記憶を保てるようになってから、私はずっと髪をおろしていた。昔からそうなのか分からないけど、暑くても髪を結ぶっていう概念がなかった。
いつも洗面台の鏡の前で、櫛でとくだけだった。元々くせ毛ではなく、多分、まっすぐな方なのだと思う。
お母さんが言うには、潮くんがプレゼントしてくれたのはバレッタという種類の髪留めらしい。

黄色とオレンジと白をモチーフとした花のデザインで、とても可愛く、朝からそれをつけようとするけど、普段からあまり髪をまとめ慣れていないのか上手くいかず。

左側がまとめられたと思えば、さらさらと右側の髪が落ちてくる。どちらかと言うと慣れてないと言うよりも、不器用なんだな…と思った。


結局、お母さんに髪をまとめて貰った。


「潮くんから貰ったの?」

「うん、昨日、買ってくれて」

「すごく可愛い」

「潮くんが、絶対私に似合うって…」

「潮くんは本当に凪のことが好きね」

「うん、」

「今日は、気をつけてね」


あまり目立たないように、軽い編み込みを入れてくれたお母さんは、笑いながら呟いた。

髪が全てアップされると、首がスースーして違和感があったけど、慣れたらそうでも無くて。

時間になり、潮くんが迎えに来てくれた。潮くんは私の姿を見るなり、「おはよう」という前に、頬を赤く染めていた。

どうして赤くなっているのか分からなくて、首を傾げると、凄く嬉しそうに潮くんは微笑んだ。


「髪、あげてるの初めて見た。めちゃくちゃかわいい」


私は初めて、潮くんに髪をまとめているのを見せたらしい。何度も「かわいい、もっと見せて」と、顔を覗き込んでくるから、恥ずかしくてたまらなかった。



手を繋いで、お母さんに「行ってきます」と言った。お母さんは不安な顔をせず、「行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれた。


優しいお母さん──…。

もしかすると、私はお母さんの事を忘れてしまうかもしれない。怖い記憶を思い出し、また私自信が封印しようとすれば──。


エレベーターの中、忘れたくないと泣きそうになっていると、私の顔色を見て何かを悟ったのか、潮くんは「凪?」と私を呼んだ。

下から、上へと潮くんを見上げれば、「大丈夫」と優しく微笑んでくれて。
私は静かに潮くんへ寄り添った。


「好きだよ凪」

「潮くん…」

「大丈夫、何があってもこの関係は変わらない」

「うん…」

「好きだよ」


安心させるように何度も〝好き〟を伝えてくれる潮くん。エレベーターを出て、しばらく立ちどまった。当日になって情緒不安定になってしまったらしく、やっと落ち着いた頃には数十分は経過していて。


出発するまで、潮くんはずっと〝好き〟を言ってくれた。


日帰りの旅行は8月前半でとても暑いと思っていたけど、今日は湿気もなく風もありとても涼しく感じた。あまりまだ汗をかいていない。

私を連れて駅まで歩く潮くんは、落ち着きを取り戻した私の顔を何度も見てくる。


「…もう落ち着いてるよ?心配しないで」


優しくて心配性な潮くんに微笑めば、「や、それもそうなんだけど」と、また照れたように笑った。


「俺の彼女なんだなって思ったら嬉しくて。マジでかわいい、見慣れない」


さっきまで情緒不安定だったから、励まして言ってくれているのだと思った。


「髪、いつもと違うから?」

「髪もそうだし、いつもかわいいけど、俺今日ずっとニヤけてると思う…」

「ニヤけてるの?」

「凪と遠出は初めてだから」


遠出は初めて…。
そうか、私たち、学校の行事も参加してないから。


「だから、すげぇ嬉しい。凪のかわいい姿も見れて朝から幸せだわ」

「褒めすぎだよ」

「本当のこと言ってるだけ」

「もっとかわいい子沢山いると思うよ?」


本当に、実際そうだと思う。
私は化粧をしてない。
やろうにもやり方が分からない。
大人っぽくなく、反対に童顔で子どもっぽくて。太っている訳では無いけど、特別細くて美人って言う訳でもない。


「俺はずっと凪が1番」

「…ほんと?」

「凪が転校してきた時からかわいいって思ってた」


転校してきた時から…。


「7年前から…?」

「うん、」

「……」

「中身も、外見も、ずっと俺のタイプ」

「タイプ?」

「うん、マジでかわいい…」


潮くんは自分自身でも困ったように、笑っていた。


「私はこんなにも潮くんに愛されて、幸せですね」

「俺の方が幸せだよ」

「私も、」

「ん?」

「私も、潮くんの優しくてかっこいいところ、すごくタイプです」

「───」

「これからはいっぱい、いろんな所に行こうね」

「うん」



今日は、涼しい方なのに。
少し汗をかいて、照れたように「あっつ…」と、首元のTシャツを指先で掴みパタパタとさせる潮くんを見て、私は微笑んでいた。


やっぱり潮くんといると心が安らぐ。
さっきまで、情緒不安定だったのに。

このままずっと一緒にいたい。
この気持ちが〝好き〟という気持ちなら、私は潮くんがもっともっと〝大好き〟になるだろうな…。


1度乗り換え、電車には合計で1時間半ぐらい乗っていたと思う。潮くん曰く、とても速く走る電車に乗ったらしくて、1つ県を跨いだそうだった。


電車を降りれば、私が住んでいる所よりも暑く感じた。気温が上がったのか、ここの地域が暑いのか分からないけど、汗をかいてしまうほどで。


電車からバスに乗る。


そこは元々観光地として有名みたいで、外国の人もたくさんいた。大人数で来てる人もいれば、私たちみたいに男女で来てる人たちもいた。

お寺が有名らしい。
潮くんが言うには、大きいお寺があって、その中にある地主神社は恋愛成就で有名みたいだった。


潮くんは、「ここに凪と来たかった」とずっと嬉しそうにしていた。


そこでお祈りをして、人混みの中、潮くんは「暑いからアイスか何か食べようか」と私を連れていく。
ここの地域は〝抹茶〟が有名らしい。
抹茶、と言っても、私は抹茶がよく分からなかった。多分、抹茶はお茶の種類なんだろうと思った。

だけど私の頭にはお茶のイメージは〝麦茶〟や〝烏龍茶〟しかなくて。抹茶と言われてもよく分からなかった。つまり、私の中で〝抹茶〟は未知の味だった。


「抹茶のソフトクリームにする?」


と潮くんが言ってくれたけど…。


「抹茶ってどんな味か分からなくて…」


疑問を口にすれば、すぐに納得の表情をした潮くんは「いつもアイスはバニラかチョコだもんな」と頷いた。
私はいつも、アイスはその2種類しか食べてないらしい。


「バニラかチョコどっちがいい?それか他に食べたいのある?」

「…ううん、バニラがいいです」

「分かった。俺が抹茶にするから、1回食べてみな。美味しいと思うから」


それって、潮くんが好きなもの、選べないってことじゃ…。


「潮くんの食べたいのは?」

「俺は凪といればなんでも美味いから」



私がバニラのソフトクリーム。
潮くんが抹茶のソフトクリームを注文した。
潮くんが抹茶のソフトクリームを1口くれた。その苦味のある中の甘さがとても美味しくて、思わず「美味しい…」と口にする。
正直、もっと食べたいと思うほど。
クリームが濃厚なのか分からない。
未知の〝抹茶〟は、私が知っているバニラよりも美味しく感じた。

そう思っていると、潮くんはそのままゆっくりと歩き出した。私の手に抹茶のソフトクリームがあるまま。


「美味しい?」

「うん、想像してたのと違う…美味しい」

「好きなだけ食べな」

「え?」

「凪、すげぇ美味そうな顔してる」

「でも、潮くんのは…」

「言ってるだろ?」


言ってる?
なにを?
思わず、顔を傾ける。


「俺が1番先に考えるのは凪だって」


潮くんは、優しい。
というよりも、とことん私を甘やかしてくる。もしかしたら〝チョコのソフトクリームが食べたい〟と言えば、きっと潮くんは買ってくれるんだろうなって思った。


「…甘い、」

「甘い?」

「甘すぎます、私に対して…」

「そうか?」

「うん…」

「そういうのあんまり考えたことない」

「…」

「普通だと思うし。というよりも、」


というよりも?


「凪はあんまり我儘言ってこねぇから、もっと言ってきていい」


我儘?


「俺はもっと凪の我儘を聞きたいし、頼ってくれると嬉しい」


頼ってくれると?


「…私、いっぱい潮くんに頼ってるよ?」

「それは俺がしてることで凪自身からって言う訳じゃないから」


私自身から?
そう言われてもあまりピンと来なかった。
だって私は潮くんに頼りっぱなしで。
いつも我儘や、迷惑をかけている気がする。


「私も、潮くんの我儘聞きたい…」

「俺の?」

「アイスは半分こにしましょう」

「半分?」

「私も、抹茶のソフトクリームを食べて〝美味しい〟って顔をしてる潮くんが見たいから」


私は〝抹茶〟の味にハマってしまったらしく、潮くんとこじんまりとした喫茶店に入り、抹茶のパフェも食べたりして。



────午後は潮くんに水族館へ連れて行って貰った。


入口の方では綺麗な水槽の中で小さな魚が泳いでいて、凄く魅力的だった。
初めて見る水族館に、私はすごく興奮していた。


「潮くん、あれ、あれはなに?」


潮くんの手を軽く引っ張る。


「あれはオオサンショウウオ」

「オーサンショーオ?魚なの?」

「いや、たしか両生類だったと思う」

「両生類?」

「カエルとか、イモリとか。その仲間」

「そうなんだ、魚じゃなくてもいるんだね」

「ここは海の生き物がいるところだからね」


クスクスと笑っている潮くんは、「楽しい?」と、優しく私に聞いてきた。
楽しい。こんなにも綺麗な水槽だとは思っても見なかった。──たくさん、私が見た事ない海の生き物がいる。


「うん、」

「良かった」


潮くんは「時間はあるからゆっくりでいい」と言ってくれて。
──その言葉に聞き覚えがあった私は、水槽を見つめながら考え込んだ。
いつ言われたんだっけ?
それほど遠い昔じゃない日がする。


「うしおくん?」

「ん?」

「あたま、撫でてほしい」


潮くんは、瞬きをすると、私の我儘に「どうした急に」と頭を撫でてくれた。
その瞬間、ふわりと何かの映像と重なった気がして。その映像を思い出した私は、自然と笑っていたような気がする。


「前に1度、こうして私の彼氏だって言ってくれたね」

「え?」

「泣きそうな私に、日記は読んだ?って…」

──言ってくれたよね。そう、言おうとした。それでも言うことが出来なかった。


──それはまさしく、あ、と、洗脳がとけるような感覚だった。全く思い出せなかった記憶が突然思い浮かぶかのような…。
鍵が開く。
ピースが合わさる。
私の知らない真っ白なファイル──…が、頭の中に現れた。


「凪、え? まって、思いだしたのか?」


慌てる潮くんは、もう一度私の名前を呼んだ。
もしかすると、ここが海の生き物がいる場所だからもしれない。
海に関係しているからかもしれない。


「潮くん、あっち行ってもいい?」

「いいけど、凪…記憶」

「アザラシがいるみたい!」



その水槽の広さに、目を奪われていたような気がする。進めば進むほど神秘的な光景に、目を奪われ続けた。


トンネルのようで、天井を泳いだりもしている。


とくに目を奪われたのは、クラゲのエリアだった。青と水色のライトがてらされた、とても綺麗なエリア。360度、全てがクラゲの水槽で埋め尽くされていた。



まるで、海の底のような──…。

海の底──…。


海の底に、私自身が沈んでいるような──…。


「さっき、日記を読んでいる自分を思い出しました」


私はクラゲを見ながら呟いた。
白く、透明で、ふわふわと気持ちよさそうに泳ぐクラゲ。
潮くんもクラゲの方を見ていたけど、私が言葉を発すると私の方に視線を向けた。


「高校の制服を着てて…半袖で夏だったから…多分そう古くはない記憶だと思う」


最近か、──今が高校2年生だから、ちょうど1年前か。


「もう日記は読めないって思ってましたけど、それって違うんですよね」


私はきっと、あの日記を毎日見て、毎日書いていたはずだから。


「私が忘れているだけで、思い出せばきっと内容も分かるはずだから。もう読めないっていうのは違うなって…」

「うん、」


確かにそうかもしれない、そう呟いた潮くんは「どんなこと思い出した?」と、言ってきて。
私は潮くんを見つめた。

背の高い潮くんの目が合っているけど、潮くんからは見下ろされている…っていう感じが全くしない。


「思い出したのは、日記の中でも1部で」

「うん」

「日記の中で潮くんの名前ばかりだったのは分かるんです、でも内容があんまり思い出せなくて」

「うん」

「潮くんがそばにいるからかな」

「え?」

「朝と違って、思い出すことが怖いと思わないです」



そう言って潮くんに向かって笑えば、潮くんも柔らかく微笑んだ。本当に嬉しそうに、笑った潮くんは軽く私を引き寄せた。


「凪?」


名前を呼ばれ、そのまま潮くんを見つめていると、手を繋いでいない方の潮くんの手が伸びてきて。
そのまま頭を撫でられると思った私は身を任せようと思った。だけど、頭を撫でる行為じゃなくて、そのまま後頭部に手をやり引き寄せた潮くんは私を抱きしめた。


「…抱きしめていい?」


潮くんの胸元に顔を埋めている私の耳元に、潮くんが呟いてくる。
私は潮くんの腕の中で、ふふ、と声を出して笑った。


「もう抱きしめてるのに…」

「凪」

「なに?」

「──…俺でよかった?」



その意味は。
俺でよかったの意味は。
この7年間、ずっと私の傍にいたのが潮くんでよかった、という意味だろうか。


少しも潮くんを怖いとは思わなく、潮くんに体を預ける私は、どうして潮くんをあんなにも怖いと思っていたんだろうと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「潮くんがいい…」

「うん…」

「これからもずっと潮くんと一緒にいたい…」

「…うん」

「潮くんこそ、私で良かった…?」


潮くんはゆっくり私の頭を撫でると、「凪しか考えられない」と甘い言葉をくれた。



────時間が許す限り、私はずっと水槽の中を眺めていた。青いライトが反射する水槽は高さがあり、見上げるような形になっている私はさっきも思ったように、海の底にいるみたいだった。


ずっと見つめていた。
立ちすぎてきっと潮くんの足は疲れているはずなのに、潮くんは何も言わなかった。
ただ水槽の魚たちを見る私のことを見ていた。


「お母さんに、お土産を買わないと…」

「そうだな」


思い出したように言えば、潮くんは頷いた。


「朝、気をつけてねって。お母さんは昔から心配性なところがあって…」

「うん」

「この前も…──。そうだ…私、お母さんを親だと思えなくて家から飛び出したことある…」

「うん」

「帰ったら謝らなくちゃ…。怒ってないかな」

「凪のお母さんはいつも優しいから大丈夫」

「うん、──」



次々と、頭の中に映像が流れていく。
でも私にはその映像が、いつの映像か分からなかった。


例えていうなら、とある映像はパズルのピース。ピースはあるものの、どこにはめればいいか分からないのが、いわゆる期間で。

その期間という、パズルのピースのはめる位置が分からないせいで、ピースが上手く埋められなかった。

けど、お母さんの背格好とかを思い出す限り、最近のことを思い出したのだと理解はできる。
だからこの辺りの期間かな?って、パズルを埋めることが出来て──…。


「…私が迷子になって…。潮くんが警察まで迎えに来てくれて…」


たくさんたくさん、思い出してくる。
よっぽどリラックスしているのか。
それとも、もし忘れても、潮くんならそばに居てくれるという安心感からなのか。


そこからはもう口には出さなかった。
次々に蘇ってくる記憶は、思い出す日記の中に当てはめていくと、ああ…この日のことだってピースが埋まっていく。

今、どれだけのピースが埋まったんだろう。

この記憶たちか1000ピースだとしたら、きっと半分は埋まっていってると思う。




──『好きだ』

埋まっていくピースは、

──『好きだよ凪』

どれもどれも、

── 『凪の全部が好き、それぐらい凪に惚れてる』

潮くんのことばかり。



ポロポロと涙を流していると、不安そうにした潮くんが、「…どうした?」と、私の涙を拭く仕草をする。


不安じゃない。
私の心は悲しい気持ちとか、そんなんじゃなくて。


「いま、いっぱい思い出してて…」

「…うん」

「潮くん、ばかりで、」

「うん」

「潮くんばっかりで──…」

「なぎ、」



──…ああ、思い出した。



──『…好きだよ…』

──『…わたしもすきです』

──『潮くんが大好きです』


────私は潮くんが大好きだった。


だけど。


──『昨日…、先生が言ってたんです、その日の出来事を、忘れたくて自ら忘れようとしたんじゃないかって』

──『昨日、凪が俺に好きって言ってくれたんです。1年3ヶ月ぶりに…』

──『凪はそれを、…忘れたかった、って事…、なんですかね……』



────私は、7回、潮くんを泣かせてる。


もしかすると、もっともっと泣かせているのかもしれない。今思い出すだけの〝7回〟だから、きっともっと泣いている。


──『忘れないって約束したのに…』


潮くんが泣いている1番古い記憶は、きっとこの潮くんがランドセル背負っている記憶なのだと思う。


──『大人になったら結婚しよう、って、さわだ、なんで俺が言ったこと忘れんの……』


潮くんが泣いている。
──潮くんくんの言っている言葉で、何があったか分かった私は、これ以上思い出さないように、水槽の中を見ないように瞳を閉じた。

これはきっと、潮くんが小学生の頃、私に『好き』と言ってくれた、翌日の記憶だ。


でも、思い出してしまった。
自分の言葉を。
潮くんに向かって言ってしまった自分の言葉を。
私はその時、泣いている潮くんに向かって『──誰ですか?』って言ってしまった。


酷い言葉を言ってしまった。
潮くんが、凄く傷つく言葉を言ってしまった…。
告白してくれた潮くんに向かって、〝誰ですか?〟だなんて。
那月くんの言った通りなら、きっとこの後に私に対する虐めが始まったんだろう…。
──自業自得。
潮くんは何も悪くない。


瞳を閉じた私に、潮くんが「…大丈夫か?」と肩を支えてきた。


幸せで、嬉しい記憶が蘇ってくる反面、次々に潮くんに対しての、私が傷つけた記憶も蘇ってくる。


いったい、私は何回、潮くんに対して〝誰?〟って思ったんだろう。毎日が初対面の私は…。
そんなの決まっている。〝7年間〟だ。
〝7年間〟もの間…潮くんは…。


私の〝誰ですか?〟に苦しめられたんだろう。


「…うしおくんは、」

「…ん?」

「わたしといて、ほんとうに幸せだった…?」


何を思い出したのか聞かない潮くんは、支えていた肩を少し引き寄せた。


「…頭の中で、うしおくんがずっと泣いてるの…」


また目の奥が熱くなった。
周りの人からしてみれば、魚を見て泣いている変な女って思われるかもしれない。


「…泣いてる?俺」

「うん…」

「嬉し泣きとか、そんなんじゃなくて?」

「うん、」

「幸せだった、ずっと」

「うそ……」

「嘘じゃない。凪の思い出す記憶は俺が泣いてるところだけ?」


泣いてるところだけ…?
ううん、違う、潮くんが笑っている時もある。
本当に嬉しそうに私に向かって『好きだよ』って。

思い出した記憶の9割以上は、ずっとずっと、潮くんが優しく笑っている光景だ。私を大切にしてくれてる人…。


必死に首を横にふれば、「ほらな、幸せだった」と嬉しいに笑い。我慢できずどこまでも優しい潮くんを抱きしめた私を、潮くんは受け止めてくれた。



「……すき…、うしおくんがだいすき…」


潮くんからの返事はなかった。
それでも腕の力強さに〝俺も〟だと言われているような気がした。



「…〝誰ですか?〟って、言ってごめんね、」


鼻声で言えば、潮くんが「…思い出したのか?」って呟いた。
その声は泣きそうだった。
その声は悲しい泣き声とか、そういうのじゃなくて。


ゆっくりと、頷き。
「──…私も、潮くんと結婚したいです」


そういった刹那、潮くんが私の顔をあげ、潮くんの指先が私の涙を拭いた。
潮くんの告白からの、7年後の返事。


「やっとだわ、」


少しからかい気味に言った潮くんに、私は眉を下げた。


「遅くなってごめんなさい…」

「おそすぎる」


「おこ、ってますか?」

「俺が凪に怒ると思う?」


潮くんは笑っている。ずっとずっと私に優しい潮くん。彼の言うとおり、きっと潮くんは私には怒らないだろうなと思っていると、


「次に藤沢と付き合うとか言ったら怒るけど」


突然、そんなことを言われ、言葉に詰まった。
思わず涙が引っ込む。


「え、……那月くん?」

「それも、いつのまに〝那月〟?」

「潮くんに嫌がらせするために下の名前にしろって言われて…」

「あの野郎…」


笑っている顔から、少し不機嫌そうになった潮くんは、「あいつに何もされなかったか?」と聞いてきた。

あまり不機嫌な潮くんを知らない私は、「部屋に行ったぐらいで…」と不安気味に言うと、潮くんがもっと不機嫌な様子になったから少し困惑した。


「部屋の中で何してた?」

「えっと、あの、本当に何も。いつも那月くんがスマホで動画を見てて…。たまに話をするくらいで…。──…あ、でも、最後の日、那月くんが服の中に手を入れてきて…」

「…」

「あ、あの時は、何をされるか分からなかったので、戸惑ったけど、──…他は、何も」


焦りながら、潮くんがこれ以上不機嫌にならないように正直に言うと、潮くんの不機嫌な顔が怖いつきになり、焦る。


「服に手?」

「え、あ、あの、でも、よく分からなくて、彼もすぐにやめてくれて…」

「──」

「…お、怒ってますか、」

「マジであん時、どれだけ嫉妬したと思ってんの。頭おかしくなりそうだった」

「う、うしおく、」

「もう藤沢と喋んのやめて」

「で、でも、那月くんは潮くんのことを大事に思って…」

「凪」

「は、はい」


さっきまで怒っていたのに、また笑い。
何が何だか分からない私は、戸惑ったまま潮くんを見つめたままで。

軽く私はの頬を撫でた潮くんは、そのまま顔を傾け近づいてきた。
潮くんの切れ長の二重の目が、私を見つめてる。


「結婚すんのは俺だからな」


イタズラ気味に笑った潮くん…。
さっきの私の返事かと思った時には、そのまま唇を塞がれていた。

えっと、あの、那月くんの話はどこに…?

軽くふれあい、頬にキスした潮くんが、愛おしそうに私を抱きしめる…。



「ずっと言いたかった」


言いたかった?
何を?
そう思って潮くんを見上げれば、また塞がれるようなキスをされた。


「──愛してる、」



その言葉を、私はこの先、一生忘れることは無かった。




────水族館を離れ、私がずっと水槽の中を見ていたせいで時間も頃合になり、帰らなければならず。
帰りの電車も、とても速く走る電車らしく、予約席らしくて2人とも座れた。
駅まで向かう最中も、隙あらば私にキスをしてこようとする潮くんを止めるのに必死だった。
「いっぱい人がいる」と頬を赤く染めながら言っても、潮くんは「凪と結婚するから」と、答えになってない答えを返してくる。

それほど、7年前の告白のことを、思い出したのが嬉しかったのかもしれない。
だけど、恥ずかしいものは恥ずかしい…。


「家に帰ったらするから…」


電車の中は指定席だから、あまり人から見られることはないけど。隣に座る潮くんに小声で言えば、「…がまんできないんだけど」と、少し駄々を捏ねた。


「…でも、電車だから」

「家でいっぱいする?」

「…うん、家なら、いっぱい」


部屋の中なら、誰もいないから。

聞いてきたのは潮くんなのに、潮くんは顔を赤くさせた。



手を繋ぎながら、電車は走る。
乗り換え、また速く走る電車に乗った。
その頃にはもう外は日が沈み、外は夜に変わっていた。



「──…凪はどこまで思い出した?」


窓の景色を見つめていると、潮くんが優しく聞いてきて。その声のトーンに、ああ、ついに、始まるんだと思った私は、窓の外を見るのをやめた。


「分からない。たぶん、半分は思い出してると思う。事故の事は思い出してない。でも、なんとなく分かってるから覚悟はできてる」


それに、那月くんが、プールに落とした時の記憶も、今はあるから。その時の言葉ももう、思い出しているから。


──『お前が自分の父親と、キヨウダイを殺したこと』


だから。
なんとなく、そんな気はしてる。


「俺、凪に嘘をついていたことが沢山ある」


私の手を握りながら言った潮くんは、さっきとは違い、冷静に話をしだした。


「気分悪くなったらすぐに言って」

「潮くん…」

「ほんとに、凪にとっては悲しい記憶だから」

「大丈夫…。覚悟はできてるから」

「俺は、ずっとずっと、凪は頭をうって毎日忘れる記憶喪失になったって説明してた。でもあれは本当のことじゃない」


本当の事じゃない。


「頭をうったのは事実だけど──…」


頭をうったのは──


「夏休みの家族旅行で、凪たちは船に乗っていたらしい。凪の家族は4人家族。母親と、父親。それから凪の…姉。凪のお母さんが言うには、凪と、凪の姉は海が好きだったらしい。だからその時の旅行も、凪たちが決めたって言ってた」


姉──…


「船に乗るのも初めてじゃなかったから、凪は1人で海を見てたみたいで…。けど、船酔いか貧血か。それが原因でふらついて、凪が船から落ちた」


おちた…。


「凪が船の手すりに頭をうったらしい。それで落ちたんだと思う。──手すりに凪の血があったし、船に戻った凪の頭からは血が流れてたって言ってたから」


きっと、いつも潮くんが私に説明する時に言っている頭をうって記憶喪失になった、というのは、この事だろうと思った。


「凪は気を失ってて、姉が見つけた時にはもう凪は海の中だったらしい。凪を助けるために、姉も海へ飛び込んだ。姉の叫び声に気づいた父親も、凪を助けるために海に飛び込んだ」


姉と父が海に、私を助けるために。


「幸い、凪はライフジャケットを着ていたからすぐに船に乗せることができたみたいだけど──…、凪が頭から血を流していたから。両親はその手当に必死で。その途中で気づいたらしい。凪の姉が船に乗ってないことを」


もう、言われなくても、分かった。


「まだ船は停まっていたままだったから、急いで父親がもう1回潜ったけど…」


そのまま姉は、見つからなかったんだと。


「──…俺のせいだって、自分を責めた父親はずっと探した、ずっと…。凪が病院に行った間もずっと…。もしかしたら今も探してるのかもしれない」


今も…。
そんなの。
もう──…



「意識を取り戻した凪がそれを知った次の日にはもう、記憶ができなくなってた」


記憶…。


「その夏の終わりに俺と凪が出会った。そこからは多分、凪の思い出している通りだと思う」



潮くんと出会った──…。


「つまり、私は自分の家族を殺したってこと…?」

「違う」

「私が落ちなかったら…」

「凪、そんな考え方は絶対にするな」


厳しく、鋭く、私に向かってそう言ってきた潮くんは、「絶対、そういう考えはするな」ともう一度深く呟いた。


そういう考え…。
私が、2人を殺したと?
──…お母さんはいったい、どういう気持ちで、毎日を過ごしていたんだう。
娘に、娘と夫を殺された、なんて…。


「2人は凪の事が大事だったから、大切だったから守った。今はそれだけを考えればいい」

「…そ、れだけ…」

「凪はもう、充分苦しんだ。毎日毎日不安な日々で、ずっと苦しんでた」


毎日毎日、記憶が無くなる不安な日々。
ずっと苦しんだ日々…?


「もういいんだ、凪は自由になっても」


…自由?


「自分を許していい」


許す…。


「もう、解放してもいい」


解放…。


「凪は幸せになってもいい」


幸せ……。


「1回、凪が俺に好きだって言ってくれた時、凪は一瞬気を失って寝てないのに記憶を失ったことがある。──それも、凪自身が幸せになることを許してないからだと思う」


その時の記憶が分かる私は、潮くんの手を強く握りしめた。


「凪は事故のことを忘れたいと思ってるわけじゃない、自分自身の罪があるから忘れてしまう」

「罪…」

「愛してる、凪…」

「……──っ…」

「7年間、頑張ったな」



──頑張った
──7年間、


「ここにいていい。どこにも行かなくていいんだ。凪のお母さんもそう願ってる」