しぐれは泣かない。しぐれは伊織を呼び続ける。伊織の墓がアスファルトで埋め固められて、その上に巨大なビルの群れが立ち並んでも、しぐれはこの地に留まり続ける。僕はずっとしぐれと一緒にいる。

「危ないよ、今日は帰ろうよ。雷だって鳴ってるし、風だって強い」

 伊織が生きていた頃は、この地にこんな大きな台風が来ることも雷が鳴ることもなかった。ここ数年の異常気象は、伊織が予知しきれなかった未来だ。

「でも、早くしないと、先に私が死んじゃうかもしれないから……」

 そう言いかけた時、ビルにかかっていた巨大な看板が風に煽られて、しぐれ目掛けて飛んでくるのが見えた。駄目だ、守りきれない。咄嗟に僕は、看板の方へ手を向けて妖気を送った。妖気は火の玉へと姿を変え、雨をものともせず看板へと向かう。そして、紫色の業火が看板を焼き払った後、静かに雲散霧消した。

 群衆が何かのパフォーマンスや手品だと信じ込んで騒いでいる間に、路地裏までしぐれの手を引いて走り、身を隠した。

「すごい。今のどうやったの?」

 目を輝かせてしぐれが言う。好きだったあの頃のしぐれの目とは違う色の目で見つめられているのに、今でもしぐれが好きだ。

「私にもできるかな。伊織ちゃんもできたのかな」

「できないよ」

 だから見せたくなかった。

「僕の体が、たまたま人魚の妖力を吸収しやすい体質だったんだ。拒否反応なしにこんなことができるのなんて僕だけだ」

 両親は馬鹿だ。二択を外した。伊織ではなく僕を選んでおけばよかったのに。僕なら伊織より強い妖術が使えたのに。それに、いくら寿命を犠牲にするとはいえ、人魚の肉が体に極端に合わなかった伊織ほど短命になることはなかった。

 伊織は馬鹿だ。嘘なら完璧な嘘をついてくれ。しぐれを幸せにするための嘘なら、せめてしぐれが前を向ける嘘をついてくれ。しぐれは今もお前の面影にとらわれているんだぞ。
 
「会えないよ、いくら踊ったって。あれは伊織の嘘なんだ」

 しぐれは馬鹿だ。言われたことを全部鵜吞みにするな。人は嘘をつく生き物だ。僕は人魚の体質が合致したから病にも罹らなくなったし、怪我をしても痛みを感じなくなった。でも、いくら不老不死になったからと言ってしぐれの体は痛みを感じるんだ。病気だって治らなかったじゃないか。頼むからもっと自分を大切にしてくれ。

 一番馬鹿なのは僕だ。あの日僕がしぐれについた嘘。

「人魚の肺を食べると妖術が使えるようになる。人魚の心臓を食べると不老不死になる」

 本当は逆だった。伊織に教えられたのとわざと反対のことを言った。

「人魚の心臓を食べると妖術が使えるようになる。人魚の肺を食べると不老不死になる」