随分の体が楽になった。
昨日の熱のツラさがなんだったのか、と思うほど、足や脳が軽い。
それでも少し万全とはいかなくて、起きた瞬間──ケホッ、と咳が出た。
それでも喉は痛くなく。


トイレへ行けば、ちょうどお母さんが、洗面所のところで洗濯機から服を取り出していた。
すぐに私に気づいたお母さんは、私のことを観察しているようで。


「おはようございます……」


静かに言えば、お母さんは優しく笑った。


「おはよう、昨日のこと、覚えてる?」


昨日。
覚えてる。
だって私は昨日、熱で苦しんだ。
お母さんから、寝れば忘れると言われた事を思い出す。だけど私は忘れていない。こうして覚えてる。


「──…はい、覚えてます」


だけど、まだ、会って2日目の人だから。
戸惑いがちに言えば、少し、お母さんは顔を傾けた。


「どうしたの、昨日みたいに敬語じゃなくていいのよ」


昨日?
敬語?

…昨日?
昨日は、
私、どんな言葉遣いをしてたっけ…?
昨日は熱で苦しんでいたから、あんまり覚えていなくて。というよりも、お母さんと喋ったのはうどんを食べたあとの少しぐらいで。


「はい……、ちょっとトイレに行きます」

「うん、行ってらっしゃい」


だけどあまり深く考えなくて。
トイレを済ませ、洗面所で身なりを軽く整えてから、お母さんの家事を手伝おうと思った。
その洗面台の鏡を見て、何だか違和感がしたけど、あまり気にならなかった。


もうリビングに行ったらしいお母さんのところに向かおうとした時、「おはよう」と男の人の声がして。


はっとして、リビングから出てきた彼の方を見れば、驚きのあまり喉が軽く詰まった。ゴホゴホと、背中を丸め、咳が出て。
手のひらで自分の口元を抑えた時、彼が「大丈夫かっ」と、私に近づいてきて。


昨日の事があったのに、何を思ったのか、〝近づかない〟と言った男が私の背中に手を当て、撫でようとして。


「大丈夫か?」

「ごほっ、」

「ごめんな、驚かせたな」

「ッ──」

「凪、」


なんで、なんで、なんで。
なんで、潮って人が、家にいるの。

昨日あれだけ怖いって言ったのに。
お母さんにも肯定の返事をしなかったのに。
彼にも〝会いに来ていいか?〟っていう返事をしなかったのに。



ようやく咳が落ち着いても、彼が怖くて自然と涙が出てきて。「……──やめてください……」と涙を浮かばせながら彼の方を見れば、彼は一瞬、戸惑ったような顔をした。



「……凪?」

「さわらないで…」

「……」

「来ていい、って、言ってないのに……」



彼の手が、固まる。
口元に手を抑えながら泣き続けていると、今度はお母さんが、戸惑いがちに近づいてきて。


「凪……、あなたやっぱり、」


やっぱり?
やっぱりなんなの……。


「昨日のこと、覚えてないのね」


お母さんの言っている意味が、分からなかった。
昨日のことは、覚えてるのに。
私は昨日、熱を出してた。


「潮くんと一緒に、病院へ行ったこと、覚えてない?」


何を言ってるんだろう?
だって、私は、昨日はずっと熱を出してて。
病院になんて行っていない。
ましてや、潮……って人と、行くはずがない。


「…覚えてないのか?」


彼に顔をのぞき込まれたけど、彼の存在が怖い私は手のひらを抑えるのを、口元から目を変えた。


「昨日のこと……」


彼の声は少し震えてた。


「俺の事、分かるんだよな…?」

「……っ、」

「ごめんな、怖かったな…。ごめん…」

「……っ……、近づかないって……」

「うん」

「言ってたのに……」

「ごめん、」

「あなたが……」

「ごめん……泣かないでくれ……」

「っ……」

「約束、破ってごめん──」





彼が何度も何度も謝ってくる。
悪いのは彼の方なのに、まるで私が悪いみたいにずっとずっと謝ってきた。


「ごめん」
「悪かった」
「ごめん」
「約束破ってごめん」

と、ずっとずっと。


「怖がらないでくれ……」


怖がることをしたのは、彼なのに……。
やっと目元から手を離して彼を見た時、どうしてか彼も泣きそうな顔をしていた。






──お母さんが、アイスミルクティーを入れてくれた。それをリビングのソファに座り、飲んで落ち着いていると、どうしてか横に座っているのは潮って人だった。

まだ、私の瞳は涙で赤かった。

そんな私に、彼は「悪かった…」と、私の目を見つめながら言ってくる。お母さんは、キッチンにいて私たちを見守っているようだった。


「言い訳になるかもしれないけど、……昨日のことを忘れてるとは思わなかったんだ…」


昨日のこと……。
〝昨日〟。


「凪が覚えてるのは、熱を出して寝込んだ日だと思う」


覚えているのは──。


「俺を怖がった日、あれは一昨日の話で」


一昨日……──。
2日前?


「昨日、凪に会いにきた。それで──凪が、部屋から出てきてくれた。今みたいにこうやって話をしたんだ」


そんなの、知らない。
昨日だなんて、そんな──。
私は彼から目を逸らし、自分の足元を見た。
黒い短パンに白いTシャツが視界の中に入ってきて。
ああ、洗面台の鏡を見た時の違和感が、今更ながらに分かった。私はこんな服、着た記憶が無いことを。

だとすれば、本当に、私は昨日のことを忘れて…。


「それで、凪の咳が酷くて。記憶のことに関しても病院に行った方がいいと思ったから、俺と一緒に行ったんだ」


そんなの……。


「帰り道のタクシーの中で、いろいろ喋った。そのとき、明日も会いに来ていいかって聞いて、凪が頷いてくれた」


知らない……。


「今日、これを渡しに来た。昨日凪が見たいって……言ってたから」


そう言って、差し出されたのは、何かのファイルだった。よく分からない色をしていた。よく分からないって思ったのは、多分、元々白いファイルだったのか、そのファイルは所々灰色に汚れていたから。


「……なんですか、これ……」

「凪の日記」


日記?


「……わたしの?」


怪訝な声を出していたと思う。
だって、日記と言われても。
凄く汚れてる。


「うん、一応拭いて……けど、土でドロドロになってて、……ごめん」


申し訳なさそうに謝ってくるけど、私にはいったいこれが何なのかも分からない。


「……意味が分からないです……」

「うん」

「私の日記……なのですか?」

「そう」

「これが?」

「……うん。守れなかった、ごめん…」


守れなかったとは……。
そのファイルを恐る恐る受け取れば、やっぱり汚れていて。中に挟まれている紙も…。
1度、水に濡れたようなパサつき感。
1枚とそれを見るけど、濡れたせいか滲んで読めそうにもなく。


「凪はそのファイルに、毎日、その日の出来事を書いてた」

「……」

「けど、1回、失くしたことがあって…」

「……」

「見つけたは、いいんだけど、あいつが、」


あいつ?


「……いや……、見つけた時には川にあって、1枚1枚、流れされそうになって、できるだけ全部集めようとしたんだけど…。結構量が多かったから……もしかしたら流されたのもあるかもしれない」


川……
流された……。
このファイルの中身が?


「どうして……、誰がそんなことを……」

「……」

「……失くしたって……」

「……見つけたのは、3日前。その日は凪と夜に会う約束をしてた。けど、ずっと川で探して、紙を家で乾かして……、夜、行くのが遅くなった。……ごめん……」



謝られても、私はその約束を覚えてないから。



「日付見て、合わせたんだけど、ところどころ読まねぇし、何枚か流されたと思う。──本当に、ごめん」



なんて言えばいいか分からない。
そもそも、どうしてこのファイルが、川なんかに落ちてしまったのか。
見覚えのないファイルが私のだと言われても、はいそうですか、なんて言えない。
この人が嘘をついているのかもしれない。

でも、キッチンにいるお母さんは何も言わない。


「……読んでもいいですか?」

「うん、これは凪のだから」


わたしの……。



〝あなた────です
これは──────────です
あなたは────────しまい
今日──────必ず忘れてしまいます
──────────
─────────
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
────────
────〟


ほぼ文字が滲んでいて、読まなかった。
かろうじて読めるのも、少なく。
どんな内容が全く分からない。
次をめくっても、めくっても。

全部が水で濡れたようだった。
これ全部、彼は乾かしてくれたのだろうか?



日記の中に、〝ウシオくん〟や〝潮くん〟という文字を見つけた。でも、文字だけで、彼が何をしている人なのか書かれていない。
書かれているかもしれないけど、何を書いているか分からない。


途中で読むのをやめて、私は彼を見た。


「あの……」

「うん?」

「これ、これが、私のなら……、ありがとうございます……見つけてくれて……」

「うん」

「でも、正直なところ、まだ……」


なんて言えばいいか分からず、口を閉ざした。


「怖い?」


そう聞いてくる彼に、小さく頷いた。


「……あなたと、……いま、どんな関係か分かりません…」

「うん」

「でも、…私が知ってるのは、あなたが私に酷いことをしたっていうことだけで……」

「…うん」

「……信用できません」

「うん」

「ごめんなさい……」

「ううん、教えてくれてありがとう」


拒絶している私に、ありがとうだなんて。
どういう気持ちで言ってるんだろう。
優しく、笑顔を向けてくる彼の反応に困ってしまう。


この古い記憶から、彼は本当に変わったのだろうか。


「あの……」

「なに?」

「あなたを、知る、っていうわけじゃ、ありませんが、」

「うん」

「これを拾ったという川に行ってみたいです」

「え?」

「……だめですか、」


少し、上目遣い気味に、潮……くん、を見つめた。


彼は一瞬、瞬きをしたけど、「凪がそう望むなら」とまた優しく笑った。

「けど、咳がまだ出てるから、凪が少しでも苦しいと思ったら帰るね」


と、その言葉を付け加えた。
私に怪我をさせて、記憶の中の潮くんは足から血が出ても笑っていたのに、私の体を心配するなんて何だか変な感じがした。

お母さんが一緒に来ると思った。それでもお母さんは笑いながら潮くんなら安心できるからと言い、一緒に来ることはなく。

潮くんと一緒に外へ出たのものの、一緒に並んで向かうのも怖く。かといって私が前を歩いても、また後ろから押されるのでは?と思えば、前を歩くこともできなくて。


「……前を歩いてください」


そう言った私に、潮くんは笑って「分かった」と言った。
3歩ほど潮くんが前を歩く。
咳が出そうになるけど、それほどツラくなかった。それよりも暑いという気持ちの方が勝っていた。


ちらちらと、私が後ろにいることを確認する彼。潮くんは何度も「しんどくないか?」と聞いてきた。優しい彼は、やっぱり変な気がして。複雑な感情が芽生えてくる。


川はそれほど遠くはなかったみたいで、下半身ほどの白いフェンスの向こうに、流れてる川を見つけた。


その川は3mほど下にあった。
土と草がはえている急斜面の下に、流れていた。


「…ここですか?」

「うん、ここから投げられ……、捨てられた」


言葉を言い換えた潮くん。
きっと〝投げられた〟と言いたかったのかもしれない。いったい、誰に投げられたのか。


「あなたはここからおりたのですか?」

「うん」

「ここから?」

「ああ、飛び降りた」


思い出すようにくすくすと笑った潮くんは、「必死だったから…」と、白いフェンスに手を置いた。


「必死?」

「うん」

「…拾うのに?」

「うん」

「……」

「あれは凪のだから。凪の大事なものは俺の大事なものでもあるから」


私の大事なもの……。
あれは、あの日記は、私の大事なものだったのか。それもそうかもしれない。記憶が無い今、手がかりになるのはあの日記だけ。

過去の私の事が分かったかもしれないのに……。


「…拾ってくれてありがとうございます」

「敬語いらないよ」

「…でも」

「今の凪は、戸惑うかもしれないけど」

「……?」

「凪は俺のかけがえのない存在だから」


かけがえのない存在……。


「俺に何でもわがまま言っていいからな」


わがまま……。


「あなたは、私のことを虐めてましたよね…」

「うん」

「それなのに、どうして、こんな関係になったのですか?」

「それは……」


潮くんが私に体を向き直し、口を開こうとした時だった。潮くんが驚いたように目を見開き、「なぎ、」と、私の方に手を伸ばしてきた。

思わず、肩がビク、っと反応すると、潮くんは「ここにいて欲しい、絶対、動かないで」と焦ったように声を荒くした。


なに?と、思っていると、何をしてるのか潮くんはもう一度白いフェンスに手をかけると、軽々と足をフェンスの向こうへ……。

フェンスの向こうに飛んだ潮くんは、そのまま崖を落ちるように、飛び降りた。
え?!と驚いて下に目を向ければ、川の中に膝まで足を入れて、向こう岸に渡ろうとする彼が見え。


何をしてるの?
フェンスに手をやり、そのまま潮くんを見ていると、向こう岸にある雑草の間をかき分けていた。

そのまま、何かの、ゴミらしいものを手に取った彼は、それを手に掴み見ていた。

それを大事そうに見つめた彼は、向こう岸から急斜面を登り、近くにあった橋でこっち側に戻ってきた。走って戻ってくる潮くんは、足元がずぶ濡れで。

もちろん、ズボンも靴も濡れていた。


「これ……切れ端だけど、草に引っかかって濡れてなかった……、探す時見落としてたみたいで……」


そう言って渡されたのは、濡れていない紙だった。ただ半分に破れていて、風で飛んできた土などで汚れているだけだった。



〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


紙は、『を』からの続きは破れてなかった…。





「途中で、離れてごめん……」


謝ってくる潮くんに、胸が苦しくなった。

あんな飛び降り方。
日記の切れ端を、見つけたからって。
下手をすれば体のどこかが骨折するかもしれないほどの、高さなのに。


私のために……。
どうしてか泣きそうになって、潮くんを見つめれば、右腕が赤くなっているのに気づき。


「っ、けが、」

「え?」

「うで、血が、」


じわじわと、湿潤するように流れていく。沢山流れているわけではないけど、範囲が広い。

血が出ているその腕に手を伸ばした。


「ああ、たぶんおりた時にスったんだと…」

「ご、ごめんなさ」

「え?」

「わ、わたしのせいで、怪我を……」


泣きそうになれば、潮くんは慌てて「凪のせいじゃないから」と腕を隠そうとした。


「見せてください……」

「大丈夫」

「見せてくださいっ…」


私は、紙をポケットの中に入れ、潮くんの手のひらを掴んだ。たった今川に入ったせいか、手が汚れていた。
だけどもそんなのは気にならず、怪我の部分を見た私は、「……痛かったですよね、」と、眉を下げた。


「なぎ……」


広い範囲の怪我。
もし、今以上に酷ければ……。


「私のために、危険なことはしないでください…」


そう言って泣きそうになれば、どうしてか潮くんの方が泣きそうになっていて。
もしかしたら、痛みで、泣きそうになっているのかもしれない。
そう思って、「帰りましょう」と、言おうとした時だった。


まるで、力が抜けたように、潮くんが膝をおりしゃがみ込んだのは。


手を持っていた私も、そのまましゃがみ込む形になり、顔を下に向け顔を見えなくした潮くんは、「なんで、」と、辛そうな声を出した。


足元が濡れてる潮くんの地面が、濡れる。
どうしてしゃがみ込んだのか分からない私は、「………うしおくん?」と名前を呼んだ。

名前を呼んだ時、繋がっていた潮くんの手のひらに、力が入ったような気がして。


「…俺の事、怖いだろう?」

「…え?」

「なんで、凪は、いつも優しいんだ……」

「あ、の」


潮くんの顔が見えない。
でも、声が、すごく悲しそうで。
泣いてるのではないか、と、思うほどで。


「好きだ……」


心のこもった深い言葉に、声が出なかった。
突然の告白に、私も無意識に手を握り返していたらしい。


「好きなんだ……」

「……、あ、の……」

「好きすぎて、気が狂いそうだ……」

「………」

「なんで──……」


なんで、
なにが……。


「……忘れないでくれよ……──」


そう言った潮くんは泣いていた。
私の目を見つめ、とても辛そうに。
言葉が出ない私は、戸惑い、ただ潮くんと目を合わせることしかできない。


「……忘れないでくれ」


噛み締める潮くんは、私の手を引き、顔を傾けた。その動作に、戸惑っている私は拒絶することができなかった。


口元を狙われているその引き寄せ方に、私はキスをされると思った。けど、その寸前で、彼の動きは止まった。


必死に理性が働いているかのような、その止め方。私が何もできないでいると、眉を顰めた潮くんは顔を逸らし、そのまま私の肩に額部分を預けてきた。


この人が怖いのに拒絶できなかった。
拒絶すると、この人が壊れてしまうような気がして。


「わるい、……」

「……」

「今の、聞かなかったことにしてほしい…」


〝忘れてくれ〟とは、言わない男。


「わたしは、ずっとあなたに大事にされていたんですか?」


私が言葉を出すと、彼は顔をあげた。
そのまま私と視線を重ねると、「…俺は、」と、ゆっくり離れていく。


「凪を、大事にできているか分からない」

「…」

「信用されてないってことは、それだけ未熟だってことだから」


私の手を強く握る。


「もっともっと、凪を支えていくから、凪はずっと俺の傍にいてくれ……」


手は繋がれたままだった。
マンションまで私を送ってくれた潮くんは、「これじゃ上がれないから、俺もいったん帰るな」と、名残惜しそうに手を離した。

私のせいで、ずぶ濡れになった足元。

腕のことを心配すると、腕の怪我も流した方がいいから風呂入ってくると、躊躇っている私を説得した。


部屋に戻ればお母さんがいて、「どうだった?潮くんは?」と質問をしてきた。


どうと言われても。
潮くんが川に……と、言うことしかできなく。


「彼は、……1度家に帰ると……」

「そうなの」


優しく笑ったお母さんは、疲れたと思うからゆっくりしなさいと私に休むように言ってきた。

私はリビングに置いたままの汚れたファイルを取り、〝なぎのへや〟に戻った。
読める部分をひたすら読んだ。
読めば読むほど、潮くんの名前が出てきた。
でもどんな内容か分からない。

かろうじて分かる部分を、分かりやすくするためにボールペンでなぞってみた。


知らなくちゃいけない、彼のことを。

泣いていた潮くんを思い出す。


『──……忘れないでくれよ……──』


思い出さなくちゃいけない、彼のことを。



私はポケットから、さっき潮くんが拾ってくれた紙を広げた。


〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


私はどうやら、何度も潮くんを泣かせているらしかった。


お昼すぎ、お母さんに「お昼ご飯食べましょう」と呼ばれた。そのとき、お母さんに今日の日にちを聞いた。今日は7月21日と言っていた。


食べている最中も、気になるのは潮くんの事だった。腕の怪我はどうなったのだろうか。潮くんは手当をしたのかな。

潮くんの家はどこなんだろう。
日記を見れば分かるだろうか?
でも、読める部分には、潮くんの住んでいるところなんて書いていなかった。


「あの……潮くんはどこに住んでいるのですか?」


お母さんは知っているだろうか?
潮くんとは知り合いみたいだから。


「3棟よ」

「さんとう?」

「ここが、マンションの2棟で、潮くんは3棟に住んでるの。ここから5分もないかな」


じゃあ、家は近いってことで…。


「潮くんが気になるの?」


そう言ったお母さんは、嬉しそうだった。


「はい…」

「そう、だったら、電話してみれば?」

「電話?」

「凪の部屋にスマホがあったでしょ?そこに潮くんの名前が登録されているはずだから」




────潮くんの名前は、確かにあった。スマホなんて使ったことがないのに、使い方が自然に分かってしまう。それを不思議に思いながら、アドレス帳にある〝さくらぎうしお〟という名前をずっと眺めていた。


ちなみに、アドレス帳には、
〝おかあさん〟
〝さくらぎうしお〟
〝けいさつ〟
〝きゅうきゅうしゃ〟
の4つしか登録されていなかった。


潮くんに電話をかけてみた。3コールほど音が鳴ってから、電話は繋がった。


『どうした?』


そんな優しい声のトーンとともに。
蘇るのは、小さい頃の酷い記憶。
見下しながら笑っていた小学生の頃の潮くん。


「……腕の、調子はどうですか?」


私は朝、この人に対して、凄く凄く泣いたのに。


『…ああ、大丈夫。もう全く痛くない』


穏やかな声のせいか、私も喋りやすく。


「手当はしましたか…」

『うん』

「私のせいで、ごめんなさい…」

『俺が勝手におりたのに』


クスクスと、笑った潮くんは『凪から電話くれたの、めちゃくちゃ嬉しい』と本当に幸せそうに呟いた。


「潮くん、」

『うん?』

「わたし、思い出します、ぜったい。今日の事も……、絶対に覚えます……」

『……』

「だからもう、泣かないでください」


電話越しだから潮くんがどんな顔をしているか分からない、けど、悲しんでなければいいなと思う。


『……なぎ』

「はい…」

『今から、会いに行っていい?』


一昨日の私は、何も返事をしなかった。
けど、昨日は肯定の返事をした。
今日は──……。


「あの、」

『いやならいい、電話だけで十分だから』

「ずっと一緒にいてくれますか?」

『………ずっと?』

「私が、思い出すまで、ずっと傍にいてくれませんか?」