暁と浜風の間に挟まった夕花姫の斬られた部分は、焼けるように痛かった。
痛い、いたい、イタイ……。
苦痛で喉を鳴らしながら思い出すのは、いったいどれくらい昔か忘れた頃の記憶であった。
彼女には名前がなかった。そもそも名前を付けるという風習がなかった。
天には天の理が存在し、天の理により地上を見守るという任務だけがあった。ここには地上に存在するありとあらゆる楽しみがなかった代わりに、老いることもひもじい思いをすることもなかった。
彼女は見守ることを任された国を、毎日真日眺めているのが好きだった。
天には星が浮かんでいたが、花はなかったし、海もなかった。見下ろす先の海の美しさに花の美しさに心を奪われ、気付けば降り立っていたのだ。
天から地上に降り立つことは、基本的に禁じられてはいたが、取り立てて厳しい罰則もなかった。ただ、あまり地上の人間に関わるなとだけは言われていたが、この邪気のない彼女は、彼らは自分たちとなにが違うのかが理解していなかった。
地上には老いが存在し、飢えが存在し、天女たちほど平和に暮らせる訳ではないということを、彼女はちっともわかってはいなかったのだ。
ざん、ざざん、ざん。
寄せては返す潮の匂いは天にはないもので、浜辺に残る泡を、彼女は面白がって見ていた。やがて、広い広い砂浜に貝が落ちているのが見えた。最初はその貝の殻が美しく、髪飾りにしようと思って拾っただけだったのだが、その中になにかが詰まっていることに気付いた。それを口で吸ってみて、彼女は目を大きく見開いた。
天には美食なんてものはない。飢えなんてものがないのだから、食べるという習慣すらなかったのである。そんな中彼女は初めて食べた貝を「おいしい!」と叫んで夢中で食べたのだった。
胡乱げな顔で眺めているのは、この海に住まう住民たちであった。
彼女はきょとんとしたものの、彼女は基本的に邪気はない。ただいつもの調子で彼らに声をかけたのだ。
「これ、おいしいわね! でもたくさん食べたら、あなたたちの分がなくなってしまうわね?」
「あんた……空から?」
「あら? 天から来たのがいけなかったのかしら……」
彼女は自身の羽衣を使って空を飛んでみせると、皆は驚いた顔で目を見開いた。
もしかして、地上に住まう人たちは空を飛ばないんだろうか。ようやくそのことに彼女は気が付いた。
地上に降りてきてわかったのは、地上の人々は空を飛ばないということ。食べ物を取り合って争っていること。海が荒れ過ぎると船が出せなくて魚は獲れないし、嵐が迫ると畑が駄目になってしまって野菜が枯れてしまうということ。
漁師の子供たちに案内された彼女は納得すると、貝のお礼にまずは荒れた海を鎮めてみることにした。
次に嵐が来ないようにしてみた。ときどきやって来るという海賊とやらには、この国に来たくなくなるようにしてみた。
彼女は子供たちと一緒に浜辺を歩き回ったり、木いちごを摘んでみたり、魚釣りをしたりしている中、大人たちが慌てふためいた顔をするのを、訳がわからない顔で眺めていた。
気付けば名前のなかった彼女は「天女様」と呼ばれ、祀られはじめていた。
彼女からしてみれば「なんで?」であった。この無邪気な天女は、ただ貝を食べさせてもらったお礼をしただけなので、ますますいろんな果物や米、酒や野菜を摘まれて「どうぞどうぞ」と食べさせてもらうようになるとは思ってもいなかったのだ。
彼女は漁師の家にも、百姓の家にも招待され、どこからも盛大に持てなされた。
この国は本当にいいところだ。彼女がそう思いながら、その日も漁師の子供たちと一緒に魚の内臓を取って干物をつくっているときだった。
「すまない、ここに天女様が降臨なされたと聞いた」
仰々しい声の人間が声をかけてきたのだ。
質素な直垂を着た人々とは違い、狩衣を着た人物に、彼女は「だあれ?」ときょとんとしたところ、子供たちは慌てた。
「あれは国司様だよ!」
「こくし? だあれ?」
「この国を治めている人! 今まで税をいっぱい取り立ててそのたびにいっぱい死んでいたけれど、今年は誰も死んではいないから、不思議がって見に来たんだよ!」
「人が死なないのは、いいことじゃないの?」
「いいことだけれど、あいつらは隠しているものは全部持って行っちゃうから!」
子供たちが小声で教えてくれたことに、彼女は考え込んだ。
どこの家も親切に食事を振る舞ってくれたが、国司はそんな人々から食事を取らないといけないくらいに余裕がないんだろうか。だとしたら、なんとかしたほうがいいんじゃないだろうか。
このどこまでもどこまでも無邪気な彼女は「わかったわ」と言った。
「ちょっとお話ししてくるわね。他の人からご飯を取っちゃ駄目よって」
「天女様、やめたほうがいいよ。逃げたほうがいいよ……」
「大丈夫よ、私、いざとなったら空を飛べるもの」
今思っても、どこまでも邪気のない彼女は、無邪気さに当てられることのない人間への対処の仕方を知らなかった。
だからこそ、彼女は羽衣を奪われてしまい、ついでに斬られて記憶すらも奪われてしまったのである。
****
夕花姫も、今だったらわかる。
自分が見た夢は、羽衣伝説を調べたから見た夢ではない。実際に会ったことだと。自分が迂闊だったから羽衣を奪われ、自分が天女だったという記憶すらなくしてしまったのだと。
暁が心配するはずだ。幼い頃の彼はよくわらっていたはずなのに、いつの間にやら笑わなくなってしまったのは、なにも考えてない自分の身を案じてだろう。
どうしてこうも自分は迂闊なのかと、夕花姫は猛省した。
「……小さい頃から、なんでもかんでも言ってくれないんだから。ずっと私のこと、守ってくれていたのにね」
「……! 姫様、記憶が……」
「斬られたからかしらねえ……それとも、羽衣を手にしたから……? ちょっと思い出しちゃったのよ……ねえ、浜風」
浜風は夕花姫を驚いた顔で眺めていた。夕花姫は彼のとまどった顔に、自分から羽衣を奪った国司のことを思った。
本来、大切にしているものを奪われ、記憶すら好き勝手に捏造されてしまったら怒らない訳がないのに。彼女はちっとも怒る気にはなれなかった。
だってあの頃の小国は、嵐としけでにっちもさっちもいかなかった上に、四方を海に囲まれた国なのだ。逃げ場なんてなかったのだから、それこそ羽衣の奇跡にすがるほかなかったのだろうと。
「……暁は大切な子なの。羽衣は父様に頼んでなんとかしてあげるから、手を引いてくれない?」
「姫君……君はまさか……」
「天女だって言って、信じてくれる?」
暁はおろか、浜風すらも毒気を抜かれてしまった。
この邪気の全くない天女を備品扱いできるような国司も武官も、実のところ少数派なのだ。彼女の前では、邪気はすぐに祓われ、罪悪感すら募らせていく。
「私は……あなたを騙していたんだよ?」
「そうね。私、あなたに利用されているって薄々気付いていたもの。でもあなたの願いを叶えてあげたかったの。駄目かしら?」
「……そもそも、記憶喪失ですらないんだよ?」
「あら、だとしたら洞窟で倒れていたのは……」
「船を着けようとして、櫂を波に取られてしまって流されてしまったんです……波にそのまま流され続けていたところで、たまたま洞窟で止まって落ちただけです」
「運がよかったのね」
浜風すら、本来の彼女には手玉を取られてしまう。いくら都にいた人間でも、そもそも人間ですらない彼女を手玉に取ることは、不可能に近かった。
暁はどうにか刀を降ろし、背中に佩いてから夕花姫を諫める。
「……いけません。羽衣をきゃつに渡すなんてそんなことは。あなたも既に思い出しているでしょう、この国がどうして羽衣が必要なのかを」
「私が父様に言ったら大丈夫だと思うけどねえ」
「どうしてこうもあなたは前向きなんですか。いけないと言ったらいけないです」
「もう。暁、あなた小さい頃からどうしてこうも小言ばっかり……」
「記憶を取り戻したからといって、いつまでも子供扱いばかりするのはやめてください!?」
「くくくく……」
ふたりのやり取りを聞いて、とうとう浜風は背中を丸めて笑い出してしまった。
それに夕花姫はきょとんとし、暁は憮然とした顔をする。
「……君たちは、本当に面白いね。私が記憶喪失じゃなかったことまで、こうもあっさりと見逃してくれるとは思っていなかったけど」
「俺は別に見逃していない」
「暁、やめなさい」
すっかりと立場が逆転してしまった夕花姫と暁のふたりに、ますます浜風は面白そうに口元を歪めた。彼は刀を鞘に収めて蔵に片付けると、淡々と口を開いた。
「ここの国司が言っていたよ。この国には奇跡が存在していると」
「国司? 父様?」
「今の国司じゃないさ。おそらくは前のだろうね……そのときのことは、多分姫君も覚えていないだろうけど」
国司が交替するたびに、その娘という触れ込みで記憶を消され続けていたのだから、当然ながら夕花姫は覚えてはいない。
暁が渋い顔をしているところからしてみても、あまりいい人物ではなかったのだろうということだけは察することができた。
浜風は言う。
「私も元々、都ではそれなりの地位にいたけどね……出世争いに負けて、都落ちが決まっていた。そのときに、宴で聞いたこの国の話を思い出してね。どっちみちもう都に戻れるめどはつかないし、都から離れるなら礼儀正しく余生を送るよりも、好き勝手してから死のうと思ってこの国に舟を漕ぎ出したら、君たちに出会えたという訳さ」
それに夕花姫は押し黙った。
要は奇跡の力というものが羽衣のことだと当たりを付けて、この国に来たのだろう。それこそ夕花姫をさんざん懐柔するようなことばかり言って。
それでも彼女は、怒る気にはなれなかった。
それこそ歌を送ろうとした相手なのだから。
「父様と話を付けてきます。だから浜風も待っていて。父様は他の国司とはちょっと違うから」
彼女はそう言って、国司の部屋へと向かっていったのだった。
痛い、いたい、イタイ……。
苦痛で喉を鳴らしながら思い出すのは、いったいどれくらい昔か忘れた頃の記憶であった。
彼女には名前がなかった。そもそも名前を付けるという風習がなかった。
天には天の理が存在し、天の理により地上を見守るという任務だけがあった。ここには地上に存在するありとあらゆる楽しみがなかった代わりに、老いることもひもじい思いをすることもなかった。
彼女は見守ることを任された国を、毎日真日眺めているのが好きだった。
天には星が浮かんでいたが、花はなかったし、海もなかった。見下ろす先の海の美しさに花の美しさに心を奪われ、気付けば降り立っていたのだ。
天から地上に降り立つことは、基本的に禁じられてはいたが、取り立てて厳しい罰則もなかった。ただ、あまり地上の人間に関わるなとだけは言われていたが、この邪気のない彼女は、彼らは自分たちとなにが違うのかが理解していなかった。
地上には老いが存在し、飢えが存在し、天女たちほど平和に暮らせる訳ではないということを、彼女はちっともわかってはいなかったのだ。
ざん、ざざん、ざん。
寄せては返す潮の匂いは天にはないもので、浜辺に残る泡を、彼女は面白がって見ていた。やがて、広い広い砂浜に貝が落ちているのが見えた。最初はその貝の殻が美しく、髪飾りにしようと思って拾っただけだったのだが、その中になにかが詰まっていることに気付いた。それを口で吸ってみて、彼女は目を大きく見開いた。
天には美食なんてものはない。飢えなんてものがないのだから、食べるという習慣すらなかったのである。そんな中彼女は初めて食べた貝を「おいしい!」と叫んで夢中で食べたのだった。
胡乱げな顔で眺めているのは、この海に住まう住民たちであった。
彼女はきょとんとしたものの、彼女は基本的に邪気はない。ただいつもの調子で彼らに声をかけたのだ。
「これ、おいしいわね! でもたくさん食べたら、あなたたちの分がなくなってしまうわね?」
「あんた……空から?」
「あら? 天から来たのがいけなかったのかしら……」
彼女は自身の羽衣を使って空を飛んでみせると、皆は驚いた顔で目を見開いた。
もしかして、地上に住まう人たちは空を飛ばないんだろうか。ようやくそのことに彼女は気が付いた。
地上に降りてきてわかったのは、地上の人々は空を飛ばないということ。食べ物を取り合って争っていること。海が荒れ過ぎると船が出せなくて魚は獲れないし、嵐が迫ると畑が駄目になってしまって野菜が枯れてしまうということ。
漁師の子供たちに案内された彼女は納得すると、貝のお礼にまずは荒れた海を鎮めてみることにした。
次に嵐が来ないようにしてみた。ときどきやって来るという海賊とやらには、この国に来たくなくなるようにしてみた。
彼女は子供たちと一緒に浜辺を歩き回ったり、木いちごを摘んでみたり、魚釣りをしたりしている中、大人たちが慌てふためいた顔をするのを、訳がわからない顔で眺めていた。
気付けば名前のなかった彼女は「天女様」と呼ばれ、祀られはじめていた。
彼女からしてみれば「なんで?」であった。この無邪気な天女は、ただ貝を食べさせてもらったお礼をしただけなので、ますますいろんな果物や米、酒や野菜を摘まれて「どうぞどうぞ」と食べさせてもらうようになるとは思ってもいなかったのだ。
彼女は漁師の家にも、百姓の家にも招待され、どこからも盛大に持てなされた。
この国は本当にいいところだ。彼女がそう思いながら、その日も漁師の子供たちと一緒に魚の内臓を取って干物をつくっているときだった。
「すまない、ここに天女様が降臨なされたと聞いた」
仰々しい声の人間が声をかけてきたのだ。
質素な直垂を着た人々とは違い、狩衣を着た人物に、彼女は「だあれ?」ときょとんとしたところ、子供たちは慌てた。
「あれは国司様だよ!」
「こくし? だあれ?」
「この国を治めている人! 今まで税をいっぱい取り立ててそのたびにいっぱい死んでいたけれど、今年は誰も死んではいないから、不思議がって見に来たんだよ!」
「人が死なないのは、いいことじゃないの?」
「いいことだけれど、あいつらは隠しているものは全部持って行っちゃうから!」
子供たちが小声で教えてくれたことに、彼女は考え込んだ。
どこの家も親切に食事を振る舞ってくれたが、国司はそんな人々から食事を取らないといけないくらいに余裕がないんだろうか。だとしたら、なんとかしたほうがいいんじゃないだろうか。
このどこまでもどこまでも無邪気な彼女は「わかったわ」と言った。
「ちょっとお話ししてくるわね。他の人からご飯を取っちゃ駄目よって」
「天女様、やめたほうがいいよ。逃げたほうがいいよ……」
「大丈夫よ、私、いざとなったら空を飛べるもの」
今思っても、どこまでも邪気のない彼女は、無邪気さに当てられることのない人間への対処の仕方を知らなかった。
だからこそ、彼女は羽衣を奪われてしまい、ついでに斬られて記憶すらも奪われてしまったのである。
****
夕花姫も、今だったらわかる。
自分が見た夢は、羽衣伝説を調べたから見た夢ではない。実際に会ったことだと。自分が迂闊だったから羽衣を奪われ、自分が天女だったという記憶すらなくしてしまったのだと。
暁が心配するはずだ。幼い頃の彼はよくわらっていたはずなのに、いつの間にやら笑わなくなってしまったのは、なにも考えてない自分の身を案じてだろう。
どうしてこうも自分は迂闊なのかと、夕花姫は猛省した。
「……小さい頃から、なんでもかんでも言ってくれないんだから。ずっと私のこと、守ってくれていたのにね」
「……! 姫様、記憶が……」
「斬られたからかしらねえ……それとも、羽衣を手にしたから……? ちょっと思い出しちゃったのよ……ねえ、浜風」
浜風は夕花姫を驚いた顔で眺めていた。夕花姫は彼のとまどった顔に、自分から羽衣を奪った国司のことを思った。
本来、大切にしているものを奪われ、記憶すら好き勝手に捏造されてしまったら怒らない訳がないのに。彼女はちっとも怒る気にはなれなかった。
だってあの頃の小国は、嵐としけでにっちもさっちもいかなかった上に、四方を海に囲まれた国なのだ。逃げ場なんてなかったのだから、それこそ羽衣の奇跡にすがるほかなかったのだろうと。
「……暁は大切な子なの。羽衣は父様に頼んでなんとかしてあげるから、手を引いてくれない?」
「姫君……君はまさか……」
「天女だって言って、信じてくれる?」
暁はおろか、浜風すらも毒気を抜かれてしまった。
この邪気の全くない天女を備品扱いできるような国司も武官も、実のところ少数派なのだ。彼女の前では、邪気はすぐに祓われ、罪悪感すら募らせていく。
「私は……あなたを騙していたんだよ?」
「そうね。私、あなたに利用されているって薄々気付いていたもの。でもあなたの願いを叶えてあげたかったの。駄目かしら?」
「……そもそも、記憶喪失ですらないんだよ?」
「あら、だとしたら洞窟で倒れていたのは……」
「船を着けようとして、櫂を波に取られてしまって流されてしまったんです……波にそのまま流され続けていたところで、たまたま洞窟で止まって落ちただけです」
「運がよかったのね」
浜風すら、本来の彼女には手玉を取られてしまう。いくら都にいた人間でも、そもそも人間ですらない彼女を手玉に取ることは、不可能に近かった。
暁はどうにか刀を降ろし、背中に佩いてから夕花姫を諫める。
「……いけません。羽衣をきゃつに渡すなんてそんなことは。あなたも既に思い出しているでしょう、この国がどうして羽衣が必要なのかを」
「私が父様に言ったら大丈夫だと思うけどねえ」
「どうしてこうもあなたは前向きなんですか。いけないと言ったらいけないです」
「もう。暁、あなた小さい頃からどうしてこうも小言ばっかり……」
「記憶を取り戻したからといって、いつまでも子供扱いばかりするのはやめてください!?」
「くくくく……」
ふたりのやり取りを聞いて、とうとう浜風は背中を丸めて笑い出してしまった。
それに夕花姫はきょとんとし、暁は憮然とした顔をする。
「……君たちは、本当に面白いね。私が記憶喪失じゃなかったことまで、こうもあっさりと見逃してくれるとは思っていなかったけど」
「俺は別に見逃していない」
「暁、やめなさい」
すっかりと立場が逆転してしまった夕花姫と暁のふたりに、ますます浜風は面白そうに口元を歪めた。彼は刀を鞘に収めて蔵に片付けると、淡々と口を開いた。
「ここの国司が言っていたよ。この国には奇跡が存在していると」
「国司? 父様?」
「今の国司じゃないさ。おそらくは前のだろうね……そのときのことは、多分姫君も覚えていないだろうけど」
国司が交替するたびに、その娘という触れ込みで記憶を消され続けていたのだから、当然ながら夕花姫は覚えてはいない。
暁が渋い顔をしているところからしてみても、あまりいい人物ではなかったのだろうということだけは察することができた。
浜風は言う。
「私も元々、都ではそれなりの地位にいたけどね……出世争いに負けて、都落ちが決まっていた。そのときに、宴で聞いたこの国の話を思い出してね。どっちみちもう都に戻れるめどはつかないし、都から離れるなら礼儀正しく余生を送るよりも、好き勝手してから死のうと思ってこの国に舟を漕ぎ出したら、君たちに出会えたという訳さ」
それに夕花姫は押し黙った。
要は奇跡の力というものが羽衣のことだと当たりを付けて、この国に来たのだろう。それこそ夕花姫をさんざん懐柔するようなことばかり言って。
それでも彼女は、怒る気にはなれなかった。
それこそ歌を送ろうとした相手なのだから。
「父様と話を付けてきます。だから浜風も待っていて。父様は他の国司とはちょっと違うから」
彼女はそう言って、国司の部屋へと向かっていったのだった。