貴妃未満ですが、一途な皇帝陛下に愛されちゃってます

 素早く椅子から立ち上がった紅華は、上を気にしながら晴明に手を伸ばす。気づいた晴明も紅華の視線を追って天井を見上げた。

 その瞬間、二人の視線の先でその天蓋ががくりと傾いて落下を始めた。とっさに晴明は自分を押し飛ばそうとした紅華の手を引いて胸に抱え込むと、横に飛びすさって倒れ込む。間一髪、二人のいた場所に、天蓋が落ちて派手な音を立てた。きらびやかな破片が、あちこちに飛び散る。

「っ!」

「陛下!?」

「陛下!!」

 場が騒然とした。

「ご無事ですか?!」

 そばに控えていた衛兵や宰相が晴明をとりかこむ。晴明は、両手を床について少し体を起こすと、自分の真下にいた紅華に声をかけた。

「大丈夫だ。紅華殿は?」

「私も、大丈夫です」

(近い……!)

 体が密着した状態になった紅華は、すぐ目の前にある晴明の顔に、そんな場合ではないとわかっていても鼓動が跳ねる。全身に感じる体の重みは、苦しく思うほどではないが意外にずっしりとしていた。

「よかった」

 そう言ってするりと起き上ると、晴明は手をひいて紅華を起こす。その仕草に、ふと紅華は晴明を見上げた。

 晴明は厳しい顔であたりに集まった官吏たちを見回した。

「さわぐな。官吏たちは下がらせて、すぐにここを片付けろ」

「陛下はこちらへ」

 宰相が、指示を別の官吏にまかせて、いそいで晴明と紅華を裏の扉へと誘導する。

 広間を出る時に振り返った紅華は、あれほど綺麗だった天蓋がばらばらになっているのを目にした。幸い気づいてよけることができたが、直撃されていたらただの怪我ではすまなかったかもしれない。今さらながらに背筋が冷たくなる。

「陛下、紅華様」

 別室で控えていた睡蓮が、青い顔で走り寄ってきた。心配する睡蓮を連れて、四人は近くの一室に入る。

「陛下、お怪我は」

 部屋に入ると、心配そうに宰相が聞いた。

「心配するな、翰林。俺だ」

 晴明のふりをやめた天明が、大きく息を吐きながら長椅子に座る。それを聞いた宰相は、すばやく紅華と睡蓮に視線を飛ばす。睡蓮が無言でうなずくと、宰相は急に態度を変えて天明に向いた。

「お前か。今日は、晴明陛下ご本人のはずではなかったか?」

「あれだけ大勢の前に出るのは危険だろう。最近、頻繁だったからな」

「だったら、せめて私には変更のあったことを知らせておけ」

「まだ、俺たちの見分けがつかないのか」

「ついたら大変だろう。だいたい、前陛下でさえできなかったんだ。見分けのつくものなど、いるものか」

「……そうだな」

 天明は、ちらり、と紅華を見た。それに気づかずに、宰相は部屋を出ようとする。

「すぐ、典医を呼ぶからおとなしくしてろ」

「必要ない」

 宰相は、足をとめて振り向いた。

「だが」

「けがもないし、少し休めば大丈夫だ」

「……本当にいいのか?」

「ああ」

「では、ここで少し休むがいい。私は陛下のところに行ってくる。蔡貴妃様」

 宰相は、紅華に向き直る。

「お騒がせをいたしました。落ち着いたようでしたら、よろしければお部屋まで送らせましょう」

 紅華は天明の様子をうかがう。すました顔をしているが、その額には脂汗が浮かんでいた。

「わたくしも、もう少し休んでから戻ります」

「かしこまりました。睡蓮、蔡貴妃を頼んだぞ」

「はい」

 そう言うと、宰相はもう一度天明の様子を一瞥してから部屋から出て行った。
「紅華様は、どこか痛むところはありませんか?」

 紅華の身を案じる睡蓮が聞いた。

「私は大丈夫。けれど、天明様が」

「別に? 俺も、平気だ」

 平然と天明は答えた。

(嘘ばっかり)

 紅華は天明にとことこと近づくと、背もたれに体を預けたままのその左肩をぽんと叩いた。

「うげっ!」

 ふいうちを食らった天明が、飛び上がりながら叫んだ。

「落ちた天蓋にあたっていたのですね」

「ててて……気づいたのか」

「起こしていただいた時に、左側をかばわれたので、もしや、と」

「天明様、失礼します」

「な……睡蓮! やめろ!」

 睡蓮は天明の衣に手をかけると、くるくるとその服を脱がし始めた。

「何をする! 睡蓮、あ、こら」

 天明は抵抗するが、紅華が指摘した通り片側にうまく力が入らないらしく、あっという間に片袖を引かれて肩がむき出しになった。
 みれば、天明の肩から背中にかけて青くなりかけている。

「やっぱり」

「睡蓮……いくらいい歳だからって、もう少し女性としての照れとか恥じらいとか持ち合わせていないのか。そんなことだから行き遅」

「折れてはなさそうですが、これはかなり痛みますね」

「いててててて!」

 けがをしている方の腕を乱暴に裏表確認されて、天明が再び悲鳴をあげた。どうやら天明の言葉に少しばかり立腹したようだ。

(睡蓮でも怒ることがあるのね)

 紅華は、興味深くその様子を見守った。

「貼り薬を持ってきます。待っていてください」

 出血のある怪我がないことを確認すると睡蓮は、薬をもらうために部屋を出て行った。

「すみません、私がもうちょっと早く気づいていたら避けられたかもしれないのに」

 うなだれる紅華に、服を戻しながら天明が笑う。

「むしろ、晴明じゃないと気づいていたのに、よく助けてくれたな」

「当たり前です。あれ、直撃してたら、下手すれば死んでましたよ」

「そりゃ、殺すためにやったんだろうし」

 天明の言葉に、紅華は、目を見開く。

「え? まさか……あれは、事故、ではないのですか?」

 天明は、ちらりと紅華を見たが、すぐにまた服装を整えるために視線を戻す。

「違う。と、俺は思う」

「一体、誰が……」

「言ったろう。跡目争いなんてめずらしくもないことだ」

「でも、だからって殺すなんて」

「皇帝辞めてください、はいわかりました、なんてお行儀よく話がつくと思うか? ぐだぐだ言わせずに死んでもらうのが一番手っ取り早いだろう」

「でも……ということは」

「うん?」

 青ざめた紅華は、次の言葉をためらった。天明は、だまって紅華を見つめている。

「その理屈で言ったら、陛下を狙ったのは次の皇帝になれる……天明様が一番怪しいのではないですか?」

 陽可国は長子が皇位を継ぐことになっている。第一皇子の晴明が皇帝になりその子がない今、皇太子は第二皇子の天明だ。

 紅華の言葉に天明は大きく目を見開くと、声を上げて笑い出した。

「そうだな。そうか、俺が晴明を殺そうとしたのか。なるほど」

 紅華は、小さくため息をついた。

「違いますよね。もしそうならそんな怪我を負うわけないし……もしかして、天明様も同じように命を狙われたりしています?」

 楽しそうにくつくつと笑いながら天明は続けた。

「さあ、どうかな。それより、晴明を殺そうとして死んだのが俺じゃ、皇帝暗殺をたくらんだやつらもさぞ拍子抜けするだろうな」

「そんなことを言って。一歩間違えば、こうして笑っていることなどできなかったのですよ?」

「その時はその時だ」

「死んでしまったら取り返しがつきません!」

「なあ、紅華」

 いきなり呼び捨てにされて、紅華はびくりと体をこわばらせた。ひじ掛けに片腕をついて、天明は薄く笑っている。

 その表情は、同じ顔をしていても晴明とは全く違うように紅華には見える。まっすぐに見つめてくる細い目を、紅華は怖いと思うと同時に、美しいとも思ってしまった。

(この人は……何を考えているのだろう)

 自分の死すらもまるで玩具の一つとしか考えていないような天明に、紅華は胸をざわつかせた。
「後宮を出て行くつもりがないなら、間違えるなよ。大事なのは、皇帝陛下……つまり、晴明だ。晴明という皇帝がいて、晴明に子が生まれればその子がまたこの国を継いでいく。あいつさえ生きていれば、この先も国は続いていけるんだ。しょせん、他の皇子なんてどうでもいいんだよ」

「でも……」

 紅華は、泣きそうになってうつむいた。

「そんな風に、言わないでください。……確かに皇帝陛下は誰よりも尊ばれる方ですが、天明様だって、代わりになる人は誰もいないんです。どんなに憎たらしくても気に食わなくても、死んでしまっては喜べません。命を投げ出すことを、当たり前だとは思わないでください。誰も言わないなら私が言います。もっと、ご自分を大事になさってください」

 短かくはない沈黙のあと、ああ、とため息のように小さな天明の声が聞こえた。

「あー……、やっぱり俺の事は、憎たらしいのか」

 しょげてしまった紅華に調子を狂わされたのか、天明があえてからかうような口調で言う。

「無礼な方だなとは思ってましたが、それに加えて自分勝手で能天気な方という印象が増えました」

「……本人を目の前にして、どっちが無礼だか」

「初日から失態をお見せしてしまったので、今さら天明様に取り繕うのは無駄だと思っております」

 ふてくされながら言った紅華を見て、天明はまた声をあげて笑った。

「いいなあ。本当にお前は面白い奴だよ。……心配するな。犯人の目星はついているんだ。こっちだって、そうそうやられたままでいるわけじゃない」

 その言葉で、紅華は思い出す。

「そう言えば……あの時、一人だけ、天井を気にされた方がいたのです」

「天井? あの場にか?」

 天明の視線が鋭くなる。

「はい。ですから、私も気づきました」

「どんなやつだった?」

「官吏の方でした。お顔までは覚えておりませんが……左側のかなり前の方にいた方だったかと思います」

 紅華も、天明から視線をはずさなければ気づかなかった位置に、その官吏はいた。

 それを聞いて天明は考え込む。その姿を見ながら、紅華は気になっていたことを口にした。

「もしかして天明様は……」

「お待たせしました」

 その時、扉があいて睡蓮と、もう一人老年の男性が入ってきた。

「陛下、お怪我をなされたとか」

 淡々と言ったのは、この宮城の典医だ。

「心配ない。少し、打っただけだ」

 その瞬間から、天明はまた晴明になる。

「見た目に変わりがなくても、体内で傷つくことがあることもあります。少し、見てもよろしいですかな」

「しかたないな」

 天明は、先ほど着た服をもう一度はだけ、あざになった部分を出した。典医はそれをあちらこちらから診察して、確かに打ち身だけだということを確認する。

「では、また明日伺います。本日はなるべく肩や腕を使いませんように」

 貼り薬をぺたぺたと張りながら、典医が言った。

「わかった。ありがとう」

 穏やかな笑顔で天明が言うと、典医は部屋を出て行った。

「晴明のとこに行ってくる」

「あ」

 立ち上がった天明に、思わず紅華は声をあげた。けれど、それ以上なんと言えばいいのかわからない。

「……お大事になさいませ」

 結局それだけ紅華が言うと、天明は微かに笑いながらひらひらと手を振って部屋を出て行った。

(天明様……)

「では、紅華様もお部屋に戻りましょう」

「ええ」

 紅華は、くすぶった思いを抱えたまま立ち上がった。
「おはようございます、紅華様」

 声をかけられて、紅華は目を覚ました。いつもなら睡蓮が来る前には起きている紅華だが、夕べはなかなか眠りにつくことができず寝過ごしてしまったらしい。

「おはよう、睡蓮。すっかり寝坊しちゃったわ」

「それほど遅くはないですよ。もう少しお休みになりますか?」

 紅華は、目をしばたかせながら思い切り伸びをする。

「いいえ、起きるわ」

 紅華が寝台を降りると、睡蓮が着替えを手伝ってくれる。

 通常、妃嬪には大勢の侍女がつく。紅華はまだ貴妃ではないが、それに準じる立場として、後宮へ来たばかりの頃は着替えるにも何をするにも大勢の侍女が手伝ってくれていた。

 けれど、貴族の産まれではない紅華は、自分のことは自分でやるようにしつけられていた。そのため、自分が動かなくてもいいという状況に慣れることができず、これを全部断ってしまった。結局紅華のこまごました手伝いをしているのは、睡蓮一人だ。

「夕べは遅かったのですか?」

 睡蓮が、卓に朝食を並べていく。紅華は、あたたかい粥を手に取った。

「ええと……そう、ついつい本を読んでしまって」

 とっさに紅華はごまかした。本当は、昨日のことが気になって眠れなかったのだ。

 天明が言うようにあれが事故ではないとすれば、そこにあるのは明らかな悪意だ。その状況を晴明がどう考えているかはまだわからないが、天明はまるで楽しんですらいるように見えた。

 今までそんな人は、紅華は見たことがなかった。地位に執着し、金に執着し、己の利にしか興味のない人ばかり見てきた紅華にとって、自分の命にすら頓着しない天明は理解の範囲を超えていた。

 けれどそれは、決して不快な感じはしない。むしろ、強烈な光を放って紅華の心を焼く。目を閉じれば、蠱惑的に笑む天明の顔が浮かんできて、結局一晩中眠ることができなかった。

(本当に……なんなのよ、あの人)

 それに、天明の怪我も気になる。あんな重そうな天蓋が当たって、本当に打ち身だけですんだのだろうか。様子を見に行こうと思って気づいた。

(天明様って、どこにいけば会えるのかしら?)

 皇子とはいえ成人しているのだから、後宮内には住んでいないはずだ。市井に降りていれば、紅華が気軽に家を訪ねることなどできない。

 だが、皇族である天明は、宮中においてなんらかの仕事を持っているに違いない。本当にたいしたことのないけがなら、今日も出仕している可能性はある。

「ねえ睡蓮」

「はい、なんでしょう」

「宮城の図書室に行きたいんだけど、いいかしら?」

 後宮には専用の図書室がないため、本が必要なら宮城の図書室を使用することになっている。

 紅華がなんの目的もなく後宮を出ることは難しい。行事関係以外で外朝に行く用事と言えば、図書室くらいだ。

 外朝に行ったからといって天明に会えるとは限らないが、それくらいしか紅華が天明に会う手立ては思いつかない。

(どうしても気になるわけじゃないけど。もし会っちゃえば、ついでに様子を聞いてみてもいいかしら。ええ、ついでよ、ついで)

「良いと思いますけれど……何か、お探しですか?」

「持ってきた本は読んでしまったから、なにか軽いものでもあれば、と思って」

 少しだけ視線を外して紅華が言った。手持ちの本を読んでしまったのは事実だが、それだけではないことがなんとなく後ろめたかった。

 睡蓮なら天明の様子くらい聞いてこられるだろう。だが、あの後部屋に帰ってからも睡蓮は、痛いところはないか気落ちしてないかと、紅華の方が心配になるくらい気遣ってくれた。なるべく、睡蓮の前で昨日の話題には触れたくなかった。

「かしこまりました。では、使えるように手配いたしましょう」

 本の話題が出ていたせいか、睡蓮は特に疑問にも思わないようだった。

「ありがとう。頼むわね」

 紅華の朝食を片付けると、睡蓮は手続きのために部屋を出て行った。

 一人になると、紅華は少しだけ化粧をした。外朝に出るのなら、それなりに身支度を整えなければならない。一通り身支度が終わったところで、ほとほとと誰かが戸を叩くのが聞こえた。睡蓮が戻ったなら、声をかけるはずだがそれがない。

 なんとなく予想がついた紅華は、深呼吸をすると用心深くゆっくりと扉をあけた。
「……やっぱり」
「おや? 待っていてくれたとは、嬉しいね」

 案の定、そこにいたのは、天明だった。その手には、大きな数本の牡丹を持っている。

「そんなわけないじゃないですか」

「照れた顔もかわいいな」

 口の減らない天明に、むっとするも、いつもと変わりなさそうな様子を見て紅華は胸をなでおろした。

「お怪我のご様子は、いかがですか?」

「まだすごい色しているが、薬のおかげか痛みはあまりないな」

「そうですか」

 言葉はそっけないが、紅華の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。おそらく無意識だろうその表情を指摘したらまたムキになっておこられそうだったので、天明は気づかないふりをした。

「紅華こそ、怖い思いをさせて悪かったな」

 なぜかくつくつ笑う天明を見ながら、紅華は答えた。

「天明様のせいではありませんわ」

「そりゃそうだ。はい、お土産」

 渡された牡丹から、甘い香りが漂う。

「どうしたのですか、これ」

「きれいに咲いていたから。昨日の詫びだ」

 彼が詫びる必要などないと思うが、せっかく持ってきてくれたのだから、と、紅華は素直にその花をうけとった。

「ありがとうございます。これ、天明様が買ってきてくださったんですか?」

「晴明の真似をして、そこの庭に咲いていたのを勝手に取ってきた。南の庭の牡丹園が、ちょうど見ごろだ」

「牡丹園があるのですか?」

「まだ見てないのか?」

 むしろ驚いたように天明が言った。

「はい。ここへきて日が浅いので、まだ後宮の中になにがあるのか、よく知らないのです」

「ならちょうどいい。これから一緒に見に行こう」

「え? でも……」

「決まり。天気もいいし、行くぞ」

 勝手に話を進める天明に、紅華は戸惑う。

「そんな急に言われても……」

「見たいときに見に行くのが、一番きれいなときなんだよ。睡蓮は?」

「少し用を頼んであります。じきに戻ると思いますけれど」

「見つかるとまたうるさそうだ。早く出よう」

 そう言って天明は紅華の持っていた牡丹を卓の上に置くと、紅華を連れ出した。

(なんて強引な人なのかしら)

 なかば呆れながら二人で廊下を歩いていくと、前から来た女官たちがさっと道を空ける。

(ああ、晴明陛下だと思っているのね)

 そう思ってちらりと天明を見上げると、さっきまでの気楽な表情とは違ってどこかきりとした涼し気な笑顔を浮かべている。

「紅華殿?」

 ふわりと笑うその表情は、まさに晴明そのものだ。これでは、女官たちが晴明と誤解するのも無理はない。というより、天明はわざと誤解させているのだろう。

 第二皇子とはいえ男性が後宮に頻繁に顔を出すのはさすがにまずいことくらい、紅華にもわかる。

「便利なお顔ですね。本当に、役にたつこと」

 思うところあってそう言った紅華は、その言葉で天明の表情がほんのわずかに曇ったのを見逃さなかった。

「似てはいても、お前は見分けがつくんだろう? なんて言ったって、俺の方が凛々しいからな」

 だが、天明は素早く元の笑顔を取り戻した。

 おそらく天明は、紅華が聞きたいことに気づいている。なのに話をそらしたという事は、きっと今はまだ聞いても答えてはもらえないだろう。

 紅華は小さくため息をついた。

「本物の晴明陛下はお仕事ですか?」

「今頃の時間は、定例朝議を終えて執務室にいる頃だ」

「天明様は、参加されなくてよいのですか?」

「今日は俺が出る予定はないな」

 紅華の予想通り、天明もなにかしらの仕事はあるらしい。

「どんなお仕事をなされているのですか?」

「紅華の相手」

「それは今日に限ったことですよね。それに、全く必要のない仕事だと思います」

 呆れたように言った紅華に、天明は晴明の顔をしてふわりと微笑む。

「逢引のための時間は、何をおいても必要ですよ、紅華殿。晴明と顔をつきあわせて文書を呼んでいるよりも、かわいいお嬢さんとお花見をしている方がずっと楽しいとは思いませんか?」

 爽やかに微笑む様子は晴明とよく似てはいるが、やはり紅華には二人は別人としか思えない。

「陛下は皇帝として、陽可国のためにまじめにお仕事をされているのですよ?」

 批判めいた言葉にも、天明はすました顔を崩さない。

「やりたいことはすぐやらないと気がすまないたちなんでね」

「せっかちですね」

「明日も生きていられるとは限らないだろう? やりたいことを残して死ぬなんて、成仏できないじゃないか」

「またそんなことを。縁起でもないこと言わないでください」

 紅華は眉をひそめて天明をねめつける。だが天明は、そんな紅華の表情を面白がるばかりだ。

「真面目一辺倒の晴明なんてやめて、俺のものになれよ」

「何を言ってるんですか。わたくしはいずれ貴妃になる身ですよ? 皇帝以外にそのように心を乱すことがあっては」

「本当に貴妃になりたいのか?」

「……どういう意味ですか?」

 軽い調子の中にも、紅華はわずかな棘を感じた。

「貴妃なんて、はたで思うほどいいものじゃない。晴明が命を狙われているのは、昨日身をもって知っただろう? 貴妃になれば、紅華だって同じように狙われることもある。後宮にいれば贅をつくした良い生活ができるだろうが、それは命と天秤にかけてまで欲しいものなのか?」

「私は!」

 つい紅華が声高になったとき、ちょうど二人は女官たちの前を通り過ぎたので、紅華は口を閉じる。天明は余裕の笑みを浮かべていた。

「どうしてみんなだまされるのでしょう」

 返答には、わずかの間があった。

「見ろよ」

 天明は、前の方の離れた位置で廊下の端によけて頭を下げる侍女たちを、視線だけで示す。それは、身分の低いものが皇帝に対して行う礼儀だ。

 天明は、さらに声をひそめて低い声で言った。

「まじまじと俺の顔を見る奴なんて、ろくにいやしない。だから誰も気づかないんだ。皇帝だと思い込んでいるから、みんな俺にひれ伏している。必要なのは、皇帝の肩書だけで、その中味がどんな顔してたって関係ないんだよ」

 紅華は瞬いて天明をみあげた。その顔を、じ、と天明が見下ろしてくる。

「紅華は、俺の顔を知っている。……きちんと見ている証拠だ」

「天明様……」

「お前の前でなら、俺は……」

 言いかけて、天明は、は、と顔をあげた。

「ま、ほら。皇帝は何をしても許される立場だ。それを俺が利用して何が悪い? 晴明のふりしている間は、好き勝手やっても誰もわかりはしないんだ。だから、似ているこの顔を俺が利用しても全然……」

「あなたです」

 言葉を遮って鋭く言った紅華に、天明は意図がわからず聞き返す。

「俺がなんだって?」

「他の誰にわからなくても、あなたにだけはわかっているはずです。黎天明というあなたは、どれほどに似ていても決して黎晴明ではありません。必要があれば仕方のないことですが、どうか、晴明陛下の影にうずもれ過ぎてしまわないでください。そうでなければ、たとえあなたと言えど黎天明に対して失礼です」

 天明が、か、と目を見開いた。そこに浮かんだ怒気に紅華はとっさに、怒鳴り声を覚悟して息をつめる。

 けれど天明は何も言わず、紅華を見つめるだけだった。

(天明様……?)

 そんな二人の間に、ふわりと甘い香りが漂ってきた。

 天明は大きく息を吐くと、顔をあげて紅華の背後を示す。

「見えてきたな。あそこだ」

「あ……」

 つられて視線を向けた紅華の目の前に、一面の牡丹の庭が広がった。赤、白、天明の持ってきたのと同じ桃色もある。

「なんてきれい」

 思わず紅華はつぶやいて、歩き出した天明の後ろ姿を追う。

「皇太后……いや、今は前皇太后か。その人が、牡丹が好きだったんだ」

 天明がどんな表情をしているのかは見えないが、その口調はすっかりもとの飄々としたものに戻っていた。

 多少は気に障るかもしれないと覚悟しての言葉だったが、天明の怒気は予想以上だった。

 天明に告げた言葉に嘘はない。天明がやけに自分自身を軽んじていることが、紅華には腹立たしかった。なぜそんなに腹立たしいのか、紅華本人にもわからなかったが。

 けれど、天明がそれ以上を口にしないのなら、紅華ももう触れない方がいいだろう。謝る機会をなくしてしまった紅華は、天明のふった話題を続ける。

「前皇太后と言われますと……天明様の祖母にあたられる方ですか?」

「そう。祖父だった皇帝に『まるで牡丹のように美しい』と言われたことが嬉しかったらしくてな。それで様々な牡丹を植えるうちに、こんなにたくさんになったらしい」

「美しい人だったと聞きました」

 紅華の言葉に天明は、振り向いて少し首をかしげた。合わせた視線を、紅華はそらさなかった。

「あまり会ったことはないけれど、綺麗というか、覚えている限りは豪快な女性だったな」

「今はどちらに?」

「ずいぶん前に亡くなったよ。今は父上と同じあの墓所に眠っている」

「あの……晴明陛下や天明様のお母様方はどちらに?」

 後宮の妃たちは、時の皇帝の逝去と共にこの後宮を去る決まりだ。身分の低い寵姫なら尼寺へ追いやられるのが常だが、皇子を産んだ身であれば、いずれかの宮に暮らしていることだろう。

 天明は、少し間をおいて答えた。

「俺の母は俺を産んですぐに亡くなった。晴明の母は、この離宮の宮の一つに暮らしている」

「すみません」

 とたんに恐縮した紅華に、天明は笑う。

「俺は母の記憶なんてないから気にしなくてもいい。母が死んでから俺を育ててくれたのは、晴明の母親だった」

「皇太后様が?」

「ああ」

 天明は、遠い目をして言った。

「今はまだ喪中でお互い行き来するわけにはいかないけれど、喪が明けたら訪ってやるといい。きっと、喜ぶ。そういう人だ」

 皇太后のことを語る天明の顔は優しかった。先ほどの怒気など欠片も残っていない。

(この方にはまだまだわからないことがたくさんある。いつか、それを知ることができるのかしら)

 紅華は、ぼんやりと天明を見上げる。

「どうした?」

 自分を見上げる紅華に気づいて、天明は不思議そうな顔をする。

「いえ」

 あわてて視線をそらした紅華の目に、遠慮がちに声をかけてくる女官が見えた。

「あの、お話中失礼いたします。皇帝陛下」

「どうしたんだい?」

 やんわりと振り向いた顔は完璧に晴明だ。

(切りかえの早いこと)

 半分あきれて半分感心して、紅華はその横顔を見ている。

「あちらのあずまやに、お茶を用意いたしました。どうぞ、貴妃様と共にお休みください」

「気が利くね。ちょうど喉が渇いてきたところだよ。ありがとう」

 女官は天明に微笑みかけられると、顔を真っ赤にして、いえ、とかとんでもございませんとか言いながら下がっていった。

「晴明ではないと、試しに言ってみるかい?」

 天明が、面白がる口調で紅華を煽る。

「もっっっのすごく言ってみたい気持ちはありますが、それがまずいことくらい私にもわかります」

「バレてもいいのに」

「そういうわけにはいきません」

「どうして?」

「そんなことしたら天明様、ただではすみませんよ? 晴明陛下のふりをしているなら、言動には十分気をつけてくださいませ。そうでないと、いくら私が黙っていても、いつか誰かが気づくかもしれないじゃないですか」

「俺を、守ってくれるのか」

 言い方はアレだが、言われてみればそういうことだろう。

「そうですね。大変不本意ですが」

 渋い顔つきになった紅華に、天明はくつくつと笑った。

「本当に、紅華はかわいいな」

「はあ?」

 おもいがけない言葉に、紅華はつい声をあげた。

「やっぱり、晴明なんかやめて俺にしとけよ」

「ですから、私は皇帝の妃です。いくら皇子とはいえ、度が過ぎると皇帝に対して不敬にあたりますよ」

「まだ正式な貴妃じゃないんだから誰のものでもないだろう? お前が気にいったと言ったのは嘘じゃない。そこまでぽんぽんと言うやつはめったにいないからな」

「私だって誰にでもこんな口きくわけじゃありません。天明様にだけです」

「俺にだけ……すごい口説き文句だな」

「な、そんなわけ……!」 

 ひそひそと言い合っているうちにあずまやにたどり着いた。女官や侍女たちの前でそれ以上口論を続けるわけにはいかず、紅華は口を閉じる。

「紅華殿、気をつけて」

 天明は、わずかの段差にすら手を添えて紅華を支えてくれる。完全に、周囲を意識した態度だった。それを見た侍女たちは、微笑ましい二人の様子に一様に笑みを浮かべる。

「さあ、こちらへ」

 そうして、紅華の椅子までひいてくれる念のいれようだ。

「皇帝陛下は本当にお優しくていらっしゃる」

「蔡貴妃様は、お幸せですね」

 にこにことまわりの侍女が言うのを、紅華はあいまいな笑顔で受け止めた。

(でも、天明様だということを知らなければ、確かに晴明陛下はこういう方だわ)

 天明の観察眼に、紅華は感心しながらお茶を飲んだ。


 お茶を飲んだ後、二人はぐるりと庭を回って戻ることにした。

「あら。あちらは……通れないのですか?」

 庭の端まで来ると、生け垣の途中に竹でできた扉があることに紅華は気づいた。半分以上葉で覆われているが、頻繁に開けられているのか、地面には扉の跡が残っている。

 手を掛けようとした紅華の手を、天明が握った。

「紅華、そっちは通れない」

「でも、こちらを通ればわたくしの部屋の近くに出るのでは?」

「いや」

 なぜか、天明は眉をひそめて言いよどむ。

 紅華の記憶では、紅華の部屋へ戻るには、位置的にはこの道を進んだ方向で合っているはずだった。

「この扉の向こうには離宮が一つあるんだが……」

 天明は、言いにくそうにしながら続ける。

「絶対、その宮には近づいてはいけない。どうせここは鍵がかかっているから、開けることはできないが、万が一ということもある」

「鍵が? なぜですの?」

 しばらく迷った後、天明は低い声で言った。

「その宮には、一人の罪人が閉じ込められている」

「え……」

 天明は、思いがけず真剣な表情を浮かべている。

「その罪人は、決してその宮から出ることができない。一生」

 思いがけない重い言葉に、紅華は息を飲む。

「何故、ですの?」

 天明は、ちらりとその生け垣の向こうに視線を向ける。繁る葉で、そちらにあるという宮は見えない。

「俺の口からは言えない。後宮の中はどこへ行ってもいい。ただ、この先だけは、絶対に行ってはだめだ」

「私が、貴妃になってもですか?」

「俺一人の判断で答えられる問題じゃないから、今は何とも言えない。ここは……」

 天明は、眉をひそめてその宮がある方向に視線を向ける。

「後宮にある監獄だ」

「監獄……」

 そこまで言うには、ただごとではない。

 たとえば皇帝を弑しようとした者なら即刻打ち首だ。罪を背負ってなお生かして閉じ込めておくとは、よほどの寵愛を得た妃でもいるのだろうか。

 難しい顔をした紅華に、天明は重ねて言った。

「だから、この先には絶対いかないと約束してくれ」

「それは、私に後宮を去れとおっしゃったことと関係がありますか?」

 不意打ちに尋ねられ、天明は紅華を見つめた。

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

「天明様は、今でも、私が後宮にいない方がいいと思いますか?」

「ああ」

 即答だった。二人は無言で見つめあう。

「わかりました。この先にはいきません」

 それを聞いて天明は、微かに笑んだ。ざあ、と風が吹いて一面の牡丹が揺れる。

 美しかった庭が急に恐ろしいものに思えてきて、紅華は少しだけ震えた。

  ☆
「紅華様、図書室の使用許可がおりましたわ。ご都合のよろしい時に、いつでもいらしてくださいという事です」

 睡蓮が言ったのは、あれから二日が過ぎた午後だった。

「ずいぶん時間がかかったのね。手続きって難しいの?」

「いえ、妃様ご本人がいらっしゃるという事がめずらしいらしく……図書室の方でもどうしたらいいのか困っていたみたいです」

「あら、それは迷惑をかけてしまったわね。でも、後宮の妃様って、本、読まないの?」

「普通は女官などにまかせて、ご本人が行くことはありません」

「あ」

 くすくすと笑いながら睡蓮に言われて、紅華は、失敗してしまったかと頬を染める。

「知らなくてごめんなさい。ということは、私もそうした方がいいのかしら」

「どちらでもよろしいですよ。でも、他の方がなさるからと言って、紅華様までその真似をすることはございません。どうか、お心のままにお過ごしください」

 そう言った睡蓮の表情は、馬鹿にしているものではなかった。そのことに、ほ、とする。

(睡蓮がそう言ってくれるなら、私はこのままでいいのかな)

 紅華は、少し考えて立ち上がる。

「今からでもいいかしら?」

 天明が紅華を気に入ったというのは嘘ではないらしく、あれからもちょくちょくと紅華のもとにおとずれていた。怪我も思ったよりひどくはないとわかったので急いで外朝に行く必要もなくなったが、宮城には興味がある。

「もちろんでございます」

「外朝に行くなら、少し見てまわりたいの」

 後宮は、いわゆる内朝と言われる宮城の奥に位置する。対して外朝は基本的には官吏が仕事をこなす場所だ。先日の魂上げの儀で紅華も訪れたが、その時はあまりゆっくり周りを見る時間がなかった。だが、その庭のつくりや壁の装飾など、紅華が気になるところはたくさんあった。

「あまりお邪魔にならないようでしたら大丈夫ですよ。では、まいりましょう」

 紅華は支度を整えると、睡蓮と部屋を出た。

  ☆

 陽可国は、大陸一帯を治める広大な国だ。皇帝の権力は強く、もう五百年以上も内外問わず戦が起こっていない。

 それを示すように、外朝の建物は繊細で豪奢なつくりを古くから残しており、そこここに名のある芸術家の絵や焼き物などが品よく飾ってある。そのどれもが足をとめてつい見入ってしまうほど素晴らしいものだった。

 紅華は、のんびりとそれらを見て回っていく。通り過ぎる官吏たちは、すれ違うたびに会釈をして通って行った。

「なんだか慌ただしいわね」

 目に入る官吏たちは、みんな忙しそうに行き来している。

「そうですね。今日はなにかあるのでしょうか」

「またにしようかしら。……あ」

 最後の、あ、は、晴明の姿を見つけたからだ。なにか大事な会議でもあるのか、正装を着て凛とした様子で歩いて来る。紅華が気づいたのと同時に、晴明も気づいて笑顔になる。紅華は、手を組んで礼をとる。

「こんにちは、晴明陛下」

「ご無沙汰しているね、紅華殿。珍しいところで会うけど、どちらへ?」

「図書室を見せていただくのです。陛下は、今日は何かあるのですか?」

 ちら、と晴明は連れ立っていた官吏を見た。

「今日は、諸侯が集まって、私の新皇帝としての初の謁見があるんだ。それまでまだ時間があるから、少し休憩しようと思ったところだよ。もしよかったら、少しお茶に付き合ってくれないかな」

「よろしいのですか?」

「もちろん。あちらの部屋にお茶の用意をしてもらったんだ。行こうか」

「はい、喜んで」

「では、私は用意を手伝ってまいります」

 顔を伏せたまま言うと、睡蓮は足早に離れていった。晴明は、その背を、じ、と見送っている。紅華も、同じように睡蓮の背を見つめた。それから、晴明を。

(なぜなのかしら)