「──お前、マジで尾崎から歩いてきたのな」


所持金もない私に、電車に乗ろうとした藤沢那月が呆れたように呟いた。
私にはその〝尾崎〟が分からなかった。
〝私〟の家に帰るために、切符を買ってくれた彼は、その駅のホーム内でもスポーツドリンクを買ってくれた。

そのスポーツドリンクはとっても美味しくて、落ち着いた涙がまた出そうになった。


「あの…、尾崎って?」


ホームのイスに座った彼は、私を見上げた。


「お前の家があるとこ」

「私の…?」

「俺も地元そこだしな。つか座れば?」


そう言われ、私も藤沢那月から1人分あけて、その横に座った。


「…私は、あなたと知り合いなのですか?」

「同級生」


同級生?
さっき、地元が一緒と言っていた。
だったら、〝この体〟は、高校生という事だろうか?


「つか、なんでお前、俺のとこ来たの」

「…え?」

「潮のことも分かんねぇのに、なんで俺のとこに来た?」


なんで、と言われても。


「このファイルに書いてあったんです」

「…ファイル?」


ぴくりと反応した彼は、私から、私の手に持っている白のファイルに目を向けた。


「ここに、あなたの事が書いてあって…、それを頼りに来ました…」

「なにそれ?」

「日記みたいです」

「ふうん?見せてよ」


本当なら、プライバシーとして、〝澤田凪〟の日記を見せるべきでは無いと思ったけど。
彼は知り合いで、切符やスポーツドリンクも買ってくれたいい人だから。


ファイルを差し出せば、それを受け取った彼が躊躇うことなくファイルを開いた。


初めからじゃなく、途中から読み出し、ぺら、ぺら…と、1枚1枚めくっていく。
それが10枚程になった時、彼はバカにしたように鼻で笑った。


「──…ウケる、潮のことばっかじゃん」


最後の1枚を読んだ彼は、「…なるほどな」とファイルを閉じた。
それを私に返してきて、私はファイルを抱きしめた。


「…わたし、朝起きると、知らない部屋にいて…」

「……」

「この部屋に、このファイルがあったんです。中を見て、〝澤田凪〟という女の子の日記だと分かりました」

「……」

「私、その〝澤田凪〟という女の子の部屋に閉じ込められたんだって思って、誘拐されたって思って…逃げて…」

「……」

「どうすればいいか分からなくて。警察に行こうにも、誘拐犯が怖くて…、警察も、何も分からない私のことを信じてくれるのか迷って…行けなくて」

「……」

「駅で…箱作という駅でこの日記を読み返して、あなたの事を探そうと思って…」

「……」

「女の人…、家を出る時、その誘拐してきた人が私のことを〝凪〟って呼んだんです」

「……」

「私は、〝澤田凪〟じゃないのに……」

「……」

「でも、鏡で見れば、そこには知らない女の子がいて…。〝私〟じゃないんです。だったら〝私〟は誰だろうって…」

「……」

「でも、私…、私の顔、自分の顔も名前も思い出せないんです…」

「ふうん…」

「だから、あなたに聞けば、何か分かるかなって…」

「ウケんね」

「…ウケますか?ウケるって、面白い意味っていう意味ですよね」

「まあな」

「あの…」

「ウケるだろ、記憶喪失って、マジで自分の名前も分からなくなるんだなぁって」

記憶喪失?
自分の名前も分からなくなる?
なにが?


「……どういう意味ですか?」

「どういう意味ってそのまんまだろ」


心のこもっていない、バカにしたような笑みを浮かべるその人。


「そのまま…?」

「澤田凪はお前だよ」

「え?」

「お前」

「あの…」

「お前さ、記憶喪失なんだよ」

「…何を言ってるんですか?」

「1回寝ると、何もかも忘れる病気」


──1回寝ると、何もかも忘れる病気?


「え…、わたしが、?」

「そう」

「寝ると、忘れる?」

「……」

「そんなはずない…、」

「今もう忘れてるだろ?」

「私は〝澤田凪〟じゃありません…」

「いや、本当だし」

「だって、こんな〝体〟知らないっ!」


駅のホームで大声を出せば、私たち以外の電車待ちをしている人が、何人か振り向いた。

だけど、私はそれどころじゃなくて。


「うるせー声出すなよ」

「だ、って…」

「……地元はみんな知ってる」

「……え?」

「お前はなんも覚えらんねぇバカだってな」


──電車が来て、私達はその電車に乗り込んだ。車内は冷房がしっかりときいて涼しく。

あまり混んでいない車内。

藤沢那月と横に並んで座っているけど、私はもう自分の膝元しか見れなかった。



「私…どうすればいいんですか、」

「なにが」


なにが…。
私は、〝澤田凪〟らしい。
この日記を書いていたのは、〝私〟らしい。
ありえない。
だって、こんな日記、書いたことがない。


「…これから」

「家に帰ればいいだけだろ」

「私が、起きた、家ですか?」

「そうだろ」


あの家が、本当に私の家なのなら。
私が記憶喪失で、分からないのなら、今朝いた女の人は、母親…。


「でも、知らない、家なんです…」

「……」

「知らない人が、住んでるんです…」

「……」

「理解しろ、って、言われても無理です…」

「……ああ」

「私は〝澤田凪〟じゃありません…」



泣きそうだった。
この日記は私の事。
だとしたら、ここに書かれている〝潮くん〟という人は、日記通りなら、彼氏ってことになる。


私に、彼氏なんていない。
いないのに。
いないのに。
いないのに。

見ず知らずの人間に、いきなり家族です、彼氏ですって言われても分かるわけがないのに!



ポタポタとまた涙を流せば、「じゃあ周りの人間はどうなる?」と、藤沢那月が小さく呟いた。


「お前から知らねぇって言われて。そこに書いてるから分かるけど潮がお前のことすげぇ大事にしてんのに、知らないって言われて傷つくんじゃねぇの?」


私から知らないと言われる。
〝潮くん〟
この日記では、何回もその名前を見た。
本当に〝潮くん〟ばかりで。
知らない私の彼氏。


「でも、その人のこと、分からないんです…」

「……」

「どんな人、かも」

「……」

「あなたは、よく、知ってそうな口ぶりですけど、知っているのですか…」

「女を大事にするやつだよ、あいつは」

「…女?彼女をっていう意味ですか?」

「でも、簡単に友達を裏切るイヤなやつ」


ふ、と、鼻で笑った藤沢那月。


「お前を今から潮んとこに戻せばいいんだろうけど、俺は潮が嫌いだし、番号も知らない」

「…嫌いなんですか?」

「昨日、久々に会ったけど、やっぱり殺したいなぁって思ったわ」


本気なのか、冗談なのか。


電車が目的地に到着し、おりた私は、今からどうすればいいか分からなかった。


知らない家に帰ればいいのか。
藤沢那月が殺したいほど嫌ってる〝潮くん〟に会えばいいのか。


どうしようと迷い込んでいると、「つーかさ、」と、未だに理解出来ない私の手元からファイルをあっさりと奪った彼は、その白いファイルを片手で持ち。


「こんなんあるから、悩むんじゃねーの」


藤沢那月は足を進め。
駅から出ると、近くにあったゴミ箱にそれを入れようとし。


「ま、まって…!」


慌てた私は、それを捨てないように、彼の腕を掴んだ。


「それは、大事なものではないんですか…?」

「さあ?」

「捨てては、いけない気がします」

「内容、どうでもいいのに?潮ばっかりなのに?」

「でも…」

「だってこれは、お前が書いたもんじゃないんだろ?」

「…そうです、けど」

「大丈夫だろ、捨てても。こんなもんがあるから、余計に戸惑うんだよ」

「……」

「お前も、こんな気持ち悪い日記があったこと、明日には忘れてる」


忘れてる…明日には。
それが私の記憶喪失という病気だから。
ということはつまり、この私の人格は明日になれば消滅しているってこと?
そんなの、死んでしまったことと同じじゃないの?
寝てしまうと死ぬの?
私は死んじゃうの?


「あそこに警察署、あるの分かるか?」


絶望している私に、とある方向を指さす藤沢那月。恐る恐るその視線の先を見つめれば、大きな建物があって。
そこには大きく警察署と書かれていた。


「あそこで迷子ですって言えば、連絡がいってお前の親か潮が来る」

「……え?」

「俺、用事あるし、もう行くから」

「ま、待ってください、どうしてそれで連絡がいくんですか?」

「だからさっき言っただろ」

「え…?」

「お前がバカなこと、地元は知ってる。警察はすぐ行方不明になるお前の顔分かってるからな」

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警察署に入り、数分がたった頃、藤沢那月が言っていたことがすぐに分かった。

私は本当に記憶喪失というものらしい。
寝れば丸々、その日あったことを忘れてしまうようで。

私は過去にも何度か迷子になったらしく、慣れたように対応する警察の人を見て、泣きたくなった。

私はこの警察署に来るのは、初めてなのに…。



しばらくして、私がいる受付のところに男の人が来た。
その人は私の顔を見て「凪!!」と大きな声を出した。肩で息をして、まるで全力疾走してきたような息の荒さ。
黒い髪からは汗がしたたる。
白そうな肌は、たくさん走ったようで頬が赤くなっていた。


警察署の人は誰を呼んだのか。
親か、〝潮くん〟。


「凪……」


受付のイスに座っている私は、近づいて、目線を合わせるようにしゃがむこの人が誰か分からない。たぶん〝潮くん〟なのだと思う。


「どこ行ってたんだよ…」


分からない…。


「良かった…、無事で…」


私の心は、全く無事じゃない…。


「…凪?」

「…っ…」


肩を震わす私を見て、焦ったように顔が変わり。


「どうした?体調悪いのか?」

「……、…」

「凪…、…あ、俺は潮、わからなかったよな、ごめんな…」

「っ……」

「これ、誰のスリッパ? 足、赤くなってる…。ずっと裸足だったのか?痛くないか?」


やめて…。


「凪?」

「…っ、やめて…」

「どうした?」

「やめて…」

「やめる、やめるから」

「お願い…やめて……」

「やめるよ、大丈夫だから。…なにが嫌だった?」


甘く、優しく言われ…


「…っ…、やだ…」

「…凪?」

「っ、…──〝凪〟って呼ばないで!」


叫んだ時、目の前にしゃがみこんでいる〝潮くん〟は、眉を寄せ。


「私は〝凪〟じゃないもん!!」

「うん」

「〝凪〟じゃないっ…」

「うん」

「だからっ、〝凪〟って呼ばれるのはおかしい!」

「そうだな、俺が悪かった」

「っ……」

「…足、痛くないか? 」


優しく微笑んでくれる〝潮くん〟。
そんな〝潮くん〟と警察署から出たのは夕方頃。


私はずっとずっと泣いていた。
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ドラッグストアに連れていかれ、近くの外のベンチに座った。彼は私にお茶を買ってくれたらしい。


「暑かっただろ?」


昼間の方が、凄く暑かった。
何も喋らない私に、〝潮くん〟は「頼むから飲んでくれ…」と心配気味に言うから。


「飲んでもいいのですか…?」


返事をしないわけにはいなかった。



「当たり前。飲んだら足、薬塗ろうな」


3口ほどペットボトルのお茶を飲むと、〝潮くん〟が買った何かのクリームを足の裏に塗られた。

痛いけど、マヒしているのかそれほど鋭い痛みはなくて。
そのままガーゼが外れないように、買ったらしい靴下を履かせてきた。


「…痛くないか?」


そう聞かれても、直ぐに涙腺が緩む私は泣くだけしかできない。


「背中乗るか?」


首を横にふった。


「痛いだろ? 家まできついと思うから」


いやだ、
いやだ、
帰りたくない…。
あの家は、私の家じゃない。
知らない家だもん。


「っ、…わ、わたしの、」

「うん」

「あんな家、しらな、…」

「戻るのイヤか?」


泣きながら、顔を縦に動かせば、ポロポロと涙が落ちた。


「分かった、家に帰るのはやめよう。その代わりどこか入って足は休めような」

「っ…」

「もう大丈夫」


〝潮くん〟の手のひらが、私の頬を包んだ。その手の優しさに、涙が溢れて止まらない。


「ごめんなさい……」

「ん?」

「ごめんなさい…」

「謝る事あったか?」

「だって……」

「うん」

「こわい…」

「なにが怖い?」

「……」

「俺が怖い?」


分からない。
全てが分からない。
私は死んでしまうの?


「わ、わたしは、あなたの、恋人じゃ、ありません…っ…」

「……うん」

「あの、ひと、親じゃ…な…」

「…ん」

「ごめんなさい…」

「分かった、言いたいことは。ずっと今日1日、そのこと考えてたんだな」


今日1日…。


「わたしは、どうすればいいんですかっ…」


泣きながら彼を見つめれば、彼はまるで安心させるかのように微笑むと、慣れた手つきで頭を撫でてきた。


「俺はとりあえず、飯を食って、体を休めてくれたら嬉しい」


私を怖がらせないように優しく言ってくる。


「お風呂も入った方がいいから、どこかホテルに行って、そこでご飯を食べよう」


お風呂…?
ご飯…?
ホテル?


「あなたと…?」

「うん、まだ何も食ってないだろ?部屋に2人きりが嫌なら、部屋に入らないで廊下で待ってる。でももしいいなら、俺も部屋に入りたい。動かないようにヒモで縛ってくれていいし、俺が何かしようとしたら警察を呼んでくれていい」

「……」

「全く知らない男とホテルに行くのが怖いのは分かってる」

「……」

「でも、できる限りそばにいたい」

「……」

「絶対に1人にはさせたくない」

「……」

「…──…不安だったよな、」

「……」

「もう大丈夫だから…、」


この人と、初めて会うのに。
頭を撫でられ、ゆっくりと引き寄せられる。
それには全く力が入っていなかった。
私が一瞬力をいれただけでも、離れることが出来る力加減。
されるがままの私は、彼を見つめてた。


ベンチに座ったままの私は、頭を抱えるように彼に抱きしめられた。


その事に嫌だとは、思わなかった。


〝体〟は受け入れている──…。


それでも腕を回すことができなかった。
恋人である〝潮くん〟が好きなのは、昨日までの〝澤田凪〟なのだから。