今何時だろう、と、目が覚めた。
寝返りをうとうとするけど、その人の体があったため上手く寝返りを打つことが出来なかった。
体、と言っても、潮くんが私の手をずっと握っているからなのだけれど。


潮くんは寝ているらしい。
静かな寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っていた。そんな潮くんを起こすことも出来なくて、そのまま身を任せた。


私が不安に思うことは、ただ一つ。
今日は何年の、何月何日だということ。
だけど多分、こうして潮くんが私と寝ているということは、少なからず私は潮くんのことを覚えているということ。


それに安心して、繋がれた手を握れば、潮くんのことを起こしてしまったらしい。かすかに握り返してきた。そのまま瞼が開き、「…おはよう」と、優しく笑いながら言ってくる潮くんに、私も「おはようございます」と笑っていた。


「ごめんなさい、起こすつもりは…」

「…ううん、凪に起こされて嬉しい」


愛おしそうに、寝起きの手で私の頬を撫でる。


「…あの、今日は…」

「今日は、7月27日」


えっと、昨日が確か26日だったから。そう考えていると、頬に置かれていた手が移動し、私を抱きしめた。


「…潮くん」

「うん」

「わたし、きのうのこと、全部覚えてる」

「うん──」

「7日間のこと、全部、覚えてます」


潮くんの腕の中で笑えば、潮くんも笑ったような気がして。


「潮くんが、大事にしてくれたこと、全部覚えてます」





──7日前、私は潮くんと色々な事を話した。潮くんが私に一目惚れをした事も、告白してくれたことも、それを私が忘れて虐めてしまったことも。
それでも、好きだから、傍にいようと決めたことも。


それを聞いて、二度と忘れたくないと思った私は、潮くんと1晩を過ごそうと思った。
ずっとずっと一緒にいれば、忘れないんじゃないかって思ったから。


こうして一緒に寝るのは、「ホテルで手を繋いで寝たことがある」と潮くんが教えてくれたから。
だからその時のことを思い出すために、潮くんが再現してくれていて。
だけど、過去のことは思い出せない。
それでもこの7日間のことを覚えている私は、とても気持ち的に楽だった。


私は今17歳で、高校生。
世間では夏休みという長時間のお休みらしい。
潮くんはまたウトウトとし始めたから、トイレに行きたい私は手を離した。
そうすれば潮くんはまた起きて、「どこに行く?」と、私と手を繋ごうとしたから。


「トイレに、すぐに戻るね」

「早く戻ってこいよ」


うん、と返事をしてから、私はリビングに向かった。まだ7日間だから、普通に喋るのにはまだ抵抗があって。敬語と、敬語じゃないのと混じってしまう。


ちょうどお母さんと鉢合わせして、「潮くんは?」と聞かれた。


「もう少し寝るみたいで」

「昨日、ずっと起きてたからかしらね」

「そうなんですか?」

「潮くん、凪の寝顔を見れるなんて幸せすぎるって、毎晩言ってるもの。かわいい寝不足ね」


お母さんの言葉に恥ずかしくて、顔が赤くなるのが分かった。
潮くんは毎晩、そんなことを思ってくれているらしい。

この7日間、私を大切にしてくれて。
私の中でも潮くんの第一印象が変わり始めている今、好感度が勢いよく上がっていく。

この人なら大丈夫と、信頼をしているようだった。



部屋に戻り、起きていたらしい潮くんは「おかえり」と、手を伸ばしてきた。
聞いたところによると、この手を繋ごうとするのは、潮くんの癖らしい。


そのまま手を繋ぐと引き寄せられ。


「潮くん、」

「…ん?」

「やっぱり、少し忘れてるみたい」

「え?」

「だって私、毎晩、潮くんに寝顔を見れて幸せなんて言われてないもの」


クスクスと笑えば、潮くんは寝起きだというのに、顔を真っ赤にした。


「もー……」


と、複雑な様子で。


「……言わなくても、幸せなの分かるだろ?」


そう言って、完璧に私を腕の中に引き寄せる。


「凪?」

「なんですか?」

「今日、どこ行きたい?」

「……」

「凪が行きたいところ行こう」

「わたし、」

「うん」

「潮くんの部屋に行ってみたい」

「俺の部屋?」

「うん、写真とかあれば見たいなあと思って」


「写真?」


潮くんは、顔を傾けた。


「はい、何か思い出せるような物はないかと思って」

「んー…、あんまり凪のこと写真に撮ったことないから。ああ、でも、卒アルはある」

「卒アル?」

「卒業アルバム。小学生と中学の時の。凪の部屋にもあると思うけど」

「私の部屋に?あるんですか?」

「でも、俺の部屋に行きたいなら一緒に行こう。俺も凪が部屋に来てくれたら嬉しい」



甘く言ってきた潮くんに恐怖は無かった。
この7日間、潮くんは「外に行きたい」というわがままにも付き合ってくれた。
時々、記憶が思い出せず不安になっていると「そのままでいい。大丈夫」と私を慰めてくれた。

その途中で、私は潮くんと付き合っていることを知った。
それを思い出したくても思い出せない私は、本当に潮くんに申し訳なくて……。

過去になにがあったか私には分からない。
けど、今の潮くんを信じたいと思った。

潮くんが大事にしているように、私も彼を大事にしようと。


「3棟にあるんですよね?」

「うん、知ってる?」

「はい、お母さんから聞きました」

「いつでも来ていいから」

「いいんですか?」

「うん、本当に、凪ならなんでもいいんだ」


潮くんに笑いかけていると、潮くんも幸せそうに笑っているのが視界に入ってきた。

そのまま私の頭を撫でる潮くんは、軽く私を引き寄せた。


「……怖い?」


潮くんのことを?
怖い、この感情は怖いのだろうか?


「分かりません…、でも、もう、潮くんは優しい人だって、わかる」

「うん」

「あの」

「なに?」


顔の、距離が近い。
これ以上引き寄せられれば、キスができてしまう距離。


「私たち、キスしたこと、あるんですか、」


潮くんは、少し頭を撫でる手を止めたけど。
すぐに優しく笑って、「あるよ」と、また愛おしそうに頭を撫でた。

本当に、触るだけで幸せだと、思っているような顔。


「キスをすれば、思い出すでしょうか」

「…凪」

「潮くんは、私とキスしたい?」

「したい」

「なら──」

「でも、まだ凪は俺の事怖がってる。それに〝好き〟って思ってるわけじゃないだろう?」


好き……?


「焦らなくていいんだ、凪のペースで。凪が俺の事を好きだと思って、俺の事を怖くないと思ったら、──その時はさせてほしい」


その時……。


「でも、すれば、思い出すかもしれません……」

「いや、うん、それだったらすげぇ嬉しいんだけど…」

「けど?」

「凪の体を犠牲する思い出させ方は、したくないんだ」


犠牲にする思い出させ方?


「凪のペースで、ゆっくり思い出していこう」

潮くんの部屋は、綺麗だった。
綺麗と言うよりも、物が少なく感じた。
ワークテーブルのような机には、何かをメモ書きするような紙とペンがあるぐらいで。

カーテンなどの家具は、色は紺と黒が多い気がした。
潮くんは、綺麗好きなのかもしれない。
潮くんはクローゼットを開けると、2冊、分厚い本のようなものを私に差し出してくれた。

卒業アルバムと書かれた2冊の本。


「もしかしたら、見て、怖かった俺の事をもっと思い出すかもしれない」


そう言われて、私は首を横に振った。


「今を大事にしますから、きっと、大丈夫ですよ」と。


小学生の卒業アルバムを先に見ると、6年1組に私たちの名前があった。


〝桜木潮〟
〝澤田凪〟


同じさ行だからか、私たちの個人写真は隣同士だった。幼い頃の潮くんは、私の記憶通りの顔で。
だけど、潮くんの顔を見ても何も思い出す事はなくて。


パラ、パラ…とめくり、修学旅行や、運動会などのイベントの写真を見つめた。
そういう行事は知ってる。
運動会は、スポーツを競うようなイベントだと言うことも。

たくさん写真がある中、私と潮くんを探した。
でも上手く見つけられなかった。というかいなかった。


「私たちは、載ってないのですか?」

「うん、凪は修学旅行は参加してない。運動会も…、凪、その日は戸惑ってた日だから参加してなかった」

「戸惑ってた日?」

「うん、何も覚えてないって、ずっと泣いてた」


戸惑って、ずっと泣いてた…。
私が?


「潮くんも、載ってません」

「ああ、そんときはもう凪を受け入れてたから、ずっと一緒にいた」


当たり前のように言った潮くんに、軽く目を見開いた。


「ずっと?」

「うん、だから俺も、参加してない。凪とずっと家で一緒にいたんだよ」


潮くんの言葉に、胸が締め付けられた。


「参加、したくなかったの…?」

「したくなかった、って言ったら嘘になるけど」

「……私のせいで、」

「参加するしないよりも、やっぱり俺の優先順位は凪なんだよ」

「……」

「だから行かなかったことには後悔してない。凪を置いて行った方が俺は後悔してたはずだから」


後悔……。
だって、こういうのは、修学旅行とか、1度きりのイベントじゃ……。
私を本当に、大事にしてくれていたらしい。


「そのページには凪は載ってないけど、次は載ってる。学校の中で撮った写真だから」


言われた通りに捲ってみると、そこには授業中らしい風景の写真が撮られていて。隣の席に座っている潮くんも一緒に映っていた。



中学の卒業アルバムも似たような感じだった。
個人撮影と、学校風景に私が写っていた。そういうイベントに、私も潮くんも参加していなかった。


私は時間が許す限り、卒業アルバムを眺めていた。小学生の頃、潮くんは野球のクラブチームに入っていたらしい。そこのクラブチームの集合写真の中に潮くんはいた。
ちなみに、私はどこのクラブにも所属していなかった。


「…野球をやってたの?」

「…うん、小学生のころだけ」


そう言った潮くんは、少しだけ悲しそうだった。


「やめたんですか?」

「学校のクラブと、少年野球に入ってたけど、やめた」

「それも、私がいたからですか?」

「俺が凪と一緒にいたかったから」

「……」

「後悔してないよ」


そう言って優しく笑う潮くん。


「野球で、潮くんはどんなことをしてたんですか?」

「ピッチャーしてた」

「ピッチャー?」

「ああ、ボールを投げる役割」

「ボールを投げる役割…」

「うん」

「この人は、なんですか?」

「え?」

「この、藤沢、と書かれてる人、いっぱい服みたいなのを着てます」

「それは、キャッチャーの防具」

「キャッチャー?」

「投げる人間がいれば、それを受け取る役割の人間もいるから」



受け取る役割?


「それはペアって事ですか」

「うん、野球の言葉で言うとバッテリーかな」

「仲が良い友達みたいなものですか?」

「うん、──仲は、良かったな」


良かったな?
過去形?


「今は仲良くないんですか?」

「うん」

「もしかして、潮くんが私のせいで野球をやめてしまったから、仲が悪くなったとか…」

「違うよ、俺が藤沢を怒らせた。凪は関係ない」

「……」

「それに、もう俺も関わる気はないよ」

「ケンカをしたのですか?」

「あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ」


潮くんはそう言って笑うと、まるで逃げるように「なんか飲みのも持ってくる」と、部屋から出ていった。


私は中学生の卒業アルバムを見た。
どこを見ても、潮くんは私と映っていた。

潮くんが…、私以外の誰かと映っているのは無かった。


潮くんに、友達はいるのだろうか?
もし、いなかったとしたら。
潮くんは、私のせいで…
友達ができなかったのだろうか?


────その日の午後、私はお母さんと一緒にスーパーへ買い物に来ていた。記憶が続き出してからここに来るのは2回目だった。

覚えてる、私は覚えている、そう何度も思った気がする。

スーパーで食材を買い、私はスーパーからマンションの方を見た。ここは住んでいるマンションから近いらしく、スーパーからマンションは見えていた。


私はお母さんに無理を言って、道を覚えるために家まで歩きたいと言った。お母さんは躊躇っていたけど、「潮くんのことを思い出したいんです…」と、言うと、お母さんは了承してくれた。


マンションに向かって歩いていても、潮くんのことを思い出すことは無かった。
自分の時間を私に費やしている潮くん…。
ひとりの時間で思い出そうとしても、やっぱりダメみたいで。どうすれば思い出せるんだろう?


このまま思い出さなければ、私は潮くんにもっと迷惑をかけるのではないか。
優先順位は私だと言ってくれたけど、これからも潮くんの優先順位は私なんだろうか?
潮くんの未来を、自由を、壊してしまうのではないか。
潮くんは、このままでいいのだろうか?



そんな疑問を持ちながら、もうすぐマンションへつく道路沿いを歩いている時だった。
1台のバイクが私の横を走り去った。
けど、そのバイクはゆっくりとスピードを落とし、止まった。そうして私の方にゆっくりと振り返ると、遠目だからよく見えなかったけど、驚いていたような顔をしてた気がする。


多分、背格好からして、同い年ぐらいの男の子で。その男の子は、車が通ってなかったからか、Uターンするようにバイクを走らせ私に近づいてきた。


暑いのか、軽くヘルメットをとったその人は、茶色い髪をしていた。


「どうしたの、迷子?」


私に向かって、焦ったようにそう言ってくる男の子に、見覚えはなかった。私に向かって「迷子?」と言ってくる彼。

普通、17歳の女の子に、いきなり「迷子?」って聞いてくるだろうか?
多分、それはないと思う。
もしかすると、この人は私のことを知っていて、私は覚えていないだけなのかもしれない。
それから、私が記憶喪失だということを知っている人なのかもしれない。


「……すみません、私の知り合いですか?」

「あ、いや、知り合いというか、知ってるというか。俺の友達の知ってるやつというか…」


友達の知り合い?
よく分からないけど、やっぱり、私のことを知っている人みたいで。


「あ、怪しいもんじゃない!俺も2回、あんたと会ったことあるから!あんたは忘れてると思うけど会ったことある!」


2回、会ったことがあるらしい。
そして私は忘れているらしい。
ということは、7日前、1週間よりも前に会ったということ。



「そうなんですね、覚えていなくてごめんなさい…」

「…迷子じゃねぇの?」


恐る恐る聞いてくる彼に、私は顔を横にふった。


「家は分かるので、迷子ではないですよ」


そう言って笑えば、彼はほっとしたような顔つきになった。


「…そっか、なら良かった」


彼も笑い、「初めて会った時、迷子っぽかったから、今日もそれだと思った」と、私が知らないことを教えてくれた。

茶髪で、怖そうに見える彼は、いい人みたいだった。


「送ろうか?」


記憶が無い時、迷子になったことがある私を心配してくれているらしい。


「大丈夫です、家はもうすぐなので。あなたはどこかへ行く予定だったのでは?」

「俺は那月の家に行くつもりだったから。方向同じなんだよ」

「那月?」

「あ、藤沢那月!ごめん、いきなり知らない奴の名前出されても分かんねぇよな」


藤沢?
今朝見てた卒業アルバムを思い出す。
藤沢──…だったような名字な気がする。
潮くんと仲が良かったらしい人。


「その人は、私と同じ小学校だった人でしょうか?」

「え!知ってんの?!」

「卒業アルバムで見ましたから」

「──あ、ああ、それで。那月自身を覚えてるわけじゃねぇんだな」


驚いた顔から納得したような顔つきになる。この人はいろいろな顔をするんだなぁ…。


「声をかけてくださってありがとうございます。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

「え?」

「また、今度お礼をしたいので、」

「いや、大丈夫。ってか、」

「大丈夫です、私もう記憶を保てるようになったらしいので、覚えることができます」

「え?」

「過去のことは思い出せないのですが…。この一週間の事は覚えているんですよ」



私がそう言うと驚いた顔をしたけど、すぐにふにゃりとした笑顔になった。


「そっか、…俺は広瀬(ひろせ)。よかったなぁ。だから家も分かるんだな」



広瀬くんはバイクのエンジンを切り、私の横を歩いた。記憶が保てると言っても心配らしく。


「本当に大丈夫ですよ」

「俺が心配なの」


柔らかく笑う広瀬くんは「今日はあの男いねぇの?」と、顔を傾けた。

あの男?
あの男と言われて思い浮かべるのは潮くんだった。ずっとずっと、そばにいてくれる潮くん。


「潮くんのことも知っているのですか?」

「うん、すげぇ好きだよね、あんたのこと」


そう言われて、少し照れてしまう自分がいた。


「はい…、いつも大事にしてくれてます」

「あんたが記憶を保つようになって、1番嬉しいのはあいつだろうなぁ」

「はい」

「あいつ、今までめっちゃくちゃ頑張ってきたと思うから、すげぇよなぁ…。マジであんたのためなら何でもする、って感じだし」

「…」

「那月をボコった時も、あんたのためだし」

「え?」

「ん?」

「ボコったって、暴力をしたってことですか?」

「え?知らない?」


知らない?
何を?
潮くんが、那月という人に暴力をしたことを?
考えが正しいのなら、この人の言う男は藤沢那月という、潮くんが昔仲がよかった男なんだと思う。


「小学生…の時の話ですか?」

「いや、最近。1週間…よりも、前か。あ…だから覚えてないのか」

「何を…」

「潮ってやつ、1週間ぐらい前に、那月をボコボコにしたんだよ」


潮くんが…
暴力?
1週間ぐらい前?
それよりも、少し前。


「腕の骨折られてるからバイク乗れねぇし、だから今も迎えに行ってる途中なんだけど」


腕の骨…?


「まあ、あれはあいつが──…」

「潮くん、骨を折るほどの暴力をしたんですか?」

「え?」

「潮くんが、暴力を…」



私の声が、よほど小さかったのか、罰が悪そうな顔をした広瀬くんは、「わるい、」と、顔を下に向けた。


「これはあんたにとっていい話じゃなかったな」


いい話じゃ…。


優しい潮くんが、暴力を…。
藤沢那月という人に暴力をしたなんて。

後ろから押して来た、小学生の頃の潮くんを思い出した。
潮くんは、今でも、暴力をする、人間なのだろうか。

潮くんは私にも、また、暴力をする日が来るのだろうか?


どっちが、本当の潮くんなのだろうか。


「どうして、そんなことになったのですか?」

「それは──…」



広瀬くんが口を開こうとした時、広瀬くんが何かに気づき、喋るのをやめた。
そしてとある方向を見て、「──…那月」とぽつりと呟いた広瀬くん。
私もその方向を見れば、ひとりの、金髪の人がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。


その顔は険しく、目も鋭く、私達を睨んでいる顔つきで。


「広瀬」


声も、低かった。


「時間過ぎてるし、つか、なんでこの女と一緒にいる?」


私を、怪訝な目で一瞥した彼は、怒っているようで。その彼の腕にはギプスがつけられていた。よく見ると彼の顔には治りかけている傷や、痣があった。


彼が、藤沢那月──…。
おそらく、潮くんと、仲が良くて、野球をしてた人。
卒業アルバムでは、黒髪で、もっと幼かった。

彼の睨んでいる目が、広瀬くんに向けられた。


「…迷子かと思ったんだよ」

「ほっとけよ」

「そうはいかねぇだろ…」

「また泣きわめいてたのか?」


私を見て、バカにしたように鼻で笑った男。その人を見て、私は〝苦手〟だと感じた。
金髪で怖い見た目で派手、というよりも、何だか体が〝関わりたくない〟って言っているようで。


「いや、この子、もう記憶できるみたいで。──な?」


広瀬くんに聞かれ、頷けば、ピクリと眉を寄せた藤沢那月という男が「いつから」と低く呟いた。


「お前、そんな拷問みたいな聞き方やめろよ。怖がってるだろ」

「知るかよ、いつからだよ」

「1週間前って言ってたけど」

「へぇ、」


嫌な、笑みを浮かべ私を見下ろす彼は、「俺のおかげじゃん」と、意味の分からない事を口にした。


俺のおかげ?


「昔のことは?」

「覚えてないって…」

「ふうん、だったら教えてやろうか?昔のこと」

「おい、那月」

「お前と一緒にいる潮ってやつのこと」

「那月!」

「あいつがお前を殺そうとしたことも」


藤沢那月という人は、怖いことばかり私に教えてくる。広瀬くんが止めようとしても、藤沢那月は私を見下ろし話すのを止めなかった。


──私が思い出せなかった虐めの内容も、喋っていた。


教科書に落書きは当たり前で、破かれて。
紙を丸めたものを投げつけてきたり。
体に体当たりは当たり前で。
階段から突き落とそうとした時もあったとか。

プールに突き落としたり──…。


それを聞いて泣きそうになっていると、「あいつ、実際はすげぇ性格悪いから、お前離れた方がいいよ」と、笑みを浮かべた。


「そんなこと…、潮くんは、優しいです」

「お前にだけな」


私の前だけ…。
恐る恐るその人を見上げれば、まず初めに腕のギプスが目に入った。──潮くんの暴力。


「──…あなたは、昔、潮くんと仲が良かった人…ですよね…。卒業アルバムで、見ました…面影があります」

「……」

「その怪我は、潮くんが…?」

「なんだ、広瀬に聞いたのか?」


顔を顰めていると、「虐めるな、可哀想だろ…」と広瀬くんが止めに入った。


「だったら教えてやるよ、あいつの本性」

「那月…」

「潮に騙されたくなかったら、俺と一緒にいた方がいい」


潮くんに騙されたくなければ?

この人と…?

潮くんは、悪い人なの?

でも潮くんは本当に優しい。
私は今の潮くんを大事にするって決めたのに。
過去よりも…。


藤沢那月は潮くんの連絡先を知らなかったらしく、私のスマホを使って、潮くんを呼び出した。

「今すぐ来いよ」と、面白そうにしている藤沢那月が電話をしているスマホの方で、怒鳴っている潮くんの声が聞こえた。


「こわ、」と、全く怖いと思っていない藤沢那月は、私に隠れてろよと言った。


「私…潮くんのことを知りたいです、でも、こんなふうには知りたくはありません」

「あっそ」

「藤沢さん…」

「俺はお前のために言ってるのにな?」

「…」

「嫌なら帰れ」


どうすればいいか分からなく、顔を下に向けていると、広瀬くんが「とりあえず何かあれば俺が止めるから」と、私に隠れてるように言ってきた。


すぐ近くだったこともあり、潮くんはすぐに来た。よほど急いで来たのか、肩で息をしていて、汗が流れていた。

はあはあと息をしながら、潮くんは周りを見渡し、すぐに藤沢那月を睨みつけた。


「凪は?」


その低い声は、聞いたことも無いぐらい、怒っている声だった。


「帰った」

「っ、もう凪に関わるなって言っただろ!!!」


隠れている私の耳に、潮くんの怒鳴り声が届き、肩がビクッ、と動いた。


「聞いたぞ?あの女から」

「凪をあの女って呼ぶな」

「記憶、出来るようになったんだって?」

「それがなんだ、お前には関係ねぇだろ!」

「良かったじゃねぇか、昔のことは思い出してないんだろ?」

「…」

「お前が虐めてたこと、思い出さなくて良かったなぁ」

「てめぇ、」


潮くんが、藤沢那月に近づく…。
私は声を出さないように、必死に自分の手の平で、口元をおさえた。


──やめて、と、心の中で思いながら。


「つか、俺のおかげだろ、記憶できるようになったの」

「ふざけるな!!」

「まあ、プールよりも、海に落とした方が思い出したかもしんねぇけど…」

「藤沢!!!」


その刹那、潮くんが、藤沢那月の胸ぐらを掴んだ。相当怒ってるらしい潮くんの顔が、怖く。


「なんだよ、まだ怒ってんのか?殴んのか?この間のだけじゃ足りなかったのかよ。すっげぇ痛かったのに」

「お前が凪にあんな事するからだろ…!!!」

「あんな事?」

「ずっと水ん中に…、放置して帰りやがって!!死んでたらどうするつもりだったんだ!!」

「ああ、でも、お前もあいつのこと殺そうとしたじゃん?同じだろ」

「あ?」

「赤信号は渡るもんだって、お前、教えてたじゃん」



私は途中から耳を塞いでいた。
信じようとしていた潮くんが、壊れていくような感覚。
それでも私は優しい潮くんを知っているから。
私のことを大切に思ってくれていることを知っているから。


崩壊を必死に止めようとした。
「凪」って、私の名前を愛おしく呼び、愛おしく頭を撫でる潮くんを必死に思い出していた。


それでも、藤沢那月が何かを言ったのか、腕を振りかざす潮くんが視界の中に入ってきて、──…崩壊が止められなかった。


涙を浮かばせながら思い出したのは、血を流している私を見下ろし笑っている小さい頃の潮くん。



信じたい、信じたい。
潮くんを信じたい。

でも。



「やめて、」と、止めに入った私の体は、藤沢那月を庇っていた。私がいた事に驚いている潮くんは、目を見開き、「なぎ…」と、戸惑いがちに呟いた。


涙を流しながら私は潮くんを見つめてた。
潮くんの目は泳ぎ、困惑気味になっていて。
藤沢那月は、こうなることが分かっていたように笑っていた。


「なぎ、」

「やめてください…」

「……っ、」

「どんな事があっても、…暴力はだめです、」

「凪…、そいつは、」

「暴力は、痛いものだと、分かります…。だからやめてください……」


潮くんが私に腕をのばし、触ろうとする。
きっと、30分前の私なら、潮くんを受け入れていた。30分前の、私なら──。


潮くんを信じていた。




「暴力は、絶対にだめです……」