────この人は誰だろうか。

起きてからまず初めに思ったのがそれだった。
ぱちぱちと瞬きをしても、全く思いだせなくて。
私は布団の中にいるらしい、どうしてか知らない男性が一緒にその中に入っていて、たった今まで私と眠っていた。この状況が分からず、今度はまじまじと男性の顔を見つめた。


白い肌…。
黒い髪。
何歳ぐらいだろう。
17、8……。
まじまじと見つめても、やっぱり目の前にいる男性に見覚えがなく。
そのまま男性の顔を眺めていると、目から重力にそって何かの線のようなものが描かれてあった。

描くというよりも、何かの痕。

涙?

この男性は、眠りながら泣いていたのだろうか?辛いことでもあったのだろうか?怖い夢を見たのだろうか?なんの涙だろう?


とりあえず状況を整理しようと、男性が起きないように、体を起こそうとした。でも、上手く起き上がれなかった。

私の左手が、男性の右手と繋がっていたから。
どうやら手を繋いで、私たちは寝ていたらしい。寝ているはずなのに、男性が強く握っているせいで離そうにも離せなく。


私はとりあえず自分の服を見た。
きちんとバスローブを着て、乱れはなかった。
でも、手を繋いでいる。
私はこの男性と何か関係があるのだろうか?
本当に覚えがないけど……。


昨日の事を思い出そうとしても……。


……あれ?
なんで覚えてないんだろう?
そもそも、私の名前は──……


なんだったっけ……?


困ったな、本当に思い出せない。


腹筋を使って、無理矢理体を捻るように起きて、周りを見た。
布団、というよりはベットで眠っているらしく、ソファがあったり、机があったり、テレビもある。


誰かの家……?
この男性の家だろうか?


分からないから、男性の顔を見るけど、見ても何も分からなく。


──この人は誰だろうか?


やっぱり、そんな疑問が頭に思い浮かぶ。


だから。


「──……あの、すみません」


眠っている男性に声をかけた。
1度声をかけただけだった。
眠りが浅かったのか、少し眉間にシワを寄せ、瞼が開かれ虚ろな目と、視線が重なる。
そして、1回瞬きをした男性は、すぐに目を見開いた。


私がいたことに驚いたのか分からないけど、勢いよく体を起こした男性は、「っ、……わ、わるい」とどうしてか謝ってきた。


その間も、手は繋がれたままで。


男性が起き上がり、私もやっとベット上で座る事ができて……。
さっきまで寝ていた男性とずっと目が合う。

切れ長の二重の目。
彼が起きても、やっぱり見覚えがない。
ベットの上で見つめ合ったまま、少し寝癖がついた男性が何かを喋ろうとする。
でも、今まで寝ていたせいか、あまり頭が回っていないようで。


「あの…、起こしてしまってごめんなさい…」


男性はずっと私の顔を見たまま。


「…いや、俺も、寝てごめん……。今日は絶対に寝ないって決めてたのに……」


寝てごめん?
寝ないと決めてた?
話がよく分からない。
そう思って、顔を少しだけ傾けた。


「初めて見る男が横にいて驚いたろ?」


少し目を細め、柔らかく笑った男性。
初めて見る男が横にいて驚いたとは?
いったい、どういう意味か。


「あなたは誰ですか?」

「俺は潮。さんずいに、朝って書いて潮」

「……潮?」


知らない名前。


「それから君の彼氏でもある」


私の?彼氏?
それはお付き合いをしているっていう事だろうか?全く、見覚えも、聞き覚えも無いのだけど。


「よく分からないのですが…」

「うん」

「えっと…」

「君は昔、小学生の頃、事故で記憶を失う病気になった」

「え?」

「寝ると忘れてしまう記憶障害なんだ」


記憶障害?
私が?
寝ると、忘れてしまうの?

そう言われると、確かに今起きた以前のことが全く思い出せなく。妙に納得している部分があった。


ああ、それで、何も分からないんだ……って。
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「そうなのですね、本当に、全く分からないので困っていたんです」


潮という人は、私の手を握ったまま。
私は記憶が無くなる病気らしい。彼氏らしい目の前にいる人も忘れているみたいで。


「何でも聞いて、何でも答えるから」


まるで私を安心させるようなその言い方に、落ち着いている心が、もっと穏やかにさせる。


「えっと…、ここはどこですか?」


私は部屋の中を見渡した。


「ここはホテル」

「ホテル?家ではなくて?」

「昨日、君が、君の記憶が無いことに戸惑ってちょっと不安定になったから。落ち着くように家じゃなくてここに泊まったんだよ」

「……不安定?」

「うん、たまにある。住んだ覚えのない家を自分の家とは思えないって」

「わたしがですか?」


昨日?本当に?


「そう、昨日は俺の事も彼氏とは思えないって言ってたかな」


笑いながら、話してくれる潮という人。


「そう、ですか、」


昨日の私は、いったい──


「けど、俺の好きな君だった」


彼の好きな私?


「……昨日は泣かせてごめんな」


笑っている顔から、本当に申し訳なさそうに謝ってくる彼に、私こそ申し訳なかった。
私は覚えていないから。
何をどう返事をすればいいか分からない。


「本当に悪かった」

「…、」

「昨日、君がすげぇ戸惑ってたから、絶対に寝ないって決めてたのに寝て……」


朝、起きてすぐに謝ってきた事を思い出す。
そんなの──……。
この人は何も悪くないのに。


「いえ、悪いのは私です。不安定になった私が悪いんです」

「君は何も悪くない」

「私」

「悪くない、お願いだから絶対悪いと思わないで欲しい」

「……でも」

「……俺が悪い。……君が起こしてくれて良かった……ありがとう」



起こしてくれて良かった?
もしかしたら昨日の私は、起きた時、彼が言う〝不安定の状態〟で何かをしてしまったのかもしれず。
覚えていないから分からないけど。


「あなたが、ずっと、私の手を握っていたので」


今も握ったままだけど。
やっぱり離そうとしなく。


「起きて、外を見ようと思ったのですが出来ませんでした」


そう言うと、潮という人は「…これは、癖で…。マジで癖があって良かった」と、ほっとしたように笑った。


手を繋ぐ事が、彼にとっての癖らしく。
だとすればそれぐらい、私たちは今までも手を繋いでいたということだろうか。


「……私、あなたのこと、何て呼んでましたか?」

「潮くんが多かったと思う。でも、なんでもいい。呼び捨てでも、あなたでも。呼びやすいように呼べばいい」


呼びやすいように?
呼びやすいなら、呼び捨てだけど。
潮くんが多かったのなら、潮くんでいいかと思い。


「私のことは?あ……私の名前って……」

「澤田凪。俺は呼び捨てで呼んでた」


澤田凪。
あまり、ピンと来なかった。


「昨日、君は自分の名前も嫌がってた。嫌がってたってより、知らない名前を自分の名前というのに抵抗があった」

「……抵抗……」

「だから、もし君がいいなら、また呼び捨てで呼んでもいいか?」

「え?」

「嫌なら、絶対に名前は言わない。約束する」


そういえば、この人は私の名前を呼んでいない。ずっとずっと私のことを〝君〟って呼んでる。
昨日の私のことを思って、名前を呼んでいないようで。


「凪でいいです……」

「嫌じゃないか?」

「いえ……、私の名前ですよね。呼んでください。その方が私も嬉しいです」


少し、ほんの少しだけ口角を上げて笑うと、また柔らかく笑った潮くんが「ありがとう」と癖らしい手を握った。


「凪? 他に質問はない?」


さっきはあんまりピンと来なかったのに、こうして呼ばれるとなんだかすんなりと耳に入ってきて。


記憶が無いのに、ああ、私は何度もこの人に名前を呼ばれてるんだな……って思った。
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他に質問と言われても。
たくさん聞きたいことがあるのに、いざ思えば何も思いつかなくて。
家がどこにあるのか聞こうにも、外の世界が分からない私にとって聞いても無意味。


「……怖い夢を見ていたんですか?」

「え?」

「あなたが泣いていたようなので。まだ少し痕があります」


潮くん、って言えなかった。
恥ずかしかったからなのか。

私の質問に、瞬きをした潮くんは「え?」と顔を傾けた。自分が泣いていたことに気づかなかったのだろうか?
ううん、寝ていたから気づかないのは当然で。
だとしたら無意識に泣いていたんだろう。


「夢は見なかったんだけど、もしかしたら凪と一晩一緒にいれて幸せだったのかもしれない」


私と一晩一緒にいれて?


「幸せだったんですか?」

「俺はね。こうして朝を迎えるのは滅多にないから」


優しく笑った潮くん。
その顔は本当に幸せそうで。


「悲しくてじゃないなら、良かったです」


私も微笑むと、手をギュッと握られ見つめう。この雰囲気を他の人に伝えるのなら、心が穏やかになれる暖かい空間かもしれない。


「好きだよ、凪」


突然の告白に戸惑ったりもなく、初めて会ったのに、私のこの人が好きだと思った。
彼の人間性というのだろうか。
きっと、今までの私も、潮くんが好きだったのだろうな……。そんな気がする。


「いつも、言ってくれるんですか?」

「好きって?」

「はい」

「うん、…そうだな。毎日言ってる」

「ごめんなさい、覚えていなくて……」

「謝ることじゃない」

「潮くん」

「ん?」

「聞きたいこと、というわけではないのですが」

「うん」

「トイレに行ってもいいですか?」


私の言葉に、「ああ、悪い…」と手を繋いだまま、私よりも先にベットからおりた。


「足、痛いだろうから」


足?なんの?
そう思って足を見れば、私の足の裏にガーゼが貼られてあった。なんだろう?でも、それほど痛くはなく。

潮くんに手を引かれながらベットからおりたとき、確かに痛みがあったけど。


足の裏に、怪我があるらしく。


「…この怪我は?」

「昨日、靴をはかずに外に飛び出しちゃったから」

「不安定でですか?」

「うん」


どうも、昨日の私は凄かったらしい。
家は嫌だって言って、潮くんも彼氏だと信じたくなく、自分の名前さえ嫌だなんて。

それに、靴もはかずに、外へ飛び出しちゃうなんて。

泣いたのだろうか。
暴れたのだろうか。
分からないけど、自分でも信じられないけどたくさん迷惑をかけたらしい。


トイレの場所が分からず、連れていってくれた潮くんに「迷惑をかけてごめんなさい」と謝った。


「え?」

「昨日……、ごめんなさい……」


潮くんは絶対に私のせいなのに、「怪我をしてるのは俺のせいだから、迷惑だと思わないでくれ」と、笑っていた。


ホテルが洗濯してくれたらしい。
バスローブから半袖と短パンに着替えた。
この服装は昨日私が着ていた服らしくて、とてもラフな服装だなぁと思った。


外の世界は、分からないものが多かった。
見覚えのない道やお店。
まるでタイムスリップしたような感覚だった。
それでも、タイムスリップする前のことは覚えてないのだけど。

歩いている最中もずっと私の足の裏を気になるようだった。何度も「大丈夫です」と言う。それでも潮くんは「凪は我慢する性格だから」と、私の足の心配をしていた。


潮くんに手を繋がれ、どこかのお店に入った。
そのお店はカウンターのようなところで注文してから店の中にある机で食べるようだった。

カウンターの前では人が並んでいた。
カウンターのそばの時計は、7時20分を指していた。


「今から朝食ですか?」

「うん」

「あの、私、お金を持っていません…」

「ああ、大丈夫。俺が出すから」

「でも、ホテルのお金も出してもらったのに…」

「凪は彼女なんだから、そんなことを気にする必要ないよ」


手を繋いでいない方の手で、優しく頭を撫でられる。背の高いらしい潮くんの目が柔らかく。


「ありがとうございます…」


お礼を言えば、潮くんはまた笑った。
本当に、今日初めて会うのに、私はこの人が好きだなぁって思ってしまう。


潮くんが買ってくれたのは、ハンバーガーとアイスカフェラテだった。あとはポテトも付いていた。


窓際に座り、潮くんを見た。
一見、切れ長で二重の目は怖そうに見えるけど、彼は優しい。こんなにも優しい潮くんが彼氏だなんて私はとても幸せだと思った。

だって私は、記憶の病気なのに。
この人は嫌にはならないのだろうか?
自分の彼女が記憶を失ってしまうなんて。


記憶…。
ハンバーガーを見て、違和感をもった私は、疑問を聞いてみた。


「あの、潮くん…」

「ん?」

「これはハンバーガーですよね?」

「うん」

「でも私、ここのお店が分からなくて」

「うん」

「記憶がないのに、どうして覚えていることと、覚えてないことがあるのかなって」


潮くんは、コーヒーを1口飲んだ。


「それは難しいところなんだよ」

「難しい?」

「凪は日常生活に支障はないんだよ。だからハンバーガーが食べ物だっていうことは知ってるし、お金で買うものだっていうのも分かる。これは日常動作っていうか基本動作って言うんだけど…」

「……」

「信号も青なら渡る、赤なら渡らないっていうのも分かる。だけど凪はその信号がどこにあるか分からないんだよ」

「…よくわからないです…」

「迷子とかにはなるけど、迷子になればどうすればいいかは知ってる。警察や人に聞くとか。けど、家の住所とか覚えてない。だからどうすればいいか分からなくなる」

「……」

「どの辺りが分からなかった?」

「分からないというか…」

「うん」

「なんで、覚えてるのと覚えてないのがあるんだろうって」

「さっき、凪が事故にあったって言っただろ?」

「はい…」

「そこからちょっと話そうか」



そう言って、潮くんは優しく笑った。