あれは伊織があやかしになった日のことだった。

 外で遊んでいろと言われたが、居間が何やら騒がしかったので、こっそり覗くと村長が来ていた。

「いやあ、大枚はたいてようやく買えたのですよ。ほら見てくださいよ、正真正銘の人魚です。これで、息子さんを『神の子』に仕立て上げれば、この神社も安泰でしょう」

 村長が見せた人魚の死体は胸部が大きく引き裂かれていた。

「しかしねえ、自分はどうも信じられんのです。第一どこから手に入れたんです?」

「勘弁してください。先方との約束で出所は言わないことになっているのですから。でも、覚えているでしょう。あの海辺の赤目のあやかし。あいつは病気だって言っていましたけどね、本当は人魚を食ってあやかしになったのですよ。あいつはちょっとした念力が使えたのです。もっとも、逃げた先でだいぶ早くに死んじまったみたいですけどね。まあ、あやかしはみんな短命なものと相場が決まっていますから」

「ほう。それで、そちらの要求は」

「なあに、金はいりません。おたくのお坊ちゃんが無事異能を持つ『神の子』になれた暁には、うちの娘を嫁入りさせてうちの子を『神の花嫁』として迎え入れてほしいわけです。そうすれば我が一族は神の花嫁を輩出した家として地盤が強まりますから。おたくにも悪い話じゃないでしょう?」

 伊織の寿命を犠牲にして、この神社と村長一家の権力を強める私利私欲にまみれた計画。それを嬉々として語る村長の瞳は濁っていた。遠くから覗いただけでも分かるほどに禍々しい妖気を放つ目はぐちゃぐちゃな青としか表現できないような色をしていた。


「影丸、お外に出ていなさいと言ったでしょう。大人の話を盗み聞きするものじゃありませんよ」

 その時、後ろから母に声をかけられた。母は無理矢理僕を外に連れ出した。逃げようとしても強い力で腕をひかれ続け、人魚のことを聞くと「聞き間違いです」と一蹴された。

 一日中連れ回されて夜に帰った時には手遅れだった。伊織の目は今まで見たことの無いような赤色に染まっていた。

「食ったのかよ、人魚」

「うん」

「食ったら、死ぬんだぞ。何で食ったんだよ、伊織の馬鹿」

 僕は泣きながら伊織に掴みかかった。

「だって、あやかしになればしぐれの病気を治せるかもしれないだろ」

「馬鹿! それで伊織が死んだらしぐれが悲しむだろ!」

「すぐ死ぬわけじゃないよ。寿命、半分くらいになるかもしれないけど、そんなに短くならない人もいるんだって」

 神社の子として生まれた僕たち。わずか数分先に生まれた、それだけの理由で両親は「神の子」に伊織を選んだ。伊織だけが人魚を食べさせられた。

 理不尽な運命に、僕は泣き叫んだ。運命を狂わされたのは伊織なのに、伊織は僕をなだめた。こういうところが、敵わないと感じるゆえんだった。

 夜が明けるころようやく泣きやんだ僕に対して伊織は他愛もない話をした。その大半が、しぐれとの惚気話だった。僕も当たり障りのない話をしようとしたけれど口をついたのはあまりに不適切な言葉だった。

「人魚って美味かったの?」

「鰯と鶏肉をまぜてしょっぱくしたような味。あ、でもね、腕の部分はめちゃくちゃ美味しかった」

「そうなんだ」

「なあ、俺が人魚食べたって、しぐれには言うなよ」

 外には綺麗な朝焼けが広がっていた。雨が近いのだろう。

「しぐれは人魚と友達になりたいって言ってただろ。だから、こういう残酷な話して、夢を壊すようなことしたくない。軽蔑されたくない」

 それくらいで軽蔑するわけがないとは思っていたが、しぐれにショックを与えるのは間違いないだろう。言われなくとも、しぐれには黙っておくつもりだった。

 人魚の臓物を食べることよりも遥かに現実は残酷だ。しぐれの病気を治す力を求めて人魚を食べた伊織が得たのは予知能力で、それゆえに神の子として良家の許嫁をあてがわれてしまった。そして、削られる寿命には個人差があると言うが、伊織は人魚が極端に合わない体質だったようで、人魚を食べてからわずか数年で命を落とした。