「私は幸せだよ、(ゆう)くん。本当にありがとう」


 にこり、とセーラー服の彼女が笑った。熱風が彼女の黒髪をかき上げ、桃色の頬を撫でる。日光の反射のせいか艶のある髪の毛は、色白の手足と合わせてどこか艶かしい。


 炎天下に晒されている、透明感の溢れる白い肌に、黒曜石のような瞳、儚げでありながら蠱惑的な笑み。


 ──そんな彼女は、ステンレス製の手すりに腰掛けている。彼女に背もたれはない。背中を預けようとするならば、あっという間に地面に落ちてしまう。


 危うい状況を、自ら生み出しているのだ。





 なのに──、





 その瞬間の彼女が、この世で何よりも美しいものに見えた。





 蝉の声も、車のエンジン音も、人の騒音も、何一つ存在していないかのように思える。目の前にいる彼女こそが、この世界の全て。


 彼女が消えた世界に、一体何の意味があるのだろうか?


 俺は手を伸ばした。愛おしき彼女に目掛けて。彼女だけは、自分の手元から離したくない。


 だが、それよりも先に、彼女は故意に体制を崩した。身が手すりから外に乗り出す。バランスが取れなくなった華奢な体は、重力に抗えず落下する。


 彼女の表情が見えなくなる。彼女の胸の膨らみが見えなくなる。そして、目の前で、生足のスカートが風に煽られて不規則に揺れた。しかし、この状況で彼女の足を眺める余裕など無い。


 前回姿勢で手を伸ばす俺の前で、彼女の姿は頭から消えた。爪先すら、掠りもしなかった。


 虚しく空を切った俺は地面に情けなく倒れ込む。そこから這い上がる気力は、すでに失せていた。ここまで来たら、結果など確実なものだから。


 しばらくして、遠くから、微かな音が聞こえてきた。ドチャッ、と、まるで柔らかい固形物が潰されたような。


 分かってしまう。悟ってしまう。どうせ、同じ結果を辿ってしまったのだろう。


「ああ……っ!」 


 俺はコンクリートの地面を引っ掻く。爪が割れようが、血が馴染もうが関係ない。こんなの、心の痛みに比べたらマシだ。

 
 一瞬だけ戸惑ってしまったことを後悔した。彼女の考えを受け入れてあげるべきか、拒むべきか、判断が遅れた。


 その結果、このザマだ。


 果たしてこれで良かったのだろうか。彼女は赦されないものなのだろうか。


 考えても分からない。俺が、その審判をして良いのかすら、自分で答えを出せないのだ。



 世界は、彼女が最期に見せた笑顔程、甘くは無い。


 やり直したい、と願った。もう一度、菫との時間を、と。


 その願いが聞き入れられたのか、はたまた偶然の奇跡が起きたのか。



 視界に亀裂が入った。俺の眼球が割れたのではない。世界が割れた。まるで、全てが脆いガラス細工かのように。幾重もの世界の欠片が散らばる景色を最後に、俺の意識が遠のく。微睡み、そして、次の目覚めを期待する。


 再び、(かのじょ)との出会いをやり直すために。




 

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