冷めないうちに、ハンバーガーとポテトを食べた。


「凪は小さい頃、10歳の時に事故にあった。頭をうって、側頭葉への衝撃で記憶喪失になったんだよ」


カフェオレを飲んでいる時、潮くんが語りだし。


「頭をうったのですか?」

「そう。凪の場合は、前向性健忘症って言って。強い衝撃とかストレスで、なってしまう記憶喪失なんだよ」

「…じゃあ、すごく強くうったのですね」

「俺はその時を見たわけじゃないから分からないけど、それぐらいの衝撃だったと思うよ」


その強い衝撃も、私には分からない。記憶になく。


「凪の場合は特殊で、…事故があったその日から、寝ると前日のことを忘れてしまうようになった。事故にあう前の10年間の記憶も無くなったけど」

「今日みたいなことですよね?起きたら全く覚えていなくて…」

「うん」

「治らないのですか?」

「分からない。衝撃を受けて記憶喪失になったけど脳自体は異常はないから。もしかすると記憶が戻るかもしれない…でも」


でも?


「医者からストレスは与えるなって言われてる」

「ストレスですか?」

「脳はデリケートだからな」


デリケート…。
確かに、昨日の私は不安定だったらしいし。


「でも、脳っていうのはすごいから、自然に覚えてしまうものだってある。それが日常動作」


自然に覚えてしまうもの。


「だから危険なものだっていうのは凪自身でも分かる」

「危険なもの…」

「それ以外は覚えることができない。覚える覚えてないって考えるよりも、それが凪の記憶喪失の種類っていう考えの方がいいかもしれない」

「種類…」

「うん、だからそれほど深く考えなくていい。こういうものなんだ、って思ってくれればいい」


こういうもの…。


「潮くんは、」

「うん」

「この説明、何回目ですか?」

「え?」

「なんだか、慣れているような気がして。その、前日のことを忘れるってなると、同じ質問を過去にもしてるのではないかって」


潮くんは「100回は超えてるかな」と笑った。私はどうして笑えるか分からなかった。


「嫌ではないのですか?」

「なんで?」

「同じ質問を何回も…」

「ならないよ、俺は凪とこうして喋れるだけで嬉しいから」


喋れるだけで…。
私と?


「私と潮くんは、付き合って長いんですか?」

「付き合って1年と3ヶ月ぐらい。でも、凪のことは小学生から知ってる」


小学生?
それはいったい何年前なのだろう?
そもそも私は…。


きっと、潮くんはこの質問にも慣れてるんだろう。私が質問する前に、「今、俺らは17歳だから、付き合ったのは高一の春で、出会ったのは11歳の時だからもう6年になる」と詳しく教えてくれた。


私は17歳らしい。


「そうなんですね…、覚えていなくてごめんなさい…」

「凪?」

「……」

「俺は本当に凪を大事に思ってる」

「え?」

「だから謝らなくていい、これは当然のことだから」

「…当然?」

「彼女を大切にするのは当然って意味」


彼女…。


「俺の方こそ、記憶がなくて戸惑うはずなのに、毎日、今日も俺の傍にいてくれてありがとうって思ってる」

「…うしおくん…」

「好きだよ」


微笑んでくれる潮くんのことをもっと知りたいと思った。これからもずっとずっと、知っていきたいと。


今までの私も、きっと潮くんの事が好きだったんだろうなあ。


それでも私は記憶を無くしてしまうから…。


「寝ると、忘れてしまうのですよね」

「…うん」

「じゃあ、今日はいっぱい知りたいです」

「え?」

「潮くんのこと、いっぱい教えてください」

潮くんいわく、私の場合、記憶の事に関して〝理解できる日〟と〝理解できない日〟があるらしい。

素直に記憶喪失の事を受け入れることができる日もあれば、素直に受け入れられない日もあると。

聞けば、昨日は〝少しだけ理解が難しかった〟って言っていて、今日は〝ものすごく理解できる日〟らしい。

〝ものすごく理解できる日〟と言われても、私にとってこうして受け入れるのが当たり前だから、あんまりよく分からなかった。


「全く理解できない日の私は、どんな私なんですか?」


その質問に、潮くんは「俺の好きな凪だったよ」と笑っていた。


潮くんは「知りたい」と言った私に、「学校行ってみる?」と提案してくれた。
私は記憶喪失なのに学校に行っているらしい。

ああ、そういえばさっき、潮くんが「高一の時に付き合った」って言っていた。
じゃあ今は、17歳だから、高校2年生ってことになるはず。

本当に、学校に通っていたことは覚えていないのに、高校っていう単語を知っていることに不思議に思う。



「ここが凪の家」


いったん、学校に行くには制服に着替えなければならないから。
潮くんが連れてきてくれたのは、とある茶色いマンションだった。私はここのマンションの一室に住んでいるらしく。
見覚えのないマンションを見て、本当に住んでるの?と思ったけど、潮くんが言うことだから本当なんだろう。


「中に、凪のお母さんがいると思うよ」


お母さん?
そう言われて少し驚いた。
そうか、私にも、家族がいるんだ。


「お母さんだけですか?」

「うん、凪はお母さんと2人で住んでる」


ということは、お父さんや、キョウダイはいないらしい。特にその事に関しては気にならなかったけど、マンションのとある一室に潮くんが案内してくれた時、少しだけ緊張した。


だって、会ったことがないお母さんという人が中にいるから。来たことも無いここが、私の家らしいから。


潮くんがインターホンを押す。
その仕草がとても慣れていた。

少し緊張しているのか、握られている手が汗ばむのが分かった。

なんて言えばいいんだろう?

初めまして?
こんにちは?

でも、昨日確か、私は家が嫌だと裸足のまま飛び出してしまったと潮くんが言ってた。
ということはもしかしたら、すごく怒ってるんじゃないか…。


「凪?」


顔を下に向けていると、名前を呼ばれ、潮くんの方を見る。
潮くんは「ただいまでいいからな」と、私の考えを分かっているようだった。

潮くんは私の事をお見通しのようで。
不安が、和らぐ。


玄関の扉が開き、出てきたのは、40歳ぐらいの、茶髪でショートカットの女性だった。
「おかえりなさい」と、笑う女性を見て、ああこの人がお母さんなんだって無意識に思った。

優しそうなお母さんだった。


「た、ただいま…」


潮くんの手を握りながら言うと、お母さんは穏やかに笑っていた。


潮くんと一緒に部屋の中に入った。
廊下には、色々な張り紙がされていた。
とある扉には〝トイレ〟と書かれていた。
そして〝なぎのへや〟と書かれた張り紙もあった。

ここが私の部屋らしい。
中に入っても、女の子らしい部屋だなって思うぐらいで。
本当に私は、記憶が無いんだなぁ…。


「凪、俺もいったん帰って、制服に着替えてくるから、凪も着替えてて」

「帰るんですか?」

「うん、自転車の鍵も取りに行ってくる」

「自転車の鍵?」

「足、痛むだろうから」

「大丈夫ですよ、ほんとに」

「俺が大丈夫じゃない。何かあれば、凪のお母さんに聞きな。凪のお母さんも、凪の事、大事に思ってるから」

「…分かりました…」

「家近いから、10分ぐらいで戻ってくる」

「近いんですか?」

「近いよ。ここのマンションは2棟で、俺は3棟に住んでるから」

〝6時20分 起床
6時50分までファイルを見る

7時30分までにすること
①制服に着替える
制服はクローゼット
ブラウス下着類もクローゼットの棚の中
②ご飯を食べる
③身支度をする
時間割の確認もする
④7時30分 学校へ行く
ウシオくんと一緒に行く〟


私の部屋の中に入れば、机の上に紙が置かれてあった。記憶のない私は、きっとこれを見て朝の時間を過ごすのだろうと思った。
今日はホテルで泊まったから、この通りにはいかなかったけど。


この〝ファイル〟ってなんだろうか?
机の上にも、部屋の中にも〝ファイル〟は無かった。


「凪、制服はクローゼットの中にあるからね」


部屋の中に来たお母さんにそう言われ、私はクローゼットを開けてみた。
確かに制服はあった。
青いチェックのスカートがハンガーにかけられていた。ブラウスはクローゼットの棚の中に入っていた。

1人になった部屋でその制服に着替えてみた。疑っていたわけじゃないけど、制服のサイズはぴったりで、本当に私の制服なんだなぁって思った。


そうしているうちに、潮くんが戻ってきた。潮くんも似たような青いチェックのズボンと、長袖のカッターシャツを着て袖をおっていた。


なんだか、私服の時と雰囲気が違った。
そんな潮くんは、玄関先で、私が家に戻ってきた時に履いていた黒いサンダルを見て、「…誰のか聞くの忘れてた」と、眉を寄せていた。





自転車の2人乗りで、学校へと向かう。前に座りペダルを漕いでくれる潮くんは、「知らない人ばっかで戸惑うと思うけど、怖がらなくていいからな」と、私を安心させてくれた。


「あと、授業の内容も分からないと思うけど、ちゃんと教えるから心配しなくていい」

「内容?」

「凪は基本的なもの以外記憶できないから」

「本当に不思議ですね、学校は授業をうけるものって分かっているのに、授業の内容を覚えていないなんて…」

「そういうもんだよ、俺だって、勉強してねぇから全く分かんねぇしな」


面白そうに笑っている潮くんは、「ちなみに小学校の時から席は隣同士」と、自慢げに言っていた。

自転車で20分ほどで、その学校についた。ついたけどあまり生徒がいなく。敷地内の駐輪場に自転車を停めた潮くんに「誰もいないですね」って言ってみた。


「今は授業中だからな」


もう授業が始まっているらしい。
潮くんに手をひかれ、校舎内に入り、上靴に履き替えた。その上靴には〝さわだ〟と書かれていた。


「一応遅刻になるから、生徒指導室に寄らねぇと。足、大丈夫か?」

「足は大丈夫です。遅刻したら、その場所に行かないといけないのですか?」

「そう。遅刻届けを貰わないといけねぇから」


よく分からないけど、そういう学校のシステムらしく。生徒指導室という部屋に入り、潮くんは慣れたように、先生らしい人が渡してきた紙に〝桜木潮〟と書いた。
そして〝澤田凪〟と続けて書いた。

遅刻理由のところには〝私用〟と書いていた。



生徒指導室の中でも潮くんは私の手を離さなかった。遅刻届けと書かれた紙を持ち、生徒指導室から出てもその手は離れず。

朝、手を繋ぐ事を〝くせ〟って言っていたことを思い出していた。きっといつも潮くんはこんなふうに手を繋いでくれているんだろう。


とある教室の前で、「ちょっと待ってな、先生に渡してくる」と、手をそっと離された。
教室の中に入っていく潮くんの後ろ姿を見たあと、私は自分の掌を見た。

初めて会った彼なのに、手を離される事がとても寂しく感じた。
すぐに私の所へ戻ってきた潮くんは、「後ろから入ろう」と、また私の手を握ると、教室の後ろの方の扉へと向かった。


中には、授業を受けている人がいた。
潮くんがいるからか、あまり緊張したりはしなくて。扉のそば…。廊下側の、後ろの2席が空いていて。そこの1列目の方に私の手をひくと、「ここが凪の席」と潮くんは小さな声で言った。


1番端っこらしい。


その横に座った潮くんは、私が席に座ったことを確認すると「今は現国、机の中にあると思うから探して」と私に言ってきた。


現国…?

私には〝現国〟が分からなかった。
分からなくて顔を傾けると、「この教科書」と、潮くんが紫色メインの教科書を見せてくれた。


言われた通りに探している最中、潮くんは、私ではない隣の席に座る男子生徒に「何ページ?」と聞いていた。


私の席にあった、みんなが使っているのと同じ〝現国〟の教科書を開く。潮くんが「25ページな」と小さく呟き。


25ページ…と、パラパラと教科書を開いてみる。中身を見る限り、物語が多く書かれているこれは〝国語〟じゃないのかな?って思ったけど。〝国語〟じゃないらしい。


もしかしたら私が知らないだけで違う言い方があるのかもしれない。

先生らしい年配の男性が、25ページに書かれている物語を音読する。

その教科書は、難しい漢字…というよりも、読めない漢字が多くあった。
正直、読むことが出来なかった。
記憶がない私は、簡単な漢字しか覚えていないようで。


──それでも、今、授業でやっている物語を目で追うことが出来たのは、その漢字にはふりがなが全て書かれていたから。──手書きで。


ぱらぱらとページをめくる。
どこをめくっても、漢字にはふりがなが書かれている。


それは最後まで、ふりがなが、漢字の横に書かれていた。


チャイムがなり、授業が終わり、潮くんは私の方に体を向けた。


「大丈夫だった?」

「はい、ふりがながあって。読めました。これは誰が書いたんですか?」

「ああ、俺。読めた?俺字汚いから」

「あの、…潮くんが全部ですか?」

「うん、ちゃんと調べたから、合ってると思う」

「私が読めないから、ふりがなを…?」

「ああ」


だって…これ、本当に全部の漢字にふりがながあるんだよ?いったい、どれだけの時間がかかるか。

まさか、と思った。
次の授業で使う、理科じゃなくて〝生物〟の教科書を開いてみた。
そこにも説明文に全て、ふりがながあって…。
さっき見た潮くんの字だった。


きっと、どの教科書にも、ふりがなはあるんだろう。そんな気がする。


「潮、久しぶりじゃん!」


隣で、潮くんが知らない男子生徒に話しかけられていた。たぶん、友達らしい。潮くんは笑って返答していた。


そんな潮くんを見て、私は泣きそうになった。私は本当に愛されて、大事にされているんだなぁって…。


私は本当に、この気持ちも、忘れてしまうの?


〝生物〟の授業の内容があまりよく分からなかった。特定の専門用語を使い、今は血液型の話をしているらしいけど、〝優性〟とか〝劣性〟聞いたことの無い言葉で説明する。

私は困った顔をしていなかった。それなのにガタ…っていう音が隣から聞こえたと思ったら、潮くんが机ごと私に近づいてきて。

ピッタリと机が寄せられる。


「どこが分からない?」


周りに迷惑がかからないよう小声で呟く潮くん…。


「…あの、」

「うん」

「あんまり、わかっていないです…」

「血液型は分かる?」

「はい…」

「血液型には4種類あるのは?」

「…それは、なんとなく分かります」

「なんとなく?」

「血液型の話をしてるなぁって。でも、それだけで、先生が何を言っているのか分からないです…」

「分かった、じゃあそこからな」



潮くんは優しく説明してくれた。
〝優性〟を〝優先的に〟と言ったり、私に分かりやすく教えてくれて。
潮くんいわく、今、先生の授業は、親の血液型から生まれてくる子供の血液型の種類の話をしているらしい。


説明してくれる潮くんを見つめた。
潮くんが私に説明している教室内も、先生も、慣れている様子だった。


私は…この光景も、忘れてしまうのだろうか?
潮くんは教えても無駄だって思わないのだろうか?
だって、この血液型の話も、明日には忘れて…。



「…わからなくてごめんなさい……」


内容を理解したあと、優しい彼に呟けば、潮くんは私の顔を見て、ゆっくり頭を撫でながら微笑んだ。


「あの先生、いつも説明へたなんだよ。みんな分かってないから大丈夫」


こっそりと耳打ちして、私をサポートしてくれる潮くん。チャイムが鳴り授業が終わって、教科書の中に教科書を入れた。


「凪、食堂いこ。腹減ったわ」


今からお昼ご飯の時間らしい。潮くんに手を差し出され、自然とその手に自身の手のひらを置いた。
大切そうに柔らかく握られ、私はこの人が本当に大好きだって思った…。


本当に…忘れちゃうの?


食堂らしいところで、おにぎりとパンを買った。潮くんがこの中で選ぶとか教えてくれて。食堂で働いていた年配の女性に「今日も仲良しねぇ」と言われた。


「食堂、人多いから外で食べよ」


潮くんに頷き、連れてきて貰った場所は、中庭らしい場所にある外の階段だった。
ちょうど日陰になっていて、あまり暑くはなく。


「午後の授業もいけそう?」

「はい」

「なら良かった」

「…ほんとうにごめんなさい、私…」

「なんで謝る?当然の事って言っただろ?」

「迷惑を…、だって、それに、」

「迷惑とか考えなくていい、絶対思わないでほしい。俺がしたくてしてるんだから」

「でも…」

「凪」

「…疲れませんか?」

「疲れるとか考えたことないよ」

「いつも私、潮くんに迷惑を…助けてもらっているんですね」

「凪?」

「いつも……助けてもらっているのに、私…されを忘れているんですね…」

「違う、そういう考えはしなくていい。俺がしたいんだよ、俺が凪を好きだからしてる事なんだ」

「でも、…明日になれば、今日のことを忘れちゃう…。なのに教えてくれる…。無駄なことかもしれないのに…」

「俺がしたくてしてる、俺が凪と関わりたいから。こうして喋ることも、無駄じゃないし俺にとっては嬉しい」

「……潮くん」

「だからそんな泣きそうな顔しなくていい」



潮くんの手が、私の頬にふれた。

そのまま後頭部にまわされ、軽い力で引き寄せられる。私が簡単に拒絶することができそうなその力強さ。

ゆっくりゆっくり近づいていき、最後には私から潮くんに近づいていた。
潮くんの腕が背中にまわり、まるで子供をあやす様に抱きしめてくる。


初めて会ったのに。


「…好きだよ…」


私も……。そう思うのは、おかしいのかな。だって私はもう、この人を忘れてしまうのに。…悲しい…。


じわりと涙が出てきた。
どうにかして、この感情を、残しておきたい。


「…わたしもすきです」


そう言って、潮くんの体に腕を回した。
潮くんの顔は見えないけど、ぴく、と、体が動き。
さっきよりも強く抱きしめられた。
抱きしめられて嬉しいと思う。
嬉しいのに、悲しい気持ちが交差する。
これ以上好きになれば、別れるとき、悲しむ心が増えてしまう。


「潮くんのこと、忘れたくないです…」

「うん…」

「おかしいですか、…今日…初めて会ったのに…好きと思うなんて…」

「おかしくない…すげぇ嬉しい」


そう言った潮くんは、噛み締めるように呟いた。本当に幸せだと思っている声だった。


「……潮くん、」

「…俺のこと好き?」

「はい…」

「もう1回言ってほしい」

「好きです…」

「もう1回」

「潮くんが大好きです」




また強く、抱きしめられる。
それが嬉しくて、悲しいのに、何度も私は潮くんくんに「好き」と言った。


潮くんは、ゆっくり体を離すと、優しい目で私を見つめ、背中にあった手で頬を包んだ。そのまま顔を傾け、少しずつ目を閉じながら近づいてくる。



私と潮くんは、彼氏と彼女。

何をされるか分かった私も、自然と目を閉じていた。



唇がふれあい、また見つめあい、また愛おしそうに私を抱きしめる彼に幸せを感じた。

そのまましばらくの間、潮くんは私を離すことは無かった。


「私…、何回潮くんとキスしたことあるんですか?」

「…今で2回目」


2回?
そのことに驚き、私は少し顔を上にあげた。


「…2回?」

「うん、初めては付き合った時にした」

「一年以上、あいてたってことですか?」

「そうなるかな」


照れたように笑った潮くん。


「その日も、凪が俺に好きって言ってくれた」


好き…。


「1年3ヶ月ぶりに聞いた」


本当に?
私、そんなに…。
こんなにも好きって思っているのに…。


「もっと、過去の私は言ってると思ってました…」

「うん」

「自分が信じられないです…」

「たぶん、思ってはくれてると思う、口には出さないだけで…」


思っては?
口に……。


「じゃあ、今日はいっぱい言います。今までの分、いっぱい」

「え?」

「私はずっと、これからも潮くんが大好きです」

「……」

「ずっとずっと大好きです」

眠る、というよりも、気絶してしまう感覚だった。──「ジュース買ってくるから、ここで待ってな」と、愛おしそうに頭を撫でられ頬にキスをされ、私は潮くんの言われた通りにここで待っていた。


きっと、悲しいけれど幸せで穏やかな気持ちが、その行為を引き寄せたのかもしれない。


これ以上記憶が無理だと、脳に重さが加わり、気絶するような、頭が真っ白になって、落ちる感覚…。ふ…と、前かがみに倒れた。


──ドサ、と音がした。それが階段から落ちた音だとは自分の音だとは気づかなかった。


3段ほど、落ちたと思う。
痛みよりも先に、脳が落ちた。
だから「──…凪!」と、気絶し、誰かに起こされた時、その痛みがどうして起こっているのか全く分からなかった。


「どうした!? 何があった!? 転んだのか!?」


私は誰かの腕の中にいるらしい。
おしりは地面についているから、上半身だけ起こされているのだと思う。

その人、若い男性と目が合い、体を動かそうとすれば──ズキ、っと頭の横辺りが傷んだ。思わず顔を顰めると、「どこ打った?!階段から落ちたのか?!」と焦った声を出す男性をもう一度見た。


「……あ…の」

「どこが痛い!?」

「……だれ…ですか……」



私がそう言った時、その男性の顔が目を見開き、強ばった。かと思ったら眉を寄せ悲しそうな顔をして──…
それでも、その顔は一瞬だけで。瞬きをすると、その顔は無くなってた。



「俺は桜木潮……。…ごめんな、びっくりしたよな。君は階段から落ちたんだと思う。どこか痛いところある?」








──『理科室、こっち』


誰かが手を差し出してる、そんな夢を見た気がした。