「あ、いえ……おいしそうなお饅頭ね。こちらの白いものは初めて見るわ」
(見間違いだったのかしら……?)
困惑した紅華は何も聞くことができず、目の前に置かれた菓子に目を移す。
大皿には、一口大でまだほかほかと湯気のたつ饅頭が盛られていた。それと紅華と晴明の前に、白く水っぽいものが入った小皿が置かれている。
「こちらは、杏子の種を砕いて牛の乳と砂糖を加えたものです。今日の紅華様のおやつに用意していたものでしたので、ちょうどよいと思ってお持ちいたしました」
それは、白くてまるで豆腐のような食べものだった。添えられた匙ですくって食べてみると、あっさりとした甘さが口の中に広がる。
「おいしい」
「これは、薬膳の一種で体にもよい。私の一番好きな菓子だ。……覚えていてくれたんだね、睡蓮」
嬉しそうに言った晴明に睡蓮は、何もいわずに頭を下げただけだった。
(一体、この二人の間に何があったんだろう……)
睡蓮と晴明の態度に、天明の事。次々に疑問が増えていく。
居心地悪く紅華がその菓子を食べていると、ふいに、饅頭を食べていた晴明が顔をこわばらせた。その様子に気づいて、紅華はいぶかし気に首をかしげる。
「晴明様?」
「紅華殿、これは手をつけないで」
睡蓮も、何かに気づいたように小さく声をあげた。
「陛下……!」
「騒がないで」
そう言った晴明の顔が、じわりと白くなっていく。遅ればせながら、紅華も晴明の様子がおかしいことに気づいた。
「お顔の色が……」
「心配しないで、紅華殿。私は、少し執務室で休むから。睡蓮、すぐにここを片付けて」
言いながら晴明は、残った饅頭を手早く手巾に包むと睡蓮に渡した。
「これを、氾先生に」
「氾先生……ですか?」
「ああ。私から、と言えばわかる。頼むよ」
微笑む晴明の額には、脂汗が浮かんでいた。その顔を見つめる睡蓮の顔も青ざめている。
「すぐ典医を呼んでまいります」
「いや、必要ない。代わりに彼を呼んでくれ」
「でも」
「頼む」
「……わかりました」
硬い声で答えると、睡蓮は身をひるがえした。
「お送りいたします」
紅華は、立ち上がった晴明の腕をとった。
「紅華殿、私は一人でも……」
「こうやって寄り添っていれば、仲睦まじい夫婦に見えますでしょう?」
どうやら晴明は騒ぎ立てたくないようだ。そう悟った紅華は、一見甘えているように晴明に寄り添ってその体を支えた。
「……ありがとう」
紅華の意図を察して、晴明はおとなしく紅華に寄り添った。
「毒、ですね」
耳元で囁くと、晴明は、ああ、と小さく頷いた。
「本当にお医者様をお呼びにならなくてよろしいのですか?」
「医者は……典医はだめだ」
「え?」
「いや、なんでもない。すぐ気づいたから少量しか摂取してないし、この毒なら私には耐性がある」
「なんの毒か、わかるのですか?」
驚いたような紅華に、晴明は笑んだ。
「だいたいはね。これくらいなら、命にさわるほどのものじゃない。痺れてはいるけど、少し休めば、すぐ楽になるはずだよ」
そう言われても、紅華は気が気でない。大丈夫と言いながら、晴明の動きはぎこちないし話す言葉も途切れがちだ。
「この後の謁見は、おとりやめになりますか?」
「そうはいかない。陽可国の皇帝として、大事な行事なんだ」
「でも、そのご様子では」
「大丈夫。ああ、その扉。そこが、私の執務室だ」
そう言った息も、少し上がってきている。紅華が扉をあけると、中には連絡を受けた天明が一人で待っていた。二人の姿を見て、長椅子から素早く立ち上がる。
「大丈夫か、晴明」
「天明……悪い」
「苦しそうだな。こっちに横になれ。今、睡蓮が解毒剤を持ってくる」
晴明を案じるその姿に、紅華は内心驚いていた。普段の軽薄な態度からは想像もできないくらい、その顔は真剣だ。よほど晴明のことを心配していたのだろう。
「そんなに心配するほどのことじゃない。毒の匂いをおさえるために量が少なかったのが幸いしたな。しびれが残っているが、呼吸も苦しくないし、しばらく休めば大丈夫だ」
「そうか」
ほ、と息を吐いた天明が、崩れるように長椅子に座る晴明に手を貸す。
「くそっ……俺が変わっていれば……!」
「私の休憩の時間だったんだ。いつもの饅頭だと思ったから油断した。それか、紅華殿も一緒だったから、浮かれていたのかな」
「陛下……」
苦しいだろうに、晴明は紅華を気遣うようにそう言った。天明は唇をかみしめる。
「今、給仕をしてた者を調べさせている。毒を盛った奴を見つけたら……許さない」
「天明」
晴明は、落ち着かせるために、天明の手を握った。
「私は、大丈夫だから」
その意を汲み取った天明は、目を閉じて苛立った顔を伏せた。
その時、扉が開いて睡蓮が入ってくる。
「陛下、氾先生がこれを」
薬の包みを晴明に渡すと、睡蓮は水差しから湯呑みに水をそそいで晴明に渡す。だが晴明の震える手では、それを受け取ることができない。
「失礼します」
すると、睡蓮はすばやく晴明の手から薬の包みを取り、それを開いて晴明の口元に運んだ。粉を全部口の中に入れると、持っていた湯呑みを晴明に飲ませる。体のしびれが強くうまく飲めずに少しこぼしたが、晴明はなんとか薬を口にすることができた。
晴明は、長椅子に背を預けて大きく息を吐く。こころなしか、顔色も戻ってきたようだった。
「いかがです? 体は動きますか?」
しばらく様子を見ていた睡蓮が、心配そうに声をかけた。
「ありがとう、睡蓮。もう大丈夫だ」
弱々しくもはっきりと言って、晴明は後ろで見ていた紅華に目を向けた。
「みっともない姿を見せてしまったね。そろそろ挨拶の準備をしなくてはいけない。あなたは、もう行ってください」
「でも……」
「これ以上、あなたに無様な姿を見せたくないのですよ」
ちらり、と晴明が天明に視線を向けると、察した天明は紅華に笑ってみせた。
「俺が晴明についているんだ。心配するな」
天明は、いつもの調子で軽く言った。二人にそう言われてしまえば、紅華も無理にとは言えない。
「わかりました。では、御前失礼します。ご無理なさいませんように、晴明様」
「ありがとう。また、一緒にお茶を飲もう、今度は毒抜きの饅頭でね」
まだ青白い顔で、晴明はそんな風に言って笑った。その白い顔を見ながら、紅華はこわばった笑顔で、はい、と小さく答えて、睡蓮と一緒に執務室をあとにした。
部屋へ戻りながらも、後ろ髪をひかれる思いで紅華はちらりと背後を振り返る。
「陛下、本当に大丈夫かしら」
「解毒薬が効けば、おそらくもう大丈夫です」
「陛下も睡蓮も、手慣れていたわね。こういうことって、初めてではないの?」
紅華の背後について歩いていた睡蓮が、硬い声で答えた。
「……はい。皇太子だったころから、お命を狙われることは度々ありました」
「どうしてそんな……」
睡蓮は、一拍置いてから答えた。
「晴明様の御母堂様は、後宮内ではあまりよく思われていない方でした。それで第一皇子とはいえ晴明陛下が皇太子となられたことは反発も大きく……皇帝に即位された晴明様を弑しようとする輩がいるものと思われます」
紅華は、天蓋が落ちた時のことを思い出してぞっとした。多少の覚悟はしていたが、まさかこれほど日常茶飯事に人の命を左右する出来事が起こるとは。
「平和な後宮なんて、どこにもないのね」
「ですから晴明様は、皇太子であったころから、後宮にはたった一人のお妃様しか置かないと宣言しておられました」
「え?」
初めて聞く話に、紅華は睡蓮を振り返る。
「どういうこと?」
「先代の後宮では、勢力争いで暗殺や毒殺は横行しておりました。複数の妃をおけば、それだけ争いがひどくなるのは目に見えております。ですから晴明様は、妃を一人だけ置くことで、その勢力争いをなくそうとなされているのです」
「それで、皇太子の頃から妃を選ばれていなかったのね」
紅華は、ようやくその理由を知った。つくづく優しい人だと、ため息が出る。
「はい。ただ、今までの後宮とあまりにもありようが違う話なので、いまだ議会では賛成を得られておりません。ですので、すでに次の妃嬪を、という話もでているようでございますが、おそらく陛下は了承しないでしょう」
「そうなの……」
もともと後宮とは、皇帝の血筋を残すために何人何十人もの寵姫を抱える場所だ。そこに一人だけ、とは、晴明も思い切ったものだ。
そう思うと同時に、晴明らしいな、と紅華は思う。紅華に対して、これから親しくなっていきたいと誠実に言った彼なら、何十人もの美妃を抱えて寵を競わせるより、一人だけを大事に愛していく方がずっと似合う。
つらつらと考えてきた紅華は、ふと気づいた。
ということは、紅華はそのたった一人の妃となるのだろうか。
あの晴明が、自分だけを優しく愛してくれる。
(どうしよう。それはちょっと嬉しいかも)
それこそ、紅華が望んだ愛し愛される結婚生活が手に入るのではないか。
「本当に」
紅華が胸をドキドキさせていると、後ろから睡蓮の声が聞こえた。
「そのたった一人の妃様が紅華様で、良かったです。晴明様は幸せですね」
「そ、そうかしら?」
少しばかり興奮していた紅華は、その時の睡蓮の表情を見逃してしまった。
☆
「陛下の、おなりです」
声がかかって、広間にいた諸侯と官吏たちは、ざ、と頭を下げる。
(失敗……だったか)
男は、心の中で舌打ちをする。
(すり替えた毒入りを確かに口にしたと連絡が来たのに……運のよい方だ。まあいい。たとえ死なずに済んだとしても、あの薬は神経毒だ。しびれが残れば、一刻の間はろくにしゃべることもできまい)
まともな対応もできないと諸侯に広く知られれば、皇帝として不適格だと誰もが思うだろう。それだけでも、晴明を皇帝から引きずり下ろす要因にはなりえる。
頭を下げた先を皇帝が過ぎていく。力強い衣擦れの音に、男は、おや、と疑問を感じる。それは、とても毒に侵された人間の動きではない。
「黎晴明だ。この度、陽可国新皇帝として即位した。顔をあげよ」
凛とした声に、男は愕然とする。
(馬鹿な?!)
普段のなよなよしい影は欠片も見えず、そこには堂々とした陽可国の皇帝がいた。
晴明は、いつもそうだ。普段はいっそ気が弱いかと思うほどに穏やかな性格なのに、こういった正式の場で晴明の放つ威厳は、晴明反対派の自分でさえも自然と頭が下がるほどに雄々しい。まるで、前龍可皇帝そのものに。
(くっ……しょせん、見掛け倒しにすぎん。普段の様子を知らん奴が騙されているだけだ)
男は、拳を握りしめた。
(……次こそは……)
(陛下は大丈夫だったかしら)
その夜、夕餉を終えても紅華はそわそわと落ち着かなかった。
外朝の様子は、後宮までは聞こえてこない。あの後晴明がどうなったのか、紅華は気になって仕方なかった。
「私、陛下の様子を見てまいります」
同じようにそわそわしていた睡蓮が、そう言いだした。
「いいかしら。もう遅くなるけれど」
「おそらくお部屋にいらっしゃると思いますので、女官に聞けば陛下がどのようなご様子だったか聞けると思います」
「そう? それじゃ、お願いするわね」
睡蓮は急ぎ部屋を出て行った。だが、かなり待っていても戻ってこない。
(もしかして、あれからさらに具合が悪くなったのでは……)
次第に不安になってきた紅華は、いてもたってもいられずに自分もこっそりと部屋を出た。
晴明の住まう宮は、後宮の入り口に近いところにある。
普段なら女官や侍女の姿がある後宮も、夜はその姿が見えず静まり返っていた。しんとした暗い後宮を、紅華はぱたぱたと足早に急ぐ。
ほどなく晴明の部屋の前にたどりつくと、紅華は少し迷ってからその扉をたたいた。
「はい」
中から聞こえた声に、紅華はわずかに瞬いて扉を開ける。
「夜分に、失礼いたします」
「紅華殿」
卓に座ったままで驚いたように目を瞠ったのは、晴明ではなく天明だった。机上には、まるで執務室のようにたくさんの書類が置かれている。
「どうしました? もう夜も遅いですよ」
「今日はよくお会いいたしますね。陛下は、どうなされました?」
それを聞いて晴明のふりをやめた天明は、不安げな紅華に笑んでみせる。
「本当にお前は間違えないんだな。……心配ない。痺れもとれたし、なんの後遺症も残ってないよ。今はもう休んでる」
「よかった」
紅華は、ようやく緊張がゆるんだ。
「それはそうと、なんで天明様が?」
「留守番、兼、宿題の片付け」
紅華は、まだ新しい墨の匂いのする書類の束を見渡した。
「勝手に御璽など使ってよろしいのですか? 皇帝陛下のお仕事でしょう?」
「だから、内緒にしておいてくれ。晴明には許可をもらっている」
「はあ。そうだ。睡蓮がこちらにきませんでした?」
その言葉に、天明はのんびりと微笑む。
「晴明についているよ」
「そうですか。わかりました。陛下のご無事がわかれば一安心です。失礼いたします」
そのまま戻ろうとした紅華を、天明がひきとめた。
「せっかく来てくれたんだから、茶につきあえ」
軽く伸びをしながら、天明が立ち上がる。よほど長い間、座ったままだったのだろう。
「でも、こんな夜更けに陛下以外の男の方と二人でいるのは」
「私はあなたの夫ですよ? 何を遠慮することがありますか?」
爽やかな晴明の笑顔で言われて、思わず紅華は吹き出してしまう。
「そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」
「笑ったな」
「え?」
紅華が見返すと、天明は目を細めて紅華を見ていた。
「俺の前でそんな風に笑ってくれるのは、初めてだ」
「そ、そうですか?」
「ああ。普段もかわいいが、笑うとさらに可愛さが増す」
「は?! あ、あの……!」
紅華は動揺して言葉が出なくなる。とたんに、天明も声をあげて笑った。
「か、からかうのはよしてください!」
「からかってなんかいない。本当の事を言ったまでだ」
くつくつと笑う天明に何と返したらいいのかわからず、紅華は天明が入れようとした湯呑みを奪って二人分のお茶を入れ始めた。
「私がやります」
「へえ。手際がいいな」
紅華の手元を見ながら、天明が感心したように言った。
「家では普通にやっていたことですから」
なるべく天明の方を見ないようにして、紅華はお茶を入れることに専念した。頬が熱いのが自分でもわかる。
(もうっ。早く静まれ!)
すると、また扉を叩くものがある。
『陛下、失礼します』
「入れ」
言われて入ってきたのは、若い官吏だった。紅華の姿を見て、ぎょ、としたように足をとめる。
こちらも、ぎょ、とした紅華があわてて部屋をでようとすると、天明はやんわりとそれを止めた。
「せっかくの君との時間なのに、仕事の話ですまない。少しだけ、待っていておくれ、可愛い人」
歯の浮くような天明の言葉に、紅華は再び顔を真っ赤にする。
紅華にしてみれば、夜更けに男と二人でいるところを見つかった気まずさで動揺したが、相手が晴明なら自分たちは夫婦なのだ。正確にはまだ貴妃ではないのだが、宮城の人々はすでに紅華を貴妃として扱っている。
(大丈夫、おかしくない。夫婦なんですもの)
紅華が必死で自分に言い聞かせていると、その若い官吏も赤い顔で直立不動になった。
「お、お邪魔いたします!」
「構わないよ。頼んでおいた案件だね」
「はい。お急ぎとのことでしたので、夜分に失礼とは思いましたがお持ちしました」
「助かるよ。見せてもらえるかな?」
官吏から書類を受け取った天明は、厳しい目つきでそれをぱらぱらとめくる。その間、官吏は所在なさげに立っていたので、紅華はその官吏にもお茶をいれて笑顔で椅子を勧めた。
「どうぞ、掛けてください」
すると官吏は目を丸くして硬直した。
「いいいいいいいえええ! とんでもありません! 私は、ここで……」
「永福、せっかくだ。いただきなさい。貴妃のお茶はおいしいよ」
天明にもにこやかに言われた官吏は、あまり固辞するのもかえって失礼かと思ったらしく、そろそろと緊張した様子で椅子に腰かける。
天明がその官吏の正面に座って、質疑を始めると、彼は表情を改めて応えはじめた。真剣な表情で受け答えをするその様子を見ていると、どうやらその若い官吏はかなりの切れ者らしかった。
最後まで目を通した天明は、にこりと笑った。
「うん。よく調べてくれたね。無理を言って悪かった」
「とんでもありません。陛下のお役に立てて私も嬉しいです。いつでもお申し付けください」
「ありがとう」
そうして、紅華にも丁寧にお茶の礼を言って頭を下げると、その官吏は部屋を出て行った。
「陛下のお仕事など、わかるのですか?」
「まあね。俺は何でもできる男だから」
言いながら天明は、書類を読み続けている。ふざけた口調の割には、その目は真剣だ。紅華は、じ、とそんな天明を見つめる。
「やっぱり」
「何がだい?」
「天明様は」
紅華は、ずっと気になっていたことを今なら聞けると思った。
「晴明陛下の影武者なのですか?」
天明の手が止まった。短い沈黙の後、天明は、ふ、と笑う。
「ま、そんなもんだ」
「どうして、第二皇子が影武者など……」
「俺は、第二皇子なんかじゃない」
紅華の言葉を遮るように天明が言った。
「俺は、本来いないはずの人間だからな」
「どういうことですか?」
天明は、書類を卓の上におくと、暗い窓の外に目を向ける。天明が口を開くのを、紅華は急かさずに待った。
「……俺の母親は、龍可陛下の貴妃だった」
「貴妃……? でも、前陛下の貴妃は……晴明様の……え?」
混乱する紅華に、天明は苦笑する。
「俺の母親は、由緒ある貴族の出身で貴妃の位を与えられて後宮に入った。その時すでに後宮には数人の妃嬪がいたそうだが、気位の高い母はその妃たちを見下した。ろくに挨拶もしない態度に、妃たちの間での評判は悪かったらしい。後宮に入ってすぐに俺を身ごもり、母は有頂天だったそうだ。母が身ごもったのは、陛下の初めての子だった。それだけでも、他の妃嬪に勝った、と思ったんだろうな。誰もが、母が皇后になるものだと、その頃は思っていた。で、俺をもうすぐ出産という時に、母の妹も身重だということが判明した」
「それは、おめでたいことですね」
「そうだな。その二人の赤子の父親が、両方とも陛下でなければ、な」
「妹様も、後宮におられたのですか?」
後宮では、何人もの妃が同時に妊娠という事もままあるが、それが姉妹というというのはさすがに気まずいのではないだろうか。
「いや。母の妹は、身重の姉を見舞いにしばしば宮城に訪れていた。その時に陛下と知り合い、二人は深く愛し合うようになってしまったらしい」
(うわー、それは気まずいどころの話じゃないわね)
貴妃は激怒した。皇子を産めば陛下の寵を一身に受けることができると思っていたのに、よりにもよって妃嬪ではない自分の妹が同じように陛下の子を産むことになるとは。しかも、いつのまにか二人は、自分の入り込む余地がないほどに愛し合っている。悋気の強い彼女にとって、それは許すことのできない裏切りだった。
「母の怒りはすさまじかったそうだ。妹の方は、陛下の子を身ごもったと判明した時に後宮へと陛下に言われたらしいのだが、彼女は実家で産むことにした。実家としても複雑だったようだ」
娘が貴妃になったことは一族にとっても誇らしいことだが、その妹も陛下の子を宿し貴妃が激怒しているとなれば、扱いは微妙にならざるを得なかった。
「そうして俺が生まれ、しばらくして無事に妹の方も子を産み落とした。それが、晴明だ。陛下は、妹を皇后にすると言い出した」
それを知った貴妃は、激しく荒れた。自分こそが皇后に相応しいという矜持を傷つけられて、妹もその妹が産んだ子も憎んだ。その怒りは、身近にいる生まれたばかりの天明にもぶつけられた。
「え……」
天明は、ぼんやりと窓の外に目を向けたまま続けた。
「そのあたりは、詳しくは教えてはもらっていない。ただ、あまりのひどい仕打ちに、俺は母から引き離されたそうだ。まだ一歳にもならない頃の話だから、俺はさっぱり覚えていないけどな。よく生きてたな、という状態だったらしい」
「お母様は……」
「結果だけを言うなら、皇后暗殺に失敗して、狂った挙句に池に身を投げて死んだ。そういうことになっている。俺と離されてすぐのことだった」
他人事のような天明の口調は変わらない。
皇后や皇太子に対する暗殺未遂は、通常なら一族郎党皆殺しだ。だが、その一族こそが皇后であるために、おそらく自殺、という体を装うことになったのだろう。
思ってもいない壮絶な話に、紅華は言葉もなく聞き入るしかなかった。
「そうなると、俺の扱いにも困るわけだ。母の実家としてはそんな醜聞を起こした娘の子供の後見を渋ったし、なにより目の前には陛下に愛されて皇后となる妹娘と皇太子となる晴明がいる。だから俺は、母と一緒に死んだことになっている。俺は本当は、ここにはいないはずの幽霊なんだよ。……あっ、おい!」
あまりのことにふらついた紅華を、あわてて天明は支えた。
「そんなに驚くほどの話でもないだろう」
「驚く、話ですよ」
天明は、青い顔になった紅華を長椅子に座らせて、お茶を渡してくれる。すっかり冷めてしまったそれを飲んで、紅華は息を吐いた。
手元の茶碗を見つめたまま、隣に座った天明に紅華は言った。
「天明様は、たしか晴明様のお母上に育てられたって……」
「そう。母をなくした俺を、母の妹は晴明と一緒に育ててくれた。姉にとって妹は憎しみの対象でしかなかったが、妹の方は姉のことを慕っていたんだな。醜聞の末にいなかったことにされた俺を、姉の忘れ形見として手放すことができなかったんだ」
「手放す……というより、見殺しに、ですね」
天明は、片方の眉をあげて少しだけ笑んだ。
「実家とも縁を切られて後ろ盾もないのに皇帝の血をひく子供など、厄介ごとの種になるだけだ。俺も、その時殺されているはずだった。だから、表に出ない、という約束で俺は生かされた」
紅華は、手にした茶碗を握りしめる。
「それを知ったのは、十になる前だったかな。それまで俺は、晴明と双子なんだと思ってた。あいつが皇太子なんだから、俺は晴明の弟なんだろう、と。それくらい、皇后は俺を大切に育ててくれた。住んでいた宮から出てはいけない、と言われても、その理由を考えたこともなかった」
「宮……もしかして」
紅華は、いつか天明の話してくれた牡丹の庭の離宮を思い出していた。
『その宮には、一人の男が閉じ込められている』
『その男は、決してその宮から出ることができない。一生』
天明はいびつな笑みを浮かべて頷く。
「本当の俺は、あの時母と一緒に死んだ。今生きているのは、ま、おまけの人生、ってところか。せいぜい楽しんでなるようになれ、だ」
「それで、影武者を?」
「やらされているわけじゃない。幼いころから、晴明のふりをして女官をだますのが楽しかったんだよ」
ことさらに明るく話す天明の言葉に、紅華の胸がしめつけられるように苦しくなる。
(この人は……)
天明の享楽的な行動の理由を、紅華はようやく理解した。
万が一のことがあれば天明は、晴明のためにためらいなく命を投げ出すつもりなのだ。未来に期待するものが何もない亡霊の天明の手の中にあるのは、『今』だけだ。
震える声で、紅華は言った。
「でもそれは、天明様の身を危うくすることです」
「もともといない人間が本当にいなくなるだけの話だ。何の問題もない」
「問題ですっ……!」
叫びながら顔をあげた紅華を見て、天明が目を瞬いた。
「そんな風に言わないでって言ったじゃないですか! 天明様は、ここに、いるのに! 影なんかじゃないです! 天明様は……生きてるんです……これから、も……」
声を詰まらせた紅華とは対照的に、天明の声は穏やかだった。
「なぜ、お前が泣く」
「……天明様が、あんまり、悲しいことを言うから……」
天明は少しためらうと、紅華の涙を、そ、と親指でぬぐって目を細めた。
「俺はいいんだ。晴明を守って、あいつがこの先もずっと生き続けていくこと。それが、何も持たない俺のたった一つの存在価値なんだから」
先ほどよりも格段に優しくなった声音で、天明は語りかける。
「何もないなんて……!」
言いかけるが、紅華は反論する言葉をみつけられない。それは、悲しいくらいに真実だ。わかっていても認めたくないもどかしさが、涙となってさらにあふれる。
(この人は……なんて、寂しくて、優しい人)
本来なら存在しない自分。その自分を大切にしてくれた皇后と晴明だけが、今の天明にとってのすべてなのだ。それを考えれば、どれほど二人が天明を愛して育ててきたかを推し量れる。
そしてきっと天明も、その二人を心から愛しているに違いない。だからこそ、晴明を守るために命すら惜しまない。
どこが自分勝手なものか。紅華は、いつか自分が天明にぶつけた言葉を心底後悔した。
(私は……何も、知らなかったのに)
「俺のために、泣いてくれるのか」
かすれたつぶやきに、紅華は袖で覆った顔をあげた。
「だって……!」
直後、紅華の唇にやわらかいものが触れた。びくり、と紅華は体を震わせる。
重ねた唇を離して天明が囁いた。
「忘れろ。俺が勝手にやったことだ。お前は何も悪くない」
「嫌です」
紅華は、間近にある天明の目を濡れた強い瞳で見つめて言った。
「紅華?」
「忘れません。……決して」
凛としたその声に、天明は泣きそうな顔ではんなりと笑った。
「そうか」
☆
人の気配を感じて、晴明はゆっくりと目をあけた。目の前には、心配そうな睡蓮の顔がある。その睡蓮は、晴明の意識が戻ったことに気づいて身を乗り出した。
「陛下、ご気分はいかがですか? 気持ち悪くはないですか? どこか、痺れているところは……」
「最高の気分だ」
「陛下?」
「目覚めて最初に見るものが、君の姿とは」
か、と頬を染めた睡蓮は、しかしすぐに我に返る。
「……紅華様をお呼びしましょうか?」
睡蓮の言葉に、晴明が眉をひそめる。
「何故?」
「紅華様もとても心配しておられました。ご夫婦なら当然ですわ。すぐ、お知らせしてきます」
「待って……っ」
晴明が、ゆっくりと寝台に起き上る。あわてて体を支えようとした睡蓮の手をぐいとひいて、細い体をその胸に抱え込んだ。
「な……にを!」
「僕が愛しているのは、今でも君だけだ」
広い胸の中で、くしゃり、と睡蓮の顔が歪んだ。
「……でも、晴明様には、貴妃様が」
「愛している、睡蓮」
熱を含んだ声で囁かれて、睡蓮はきつく目を閉じた。
「僕が悪いんだ」
晴明は、愛おしそうに睡蓮の長い黒髪をすく。睡蓮は身を硬くしたままだったが、その手を振り払おうとはしなかった。
「妃は一人と僕が言い張ったせいで、紅華殿が無理やり貴妃にされてしまった。まんまと、翰林の口車に乗せられてしまったんだ。あれほど、妃は睡蓮たった一人だと言い続けてきたのに……」
「それは、陛下の立場を考えたら当然のことです。宰相様が悪いわけでは」
「そうかもしれない。でも、何度も言うけれど、僕の妃は君だけだ。その想いは今でも変わらない」
「晴明様……」
睡蓮の目からとめどなく涙があふれて、晴明の胸を濡らしていく。
「陛下には、陛下にふさわしい高貴なご身分の妃があまたにおられます。ですから」
「僕の気持ちは、迷惑?」
睡蓮の言葉を最後まで聞かず、晴明が聞いた。睡蓮は、何も答えずにただただ嗚咽をもらす。その体を、晴明は強く抱きしめた。
「お願いだ。僕のことをあきらめないで。もう少しだけ、待っていてほしい。必ず、君を僕の妃にしてみせる」
「いいえ……いいえ。もう、私のことは、忘れてください」
「睡蓮」
「もう、いいのです」
睡蓮は、ぐ、と晴明の胸を押して体を離す。
「紅華様は、素敵なお方です。私も大好きなお方。きっと、陛下の皇后を立派につとめてくださいますでしょう。これで、私も安心できます」
「睡蓮」
晴明は、目をそらしてしまった睡蓮の手を握って離さない。腕に食い込む強い力は、そのまま晴明の激しい気持ちのあらわれだった。
「愛している」
「私は……」
「愛して、いる」
うつむいていた睡蓮の細いおとがいに指をかけると、晴明は涙にくれるその顔を上向けた。
☆
「…………」
「…………」
次の朝。顔を合わせた紅華と睡蓮は、何かあったと一目でわかるお互いの顔を見てしばし無言になった。
「お、おはようございます。紅華様」
「あ、うん。おはよう」
「お支度がお済みでしたら、朝餉をお持ちしますわね」
「……今日は、お茶だけでいいわ」
元気のない紅華に睡蓮は何か言おうとしたが、結局何も言わずにお茶を入れ始めた。
「ねえ、睡蓮」
「はい、なんでしょう」
「お茶を飲んだら、庭を散策しない?」
振り向いた睡蓮は、温かいお茶を紅華の前に置きながら、はい、と答えた。
☆
庭には緩い風が吹いていて心地よかった。目的もなく歩いていた紅華は、いつの間にかいつかの牡丹の庭に来ていた。
(ここは、いつか天明様が連れてきてくれた庭ね)
ただふらふらと歩いているつもりだったが、もしかしたら無意識のうちにこの場所を思い出していたのかもしれない。
「紅華様、もしや天明様と何かお話になりましたか?」
振り向くと、心配そうな目で睡蓮が見ていた。
「睡蓮は……知っていたわよね。天明様の事情。女官長ですもの」
睡蓮が、わずかに顔を伏せる。
「はい。黙っていて、申し訳ありません」
「あ、責めているわけじゃないのよ」
あまりに睡蓮の様子がしょげてしまったので、あわてて紅華は言った。
「私が貴妃になれば、いずれ知ることになったんでしょう?」
「そうです。天明様のことは、後宮においても一部の信頼できる者しか知らない極秘事項なのです。正式な式を挙げる際に宰相様からお話しすることになっていたんですが、天明様が勝手に紅華様にお会いしてしまいましたので……」
「私……天明様の話を聞いて、自分が恥ずかしかった」
「え?」
思わぬ言葉に、睡蓮が紅華をみつめる。
「なぜです?」
「天明様って、軽くていい加減な人だと思っていたし、実際、そう言ってしまった。私、表面しか見ないで天明様のこと勝手にそう決めつけていたんだわ。あの人の事を何も知らないで……私、失礼なことを言ってしまった」
『明日も生きていられるとは限らないだろう?』
天明がそう言った時、なんて享楽的な生き方をしているのだろうと思った。そうではない。あれは、文字通りいつ死んでもいいと思っている天明の、いつわりない心の内だったのだ。
自分はあの時何と言ったのだろう。知らなかったとは言え、天明を傷つけるようなことを言ってはいないだろうか。天明は、紅華よりもよほど必死に生きていたのに。
「紅華様がそんな風に感じることはありませんよ」
穏やかに睡蓮が微笑む。
「天明様は一見陽気に見えますけど、とても深く物事を考えている方です」
「見かけからはとてもそうは思えなかったけどね。……とても、芯の強い方、なのだと思うわ」
それだけに、晴明を守るためなら死んでもいいという天明の決意は固い。だったら、と紅華は考える。
(だったら……私が、天明様を守りたい。自分をおろそかにするあの人を、私が、ひっぱたいてでも死なせたりなんかしない)
そう思う気持ちがなんなのか、紅華はそれ以上考えてはいけない気がした。
(きっとこれは、同情。そうよ、同情なんだわ。だってそうでなければ……)
物思いに沈む紅華に、睡蓮は静かに続ける。
「だから、紅華様が気に病む必要などないのです。天明様が見て欲しがっているその通りに、紅華様は天明様を見ておられました。それは紅華様の落ち度ではなく、天明様がそうさせたからですもの。それで、良いのだと思います」
「そう……かしら」
「はい」
少しだけ嬉しそうにうなずく睡蓮に、紅華は苦笑する。
「まいったわ。睡蓮は、天明様のことをとてもよく理解しているのね。そういえば、睡蓮は晴明様と天明様の区別がついているのよね。いつから二人のこと、わかるようになったの?」
紅華の言葉に、睡蓮は、きゅ、と唇をかみしめる。そして、覚悟をきめたように口を開いた。
「実は、私は」
「……って言ってんだろ!」
その時、切羽詰まったような声が聞こえて、二人は、は、と声のした方を振り向く。いつのまにか二人は庭の端まで歩いてきていた。その声は、天明が入ってはいけないと言われていた扉の向こうから聞こえてくる。みれば、扉が微かに開いていた。
「本当にそれでいいのかよ」
「だからって……!」
言い争っている声は、天明と晴明のものだった。
「紅華様、そちらは……」
扉に近づく紅華を、とまどったように睡蓮がとめる。
「大丈夫よ。今はもう知っているもの。この宮は……天明様の、お住まいなのでしょう?」