一応ふたりで境内を見回る。拝殿の向こうにはお供え物の米と野菜、酒が積まれているのが見え、そこが荒らされている気配もない。手を合わせて拝んでみたものの、それだけすごいとされている羽衣の御利益があるのかどうかまではわからなかった。

「これ以上は、もうここには羽衣伝説の情報は得られそうもないわね。打ち止め……なのかしら」
「いやそうでもないじゃないかな」
「えっ?」

 夕花姫は少し驚いて浜風を見ると、浜風は拝殿に頭を下げてから、ゆったりと述べる。

「少なくとも、羽衣があるってことはわかったんじゃないかな」
「見つかってないのに?」
「ご老人にしろ宮司にしろ、天女様の存在を示唆しているし、天女様の持っている羽衣がなかったら、この国のことも説明できないしね。少なくとも私は、こんな都合のいい話に心当たりがないから」
「……都には、もっと陰陽師とか阿闍梨(あじゃり)とかがいて、都の災難を食い止めていると思っていたんだけど」
「姫君は結構物語を読むんだねえ。彼らは都で起こるありとあらゆることの辻褄を合わせているだけで、天女様の起こす奇跡とは、種類が違うと思うよ?」

 辻褄を合わせている。都のその手の人々の実情を知らないために、浜風の言いたいことの意味はわからなかったが、天女の存在だけは都の理屈でも説明がつかないことだけはどうにか飲み込めた。
 ふたりが手を合わせているのを見て、宮司がなにかを持ってきた。

「先程百姓からもらったものですけれど、よかったらどうですかな?」
「あら、ありがとう。これはなにかしら」
「お餅ですよ。あー……三日餅ではないです」

 その言葉に、夕花姫はどっと顔を火照らせて「宮司さん!!」と悲鳴を上げた。
 三日間に渡る妻問婚の果てに、互いの同意を得て餅をふたりで食べることにより、婚約はなされるという。もっとも、夕花姫は年頃の割には周りに年頃で身分も釣り合う男がいないために、物語でしかその光景を知らない。世の中にいくらでもいると思われる田舎の姫君は、いったいどうやって結婚しているのか、夕花姫も知らない。
 夕花姫の直情型な混乱とは対照的に、浜風はにこやかに「どうも」と言いながらいただく。それを見ながら、夕花姫は少なからずしゅんとしながら、自分も宮司の出してくれた器からお餅を手に取った。
 もちもちとした食感は、出来たてならではのものである。
 元々餅は神聖なものであり、わざわざつくりたてのものを神社にお供えするのはなんら不思議なことではないが、まさかここで公達と一緒に食べることになるとは、夕花姫だって思わなかった。
 浜風はのんびりとそれを食べているのを、ちらりと見る。
 彼は相変わらず記憶が戻らないし、それでも覚えている都の話を聞かせてはくれるが。そのたびに夕花姫は明るい気性には似合わぬほどに打ちひしがれる。住む世界が違い過ぎると。だからこそ、せめて全く興味のない羽衣探索に付き合いたかった。都の雅な姫君では決してできぬ冒険をして、彼の中に少しでもいいから残りたかった。
 浜風の夢にまでついていければいいけれど、きっと彼の中ではそこまでの価値はないのだから。

「どうかしたかな、姫君。ずいぶんと大人しくなってしまったけれど」

 ふいに声をかけられ、夕花姫は「うっ」と呻き、喉を詰まらせる。
 ゲホッゲホッと咳をするので、慌てて宮司は麦湯を持ってきて、浜風は彼女の背中をさする。夕花姫はほっとしながら麦湯をいただき、ひと息ついた。

「餅を喉に詰まらせて死んでしまうところだったわ!」
「それは災難だったね。君が死んでしまったら、きっとこの国の人々も悲しみに暮れてしまうだろうさ」
「……浜風はどうなの?」
「おや?」

 話を向けてくれた以上、夕花姫はじっと浜風を睨み付けて尋ねる。
 残念ながら田舎の姫君の彼女には、雅な都の姫君のように、楽器を奏でて歌を詠むような才覚はない。日がな屋敷から脱走して、国の子供たちと仲良くなって一緒に遊ぶような、変わり者の姫君だ。
 駆け引きなんか知る訳もなく、猪のように突撃するような感情のぶつけ方しかわからない。
 しかし、心は田舎だろうが都だろうが変わらない。恋を知って、それを失うのを怖がる、その心根は、どこの国にもいる乙女そのものである。

「あなたは、私が死んだら悲しんでくれるの?」
「……そうだねえ」

 浜風は切れ長の目をすっと細めながら、じいっ……と夕花姫を見る。
 その瞳の揺らめきに、夕花姫はなにを想えばいいのかわからないでいると。ポツン、と鼻の頭になにかが落ちたことに気付いた。

「えっ?」

 空を見上げると、青空にもかかわらず、細やかな雨が降り注ぎはじめていた。それに浜風は肩を竦めると、ひょいと自分の狩衣の袖を夕花姫に被せる。
 村雨が降り注ぎはじめたのである。浜風は宮司に声をかける。

「すまないね。しばらく屋根を借りてもいいかな」
「ああ……どうぞ。この辺りはなんの予告もなく雨が降ることが多いのですよ」
「山だったら、そういうこともあるだろうね。ほら、姫君もおいで。濡れてしまう」
「え、ええ……」

 せっかく彼が自分のことをどう想っているのか、答えてもらえると期待してたのに。
 夕花姫は心底がっかりしていたところで、浜風は拝殿の下からぼんやりと空を眺めた。

「村雨よ いつかは止むると 知ってなほ ながくもかなと 思いけるかも」
「え……?」

 一瞬意味がわからず、浜風の顔を夕花姫は見た。

「私の今の心境、かな。姫君」

 そう言って浜風は、端正な顔付きに笑みを乗せた。
 彼の言葉に、しばらく夕花姫は言葉が出なかった。
 じわじわと顔が熱を持ち、かっかと火照ってくるのがわかる。
 村雨がいつかは止むのなんて当たり前の話であり、そのことを雅に歌で詠む意味もないが。それは夕花姫への返答だと、気が付いたのだ。
 浜風の記憶が元に戻れば、いつかはこの奇妙な関係も終わりを迎えるが、それでもなお。今の状態がしばらく続けばいいのにと。
 歌を詠む練習は何度も何度もしたにもかかわらず、侍女に匙を投げられるほどに、夕花姫は歌を詠むことが下手くそだ。
 ……歌を贈られたら歌を返すのがならわしだが、そもそも今初めて歌を贈られたのだから、どう返すのが正しいのか、混乱した夕花姫には出てこなかった。ごちゃごちゃとした言葉の羅列だけが頭をよぎっていき、上手くまとまらない。
 都風の求愛行動なんて知らない。都の姫は皆すぐに歌が読めるのか、すごい。
 頭の悪いことばかりが、頭を占めていく。

「えっとね……ちょっと待って……ちょっと待ってね。返歌。返歌……!」
「そりゃもう。姫君の返歌なら、いつまでも待つよ」
「ありがとう! ……本当にごめんなさいね。待って、待って……!」

 頭が働かない。喉がどんどん乾く。先程宮司から麦湯をいただいたばかりだというのに。
 夕花姫は浜風ににこやかな顔で見守られながら、必死で頭を抱えて痛ませて、返歌を考え出すのであった。
 夕花姫は必死に頭を悩ませていたがために、浜風はにこやかな表情をそのままに、神社の向こうの茂みに視線を送っていたことに気付くことはなかった。

 その茂みの向こうでは、村雨に打たれたままの暁が、腕を組んでふたりを見守っていた。
 浜風を睨み付けながら、顔を火照らせて返歌を考えている彼の護衛対象から目を離さぬよう。
 暁がずっと夕花姫に悟られぬよう黙って尾行していたことに、浜風は気付いていたのである。