「おはようございます、紅華様」

 声をかけられて、紅華は目を覚ました。いつもなら睡蓮が来る前には起きている紅華だが、夕べはなかなか眠りにつくことができず寝過ごしてしまったらしい。

「おはよう、睡蓮。すっかり寝坊しちゃったわ」

「それほど遅くはないですよ。もう少しお休みになりますか?」

 紅華は、目をしばたかせながら思い切り伸びをする。

「いいえ、起きるわ」

 紅華が寝台を降りると、睡蓮が着替えを手伝ってくれる。

 通常、妃嬪には大勢の侍女がつく。紅華はまだ貴妃ではないが、それに準じる立場として、後宮へ来たばかりの頃は着替えるにも何をするにも大勢の侍女が手伝ってくれていた。

 けれど、貴族の産まれではない紅華は、自分のことは自分でやるようにしつけられていた。そのため、自分が動かなくてもいいという状況に慣れることができず、これを全部断ってしまった。結局紅華のこまごました手伝いをしているのは、睡蓮一人だ。

「夕べは遅かったのですか?」

 睡蓮が、卓に朝食を並べていく。紅華は、あたたかい粥を手に取った。

「ええと……そう、ついつい本を読んでしまって」

 とっさに紅華はごまかした。本当は、昨日のことが気になって眠れなかったのだ。

 天明が言うようにあれが事故ではないとすれば、そこにあるのは明らかな悪意だ。その状況を晴明がどう考えているかはまだわからないが、天明はまるで楽しんですらいるように見えた。

 今までそんな人は、紅華は見たことがなかった。地位に執着し、金に執着し、己の利にしか興味のない人ばかり見てきた紅華にとって、自分の命にすら頓着しない天明は理解の範囲を超えていた。

 けれどそれは、決して不快な感じはしない。むしろ、強烈な光を放って紅華の心を焼く。目を閉じれば、蠱惑的に笑む天明の顔が浮かんできて、結局一晩中眠ることができなかった。

(本当に……なんなのよ、あの人)

 それに、天明の怪我も気になる。あんな重そうな天蓋が当たって、本当に打ち身だけですんだのだろうか。様子を見に行こうと思って気づいた。

(天明様って、どこにいけば会えるのかしら?)

 皇子とはいえ成人しているのだから、後宮内には住んでいないはずだ。市井に降りていれば、紅華が気軽に家を訪ねることなどできない。

 だが、皇族である天明は、宮中においてなんらかの仕事を持っているに違いない。本当にたいしたことのないけがなら、今日も出仕している可能性はある。

「ねえ睡蓮」

「はい、なんでしょう」

「宮城の図書室に行きたいんだけど、いいかしら?」

 後宮には専用の図書室がないため、本が必要なら宮城の図書室を使用することになっている。

 紅華がなんの目的もなく後宮を出ることは難しい。行事関係以外で外朝に行く用事と言えば、図書室くらいだ。

 外朝に行ったからといって天明に会えるとは限らないが、それくらいしか紅華が天明に会う手立ては思いつかない。

(どうしても気になるわけじゃないけど。もし会っちゃえば、ついでに様子を聞いてみてもいいかしら。ええ、ついでよ、ついで)

「良いと思いますけれど……何か、お探しですか?」

「持ってきた本は読んでしまったから、なにか軽いものでもあれば、と思って」

 少しだけ視線を外して紅華が言った。手持ちの本を読んでしまったのは事実だが、それだけではないことがなんとなく後ろめたかった。

 睡蓮なら天明の様子くらい聞いてこられるだろう。だが、あの後部屋に帰ってからも睡蓮は、痛いところはないか気落ちしてないかと、紅華の方が心配になるくらい気遣ってくれた。なるべく、睡蓮の前で昨日の話題には触れたくなかった。

「かしこまりました。では、使えるように手配いたしましょう」

 本の話題が出ていたせいか、睡蓮は特に疑問にも思わないようだった。

「ありがとう。頼むわね」

 紅華の朝食を片付けると、睡蓮は手続きのために部屋を出て行った。

 一人になると、紅華は少しだけ化粧をした。外朝に出るのなら、それなりに身支度を整えなければならない。一通り身支度が終わったところで、ほとほとと誰かが戸を叩くのが聞こえた。睡蓮が戻ったなら、声をかけるはずだがそれがない。

 なんとなく予想がついた紅華は、深呼吸をすると用心深くゆっくりと扉をあけた。
「……やっぱり」