の訪れを感じさせた。
別に何をすると言う訳でもないが、心が躍った。そうして視線を空から家の中に戻そうという時、あるところに視線が吸い寄せられた。
窓の向こう、少年がこちらを見つめていた。それは小さな道を挟んだ向かいの家の少年で、ひまりはその人物を誰よりもよく知っていた。
少年はひまりを見るなり、目を鋭く細め、敵意の含んだ視線を送った。
まるで自分が人殺しと言われているようで、あの光景がフラッシュバックした。胃の奥の方で液体が押し上がる準備をしていた。
せっかくの気分が台無しだった。
その怒りをぶつけるように勢いよくカーテンを閉めると、ひまりはそのままトイレへと向かった。少年の顔を見ることによって無理やり思い出させられた過去は、吐瀉物へと形を変えて現れた。十分ほどして胃の中が落ち着いて、思考を整理する。
しかし整理の段階であの景色が再び脳裏をよぎり、吐瀉物は再び胃の奥から引っ張り出された。
太陽が沈むころ、ひまりはようやくトイレから出ることができた。
顔でも洗おうかと洗面所へ行くと、鏡に映った自分が自分ではなかった。病的に真っ白な顔は冷や汗まみれで、ほうれい線が強調されたような表情。鏡の向こうに、海外映画のゾンビを見ているようだった。
昨日親父のことを思い出した時には何もなかったのに、どうして今になって吐き気が襲ったのだろうかと思ったが、そんなものは考えるまでもなく少年のせいだった。
遠い記憶の中で、確かにあんな視線を送った記憶があった。羨望と私怨、そして諦めの含んだ濁った瞳。秋村翔太という人間がどれだけ歪んでいたのかが理解できた。そして今の環境が、たとえ「高木ひまり」とは異なろうとも、一つの幸せであるのだと理解できた。
秋村翔太にとって、両親がいることが何より大きな幸せなのだから。
その日は自室のベッドで眠れなかった。いつ見ているのか、常にあんな視線が送られているのかと思うと、まるで吹雪の夜のように身体が勝手に震えた。
おかしな話だ。だってそれは、昔の自分が行ってきた行為であるはずなのに、将来の自分がそれに苦しんでいるのだから。
「高木ひまり」として生まれ変わっておきながら、何とも滑稽な姿だろうか。
ひまりは真っ暗な部屋で、自嘲気味に笑った。
そしてその出来事で理解した。自分はまだ、人と関わることができないのだと。これだけの長い間、家に引きこもっていながら、結局自分は何も変わっていないということ。
結婚したのも、子供を産んだのも、全て両親だ。
そうだ。自分は関係ないことなのだ。今の幸せも、ひまりがいてもいなくても変わらず存在しただろう。それ以上に、ひまりがいなければさらに幸せだったに違いない。
ひまりの手でそのカーテンを開けることは、この先ほとんどなくなった。