それほど遠くに走ったらしい。アスファルトの上を走ったから、裸足のままの足の裏は真っ赤になっていた。

暑い…汗が止まらない。

とある古い民家の住宅街に入った時、裸足のままの私をみて、見たことも無いおばあちゃんが焦ったようにサンダルを持ってきてくれた。
「熱いでしょ!履いていきなさい!」と。

真っ赤な足の裏。
私の足は、真夏のアスファルトを裸足で走ったせいで軽くやけどしていたらしい。

男でも女でもはける黒色のサンダルをくれたおばあちゃんは、「何かあったの?」と心配してくれたけど、なにも分からない私は、「…大丈夫です、ありがとうございます。必ずお返しします」とお礼を言うことしかできなかった。
だって、本当に誘拐だったのなら、見ず知らずの人を巻き込む訳にはいかないから。



いろいろ走り回っても、ここがどこか分からない。

寝巻き姿ままあの家を飛び出したけど、普通のTシャツに、短パン姿だったから特に目立つことはなくて。

このまま警察に行こうかと迷った。でも、私自身、自分の名前さえ分からないから、警察に行っても信じてくれるか分からなかったから。


歩き続けていると、どこかの駅についた。
その駅の名前を見ても、ここがどこだか分からない。
駅の掲示板を見る限り、日本のどこかなのは確かで。
でも、分からない……。
駅のトイレに行き、はあ、とため息を出せばようやく落ち着いたような気がして…。
私はそのトイレの中で、〝澤田凪〟の部屋から持ってきたファイルを開いた。




〝あなたの名前は澤田凪です
これは平成28年7月3日の私が書いたものです
あなたは10歳の頃、脳の病気になってしまい
今日あったことを明日に必ず忘れてしまいます
このファイルは日記のようなものです
読んでください
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
明日の私へ何か伝えてください
よろしくお願いします〟


〝平成28年7月4日
どうして私は記憶を無くすんだろう?
おかあさんらしい人に聞いても、病気の名前を言うだけ。
勉強が分からない
おかあさんがケーキを作ってくれた〟





同じような事が書かれていた。
〝澤田凪〟という子は、脳の記憶部分に難があるみたいで。
この日記には、書いている〝澤田凪〟以外にももう1人の人間がたくさん出てきた。
〝潮くん〟
この日記帳を見る限り、潮くんはいい人みたいだった。
この日記の持ち主の、彼氏らしくて。

小一時間ほどその日記を見て、この潮という人なら味方になってくれるかもしれないと思った。何かを教えてくれるかもしれないと。

だけど、潮くんがどんな人かも分からなければ、会ったことも無い。見つける方法が分からない。



──…最後のページを見つめる。




〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを泣かせないでほしい〟


〝今日あったことを明日になれば全て忘れてしまう記憶の病気らしい。
令和7月16日の私へ
とまどう気持ちは分かりますが、この日記を全て読んでください〟


〝私には潮くんという彼氏がいます。だけど、私は今、潮くんを信じることができません。でも潮くんは優しい。潮くんを傷つけたくない。それでも疑ってしまう。どうすればいいか分からない〟


〝明日の私へ、お願いです。
明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい
その人のことはカッターシャツと紺色のズボンの制服という事しか分かりません。潮くんのことを聞いてください。お願いします〟




潮くん、という人が泣いたらしい。
どうやら、〝澤田凪〟という子と何かあったみたいで…。


指先で、〝藤沢那月〟という文字をなぞった。


〝明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい〟


この人と会えば…何か分かるだろうか…?


〝私〟のことが、何か、分かるだろうか…。






駅のトイレの鏡を見つめた。

そこには黒い髪の女の子がいた。
胸もとぐらいの髪の長さ。
寝起きのまま飛び出したから、当たり前だけど化粧っ気のない顔。
だけども決して悪くはなかった。
色白で、二重の目で。
美人ではないけど可愛らしい、10半ばぐらいの女の子がそこにいて。


この顔に、全く見覚えがない。


「──…あなたはいったいだれ?」


その問いに、鏡の中の〝私〟は答えてくれなかった。