大きな橋の上で、目が覚めるようなブルーのマフラーをつけたひとりの女子高生と目が合うと、なぜか彼女は一粒の涙を流した。
今まで泣いていたのではなく、たしかに自分と目が合った瞬間、弾かれるように涙を流したのだ。
それは、世界の時が止まったような、一瞬の出来事だった。
呼吸の音さえ聞こえてきそうなほど感覚が研ぎ澄まされた数秒間。
その人は、すぐに人混みに紛れて、どこかに消えてしまった。
”もう二度と会えない”。
全く知らない人なのに、なぜかそんなことを、強く強く思った。
■秘密の出会い
もし、死んでも生まれ変われるのだとしたら、人は何になりたいと願うのだろう。
今よりも可愛く?
今よりもお金持ちに?
今よりも幸せに?
それとも、また自分になりたい?
私は、私以外の人間になりたい。
性別も、顔も、声も、性格も、何もかも全く真逆の人間になりたい。
私という人間が跡形もなく消えた世界で、生きていきたいと願っている。……ずっと。
「指定難病のひとつです。残念ながら、今のところ明確な治療法は見つかっておらず……ここ一年を覚悟した方がいいかもしれません」
白髪交じりの医師は、カルテを見ながらはっきりとそう告げた。
まるで他人事のように聞いている私の横で、母親は魂が抜けきったような顔をしている。
「一年……? こ……この子はまだ、十七歳になったばかりですよ……」
「まずはどこの細胞に異常があり、どんな症状があるのか、調べていきましょう。この病気の症状はかなり幅広いですから、特定することが大切です」
なんとか母親を落ち着かせようと冷静に説明する医師。
けれど、母親は心ここにあらずで、全く現実を受け止めきれていない様子だ。
「先生がさっきから、何のお話をされているのか……」
「お母さん。次は旦那さんも一緒に連れてきてください。大事な話になりますから」
語気を強める医師の言葉にも、母親は全く反応を返せていない。
ここ最近、疲れやすいと感じることが何度かあって、ついに体育の授業中に倒れてしまい、救急車で運ばれてから約一カ月が過ぎた今日。
紹介された大学病院で、ようやく病名を知ることができた。
難しい話ばかりでよく分かっていないけれど、とにかく私の肝臓は上手く働いてくれていないらしく、あと一年ほどしかもたないらしい。
意識をどこかに飛ばしてしまっている母親とは反対に、私は至って冷静に受け止めていた。
医師から病を宣告されたその瞬間――、私は、ああやっぱりそうなんだ、と思った。
中学生の頃から漠然と『十代で死ぬかもしれない』と思って生きていたから。
別に、自殺願望があったとか、そういう訳じゃない。
ただ、大人になった自分を、一切想像できていなかっただけで。
「お母さん、先生困ってるから……、もう行こう」
「嘘よ、粋(すい)……、だってこんな……」
「家で話そう」
やせ細った母親の背中をそっと撫でて、私はゆっくり立ち上がる。
医師と看護師が心配そうに見守る中、私はまるで親のようにぺこっと頭を下げて、病室を後にしたのだった。
〇
えんじ色のふかふかの椅子に座って、流れゆく黄金色の田園をぼうっと眺めていたら、必然的に眠くなってしまう。
電車の中で眠くなるのは、ゆりかごに揺られている状況と似ているから、というのをどこかで聞いたことがあるけれど、たしかに納得だ。
「ふわぁ……」
余命宣告を受けてから二週間の時が過ぎたけれど、私は変わらず学校に通っている。
毎晩母親の泣き声で寝不足だったせいもあり、ガラガラの電車に座った瞬間、強烈な眠気に襲われた。
それから、どれほど時間が経っただろう。
ふとアナウンスが耳に入り、私はビクッと肩を震わせ飛び起きた。
「うわ、やっちゃった……」
最悪だ。本来降りるべき駅から七駅も先に来てしまった。
こんなに遠くまで来たのなんて、初めてだ。
絶望的な気分で立ち上がり電車から出ると、同じようにげんなりした表情で降車した男子高校生と目が合った。
「あ……」
男は低い声を小さく漏らすと、私を見て少しだけ目を見開く。
赤沢八雲。彼は二年生になって東京の高校からこの島根に転校してきた、ちょっと変わった生徒だ。
少し癖毛の黒髪をセンターパートにした、見た目はまさに今時の男子高校生という感じ。
しかし、彼はクラス内で明らかに悪い意味で浮いている。
なぜなら、赤沢君はとにかくずっと低体温な感じで、共感性が絶望的に薄く、何を考えているのか分からないから。
まあ、一部の生徒にはその脱力加減がウケてるみたいだけど……。
「その様子だと、白石も寝過ごし?」
「う、うん……。赤沢君も?」
「うん、ゲームに熱中しすぎた。次来るの、三十分後だってよ。とりあえず座る?」
赤沢君とは今までちゃんと話したことはなかったけれど、次の電車が来るまでの三十分、ひとまず同じベンチで座って待つことになった。
背が高いから、隣に座られると存在感がすごい。
そして、彼と話すことがびっくりするほど見つからない。
気まずい空気の中、スマホをいじってもいいものか迷っていると、赤沢君に「白石ってさ、いつも何考えてるの?」と突然聞かれた。
その質問に、私は思わず「は?」と間抜けな声を出してしまう。
それをあんたが言うな、というツッコミがあと少しで喉から飛び出るところだった。
「どういうこと?」
何とか心を落ち着けて、質問に質問で返す。
「え、何かいつもつまんなさそうにしてない?」
「何それ、シンプルに失礼だね」
言い返すと、赤沢君は「ごめん」と意外にも素直に謝った。
その気の抜けた感じに、思い切り肩透かしを食らう。
結構可愛い顔をしているから皆にも受け入れられているのかもしれないけれど、シンプルにデリカシーがなさそうだ。
女子から〝鑑賞用〟と言われているのも納得。どう頑張っても会話が続かない。
駅の反対車線をぼうっと眺めている赤沢君を完全に放置することに決め、私は鞄からスマホを取り出す。
けれど、開いた瞬間スマホは黒い画面に切り替わり、虚しく力尽きた。
最悪だ。教室で充電しておけばよかった……。
私は乱暴にスマホを鞄に戻すと、どんより曇った空を見上げる。
「スマホ充電切れたの?」
赤沢君が視線だけこっちに向けて問いかけてきたので、こくんと頷く。
スマホがないだけで視線の置き場に困るなんて、随分スマホ依存症になっていたんだなと実感する。
ほぼ無人の駅に、古いベンチ、二、三十分に一本しか来ない電車。
どこを切り取っても平和なこの世界を眺めていたら、なんだか急に爆弾を落としてやりたい気持ちになってきた。
『何かいつもつまんなさそうにしてない?』
さっき言われた言葉が、妙に刺さってしまっている。
そんなにつまらなさそうに見えるのなら、急に爆弾発言を落として、思い切り赤沢君のことを動揺させてやろうかな。
本当にふと、そんな悪い考えが浮かんだ。
「じつは余命宣告受けてるんだよね」
私は、一切冗談めいたトーンではなく、至って真剣な声でいきなり告白してみた。
「え」と小さい声が隣で漏れて、数秒の沈黙が流れる。
ちらっと顔を横に向けると、赤沢君は何かを考えるように斜め先を見上げてから、ゆっくり口を開いた。
「あー、そうなんだ」
「反応、それだけ?」
思わず、芸人ばりのスピードでツッコミを入れてしまう。
表情筋を全く使わずに、どうでもよさそうに返してきた赤沢君の反応に、私はかなりがっかりした。
絡みの薄いクラスメイトに、急にどう受け取ったらいいか分からない話題を出されたら、いくら赤沢君でも動揺すると思ったのに。
「大丈夫。人はいつか生まれ変われるから」
しかし、つまらなさそうにしている私に、赤沢君はとんでもない爆弾を落としてきた。
「何それ。そういう思想?」
思い切り眉を顰めて聞き返す。幻聴でも聞こえてしまったのだろうか。
慰めてくれているわけでもなさそうだし、そんな冗談を言うタイプでもないから、ただただ謎めいている。
「いや、本当にそうなんだよ。俺、前世の記憶、全部覚えてるんだよね」
「え? え? どういうこと?」
「いや、だからそのまんまの意味だけど」
もはや面倒臭そうに答える赤沢君に、私は思い切り詰め寄った。
前世の記憶を全部覚えてるって……、いったいどういうこと?
そのまんまの意味と言われても、全く受け入れられないんですけど。
ドキュメントバラエティー番組でそんな題材を扱っているのを観たことはあるけれど、そんな人がいるなんて、一ミリも信じていない。
もう一度「どういうことか詳しく」と真剣に迫ると、赤沢君はさらに面倒臭そうな顔をした。
「死んでも記憶が消えないんだよ」
「……嘘だ」
「輪廻転生ってやつ。……信じる信じないは勝手だけど。ていうか、本当は皆等しくこの力は潜在的にあるんだよ。ただ忘れてるだけで。……まあ、だからさ、白石も今期ダメだったとしてもそんなに落ち込むなよ」
「こ、今期って……」
あまりにもノリが軽いし、発言がテキトーすぎる。
呆気に取られている私を、赤沢君はじっと見つめてきた。
「ほら、人生何周目?ってくらい落ち着いてる子とか今までいただろ。だいたいそう言う奴は、本当に人生何周かしてる」
「本当に? テキトー言ってない?」
「うん、言ってる」
な、なんなんだ……。全く性格が掴めない。
この、どこまで本気で言ってるのか分からない感じ、モヤモヤする。
もし、ありえないけど、万が一彼が言っていることが本当だったとして、どうしてそんな重要な秘密を私なんかに打ち明けてくれたのだろう。
「あの、その能力?は、他の人も知ってるの?」
「言う訳ないじゃん、スピリチュアルキャラになったら困るし」
「じゃあ、なんで今私に……」
「え、だってあと二年なんでしょ?」
ダメだ。この人、宇宙人だ。
普通、余命宣告されている人にそんなこと言える?
それとも、本気で生まれ変わりを信じているから、そんなことが言えるのだろうか。
赤沢君を睨んだままぐるぐると考えを巡らせていると、「ガチで悩んでるね」と他人事のように煽られた。
「じゃあ、分かった。時事問題一通り出してみてよ。覚えてるから」
「え、そんなこと急に言われたって……!」
「調べればテキトーなの出てくるでしょ」
そう言われて、私は赤沢君のスマホを託された。
就活向けのような時事問題だと勉強している可能性があるから、私はあえて昭和時代のニッチなクイズから出すことにした。
「昭和時代流行ったモグラのキャラクターの……」
「もぐりん」
「さくらんぼ堂のアイスクリームの初期のCMソング……!」
「ふ~たり並んで~さくらんぼ堂」
「じゃ、じゃあ、今この駅ができる前にあった建物……」
「ここ? 前の前の人生で偶然この辺で生まれた時は、喫茶店だった」
自分の祖父からしか聞いたことのない情報を、赤沢君はサラッと答えた。
正直ただのクイズオタクな可能性もあると思って怪しんでいたけれど、最後の情報はさすがに信憑性が高い。だって赤沢君は高校二年生になってこっちに引っ越してきた人で、地元は東京だと自己紹介の時に言っていたから。
「またここに住むことになるなんてなー。なんの所縁があるのか、中国地方に引き寄せられやすいんだよな」
「そ、そうなんだ……」
「ひとつ前の人生は著名な登山家。その前は巷で話題の絶世の美少女。そういえば、教師だったこともある。もう、十回は生まれ変わってるかな」
これは、信じるべきなんだろうか。もう分からなくなってきた。
吹っ掛けたのは自分なのに、完全に赤沢君のペースに持っていかれてしまっている。
「超記憶能力者って言うんだって。俺みたいな人間のこと」
「超……記憶能力……」
「ねぇ、白石こそ、何で俺なんかに急に余命宣告されてること打ち明けたの?」
突然質問される側になり、私は言葉に詰まる。
何でって言われても、大した理由はない。
さっきの発言にカチンときたから、ただ赤沢君を、困らせてみたかっただけだ。
「別に……、なんとなく」
「ふぅん? まあ、そんな落ち込まずに来世に賭けなよ」
再び言い放たれた軽い言葉に、私は思わずムッとしてしまう。
「あのさあ、私は前世の記憶を保てないんだから、私目線では人生は一度きりなんだけど、一応」
少し強めに伝えると、赤沢君は「たしかに」と言ってキョトンとしてから無邪気に笑った。
そこ、笑うとこじゃないんだけど、と思ったけれど、顔に出すだけにしておいた。
「白石が爆弾ぶっこんでくれたからだよ」
「え?」
「俺がこの能力を初めて誰かに打ち明けたの。なかなか余命宣告の話を聞かされるなんてないからね。だから俺も、同じくらいの秘密をぶっこんでみようかなって思ったんだ」
「そう……なの」
赤沢君の真っ黒な瞳は相変わらず読めないけれど、嘘を言っているようには思えない。直感的にそう思った。
私はようやく、彼の話をちゃんと聞こうと思った。
「ちなみに俺、他人の前世も見えるよ」
「え……、本当に?」
急に顔色が変わった私を見て、赤沢君は少し驚いている。
「うん、白石は、前世は男だったね。なんか結構ごつめの……」
「ごつめの……」
いや、私の前世なんて今は心底どうでもいい。
もし……、もし本当に、前世が見えるのなら……。
心臓がバクバクと高鳴って、ある感情で頭の中が支配された。
本当に人は生まれ変わっていて、彼の能力が確かなものなら、土下座してでもお願いしたいことがある。
「ねぇ、前世の記憶が見えるのなら、生まれ変わりを探して欲しい人がいるんだけど」
赤沢君の目をまっすぐ見つめて切り出すと、彼は一瞬目を見開いた。
「やだよ。面倒くさい。それに、前世の記憶がない人を、前世の名前で呼ぶのはご法度だし」
顔を顰めて速攻で断る赤沢君の腕を、私は思い切り掴んでさらに迫る。
「もし分かったらでいい! 話しかけないし、ただ見守るだけだから……!」
「えぇー……、そんなに?」
必死な思いが届いたのだろうか、私の言葉に赤沢君は少し考えるような素振りを見せる。
「分かった。いいけど、その代わり白石は俺に何してくれんの?」
「何か願いがあるなら、何でもする」
言ってから、まずいと思った。
こんなに読めない人間に「何でもする」なんて軽々しく言うなんて、どう考えてもまずすぎる。
いったいどんなお願いをされるのか、全く予想がつかない。
ドキドキしながら赤沢君の言葉を待っていると、彼はゆっくり口を開いた。
「じゃあ、未練探すの手伝ってよ」
「……未練?」
一瞬では理解出来ない提案に、思わず首を傾げる。
赤沢君はガシガシと頭を搔きながら、言い難そうにお願いごとの内容を補足し始めた。