老婆は目を細め、乞われるままに話をはじめる。

「私が子供の頃は、そりゃあもう大変だったよぉ……あんまり昔話すると、子供とかが嫌がるんだけどねえ……嵐が来たら畑に塩が撒かれて折角の作物が枯れちまい、百姓が飢え死んだことなんてしょっちゅうだったし、しけで船がひっくり返って漁に出た奴らが帰ってこないことだって珍しくもなんともなかった。海賊も怖いが、しけと嵐が一番怖かったよぉ。たまりかねた奴らは、税で納めなきゃなんねえもんに手ぇ付けて、袋だたきで死ぬんだからなあ……逃げたくっても、四方を海に囲まれた場所じゃ、逃げ場なんてねえ。次は死ぬかもしれない。今年は助かってもその次は無理かもしれないと、皆震え上がっていたよぉ」
「そんな……」

 夕花姫は、老婆の語る話に愕然とした。
 今の平和な小国の光景とは、大きくかけ離れていたからだ。
 浜風は冷静に老婆に尋ねる。

「そんなに大変だったのが、天女が来て変わったんですか?」
「ええ、ええ。本当に大きく変わったよぉ……最初は空からなあんか可愛らし人が落ちてきたと思ったら、羽衣はためかせてひらひらと飛ぶものだから、皆驚いてたねえ。勝手に貝拾って食うもんだから、漁師は怒ってぶん殴ろうとしたけれど、あんまりにも可愛らしいから、皆毒気が抜かれちまったんだよ。『おいしいわね、この貝は』って、そりゃもう、屈託なく食べるもんだから」

 老婆の語る殺伐とした昔ばなしを一気に壊すような天女の存在に、夕花姫はポカンとしてしまった。

「なんか天女様ってどんなにすごい人かと思ってたけど、おひいさんみたいだよね?」

 一緒に話を聞いていたげんたが言うと、浜風はくすくす笑いながら頷く。

「うん、私もそう思った。ご老人の語る天女が、全部姫君に思えるんだよ」
「なっ……! 私、別に羽衣なんて持ってないし、空なんて飛べないんだけど!?」
「そうさねえ……たしかに姫様は天女様そっくりだったねえ……天女様はなにを出してもおいしく食べた。最初は税で持って行かれる分を勝手に食べるなんて、なんて奴だと追い出そうとしてたんだけど、不思議なことが起こったんだよ。その年もまた、嵐が原因で畑がやられて、今年もまた餓死者が出るかもしれないと百姓連中は恐れおののいていたのにもかかわらず、畑に作物が実ったんだよ。それも豊作でねえ……税でどれだけ持って行かれても余るんだから、そりゃもう大騒ぎだった」
「え……? 嵐で塩を撒かれたのに……?」

 夕花姫の問いに、老婆は大きく頷いた。

「それはそれは不思議なことだったし、誰もかれもが奇跡だって思ったねえ……でも、それは漁師連中だって同じさね。その年はしけがひど過ぎて船が出せない日が続き、このままだと獲ったものを全部税で持って行かれる、今年も餓死者が出ると震えていたのに、急に波が引いて、船が出せるようになったんだ」
「それは……偶然じゃなくって?」
「最初は皆、なにが起こったのか誰もわからなかったさ。でも魚は獲れる、作物は育つ。税で獲られても冬が越せるとなったら、天女様がなにを食べたがっても誰も気にしなくなり、むしろ皆で彼女に食事を振る舞うようになったんだよ」
「まあ……」
「天女様と来たら、なんでもかんでもおいしいおいしいと食べながら、ある日とうとうぽろりと言ったのさ。『嵐が邪魔だなと思って消したけど、大丈夫だったかしら?』なんてね。とうとうこれが天女様のおかげだとわかったら、なにかしなければならないと、皆使命感にとらわれたねえ。なんたって今まで殺伐とし、時には百姓が漁村を襲って食料を奪い、逆に漁師が農村を襲って食料を奪うなんて真似をしていたもんだからさあ……」

 夕花姫は、百姓にも漁師にも知り合いは多い。どちらもどちらかに深く干渉したりしてはいないが、まさか彼らの祖父母が食料の奪い合いをしているなんてことは、考えたこともなかった。
 今の善良な人々が善良なままなことに、夕花姫は心底ほっとした。そしてそれは、当事者の老婆もまた同じようだった。

「それをしなくて済んだというのは皆でほっとしたのさ。神社をつくって祀ったよぉ。天女様ありがとうってさあ」

 それは途方もない話に、夕花姫には思えた。
 夕花姫が当たり前だと思っていたことは、ちっとも当たり前ではなかったのだ。
 もう百姓の子供も、漁師の子供も、餓死者が出た記憶なんてない。皆お腹いっぱい食べて幸せそうに過ごし、遊びに行った夕花姫もそのご相伴に預かっていたのだから。そのような殺伐とした記憶の面影は、もうどこにもない。
 天女が来る前と来たあとだったら、ここまで大違いだったなんて。
 夕花姫が羽衣伝説の雄大さに、くらくらとめまいを覚えている中、浜風は老婆に尋ねた。

「神社……神社に、天女を祀ったのかな?」
「最初は羽衣を祀ってたはずだけど、羽衣はどっか行っちまったねえ。もしかしたら、あそこの宮司だったらなにか知ってるかもしれねえけど」
「そうか。ありがとう、ご老人」
「いやいや。久々に昔話ができたし、最後まで聞いてくれる人がいてよかったよぉ」

 そう老婆はにこにこ笑いながら、再び網を繰るのに戻っていった。
 話を一緒に聞いていたげんたは、首を傾げた。

「あれでよかったの? よくばっちゃが言っている話だったけど」
「うーん、どうだったかな? 浜風」
「たしかにあの子守歌は天女様に感謝を伝えるための歌だったみたいだけど」

 浜風は袖で口元を抑えながら、なにやら思慮にふける。

「天女が感謝を伝えているのはわかるけど、その肝心の天女の羽衣をなくしてないかい? 先程のご老人も羽衣はどこかに行った以外は知らないみたいだし。どうしてなくしたのかまでは知らないみたいだけれど」
「そういえば」

 夕花姫も、子供たちがさんざん歌っていた子守歌の歌詞を思い浮かべながら首を捻る。
 げんたは「そろそろおれ、仕事に戻るよ?」と言うので、ふたりでお礼を言って漁村を出る中、夕花姫は歩きはじめた。

「とりあえず、神社に行ってみましょう。もしかしたら、そこで羽衣をどうして天女様がなくしてしまったのかわかるかもしれないし」
「……うん、それもそうだね。でもこの小国にも神社があるなんて、少し驚いたかな」
「都はどうなの?」
「そうだね……都では、寺社にどれだけ出資できるかが権力の誇示方法のひとつだから」

 都の話を聞けば聞くほど、夕花姫が思っているよりも殺伐としていて、こんなところにどうしていろいろ素敵な物語が生まれたのだろうと、ただ首を捻った。
 緩やかな坂を登るのは、牛車もなしだと骨が折れるが、それでもそろそろと歩いて行った先に、石の鳥居が見えてきた。
【羽衣神社】と、そう書かれているのが見える。

「あそこかな」
「そうそう。すみませーん。こんにちはー」

 夕花姫が声をかけると、宮司が驚いた顔で飛び出してきた。
 人のよさそうな顔をした宮司は、当然ながら夕花姫とは顔見知りであった。脱走癖のある夕花姫が全く顔を合わせない人間なんて、小国では滅多にない話ではあるが。

「これはこれは……また姫様家出ですかな?」
「家出じゃないわ、探索よ、探索」
「それはそれは……ええっと、公達と逢瀬を……?」

 怖々と浜風を見ながらそう言うので、夕花姫は顔を真っ赤にする。

「そんなんじゃないわ! この人と一緒に羽衣伝説の謎を追っていたのよ」
「おやおや……そんな追うようなことなんてありましたか?」

 何故か心底ほっとした顔をする宮司に、夕花姫はなんで、と思いながらも浜風を見た。浜風は夕花姫と宮司の会話にくすくすと笑っていたが、ようやく顔を引き締めて宮司に尋ねた。

「うん、聞きたいことはいろいろあるんだけれど。子守歌の謎を解き明かしたいと思って、ここに来たんだ」
「おや……どこに行っても庶民が歌ってらっしゃるものでよろしいですかな?」
「そうだね。天女がこの国に恵みをもたらし、お礼にこの国の人が天女を祀る神社をつくったと、ここまでは先程伺ってきたのだけれど、肝心の羽衣はどこに行ってしまったのかなと」
「ふむ。もしどこかにあるとわかりましたら、誰も歌になどせず、こっそりと持っていそうなものですが」

 宮司の言葉に、夕花姫は小首と髪を揺らした。

「あら、そういうものなの?」
「私も数代前の話なため、全部は把握してはおりませんが、力があったのは天女ではなく、羽衣のほうで、だから神社の名前は羽衣なのだろうと、もっぱらの噂です」

 その言葉に、夕花姫はどことなくもやもやとした。
 これじゃあまるで、天女は羽衣のおまけで、神社は天女ではなく羽衣だけ祀っていたように思える。漁師も百姓も、天女に感謝していたはずなのに。
 夕花姫が憮然とした顔をしたのに気付いたのか、浜風はやんわりと口を開く。

「それはそれは……では天女様はそのあといかがされたんですか?」
「……そうですね。あるときを境に、忽然と天女様の話が消えているんですよ」
「消えている?」
「はい。ですけど、記録を読む限りでは天女様が来て以降は小国の海が荒れたことは一度もなく、嵐に見舞われたこともございません。おまけに天女様も羽衣がなければ天に帰ることだってかなわないでしょうから、いらっしゃるはずなんですが……説明がつきませんよね?」

 宮司の話に、浜風と夕花姫は顔を見合わせた。
 浜風は宮司に提案してみる。

「記録を読むことは、可能でしょうか?」
「残念ながら、これも職務の話ですので、お見せする訳にはいかないんですよ」

 やんわりと断られてしまった。
 羽衣は小国のどこかにあるはずなのに、何故か天女は見つからない。天女はどこかで死んでしまったんだろうか。それともどこかに隠れ住んでいるんだろうか。彼女が帰っていたら、小国の現状は説明できないはずなのに。
 夕花姫は考えてみたものの、ちっとも検討が付かなかった。
 普段から散歩していてほとんどの小国の人間は知っているのだから、天女の話があったら聞きそうなものなのに、そんなことを耳に入れた覚えもなかった。