────翌日、罰の悪い顔をした広瀬くんが家に来た。マンションの表札を見て、私が住んでいる号室を知ったとの事だった。


広瀬くんは「この前の、潮ってやつが那月をボコった理由、言ってなかったから」と、わざわざ言いに来てくれたらしく。


玄関の外で、広瀬くんは教えてくれた。



那月くんが、私の記憶を取り戻すために私をプールに落としたこと。

落として、思い出させるために、1時間以上、ずっと水の中に落としたままだったそうで。
私が「寒い…」と凍えても、那月くんは「まだ思い出してないだろ」と、水から上がらせて貰えなかったとか。

私の意識が落ちそうになった時、ようやく水の外に出ることが許され、私はそのまま気を失ったようだった。
そのまま那月くんだけが帰り、助けに来た潮くんが、多分、プールサイドで気を失った私を見て、〝殺してやる〟と言わんばかりに那月くんの所へ暴力を振るいに来たと思う、と。


それを聞いて、何故私が、熱を出して苦しんだのか理解した時、──私は潮くんに何て酷いことを言ってしまったんだと、後悔した…。



私を優先してくれる、潮くん…。




───『それに、もう俺も関わる気はないよ』

──『ケンカをしたのですか?』

──『あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ』




卒業アルバムを見ていた時言っていた大事なものは、私だったんだ。
那月くんが私に酷いことをしたから。




「那月と付き合うって聞いた…」

「……」

「なんで、そうなったか分からないけど…」

「……」

「あん時のあれは、どう見ても那月が挑発したからで…」

「……」

「あんたは、潮ってやつと、離れるべきじゃないよ」



そう言われても、潮くんに酷いことを言ってしまった今、潮くんのそばに居たいって…私には言うことが出来なかった。




広瀬くんは最後に、そのプールの場所はどこかと聞いた私に、「あんたの元小学校」と教えてくれた。




広瀬くんが帰り、私は〝なぎのへや〟のクローゼットの中を探した。そこには潮くんが言っていたとおり、卒業アルバムがあった。あまり読まれていなかったらしく、埃が被っていた。

ぱんぱん、と、埃をとる。
そして1ページとめくる。
どのページも、潮くんの部屋で見たものと同じだった。
小学校の校舎内。
もしかすると、この小学校に行けば、記憶が戻るかもしれない。
那月くんが私を落としたプールがある、学校へ。


得に何も潮くんに見せてもらった卒業アルバムと変わりがなく、ペラペラと捲っていた時、とあるページを見て私の指の動きは止まった。


最後のページ、きっとみんなが書ける寄せ書きのような、空白のページ。



────『卒業おめでとう 桜木潮』



綺麗、とは言えない字だった。
だけどその文字を見て嬉しくなった私は、潮くんに会いたくてたまらなくなった。


もしかしたら、と思い、中学の卒業アルバムも見た。



──『卒業おめでとう 高校でもよろしく 潮』



空白の、寄せ書きのページにあるのは、どちらも潮くんのメッセージだけだった。




『何してる?』


そう那月くんから電話が来たのは、卒業アルバムを眺めている時だった。横には汚れている日記が挟まれているファイルがあって、読めない文字と睨めっこしていた。


「…聞かなくても、潮くんとは会ってませんよ」


笑いながら言えば、那月くんは『だるい女だな』と、怪訝な声を出した。


「私…、やっぱり思い出すことにします」

『あ?』

「だって、あなたと、潮くんの仲が悪くなったことも、思い出せば分かるでしょう」

『…』

「今の私ではどうすればいいか分からないから…。思い出してから答えをだそうと思うんです」

『一生、思い出さねぇかもしんねぇよ?』

「はい、ですから、小学校に行こうと思います」

『小学校?』

「はい、あなたが私の記憶を取り戻すために、私を落としたプールがある学校に…」

『…誰に聞いた?』

「なので、私はあなたとは付き合えません」

『……』

「私はきっと…、記憶が戻った時も、潮くんを選ぶ気がするから…」



電話を切ったあと、私は小学校へ行く準備を始めた。お母さんに気づかれないようにそっと抜け出した。

マンションのエレベーターに乗り、最近使えるようになったスマホのネット検索で、小学校の位置を検索しようと思っていた矢先、エレベーターを降りたところで、見慣れた金髪が見えた。


私を待っていてくれたのか分からない。けど、それほど怖い顔をしていなかった。


「…道、分かんねぇだろ」


そう言った彼は、まるで着いてこい、とでもいうように、前を歩き出した。

那月くんが何を考えているか分からない。
もしかするとまたプールに落とすのかもしれない。それでも、それで思い出せるならと、私は彼について行った。


夏の暑さが、ジンジンと肌を刺激する。


私が卒業したらしい小学校だけど、校門を見ても、開いていた校門から中に入っても、〝懐かしい〟っていう気持ちは思い浮かんで来なかった。



那月くんが校舎の中に入っていく。
彼の後をおえば、校舎から見える景色に、那月くんは「今日はあそこに落とすのは無理だな」と笑っていた。


那月くんの言葉に窓の外を見れば、夏休みの時期なのに、小学生らしい子がプールに入って遊んでいた。


「校舎の中、勝手に入ってもいいのですか?」

「いいだろ、卒業生だし」


いいのだろうか?分からないけど。
校舎の中を進む那月くんは、「懐かしいな…」と、階段を登っていく。

私にはその〝懐かしい〟が分からない。

目的地は、とある教室の前だったらしい。6年1組と書かれた教室には鍵がかけられていた。だから入ることが出来ず。

那月くんは、近くの廊下の窓を開けた。那月くんが見ているのは運動場らしかった。

運動場を見て、那月くんは「お前が転校してきた日、覚えてる」と呟いた。那月くんは私の方を見ていない。

「その時の担任は、お前が毎日忘れるから、記憶出来ないから、みんなでサポートしていこうって言ってた」

「……」

「そんで、家が近い…俺と潮が、お前を家まで送る事になった。正直、俺は嫌だった。だってめんどくさいだろ。お前をいちいち家まで送るんだぞ?遊びたい日もあるっつーのに」

「……」

「けど、潮は違った。お前をサポートしてた。あいつは昔から優しかったから。置いて帰るかって俺が言った時も、潮はちゃんと送っていってた」

「……」

「それが1ヶ月ぐらい続いた時、潮が…お前に対して怒ってた。理由を聞いても、教えてくんなかったけど…」

「……」

「それから潮がお前を虐めだした、俺は元々お前をよく思ってなかったから、俺もお前を虐めてた。つーか、実際は潮より酷いことをしてたし」

「……」

「今思えば、潮は虐めてたけどちゃんと家までお前を送ってた」

「……」

「そんな日が続いて。ある日、お前の記憶が失うようになった事故の原因が、海で溺れたからって事を知った」

「…海…?」

「ああ、親たちが話してた」

「……」

「それを聞いて、泳げねぇならプールに落としてやろうってなって。俺が突き落とした。──この前、お前に潮が突き落としたって言ったけど、あれは嘘で、俺がプールに突き落としたんだよ」


いつの、話だろうか。
過去の私に話したらしい。


「そしたらお前が泣いて、喚いて、叫んで。頭を抱えて謝りだした。思い出したくない記憶を思い出したみたいに、泣いて──…、それを見た潮がプールに飛び込んでお前を助けてた」

「……」

「そっから潮は、お前を虐める事はなくなった。学校ん中でも、外でも、ずっとお前のそばにいるようになった」

「……」

「俺らは幼稚園から仲良くて、ずっと一緒だった。でも、潮がお前と一緒にいるようになって…、次第にクラスみんなでサポートするのが、潮個人のサポートに変わっていった」

「…潮くんだけ…?」

「みんな、めんどくさいって思ってたからな。毎日毎日、トイレの場所を教える奴もいたんだ、面倒だろ」

「……」

「潮は、転校当初から、お前が好きだったらしい。意味分かんなかったけど」

「……」

「潮が、ずっと一緒にしてた野球を辞めるって言った時は、俺めちゃくちゃ腹が立って。なんでこの女のためにって」

「……」

「お前に友達がいないって理由で、潮がずっとそばにいた。俺の方が付き合い長いのに、なんでって…。俺よりもお前を優先した事にムカついて仕方なかった」

「……」

「やめとけよって言っても、潮はやめなかった。ムカついたけど、それでも、好きなんだっていう、潮の言葉を必死に理解しようとして…。潮が野球をやめたことに、文句は言わなくなった。──けど、言わねぇけど、お前、すぐ忘れるだろ。潮がどれだけお前に尽くしても、お前はすぐに忘れるだろ!」


怒鳴る那月くんは、私の方を見ない。



「…お前は、なんも覚えてない」

「……」

「全く、何も…」

「……」

「仲良く話してんのを見たと思えば、次の日には潮に近づくなって言ってるお前がいる…。お前は潮の気持ちを全く考えてねぇ。潮がどれだけ頑張って努力してるか知らねぇだろ!!」

「……」

「お前からすれば、毎日が他人だもんな」

「……」

「7年間ずっと、サポートしてる潮が怖くて、俺の学校に来るぐらいだもんな?」


那月くんの学校…。


「潮が可哀想で見てられない」

「……」

「だから、お前の記憶が戻るように、もう1回プールに落としてやった」

「……」

「この現状を変えたかった。だからお前の日記も川に捨てた。潮が拾ってたけど、どうせ読めねぇだろ」

「……」

「でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる」


……──え?


「俺に潮を貸してくれ。好きでもねぇんなら潮を解放してくれよ」

「……」

「今回も、簡単に俺の方に来やがって…」

「……」

「潮のどこが怖い?! 言ってみろ!!」

「……」

「親友だった俺を…、お前を傷つけたからって理由で…。潮はお前に対してずっと優しかっただろ!! 怖いところなんかねぇだろ!!」

「……」

「なんでお前が泣く」

「……」

「泣きたいのは潮の方だろ!」

「…っ……」

「全部忘れるお前が、潮を傷つけるんだろ!!」




いつの間にか、私の方に振り向いていた彼が、「なあ」と、呼びかけてくる。


「お前もう、記憶できるんだろ?」


両手で顔をおさえる私は、何も言うことが出来ない…。


「だったら、もう、忘れないでくれよ」

「…っ、」

「他のことはいい、潮のことは絶対に忘れないでくれ」


目の奥が熱い。


「頼むから、」

「……、…」

「お前が今、潮を好きじゃなくても…。潮の事は絶対に忘れないでくれ……」


那月くんは、潮くんを嫌ってなんかいなかった。那月くんは今でも潮くんの事が友達として大好きなんだ。だから…──。

とことん、私は最低で最悪だった。
今までどれだけ彼を傷つけてきたんだろう?
那月くんが言うように、今回那月くんを庇った私をどう思っているんだろう?
私は何度、潮くんを拒絶してきたんだろう?
──覚えてない、っていう言い訳は出来ない。


潮くんを好きかと言われれば、分からないと答える。
だけど一緒にはいたいと思う。彼のことを知りたいって。


「お前にこんなこと言うつもりはなかった」


廊下を歩く那月くんが、ぽつりと呟いた。


「本当は、お前を俺のもんにして。二度と潮のところには返さないつもりだった」

「あなたのもの…?」

「ああ、──けど、潮がお前のことマジで大事にしてんだなぁって思ったら、──やめてた」

「大事?」

「さすがに、7年間ずっと体の関係ねぇって、俺なら考えられない」


体の関係?
体って…、子供ができる行為のことだろうか。
確かそれは性行為っていうものじゃ…。
あまりそういうのに詳しくない私は、どう返事をすればいいか分からなかった。


「潮くんを、大切にします」

「頼むよ」

「…はい」

「次忘れてたら、お前のこと本気で殺しに行くから」


笑いながら言った那月くんは、酷い事をしていた過去はあるものの、実際は友達思いのいい人なんだろう。


お願いだから、忘れないで欲しい…。歩きながらそう頭に叩き込んでいた時、視界の中にとある文字が入ってきた。

突然立ち止まる私に、眉を寄せた那月くんは「どうした?」と、立ち止まる。
私はその扉の、上にある文字に夢中だった。
那月くんも私の視線の方に目を向けた。そして呟く。

「理科室?」と。



なんだろう?
見覚えは、ない。
この教室の扉も見たことがないし、文字も…見たことない。今歩いている廊下だって見覚えが──…。



──『理科室、こっち』


違う、場面じゃない。声だ。
景色に見覚えがあるんじゃなくて、声が──…。潮くんの、声…。


──『理科室、こっち』


そうだ、ランドセルを背負っていた潮くんと同じ声。脳が思い出そうとしているのか、何だか白いモヤがうっすらとかかっている。
理科室、理科室、理科室──…。


頭を書抱えている私を見て、「どうした?頭痛いのか?」と、那月くんが近づいてきて、私の方に手を伸ばしてきた。

細い指。

違う。
私の知っている手は、もっとしっかりとしていて。


しっかりとしているけど、脳に浮かぶのは、私が知っている潮くんの手よりも少し小さい手。
まるで走馬灯のように──、とある映像が脳に思い浮かんだ。


小さな手が私の方に差し出される。
──『理科室、こっち』と、言われながら。
そうだ、私はその時、その手に自分の手を重ねた。


目が、泳ぐ。


「おい?」


思い出した、
思い出した、
思い出した
思い出した…!!


「う、うしおくんが、」

「潮?」

「理科室、こっちって!」

「は?」

「私の手を──!!」


握って…──。


「理科室に連れて行ってくれた…」


そう言いながら、手を繋ぐことを、癖だと言っていた潮くんを思い出した。

癖…?

手を繋ぐ事の癖?

ということは、潮くんの癖は、小学校の頃からってことで──。



涙が出るほど、嬉しかった。
少しでも潮くんを思い出せたことが。
それなのに。

「思い出したのか?」と、不安気味に呟いた那月に、どう反応すればいいか分からなかった。


「はい、少しですけど…」

「どんな?」

「潮くんが、私を理科室に連れて行ってくれたことです」


また、眉を寄せた那月くんに、どうして?という思いが募る。


「もう出よう」

「え?」

「お前はあんまり、思い出さない方がいい」


思い出さない方がいい?
どうして?
私はそのために小学校へ来たのに?
そう言えば、さっき那月くんは言っていた。
──『でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる』と。


「どうしてですか。潮くんの虐めていた頃の事を思い出すから?」

「違う」

「じゃあ、どうして──…」

「──」


口を閉ざした那月くんは、本当に小学校から出るらしく、来た道を戻っていく。
小学校から出て、マンションの方に向かう那月くんの背中を追いかけた。


そうして、しばらくすると、那月くんが私の方に振り向いた。



「さっき、言ったよな。お前が海で溺れた時、──記憶喪失になったって」

「え?」

「事故は事故だけど、海の事故っていうのは、お前には教えてないはずだ。──お前には絶対、思い出させないようにしてきたはずだから」

「……海の、事故…」

「絶対に思い出すな。──思い出すと、お前はまた潮の事を忘れる。そんな気がする」


そんな気?
潮くんを忘れる?


「潮を大切に思うなら、絶対、事故のことは思い出さないでくれ」