酷く、頭が重かった。
重いというよりも、ズキズキというか、動けば脳が揺れる感覚がしてとても気持ち悪くて。
息を出せば、やけに喉が熱く。吐息も熱かった。

簡単言えば、ツラい……。
体を動かせない。
体を動かそうとすれば、関節や皮膚が痛くて、起き上がるのもしんどくて。


それでも、ここはどこだろう?っていう気持ちが強かった。見慣れない天井。頭が上手く働いていないせいか、自分がどこにいるかも分からなかった。

布団にいることは分かる、でも、それだけしか分からない。
頑張って全身が痛む体を起こしても、ここがどこかの部屋っていうだけで、やっぱりここがどこか分からない……。


「あたま、いた……」


ぽつりと呟いた私の声は、やけに枯れていた。
体が熱い。
そのせいか、体の震えが止まらなかった。
だとしたら寒いのか。
でも熱い。
しんどい。
ツラい。
寒い。


そう思って、また枕へ頭を戻せば、少し呼吸がラクになったような気がした。
でも、ラクになった気がしただけで、ツラさは変わらない。


風邪……?
分からない。
とにかくツラい。



しばらく体を震わせながら布団を体に巻き付けていると、──コンコン、と、その部屋の扉のノックの音がした。瞼を開けるのも、ツラい。


「凪? 入るね。起きてる?」


扉の開く音が聞こえた。
私の元に誰かが近づいてくる。


「凪?」


誰かが私を見下ろしている。
目がぼやけて、よく見えない。
誰だろう、この人。
女の人っていうのは分かる。
そもそも、凪って、誰だろう?
そう思っていると、「凪?」と、声のトーンが変わったその人が私の頬にふれた。


「……熱?凪、しんどい?」


誰か分からないけど、優しく、焦ってはいるけど心地いいトーンで聞かれるから、私は小さく頷いた。


「ちょっと待ってね、体温計持ってくるから…」


看護師か、誰かだろうか。
分からない。
いったん、離れた女の人は体温計と──、お茶が入っているらしいグラスのコップを持ってきた。


体を起こし私にお茶を飲ませてくれたその人は、もう1度私を寝かせると、「服めくるわね」とワキに体温計を差し込んだ。
何十秒かして、音がなり、髪の短い女の人がワキから取り出しそれを見ると、顔を顰めていた。


「38度、……薬持ってくるわ、何か食べましょう」

「あ、の……」

「なに?」

「……だれ……です、か」


私の質問に、その人は優しく笑うと、私の頭を撫でた。


「私はあなたのお母さん。あなたは記憶喪失で昔のことを覚えてないの。ここは安全な場所だから怖がることは無いからね」



そう言われ、あんまり理解できなかったけど、悪い人ではなさそうだから。私はもう一度身を任せるように瞼を閉じた。


お母さんと名乗るその人は、誰かと電話をしているようだった。
「もしもし?潮くん?」と、そんな言葉が聞こえたから。


「凪が熱を出して──、昨日の──、」


何話してるんだろう?
分からない。


だけど「もうすぐ潮くんっていう男の子が来るけど、その子も凪の味方だからね」と、お母さんらしい人が私に言ってきた。


うしお……?
うしお、


どこかで、聞いたことがあるような気がして……。

どこだろう?
分かんない。
どこで、名前を聞いたんだろう?
だけど遠い昔に聞いたような気がする。
思い出せない。
でも、分かる。
なんとなく覚えてる。
頭が痛い。
ズキズキする。
もう何も考えたくない。
寒いからもう1枚布団が欲しい。
さっきの女の人、どこに行ったんだろう?
そういえばお母さんって言ってたっけ……。
だれの?
わたしの?
…………わたしって……。


働かない頭でぼんやりと考えていると、慌ただしく、扉の開く音が聞こえた。
さっきの、お母さん……?、かな、と思った。
瞼を閉じていたから誰か分からない。

その人が傍まで歩いてくるのが振動で分かった。


「……凪?」


だけど、その声は男の人だった。
低い声。
不安と、心配と、戸惑いに満ちた声。

冷たい手が私の頬におりてきた。
その手が冷たいと思ったのは私の体が熱いからなのか、それとも彼の手が元々冷たいのか。


「…凪、…大丈夫か? 」


愛おしそうに撫でるその手に、私は瞼を開いた。視界がぼやける……。……誰……。


「震えてる、寒いのか?」


誰でもいい、布団を持ってきてほしい。あっためて欲しい。男の人は立ち上がると、少し離れた。扉……、ガラガラといったから、クローゼットを開く音かもしれない。


毛布、のようなものが、布団の上からかけられた。重いけど、温かい。


「ごめんな……寒くないか?」


謝ってる人が、また頬を撫でてくる。
瞼を開けていた私は、ぼんやりとしていた視界がやっとクリアになってきて。
その人を見ることができた。


黒髪で、切れ長の、二重の瞳。
高い鼻、薄い唇……。
肌の色は、白く。


「凪?」


その人と目が合う。
あれ……
知ってる?
私はこの人を、知っているような……。
どこかで見た事のあるような気がする。
どこだっけ……。
分からない。
でも、覚えてる。

昔、昔に。

昔──……。

もっと、小柄だったような……?


頭の中で、黒色のランドセルが思い浮かんだ。
ランドセル……。
小学生……?
でも、目の前にいる人はどう見ても小学生には見えない。


いつの時……。
昔。
この人が、ランドセルを背負っている時。
こんなにも大人じゃなかった。


────『おもんね、今日は言い返して来ねぇのな』


ランドセルを背負ったこの人は、私を見下していた。
私はその時、しゃがんでて、膝が痛くて。
そうだ、私は、この人に突き飛ばされたことがある──……。それで、転んだ。酷い言葉を言われたような気がする。


「凪?どうした?」


目が泳ぎ、寒さとは違い震え出す私を見て、焦ったような声を出す男は、「凪?」と逃げようとする私を支えようとした。

それが嫌で振り払おうとしても、熱があるせいで上手くいかない。
だから──……


「い、いやっ、いや!」


痛い喉で、叫んだ。


「凪? どうした? びっくりしたのか?」

「やめてっ……」

「悪かった、知らない男がいたらびっくりしたな、大丈夫だから」

「大丈夫……、じゃないっ……」

「落ち着いてくれ、出ていくから。今すぐ出ていく、だから横に──……」

「また私に怪我をさせるつもりなのっ……?」


苦しさのせいか、目の奥が熱くなって、ポロポロと涙が溢れてくるのが分かった。


「─え……?」


目を見開き、驚いた声を出した男の人は、息を飲んだような気がして。


「〝また〟……?」

「こわい、こわいっ……」

「凪、今、〝また〟って言ったのか?」

「……やだぁ……」

「凪、」

「っ、──お母さん!お母さん!助けてお母さん!!」


彼の顔が、一瞬にして強ばるのが分かった。


「凪? 俺が分かるのか?」


彼から逃げようと完全に体を起こしている私の目からは涙が止まらなかった。
ツラいからなのか、目の前にいる人が怖いからなのか分からない。


だけど無我夢中で、さっきの女の人を呼んだ。
最後の方は、とても弱々しかった。


「どうしたの?!」


慌てた様子で、女の人が来た。
さっきとは違い、何かを作っていたのか、エプロンをつけている人……。


「このひと、このひとが……」


お母さんらしい人は、私が泣いていることに、目を見開いた。


「潮くん?潮くんがどうしたの?」

「わたしを、おした……、足にケガした……!」

「え?」


困惑する表情をした女性。


「…怪我してないわ、どうしたの?」


今はしてない、
昔、
昔に。
この人が小学生の時に──……!!


私はもう1度、思い出したことを言う。



「っ、何も、言い返して来ないって……」

「え?」

「明日になれば忘れるって、酷いこと言った…」

「……なぎ?」

「誰かが、バカって言ってたぁ……」



ボロボロと涙が溢れ、それは止まらなくて。
「こわいよ、こわいよ……」と言い続けていれば、私に酷いことを言った男の人がいなくなっていた。


「大丈夫よ、大丈夫……」


お母さんが抱きしめていた。
頭が痛く、泣き止んだ頃には熱が上がっていたしく、吐き気が私をおそった。


トイレの中で胃液を出し続けていた私が落ち着いたのは、しばらく経ってからだった。


潮くん──と呼ばれていた男の人は私の前に現れることはなく。お粥を無理矢理1口食べ、薬が効き始め、もう一度眠りについたのはお昼頃。


目を覚ましたのは夕方。
目を覚ました時、いないはずの人が、私のそばにいた。蒼白になり、また私は泣き出した。


「覚えんのか……?」


そんな私を見て、カレが戸惑ったように口を開く。

なにが、なにが、なにが──…。

ありえないほど、目を見開き、驚く彼はもう一度「……俺が、朝、ここに来たこと覚えてる?」と聞いてきて…。


聞いてきても、答えることが出来なかった。ただ怖かった、私が寝ていた時、この人がそばにいた事が。


お母さんが、中へ、入れたのか……。



「なぎ……」

「やめて……」

「分かる?」

「……やめて……」

「泣かないでくれ…………」


薬が効いたのか、もしくは熱が上がったのは一時的なものだったのかは分からないけど、その日の夜になると7度代前半まで下がっていた。

まだ寒気はするし、頭はだるいけど、朝より脳は働いている。

お母さんがうどんを作ってくれた。食欲がないけど、せっかく作ってくれたうどんだから頑張って食べた。
でも、やっぱり食欲が無くて。半分ほど残してしまった。


「……凪、少し聞いていいかな?」


お母さんが言う。
何を聞かれるか、なんとなく分かっている私は、あまり口を開きたくなかった。


「凪は、自分のことが誰か分かる?」

「……」


私は首を横に振った。
名前も知らなかった。
なんとなく、お母さんも、さっきの男の人も「凪」って呼ぶから、凪なんだなって思ってた。


「私のことは?」

「……ごめんなさい……分からない……」

「じゃあ、分かるのは、さっきの男の子?」


口を開きたくない質問……。


「は、い……」

「どんなこと、覚えてる?」


どんなこと?
どんなのって、言われても。


「私のことを押してきて……、私の足から血が出ているのに笑ってて。それ見て、言い返してこない、明日になれば忘れるって……」

「それは、小学生の時?」

「……はい、ランドセルを背負ってた」

「そっか……。他にはある?」

「いえ……」

「凪、あなたは、自分が記憶喪失だってことは分かる?」


記憶喪失?
私が?


「記憶喪失ですか?」

「うん」

「……ごめんなさい……、よく、分からなくて……」


だって、何も分からない。
顔を下に向けていると、お母さんは、ゆっくりと口を開く。


「戸惑うかもしれないけど、凪……、凪はね?寝ると忘れてしまう記憶障害を持っていたの」


寝ると……?
忘れてしまう?


「全部、忘れちゃうの」


全部?
よく分からなかった。
だって私は、寝てた。
だけど寝る前のことは覚えている。
寒くて──……、彼が毛布をかけてくれたことも。


「だけど、今日は違って」

「……?」

「僅かな記憶だけど、思い出した。寝ても忘れなかった」


僅かな記憶……。
寝ても、忘れていない?


「もしかすると、明日も、今日のことを覚えているかもしれない」

「……」

「……凪、」

「……」

「潮くんが怖い?」


怖い…………。


「凪の思い出した記憶は、とても、凪にとっては嫌かもしれない……」


なんで……。


「でも、潮くんは本当に信用できるしいい子よ。凪も、何度も助けてもらった」


あんなにも、怖くて、泣いていたのに。
この人は、なんでそんな事を言うんだろう?


「潮くんを怖がらないであげて……」


私はそれに、頷く事が出来なかった。


「ちなみに昨日、何があったか覚えてる?」


その質問にも答えることができなくて。

私は〝なぎのへや〟と紙が貼られた部屋の中に戻った。
熱がまだあったこともあり、何だかすごく疲れた気がして。
布団の上に寝転んだ。

ここが私の部屋……。
私は記憶喪失らしい。
かすかに覚えているのは、ランドセルを背負った潮って人だけ。

ああ、でも、私事を〝バカ〟って言ったのは違う人のような気がする。誰だろう、分からない。あの時2人いたのかな……。

どうして私は記憶喪失なんだろう。
なんで覚えてないんだろう。
これからどうすればいいんだろう。

まだ本調子じゃないらしい。
また明日考えようと思ったから、薬が効いてきた体は眠りにつこうとして。


けれども──コンコン、というノックする音が聞こえた。眠ろうとした脳が起きる。

誰だろう、お母さんかな……。
そう思って「はい…」と返事をすれば…。

「俺だけど、」という怖い声が聞こえた。
私の記憶よりも声が低い。たぶん声変わりをしたんだと思う。昔はもっと…。

もっと……。


「体調どうだ?」


怖い声なのに、声が穏やかで優しく、戸惑う。


「入らないし、凪には近づかないから」


そう言われても…。


「凪」


どうすればいいんだろう…。
私はこの人と関わりたくない。


「明日も会いに来ていいか?」


その日は、私が潮という人に、返事をすることは無かった。