貴妃未満ですが、一途な皇帝陛下に愛されちゃってます

 晴明が気づいて声をかけた。宰相はあたりを見回すが、確かに逃げ惑う人の中に戸部尚書である陳張明の姿がない。

「先ほど確認した時は、確かにおりましたが……永福」

「はい」

 宰相は、広間の官吏たちにもぐりこませていた永福を呼んだ。彼はこの春の耳目で中書省に入った宰相直属の新人官吏だ。

「戸部尚書はどうした?」

「あれ?」

 言われて初めて、永福は張明がいないことに気づいたようだ。

「おかしいな。確かにさっきまで……」

「肝心のやつから目を離して何をしていた!」

 きょろきょろしていた永福が、宰相に雷を落とされて首をすくめた。晴明が踵を返す。

「急いで藍晶宮を調べろ。この状況で張明がいなくなったとなれば、行く先は藍晶宮に違いない」

「陛下!」

 広間を出ようとした晴明のもとに、その藍晶宮を見張っていた衛兵がまろびながらやってきた。

「どうした」

「藍晶宮に、その、戸部尚書が、皇太后様をお連れになって、入られました」

「なに?!」

 その場にいた者たちに緊張が走る。宰相が悲鳴のような声をあげた。

「なぜ、その場で止めなかった!」

「お止めしようとしたのですが、尚書が皇太后さまに短刀を突き付けておられたので、手が出せず……」

「だからと言って……!」

「よせ、翰林」

 衛兵をどなりつけた宰相を、晴明がとめる。

「それで、尚書は何か言っていたか?」

「はい。晴明陛下に、お一人で藍晶宮へ来い、との伝言です」

「なるほど。こんなに熱い誘われ方は初めてだ」

「何をのんきなことを。皇太后さまにもし何かあったら……!」

 晴明を振り返った宰相は、思わず言葉を止めた。表情だけは笑顔だが、晴明の目は冷たく底光りをしている。自分の背筋に冷たいものが走るのを、宰相は感じた。

(龍可陛下……!)

 晴明からあふれる威圧感はまさに、亡き皇帝陛下、龍可そのものだった。

「そんなことはさせない。右軍はそのままここの者たちを牢へ。左軍は一緒に来い!」

 晴明が声をあげて、後宮へと向かった。

  ☆

「来たようですな」

 藍晶宮のまわりに人の気配が集まるのを感じて、張明は立ち上がる。そして、椅子に座ったままの皇太后を見下ろした。

「さて、陛下はお一人でこられますかな」

「あの子は、大義を間違える子ではありません」

「そうでしょうか」

 うっすらと笑みを浮かべた張明を、皇太后は静かに見つめる。

「あなたを守るためなら、陛下は素直にこちらの要求をのんでくださるでしょう。本当にお優しい方にお育ちだ。あなたは、親としては完璧だった」

 内容は褒めていても、声ににじむ皮肉を隠そうともしない。

「だが、一国の主はそれでは駄目なのですよ。だから養育は乳母や教師に任せろと言ったのに、あなたはがんとして自分で育てることを押し通した。その結果が、あのひ弱な皇帝です。あなたは、最悪の皇帝を作ってしまった」

「国民は、すべて皇帝の民。子も同然です。その子たちを愛しく思えない人物が頂点に立つ国など、とても幸せな国とは思えません」

「あんなひ弱な皇帝になにができます」

 小馬鹿にするように、張明は笑った。だが、張明を見る皇太后の視線の強さは変わらない。

「あなたは、本当の晴明を知らないのです」
「強がりがいつまでもちますかな。いずれにしても、晴明様には皇帝を降りてもらいます。そして、次の皇帝となるのは」

 ちらり、と張明は、奥の長椅子に座る元淑妃、李恵麗に視線を向けた。

「慶朴様は、優れた傑物です。晴明様とは違う」

「当然です」

 恵麗は妖艶に言った。

「あの子は、上に立つ者としての教育を受けて成長いたしました。晴明様のような甘いお方に、国を統べることなどできません。慶朴が冠礼の儀をすませた今、皇帝となる資格は十分ですわ。そしてあの子が皇帝となったあかつきには、我が李家が全面的に慶朴をお守りいたしましょう」

 皇太后は、反論するでもなく目を閉じた。藍晶宮のまわりに集まる気配は、さらに多くなっていく。

 三人の耳に、扉を叩く音が聞こえた。

「皇太后様を迎えに来た」

 その声を聞いて、皇太后はわずかに目をみはる。張明はにやりと笑んで皇太后を見下ろすと、自ら動いてうやうやしく扉をあける。

「お待ちしておりました。陛下」

 晴明は、張明をにらんだまま目を離さない。

「母上を返してもらおう」

「人聞きの悪い。私どもは楊皇太后をお茶にお招きしただけでございます」

「では、帰っても問題ないな」

 張明は、うっすら浮かべた笑顔を崩さない。

「それは、陛下の出方次第でございます」

「私にどうしろというのだ?」

「こちらへ」

 誘われて、晴明は一人で藍晶宮に入った。周りからの視線を受けながら、張明は堂々と扉を閉める。

「さあ、陛下にもお茶を」

 張明は、中央の卓へと晴明を案内した。

「だめよ、晴明」

 用意された二つの茶碗には、白湯らしき透明な液体が入っていた。

「陛下と、皇太后様にも差し上げましょう」

「藍晶宮の周りは、兵が囲んでいる。私になにかあれば、お前たちもただではすまないぞ」

「私が夜までとある場所に行かなければ、陛下の大切な小鳥も羽を散らしましょう」

 ぴくり、と晴明が眉をあげた。

「やはり、お前だったのか。私だけが狙いだろう。紅華殿は関係ない」

「美しい小鳥が大事なら、私を無事にここから帰すことですな」

「では、母上は開放しろ」

「秘密を知るものが多ければ、それはもう秘密ではありません」

「わたくしは、何も見ておりません」

 口を挟んだのは、恵麗だ。その言葉の通り、横を向いてこちらを視界入れようとはしない。

「なるほど。お前だけの証人では心もとなくとも、国母となる恵麗様の言葉を正面切って疑える者はいないだろう。そうして証人となった恵麗様は、私が乱心して皇太后を殺し自らも死を選んだと証言するのだな。それが事実ではないと証言した者まで、ことごとく抹殺する気か」

 淡々とした晴明の言葉にも、張明は笑んだまま答えない。

「張明」

 低くなった晴明の声は、あくまで静かだ。

「なぜ国に余計な混乱を起こそうとする?」

「私とて、不必要に国を乱すようなことは望みません。しかし、だからこそ国をつぶす悪い芽は、若いうちに摘んでしまわなければ。それこそが、この国のためとなりましょう」

 卓の前にある長椅子に優雅に腰掛けた晴明に、張明が茶碗を渡す。その様子を皇太后は、青い顔で唇を結んだまま、じ、と見ていた。

 間を置くこともなく、晴明は透明なその液体を一気にあおった。皇太后が息を飲む。飲み干したあとの茶碗を、晴明は思い切り床に叩きつけて立ち上がった。

「これでいいだろう。皇太后と帰らせてもらう」

「は……ははは、ふはは……!」

 張明は勝ち誇ったような笑いを浮かべた。
「帰るだと? じきに立てなくなる。これで陛下も……っ!」

 晴明が、腰の剣をすらりと抜いた。その仕草に、震えもぶれも感じられない。張明は、驚いて目を見開いた。

「なぜ……?」

「お前が女官を買収して私の饅頭に仕込んだ毒を含め、恵麗様に通じた業者から手に入れた毒の種類は、すべて調べ上げてある」

「まさか、ただの白湯……?!」

 張明は、いまだ卓の上に残された茶碗に目をむけた。

「いいや。その毒に対する解毒剤を、先に飲んでいただけのこと。侮ったな、張明。私の命は、お前ごときに賭けるような軽いものではない」

 張明の鼻先に剣を突き付けた晴明の顔は、いささかのぬくもりも感じられない冷たい表情だった。それと同じ顔を、張明は過去に見たことがある。

「龍可陛下……」

 思わずつぶやいた張明に、晴明は冷たく言い放つ。

「刀の錆となるか、毒を煽るか。慈悲でどちらか選ばせてやる」

 か、と張明が激昂する。

「どちらも断る! 私は、あなたを認めない!」

「そうか」

 言うが早いか、晴明は持っていた刀をふるった。

「が……!」

 最大にまで目を見開いた張明の首が、床に、たん、と転がる。

 恵麗と皇太后は、一瞬の出来事に呆然とする。ついで、恵麗のするどい悲鳴があがった。

 しゅ、と血のりを払うと、晴明は恵麗に体を向けた。

「ひっ……!」

 腰がぬけたらしく、恵麗は立つこともできずにがたがたと震えはじめる。

「わ、私は何も知りませぬ! すべてこの張明がやったこと! わ、私は淑妃であるぞえ?! その私に何を……!」

「同じです、恵麗様。刀か、毒か。選んでください」

「お前……!」

 恵麗は、目を見開いた。

「それが……お前の本性なのか。ぼんくらのふりして……!」

「この姿を隠さねば、あなたたちは油断してくれなかったでしょう? そして、父上と同じように私も殺されていたはずです」

 その言葉に、思わず皇太后が立ち上がった。

「まさか! 陛下は、病気ではなかったのですか?!」

「残念ながら、毒を飲まされたようですね」

「でも、典医は毒ではないと判断したのでしょう?」

「父上の遺体を検分した典医にも、張明の息がかかっていたのです」

 驚愕の目で、皇太后は恵麗を見つめた。

「なんてことを……あなたが、陛下を……」

「陛下が悪いのです!」

 き、と恵麗は皇太后を睨みつけた。

「私を差し置いて、実の姉から陛下を寝取るような女を後宮に入れ、あまつさえ皇后にまで据えた、あの陛下が!」

「ならば、殺すべきは私です! なぜ……なぜ、陛下を……!」

「だって」

 恵麗は嫣然と微笑んだ。

「私を愛さない陛下など、必要ありませんでしょう? 第一、陛下は慶朴を皇太子にはして下さらなかった。あの子を皇帝にするには、陛下にも晴明殿にも死んでもらうしかないではありませんか!」

 ひきつれたように笑う恵麗を前に、晴明は一度目を閉じる。一呼吸おいて細く目を開けると、恵麗はその目の冷たさに悲鳴をあげた。それもつかの間、再び晴明の刀が舞った。




「大丈夫ですか、母上」

 二つの遺体から目を背けていた皇太后の前に、晴明が立った。皇太后の視界を奪う位置で。

「ええ。陛下こそ、毒は本当に大丈夫なのですか?」

「はい。先ほども言いましたように、氾先生に解毒剤をいただいて飲んでまいりました」

「氾先生?」

 皇太后が首をかしげる。

「お前に歴史学を教えていた、あの氾先生ですか?」

「そうです。氾先生は少しばかり医術の心得があるのだそうです。薬草にも詳しく、こっそりとご自分でも薬草を育てておられるのですよ。典医が張明の仲間だと気づいてからは、体調の悪い時は氾先生にお願いするようにしておりました」
「それならよいのですけれど……でも、お一人でここへ来るなど、なんて危険なことをなさるんです」

 まだ青ざめている顔で、皇太后は晴明を睨みつけた。晴明は涼しい顔で微笑み返す。

「おや? 私が負けるとでも?」

「そうは思いませんが、万が一ということが……」

「万が一も億が一もありません。私がたかだか張明などに負けるわけないではありませんか。仮に藍晶宮の中に二、三人の伏兵がいたとしても、すべて切り捨てる自信はありました。それに、うかつに近衛を連れてきて、私の本性を知られるのはまだ避けたかったので」

 その性格をよく知っている皇太后は、ため息をついた。

「そうだとしても、どうかもう二度とこのような危ない真似はしないと約束してください。見ているだけで寿命が縮みました」

「はい。わかりました」

 穏やかに笑んだ顔には、先ほどの冷徹さは一切残っていない。皇太后は、ようやく微かに笑んだ。

「助けてくれてありがとう。でも、どなたか私の他にも人質になっている方がいらっしゃるのでは……?」

 皇太后は、先ほど張明に小鳥と呼ばれた誰かが気になっていた。

「それも問題はありません。すでに手はうってあります」

 そう言って、晴明は皇太后の体を両腕に抱き上げる。

「何を……!」

「いつまでも母上をここに置いておくわけにはいきませんから。歩けないのでしょう?」

「……気づいていたのですか?」

 皇太后はほんのりと頬を染める。腰をぬかしたのは、皇太后も同じだった。晴明はそれには答えず、ただ笑んだだけだった。

 皇太后は小さく咳ばらいをすると、話をそらした。

「それはそうと、本当にあなたが来るとは意外でした。てっきり、天明が来るものだと……よくあの子が黙ってあなたをこちらへよこしましたね」

 母親である皇太后も、二人の皇子を完璧に見分けることができる。ただ、それができなかった龍可の手前、遠慮して区別がつかないふりをしていただけだ。

「天明は優しすぎます。私のように、彼らを始末することはできません。それに」

 晴明は、思わせぶりに言葉を切る。

「大切な小鳥は、自分で取り返したいそうです」

 それを聞いて目を丸くした皇太后は、ふ、と嬉しそうに笑った。

「そう。あの子に、あなたより大切なものができたのね」

「いずれ母上にも紹介いたしましょう。とても可愛らしい小鳥です」

「楽しみにしております」

 そして晴明は、藍晶宮の扉をあけて、待っている宰相たちのところへ戻った。

  ☆

 同じ頃。

 後宮で拉致された紅華は、手足を縛られて目隠しをされた状態で乱暴に箱に入れられ、馬車らしきものに揺られてどこかへと運ばれていった。辺りはさっぱりと見えないが、馬車が動いていた時間からして、どうやら後宮を出てしまったようだと紅華は推測する。

 馬車が止まると、紅華は箱ごとまた運ばれていく。下ろされた場所で箱から出され、どさりと置かれた場所は柔らかかった。感触からして、長椅子のようなものらしい。

(香の香り……?)

「おとなしくしていろ」

 さらわれた時と同じ声でまたそう言われると、ぱたんと扉がしまった。

 しばらく、じ、として様子をうかがっていた紅華だが、あたりに人の気配がないことがわかると、おそるおそる体を起こした。

 縛られた手のまま目隠しを外すと、紅華はあたりを見回して目を瞬く。

 揃えられた豪華な調度品といいあたりに漂う上品な香の香りといい、誘拐という行為にそぐわない立派な部屋だった。

「どこなの、ここ……?」
 なぜ自分がさらわれたのかわからないが、このまま待っていてもおとなしく帰れる保証はない。四苦八苦してなんとか手足の縄をほどこうともがいている紅華の耳に、扉が開く音が聞こえた。ぎょ、として振り向いた紅華は、そこにいた予想外の人物に目を丸くする。

「欄悠?!」

「ひさしぶりだね、紅華」

 欄悠は、紅華と婚約していた頃と変わらない優雅な様子で部屋へと入ってきた。

  ☆

「どういうこと?」

 欄悠が縄をほどいてくれた手首をさすりながら、紅華は聞いた。

「ある人物から、お前を夜まで預かってくれと頼まれたんだ」

「後宮から貴妃を誘拐なんて、あきらかに犯罪よ? 頼まれただけとは言っても、あんただってただではすまないわ。一体誰に頼まれたのよ?」

「そんなこと、俺が正直に言うと思うか?」

 せせら笑う欄悠を、紅華は失望しながら見ていた。

(これが本当の欄悠の姿なの……?)

 後宮にあがってからはいろいろ、本当にいろいろあったおかげで、欄悠のことなどすっかり忘れていた。こうして再び向かい合っていても、どうしてあの頃、あれほどにこの男に熱を上げていたのかさっぱり思い出せない。

(結局、私だって欄悠のこと、その程度にしか見ていなかったのね)

 初めての恋に浮かれていただけだったのかもしれない。ちやほやと愛してくれることに有頂天になって、自分たちは愛し合っていると信じて。けれど、自分は、欄悠の何を見ていたのだろう。欄悠のために何をしてあげただろう。

 紅華はため息をついた。

「今ならまだ騒ぎにはなってないかもしれないから、私を後宮へ帰して。欄悠のことは黙っているから」

「そうはいかないんだ」

「どうして」

 欄悠は、うっすらと笑みを浮かべて紅華を見つめる。

「なあ、俺のことまだ好きなんだろ?」

「はあ?!」

 後宮から誘拐などということをやらかしておいて何を言っているのか。紅華は本気であ然とした。

「よりを戻してやろうって言ってんだよ」

「何言ってんの? もうあんたのことなんて何とも思ってないわよ」

 強がりでもなんでもなく、それは紅華の本音だった。

「俺は気にしていないからさ。また愛してやってもいい、って言ってんだ」

(人の話を聞け!!)

 かつては、彼の言葉に胸をときめかせながらその瞳を見つめていた。でも今の紅華の心には、欄悠のどんな言葉も響かない。

 無言のままの紅華をどう勘違いしたのか、欄悠は紅華の手をつかむとその体を長椅子へと押し倒した。

「ちょ……!! やめて!」

「あの頃さっさとこうしておけばよかった。紅華、俺の妻にしてやるよ」

「冗談じゃないわ! 私は貴妃よ?! こんなことして……!」

「まだ、正式に貴妃になったわけじゃないんだろ?」

「それは……!」

 両手を取られてのしかかられてしまえば、紅華には身動きがとれない。欄悠は、片手で紅華の胸元を探った。

「嫌っ!」

「心配するな。俺、うまいんだぜ」
 にやにやしながら欄悠が顔を近づけてくる。紅華は、ぎゅ、と唇を引き結んで思い切りのけぞった。

 ごっ!!

「痛てえ!!」

 口づけようと近づいた欄悠に、紅華は反動をつけて頭突きをくらわした。欄悠がひるんだすきに紅華は掴まれた手を振り回して、二人は長椅子から転げ落ちる。紅華は、素早く立ち上がった。

「力づくで女をものにしようなんて最低! あんたのことなんて何とも思ってないって言ったけど訂正するわ。あんたなんか大っ嫌い!!」

 威勢よく言ってのけるが、額をぶつけた紅華も少し涙目になっている。

「ああ? せっかく俺が優しくしてやったのに……!」

 額を押さえながら、欄悠がふらふらと立ち上がった。慌てて紅華は、部屋を出ようと扉に走る。

「どこが優しいのよ! 変態!」

 扉を開けようとした瞬間、追いかけてきた欄悠が紅華の袖をつかんだ。

「きゃっ!!」

 そのまま、紅華は床へと引き倒される。

「痛っ!」

「下手にでりゃふざけた真似しやがって!」

「何されたって、絶対あんたなんかに屈服したりしない! 蔡家の財産だって、あんたの好きになんてさせないから!」

 もつれた髪を引っ張られて、紅華は仰向かされる。欄悠は、ぎらぎらした目で紅華を見下ろした。

「それだけじゃないんだよ」

「え?」

 欄悠が紅華の細い首に片手をかけた。命の危険を感じた紅華は、息を飲んで動きを止める。

「お前に貴妃の役目を果たされては……皇帝に、今、跡継ぎなんか作られては困るんだよ」

「……どういうこと?」

 おとなしくなった紅華に満足したのか、欄悠は得意げに話し始めた。

「今上皇帝に何かあれば、次に皇帝になるのは第二皇子の慶朴だ」

 それを聞いて、は、と紅華は気づいた。にやりと欄悠が笑う。

「わかっただろう? 慶朴の母親は、元淑妃。つまり俺の姉だ。そういうことだよ」

「まさか、皇帝陛下を狙っていたのは……」

「おっと。うかつなことは言わないほうがいいぜ」

 欄悠は、紅華の首にかけた手に力をこめる。苦悶の表情を浮かべた紅華の頬に、欄悠が舌をはわせた。

「嫌っ……! 離してっ!」

「心配しなくても、殺しはしない。お前にはまだ、蔡家の一人娘としての利用価値があるからな。最初の予定通り、うちの嫁としてたっぷり可愛がってやる。このままこの部屋に閉じ込めて、何回も、何日も抱いてやる。そうすれば、万が一お前がすでに身ごもっていたとしても、生まれてくるのは俺の子として周囲に認知されるだろう。皇帝の血を継ぐ子供はいなくなって俺の甥は皇帝となり、蔡家だってあきらめて結婚を許す。一挙両得って寸法だ」

「誰が……あんたなんか……」

 苦しい息の中から言うが、かといって体重をかけられている今の状況では見動きすらできない。

(誰か……助けて…………天明様!)

 こんこん。

 その時、扉を叩くものがあった。紅華の喉もとを押さえたまま、欄悠はいぶかしげに顔をあげる。

「誰だ?」

「欄悠様、至急のご使者がお見えになっております」

 淡々とした男の声に欄悠が気をそらしたすきに、紅華は欄悠の手をはねのけようとする。が、欄悠は、さらに強く紅華の首を床へと押し付けた。

『……っ……』

「使者? ああ、向こうはうまくいったんだな。待たせておけ。今は手が離せない」
「ですが」

『た……すけ、て……!』

 喉を押さえられながらも、紅華は扉の向こうにむかって必死に声を押し出した。締め付けられた喉からは、叫び声には程遠い、本当に微かな声しか出なかった。

 だが、それで十分だった。

「至急って……言っただろうが!!」

 叫びと同時に、扉が粉々に割れてそこに一本の足が飛び出した。扉の外にいた男が蹴り破ったらしい。

「紅華!」

 そこから勢いよく飛び込んできた男に、欄悠があっけにとられる。

「な、なんだお前は!」

 飛び込んできた男は、貴族らしい服は着てはいるが、その体は埃まみれで服にいたってはあちこちが裂けてぼろぼろだ。男は、欄悠を睨み殺しそうな目で見下ろす。

「皇帝暗殺をもくろんでいた李恵麗と、彼女と結託していた官吏、陳張明、およびその関係者は宮城にて捕縛された。お前は、貴妃を誘拐してものにしろと、恵麗に……お前の姉に頼まれたな?」

「なぜそれを……!」

 うっかり言いかけて欄悠は口元を押さえた。紅華は押し倒されたまませいいっぱい欄悠を睨みつける。

「やっぱり、そういうことなのね……」

 舌打ちをして男を見上げた欄悠は、ふと、怪訝な顔になる。どこかで見たことがある……そんな風に記憶を探る欄悠に、男は不敵に笑った。

「我が妃を返してもらいに来た」

「……晴明皇子!? ……いや、へ、陛下! なぜここに……!」

 気づいたとたん、欄悠の顔が蒼白になった。その下から紅華はあわてて這い出す。ごほごほと咳き込む紅華の手をとって立たせると、男は平身低頭した欄悠を見下ろした。

「李恵麗が皇帝暗殺に関わっていることは、ずいぶん前から把握していた。官吏がどこまで関わっているかつかむのに時間がかかったが……その間に李家の持ち家はすべて調べ上げて、ずっと目を光らせていたんだよ」

「そんな……ここなら大丈夫だと言われたのに……」

 欄悠は、震える声で呟く。

「うまくやったと思ったんだろうが、こっちの方が一枚上手だったという事だ。それに、ずいぶんと紅華を可愛がってくれたようだな」

 腰の剣をすらりと抜いた男は、その切っ先を足元の欄悠につきつけた。

「ひっ……!」

「皇帝に刃を向けた者の末路は、わかっているな?」

 感情を抑えた静かな声が、余計に男の怒りを感じさせる。欄悠は真っ青になって、額を床にこすりつけた。

「お、お助けを……!!」

 男は、動かない。

「て……!」

 紅華は、止めようとして口をつぐんだ。ここでその名前を呼ぶわけにはいかない。躊躇している間に、男はゆっくりと剣をさやに戻した。

「追って沙汰あるまで震えているがいい。逃げられると思うなよ」

 そうして男は、紅華の手を引くと部屋を後にした。

  ☆

 紅華の捕らえられていたのは、郊外にある李家の別宅の一つだった。恵麗に手引きされたごろつきが、仕入れの業者を装って後宮から紅華を運び出したのだ。あっさりと跡がたどれたのは、恵麗や張明が晴明を侮っていたからに他ならない。彼らは晴明を、ただのぼんくら皇帝だと思って甘く見ていたのだ。

 欄悠の屋敷を出ると、かわりに近衛兵たちが入っていった。屋敷の中にいたのは、何も知らない使用人たちと、衛兵代わりに雇われていた数名のごろつきだ。乱暴に押し入った天明は、ごろつきたちを組み伏せて紅華のもとにたどりついたのだ。

 ふらつく紅華を支えて、天明は用意しておいた馬車に乗せる。握った紅華の手に視線を落とした天明は、すさまじい渋面になった。

「あいつ……せめて蹴り飛ばしてくればよかった」

 細い手首には、縛られていたあとがすりむけて真っ赤になっていた。自分でほどこうと無理やり引っ張ったせいだ。

「晴明陛下はそんなこといたしませんよ」

「俺ならする」

「それでも、欄悠を切らないでくれたのですね」

 さきほど天明が言ったように、皇帝の命を狙ったとなれば、問答無用で切り捨てられても文句は言えない。たとえ自分を裏切った男でも、紅華は、目の前で欄悠が殺される場面など見たくなかった。

「それは、晴明の仕事だ。あれでも、お前の元婚約者だろう? お前に恨まれるようなことは、すべて晴明がやればいい」

 ぶっきらぼうに言った天明に、紅華は微笑む。あの状況でも、そんな紅華の気持ちを気遣ってくれた天明の心が嬉しかった。

「間に合わなくて、悪かった」

「いえ? 私はこの通り、無事ですよ」

「痛かっただろう」

 天明が、そっと紅華の手を包む。

「本当なら、傷一つだってつけたくなかったんだ」

 そういう天明の方が、よほど辛そうな声をしていた。その天明を見上げる紅華の心は、不思議なほど凪いでいた。

(私、やっぱりこの人が好きなんだわ)

 同情なんかではない。あれほどに天明に腹を立てたのは、その心を占めていた睡蓮に対する嫉妬だと紅華は気づいた。薄々、気付いていたのだ。

 いつからこんな想いを抱くようになったのか。紅華は、天明をまじまじを見つめた。そしてふと気づく。その頬にも腕にも、殴られたような痕やかすり傷があちこちにあることを。それを見て、さらに紅華の胸は熱くなった。

(天明様……)

 紅華は、せまい馬車の中でなるべく天明から距離を取る。

「紅華?」

 自分に背を向けた紅華を、天明は覗き込もうとする。

「こっちこないでください」

「どうした? 気分でも悪いのか?」

「最悪です」

 それを聞いて天明の血の気がひく。

「あいつになにかされたのか? わかった。このまま医者に行こう。それまでがまんできるか?」

「できません。お医者様になど、治せません」

 拗ねたような口調に天明は首をひねる。

「……どうした?」

「どうもしません」

「だが……」

「私のことなど、もう放っておいてください」

 なにか気分、いや機嫌の悪そうなことはわかるが、天明にはどうしたらいいのかわからない。

「何を言っているんだ。一体……」

「だって」

 うつむく紅華の声が、細くなっていく。

「天明様は、私より睡蓮の方がいいのでしょ?」

 天明の目が点になった。

「……は?」

「晴明様とお話されていたではありませんか。睡蓮を、愛していると……」

「………………ああっ!?」

 紅華が何を気にしているか思い当たった天明が声をあげた。

「違う! あれはもう幼い頃の話で……」

「本当に?」

 ちら、とわずかに降り返った紅華に、天明はめずらしくあたふたとする。

「本当に!」

「そんなこと言って、しょっちゅう翡翠宮に来ていたのも、実は睡蓮に会いたくて」

「違う! 俺は、お前に会いたかったんだ!」

 慌てる天明は、また背をむけてしまった紅華の肩が震えていることに気づいて声を詰まらせた。

「紅華……睡蓮に惚れてたのなんて、本当に子供のころの話だ。今はまったくそんなこと思ってない。俺が愛しているのは、睡蓮じゃない。……紅華、お前なんだ」

「私……?」

「ああ」

「本当ですか?」

「もちろん。お前を……愛している」

「天明様!」

 振り返った紅華は、満面の笑顔だった。再び天明の目が点になる。

「紅華? お前、泣いて……」

「誰がですか?」

 けろりと言いながら紅華は、天明に抱きついた。

「おい?」

「そんなにぼろぼろになってまで助けに来てくださった方のお気持ちを、疑う訳ないじゃないですか」

 天明は、たった一人であの別邸に乗り込んできた。他の衛兵たちが追いつけないほどに、急いで馬をかけさせたのだ。実際、紅華たちがのった馬車の隣には、天明の乗ってきたらしい馬が立っていた。

 衛兵が辿り着くまで待つ余裕がないほど紅華の身を案じていたのは、乱闘で傷だらけになった天明の様子を見れば見当がつく。

 一杯食わされたことに気づいた天明は、大きく息を吐いて紅華の体に腕をまわすと抱きしめた。

「人が悪すぎるぞ、紅華……」

「意地悪な天明様には、これくらいでちょうどいいのです」

「なんでこんなことを?」

「聞きたかったのですよ。天明様の、お心が」

「まったく……さっきまで青い顔してたくせに……」

 ぶつぶつ言っていた天明は、紅華を抱きしめる腕にかなりの力を込めた。

「天明様……ちょっと、苦し……」

「紅華」

「はい?」

「このまま実家に帰れ。お前は、貴妃を辞退したと晴明には報告する」

 ひゅ、と紅華の喉がなった。

「な、ぜ……ですか?」

 紅華に回していた腕をほどいて、天明は真正面から紅華を見つめる。その顔に笑みは乗っていなかった。

「お前まで巻き込む気はなかった。俺たちにはこんなこと日常茶飯事だが、お前には同じ生活を送らせたくない。だから、もう後宮には戻るな。もし戻ればきっとまた……」

「だって、今、愛しているって……!」

「だからだ」

 ため息混じりのかすれた声で、天明が言った。

「お前が大切だから、危険な場所にお前を置いておきたくない。一生あの後宮から出られない亡霊の俺には、お前にしてやれることなんて……何一つないんだ」

 それを聞いて、紅華は思い切り顔をしかめる。

「……そうですか。そうやって睡蓮の事も早々にあきらめたんですね」

 天明は答えなかった。き、と紅華は鋭い目で天明を見返す。

「お断りします」

「紅華」

 駄々っ子に言い聞かせるような天明の声を聞いて、紅華は、ぐ、と拳に力をこめた。

「欲しいものがあるのです。それは、後宮でしか手に入らないので、私は後宮を去る気はありません」

「欲しいもの……何だ?」

「皇帝陛下です」

 天明が、剣呑に目を細める。

「……晴明と睡蓮の気持ちを知っていて、それを言うのか」

 紅華は、強い天明の視線を臆することなく受け止めた。

「私は、後宮で光となります」

「光?」

「影ができるには、必ず光が必要なのです。ですから、影を守る光となって、その影と共に一生を生きていきたいのです」

 一瞬の後、その意味を悟った天明の目が大きく開かれる。

「紅華……」

「いけませんか?」

 仰ぎ見てくる紅華に、天明が苦笑した。

「なるほど。『皇帝陛下の妃』、か」

「いけませんか?」

「……とにかく、いったん宮城へ向かおう」

 紅華から視線をそらして、天明はようやくそれだけを言った。

(意気地なし)

 紅華は心の中でひとりごちた。

「天明様」

「なんだ」

「助けて下さって、ありがとうございました」

 ちらりと視線を向けた天明は、何も言わずにまた窓の外を向いてしまった。

  ☆

「紅華様!」

 後宮に戻ると、睡蓮が紅華に飛びついてきた。