――二〇一七年、九月十六日、土曜日。
 待ち合わせしているコンビニの前に着いた。
 いつも頼ってばかりでは良くないと思い、今日は映画館の近くにあるコンビニで待ち合わせしたのだ。違う街とはいえ今回も都会であるが、大通りから外れているため人通りは少ない。
 長野くん、まだ来ないな。
 もうすぐ十四時五十分になってしまうけれど、長野くんは着いていない。私はかれこれ三十分以上待っている。絶対に迷子になると思い早めに家を出たが、思ったよりも道がわかりやすく早くに着いてしまったのだ。長野くんを待っている間、この一週間抱えていた不安がさらに膨れ上がったような気がする。
 長野くんとは毎日楽しくメッセージのやり取りをしているし、学校で同じクラスの男の子達と楽しそうに喋っているところも見ている。直ちに命に関わる病気とは、絶対に考えられないだろう。考えられないはずなのに、不安は募るばかりだった。
 難病カードについても、あれから何度も検索しようとした。だが、調べようとしてしまうと万が一のことを考えてしまい、怖くて出来ずにいる。次第に、「最初に難病カードを拾った時から、プライバシーの侵害になるから調べてはいけないと思っていた」と考えるようになっていった。でも、それはただ恐怖から逃げ出すために、自分に吐いた嘘のようなものだ。もう、自分を騙すことも限界にきている。
 本人を目の前にしたら、自分がどうなってしまうかわからない。なにか変なことを言ってしまい、長野くんを傷つけてしまうかもしれない。今日の約束を白紙にすることも考えたが、それさえも出来なかった。
 だって、長野くんに会いたいから。
 完全に私のワガママだ。こんなことで良いはずがない。もっと心が落ち着いた状態でなければ、長野くんに迷惑がかかるかもしれない。それなのにどうしてこんなワガママなことを思ってしまったのか。知里ちゃんと絶縁して以来、初めて出来た友達だからだろうか。いや、理由なんてどうでもいい。とにかく会わないという決断を、私は出来なかったのだ。

「ハルカちゃんごめん!」

 少し離れたところから声が聞こえてきたので、無意識に俯いていた顔を上げた。声がした方を振り向くと、長野くんがこちらに走って来ている。私の前まで着くと、息を切らしながら言った。

「本当にごめん。スマホの充電がうまく出来てなくて電源が落ちた。そのせいで地図アプリが使えなくてさ」

 清潔感のある爽やかな服にショルダーバッグという日常的な装いなのに、その姿はまるで短距離を走り切った陸上選手のようだ。スタイルのいい筋肉質な身体付きをしていて顔も綺麗なので、どんなことをしても様になってしまう。
 一方、私は今日も新しく買った服で来たが、ここに来るまでにすれ違ったオシャレな人達の中に、上手く溶け込めていた気がしなかった。私自身がとても地味な女の子なので、私が着てしっくりくる服は自然と地味なものになってしまうのだ。
 だか、今はそんなことを考えている場合ではない。前回、いきなり泣かれた時もそうだったが、長野くんと会うと予期せぬハプニングがなぜか起きてしまう。

「私も時々充電忘れるし、別にそれは良いよ。それより走るのは身体に悪くない? 大丈夫なの?」

「今のところは大丈夫だよ。昔に比べるとだいぶ体力は低下したけどね」

 長野くんは笑顔で言ったが、私は笑顔で応えられなかった。今のところは大丈夫ということは、大丈夫じゃなくなる日のことをもう意識しているのだろうか。もうこんな段階に来ているのだろうか。それともこれだけ走れるということは、やはり体力が低下するだけで命に関わる病気ではないのだろうか。何度も考えた似たような問いがまた頭に浮かんでしまい、長野くんから目を逸らしてしまった。

「ハルカちゃん? どうした?」

 長野くんに名前を呼ばれて我に帰る。

「ご、ごめんね。なんでもない。なんか走って疲れてそうだし、水でも買って来ようか? ちょっと休んでから行こうよ」

 明るく大きな声でちゃんと受け答えができた。そんな私に長野くんは申し訳なさそうに言う。

「ぶっちゃけ、疲れたからちょっと休みたいんだよなぁ。金払うから水もお願いしていいか?」

「水くらい私が買ってあげるよ」

「いや、水くらい自分の金で買うよ」

「このやり取りずっとしてたら、休憩にならないよ?」

「まぁそうだな」

 長野くんは笑って誤魔化したので、私も笑い返してやった。メッセージが途切れないように毎日頑張ったからだろうか。長野くんの扱いにだいぶ慣れてきた気がする。
 コンビニの前で待ち合わせをしたおかげで、すぐに五〇〇ミリリットルの水を買えた。コンビニから出る私を、肩で息をしながら長野くんはうれしそうに見ている。買ってきた水を渡すと勢いよく半分ほど飲み、ショルダーバッグにしまった。やはり相当水が欲しかったようだ。

「美味い。ありがとうな」

「どういたしまして」

「おぅ。じゃ、ちょっと休ませてもらうよ」

 長野くんは前を向いて、なにも喋らなくなった。
 大通りから外れているとはいえ車の音は聞こえる。そのはずなのに、なんだか異様なほど静かに感じてしまう。
 荒かった長野くんの呼吸も次第に落ち着きを取り戻していった。でも、体力はまだ回復していないのか全然喋る気配がない。鼻が高いことがよくわかる綺麗な横顔を見ていると、また嫌なことが頭を過ってしまった。
 このまま、目を閉じたらどうしよう。
 長野くんが目を閉じてしまい、永遠に話さなくなってしまう。そんな馬鹿げた妄想が脳内に広がっていく。一人で勝手に辛くなってしまい、長野くんから目を背けて下を向いた。変な汗が流れてきて、身体が少し震え始めた時だ。

「そういえばさ。今日は空色のワンピースじゃないんだな」

 良かった。長野くんが喋った。
 極度の不安だったためか、安心が全身に回っていくのがわかる。身体の震えは瞬時に止まった。長野くんの方を向くと、いつもの元気そうな顔がこっちを見ている。話せる余裕が出てくると、今日の服装がちょっと心配になってきた。

「新しい服なんだけど、似合わなかったかな?」

「いやいや、違うよ。この服ももちろん似合ってるよ。ただオレ個人の好みとして、空色のワンピースが好きなだけ」

「あ、ありがとう」

 今日の服と前回会った時の服が同時に褒められて、ちょっと照れくさくなってしまった。もし、次も誘ってくれるなら空色のワンピースを着よう。

「あんまり休んでると映画の時間に遅れちまうな。そろそろ行くか。休ませてくれてありがとうな」

 長野くんの病気について、不安な気持ちは私の中にまだある。それでも映画に遅れたら元も子もないし、前に進むしかなかった。

「気にしないでいいよ。行こうか」

 二人は歩き始めた。
 映画館は次の角を左に曲がるとすぐにあるはずだ。でも、映画館が入るような大きなビルがあるようには思えない。左を曲がるといきなり現れるかもしれないとも思ったが、曲がってもそれらしきものはなく、一般的な雑居ビルが並んでいるだけだった。だんだん迷いが出てくる。

「道、間違えたかな?」

「いや、間違ってないはずだよ。看板見えるし」

 長野くんが指差した方向を見ると、英語で「ドリーム・シネマ」と書かれた看板があり、雑居ビルの中には下へと続く狭い階段もあった。
 なんと、映画館は地下にあるのだ。知里ちゃんの家ほどではないが階段の勾配がきつく、一番下がどうなっているかわからない。イメージしていた映画館と全く違ったが、よく見ると階段の両サイドに映画のポスターが貼られており、映画館で間違いないようだ。
 階段の前で立ち止まる。

「映画館は幼稚園の時に行ったことあるけど、こんな感じだったかな?」

「あぁ、それ商業施設とかにある大きな映画館だよね? ここは単館だからな」

「え? なにそれ?」

「スクリーンが一個しかない小さい映画館で、大きな映画館でやらないようなマイナーな作品を取り扱っているみたいなんだ」

「すごい。長野くん詳しいね」

「オレも行くのは初めてなんだけどな。よし、下りてみるか」

「そうだね」

 階段は狭いので二人が並んで降りることはできない。長野くんがゆっくりと下りていったので、私もそれに続いていく。こういうところに来たのが初めてであるため、階段が長いか短いかわからない。下まで着くと重たそうな扉があったが、長野くんはなんの躊躇いもなく開けた。
 映画館のロビーが私達を出迎える。
 私が知っている映画館に比べると確かに狭いが、地下にあるとは思えないくらい明るく親しみのある場所だった。受付のカウンターと小さな売店があり、おまけに快適に休めそうなソファーもいくつか並んでいる。前回の時も同じだったが、どうやら長野くんと狭いところに行くとソファーに恵まれるようだ。もうそろそろ映画が始まるためか、ロビーには人があまりいない。

「単館ってこんな感じなんだなぁ。すげぇいい場所。来て良かった」

「うん、私も」

「ハルカちゃんも気に入ってくれたか。良かった。あ、そうだ。チケット渡す。電子と迷ったけど、コンビニ発券にしておいて正解だったな」

「スマホは充電切れているからね」

「そうなんだよな。マジでやらかした」

 長野くんは苦笑いしてから、ショルダーバッグを開ける。そこから取り出した財布から、チケットを二枚出した。その一枚を私に差し出したので、すぐに財布を出す。チケット代は難病カードの割引で学割の半分になっていると事前に言われていたので、小銭が入っているチャックを開けた。
 そう、映画代は難病カードで割り引かれている。

『残り少ない時間を少しでも楽しく過ごせるものを作ろうってね。それが難病カードなんだ』

 博栄さんの言葉が頭の中で突然反響し、心臓が止まるかと思った。動揺しないように深く呼吸をする。もはやここまで来ると別のことを考えることもできない。苦肉の策で悪いことを考えないで済む言葉を、博栄さんの言葉から探していく。必死に、必死に、探していく。

「ダメ……見つからない……」

 独り言が漏れてしまった時、ハッとした。私はなにを言っているのだろうか。

「金ないなら今度でいいぞ? それとも小銭がない感じ? それならお釣りあるから大丈夫だぞ」

 お金のことと勘違いしてくれたおかげで突っ込まれずに済んだ。長野くんのことを騙しているようで申し訳ないが、こればかりは騙すしかなかった。すぐに財布からお札を取り出す。

「ごめんね。千円でいいかな?」

「まいどあり」

 千円札とチケットを交換すると、ニコニコしながら長野くんはお釣りをくれた。映画代の精算が終わったので、受付を済ませてから一つしかないスクリーンへ歩く。扉の前に立っているスタッフにチケットを見せると、劇場内に入れてくれた。
 昔に行った映画館の半分くらいの広さしかなく、席はほぼ満席で私語をしている人は誰もいない。確か映画館は席が階段のようになっていたと思ったが、ここは坂に席が作られている。一番後ろの左から二番目と三番目が私達の席であり、左から一番目には誰もいなかった。
 長野くんが三番目、私が二番目の席に座る。

「ハルカちゃんと映画観るの、楽しみだなぁ」

 さすがの長野くんも気を使ったのか、少しトーンを落として言った。

「うん。ありがとう。私も楽しみ」

 今は色々なことを考えすぎて頭がぐちゃぐちゃだ。でも、長野くんが楽しみと言ってくれたことはうれしいし、私だって映画が楽しみだ。長野んはこれ以上なにも話さなかったので、映画館は再び静かになった。
 もう少しで映画が始まりそうな時だ。扉の開く音が聞こえてきた。ギリギリに入ってきたその人物の足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。足音は私のすぐ近くで止まり、隣の席に座った。なんとなく座った人を見てみると、思わず目を奪われてしまう。
 隣に座っていたのは二十代前半くらいの女性だった。私よりも地味な服装でわ失礼だが全然似合っていないドッグタグネックレスをつけている。だが驚いたのはそこではなかった。
 ファッションには全く興味がなさそうだが、顔が人形のように整っていて、肩まである黒い髪もシルクみたいなのだ。一般人とは違うどこか儚げな雰囲気を放っており、全く知らない人であるけれど、浮世離れしているように感じる。スクリーンの中から現れたのだろうか。こんなに顔が綺麗な女性は初めて見た。でも、男性だったら一人知っている。
 顔が綺麗な男性は、逆を向くといた。私があげたペットボトルで水を飲んでいる。こちらは儚さの欠片もなく、どちらかと言えば俗っぽい。でも、それが長野くんの魅力なのではないだろうか。いつも自然体で明るく元気でいてくれるのだ。
 突然、館内が暗転した。そろそろ映画が始まる。
 慌ててスクリーンの方を向くと、まずは予告から始まった。全てにおいて規模が小さいだけで、単館でも普通の映画館と変わらないようだ。いくつか予告があったが、その中でもミステリー映画が面白そうだと思った。その時、大きなことに気が付く。
 今までの私だったら「面白そう」って思えただろうか。小学生の時に必死に勉強をやりすぎて、物事の楽しみ方や人との関わり方を完全に忘れていたはずなのに、今は面白そうと思えている。今から観る映画のあらすじを読んだ時も、知里ちゃんの家で読んだ漫画も面白いと思えた。自分ではいつの間にかそれが当たり前のことになっていて全く意識しなかったのだ。
 私が変わった理由は一つしか考えられない。長野くんに出会ったからだ。長野くんと出会ってまだ一ヶ月も経っていないけれど、大きく影響を受けている。長野くんのおかげで楽しい時間を過ごせるようになったのだ。
 待ちに待った本編が始まる。
 この映画を観られるのも長野くんのおかげだ。長野くんの病気という不安を振り切るように、感謝の気持ちで映画の世界に没入していく。
 長野くんが言った通り、ハートフルな映画だった。精神を病んでしまった女子大生の主人公が大学を休学して田舎暮らしを始め、最初は村の風習に戸惑うも徐々に馴染んでいき居場所を見つけていくという物語だ。観ているだけで心が温まる。
 特に、村で仲良くなった男の人と星空に照らされた草原で話すシーンが好きだ。主人公が完全に心を開くきっかけとなった重要な場面だが、日本にこんな素敵な場所があるなんて知らなかった。
 映画はあっという間に終わりを迎える。
 二時間以上は上映していたと思うが、まるで一瞬にして輝いた打ち上げ花火のようだ。それでいて、まだ映画の世界の中にいる気もする。観客はみんな同じような余韻に浸っているためか、館内が明るくなってもまだ静かにしないといけない空気だ。隣の席に座っていた美人さんが立ってから、私と長野くんも席を立ち帰りの扉へと静かに歩く。
 ロビーまで着いた。
 ここでは話している人やソファーで休んでいる人もいて、いつも通り過ごしていても大丈夫な雰囲気だ。ここでやっと映画が終わったことを実感した。長野くんも同じことを思ったのか、私よりも先に口を開いた。

「めちゃくちゃ面白かったな。ハルカちゃんはどうだった」

「私も面白かったよ。ありがとう」

「おぉ。やっぱオレ達、気が合うなぁ」

「あ、ありがとう」

 長野くんは満足そうに笑った。面と向かって気が合うと言われるとちょっと恥ずかしい気もするけれど、それ以上にうれしい。
 長野くんの視線が私からずれた。映画館の出口に向かっていた足が視線の先に進み始たので、私もついていく。すると、長野くんは一枚の張り紙の前で止まったのだ。

「この映画館の公式アカウントがメッセージアプリの友達登録を募集しているみたいだな。記念に登録しておこうかな」

 張り紙には公式アカウントのQRコードと登録の特典が書いてあった。

「私もしておこうかな? でもQRコード読み取るアプリが……」

「カメラをかざすだけで大丈夫だよ」

「ありがとうやってみる」

 カメラアプリを起動してQRコードを写すとリンクが表示された。そこをタップするとメッセージアプリが自動で開く。「ドリーム・シネマ公式アカウント」が画面に表示されたので、「追加」と書かれたアイコンをタップした。人生で初めて公式アカウントを追加した瞬間だ。

「できたよ。教えてくれてありが……」

 長野くんは肩を落としてションボリとしていた。そのままゆっくりと私の方を向く。

「スマホの充電ないの忘れてた」

「あ……」

 映画に記憶が上書きされてしまい、私もすっかり忘れていた。

「本当にやらかしちまった。もう帰ろう」

 二人は帰る方向へと向かう。
 映画館から出て階段を上がりきると、ビル群がおかえりと言ってくれたような気がした。長野くんもがっかりしながら歩いていたが、もうすっかり元気になっていて、そのままスキップしてしまうような勢いだ。勢いのまま映画の感想を話し始める。

「星空のシーンがあったよね。オレさ、あれが観たかったんだよ。予告で見るより綺麗で最高だった」

 まさか長野くんも同じシーンが好きだとは思わなかった。本当に私達は気が合うようだ。

「私もあのシーンが一番気に入ったよ。あんなところ日本にあったんだね」

「あれね、長野県にあるんだよ。ずっと行ってみたくてさ」

「へぇ。長野ってすごいね」

「お? オレのこと褒めてくれた?」

「長野県の方ね」

 雑談を交えながら映画の感想で盛り上がり、帰り道はあっという間に駅の改札まで着いた。おかげで長野くんの病気に対する不安が込み上げてくる隙がなかった。でも正確にいうならば、隙ができないように私も頑張って話したのだ。元々お喋りが得意な方ではないので、楽しいけどちょっと疲れた気がする。
 今回は用事がないようで、長野くんも電車に乗った。
 電車はどうにか座れる程度には空いており、ここでも他の乗客の迷惑にならない声で映画の感想を語り合った。ここまでは会話が弾んだのだ。
 電車を別の路線へと乗り換える。こちらの電車の方が空いており、余裕を持って座ることができた。だが座った途端、長野くんは喋らなくなってしまったのだ。健康な私でも疲れているので、きっと疲れてしまったのだろう。
 不安がまた押し寄せてくる。
 長野くんの方を見てみると、無表情で前を向いていた。疲れているようには見えないけれど、元気があるようにも見えない。なんて声をかけたらいいかわからなかったが、まだ最寄り駅までは距離があるので、もう寝るしかなかった。寝ている間は不安を感じずに済む。
 目を閉じると、電車の走る音が子守唄のように聞こえてくる。車内の揺れも心地よく、すぐに眠れるはずだった。だけど、全く寝付けそうにない。不安はどうやら私も夢の世界へ逃してくれないようだ。
 さっきまでは時間を感じなかったのに、今は駅と駅の間が異常に長く感じる。もうすぐ長野くんの最寄駅に着いてしまうので、眠ることを諦めて目を開いた。目を閉じた時よりも、電車の中は混雑している。

「ねぇ、ハルカちゃん」

「な、なに?」

 突然、長野くんが話しかけてきて、驚きで声が裏返ってしまった。でもそんなことよりも、心なしか長野くんの声が暗い気がする。長野くんの方を見ると、しょんぼりと下を向いてた。

「今日、もしかして乗り気じゃなかったかな?」

「え?」

 一体、なにを言っているのだろうか。確かに不安は常に付き纏っていたけど、私は今日を楽しみにしていた。長野くんは淡々と話を続ける。

「今日一日、いつもと様子が違って暗い感じがしたんだ。オレ、ハルカちゃんのこと結構強引に誘ってるから、もしかしたらオレといるのが本当は嫌なのかなとか考えちゃって……」

 長野くんに完全に見透かされていたのだ。カラオケで無意識にリズムを取っていたくらいだから、もしかしたら自分では気づかないところで、態度に出てしまったのかもしれない。そうだとしても、かなり勘違いされている。

「そんなことないよ。長野くんといるの楽しいよ。嫌だなんて思ったことないから」

「そっか。それならオレの考えすぎだったのかな」

 長野くんの声にいつものような明るさは戻らず、なんだか煮え切らない様子だ。このままでいいのだろうか。きっと長野くんはモヤモヤを抱えてしまっただろう。私だってモヤモヤを抱えている。向き合うことは怖いけど、長野くんに嫌な思いをさせるのはもっと嫌だ。

「……ちょっと話したいことがあるの。長野くんの家の近くに二人で話せそうなところない?」

 内容が内容だけに、こんな人が多い電車の中で聞けるものではない。だから場所を変えようと聞いてみたのだ。長野くんは私を見て言った。

「それなら駅の近くに公園があるからそこにしよう。まさか愛の告白か?」

 いつもの長野くんだ。声は明るく、イタズラっぽく笑って私をからかっている。

「違うって。もう、なんでそうなるの?」

 人の気も知らないで冗談を言う長野くんに、安心して笑ってしまった。私に釣られてか、長野くんも安心したように微笑んだが、なにも言い返さなかった。
 長野くんの最寄駅で降りる。
 特に言葉を交わさないまま長野くんについていくと、駅のすぐ近くにちょっと広めの公園があった。通り道になっていて人が数人歩いているが、ここなら問題なく話せそうだ。ベンチに座ると、長野くんの方から話しかけてきた。

「話したいことってなに?」

 博栄さんが言っていたことの真相を聞こうと思った時、まだ長野くんにお礼を言えていないことを思い出した。まずはそこから話そう。

「長野くんと遊んだ次の日なんだけどね。絶縁していた親友の家まで謝りに行ったの。長野くんがカラオケで一歩勇気を踏み出すように言ってくれたおかげで出来たんだよ。ありがとう」

「良かったな。オレはなんもしてないけど、マジで良かった」

 長野くんはまるで自分のことのように喜んでくれた。本当に心の底からうれしそうだ。

「全部、長野くんのおかげだよ」

「いやいや、オレはマジでなんもしてないぞ? ハルカちゃんと田中さんが切っても切れない縁を作れたからだよ」

「え? なんで知里ちゃんだって知ってるの?」

「正文からメッセージがきてさ、ちょっとだけ話を聞いていたんだ。ハルカちゃんの口からも聞けて良かったよ」

 そういえば知里ちゃんの彼氏と長野くんは中学生の時に仲が良かったと言っていた。正文とはおそらく知里ちゃんの彼氏のことだろう。でもやっぱり長野くんと知里ちゃんはあまり親しくないようだ。私や正文くんのことは名前で呼んでいるのに、知里ちゃんのことは名字で呼んだ。ちょっと寂しかったが、本題はそこではない。

「知里ちゃんのおじいちゃんにも会ったんだ」

「おぉ、そうか」

「知里ちゃんのおじいちゃん、昔、政治家やっていてさ。難病カードの制度を作ったんだよね」

「そうだったのか! 知らなかった」

 公園を歩いている人がこっちを見てしまうほど大きな声で長野くんは言った。目を丸くしてこっちを見ている。

「うん、そうなんだよね」

「田中さんのおじいちゃんに感謝だなぁ」

 長野くんはニコニコと笑っている。それでも私はとてもそんな気分にはなれない。これから本題を話そうと思うと、不安や恐怖がまた込み上げてきたのだ。だけど、もう逃げるわけにはいかない。

「知里ちゃんのおじいちゃんね、残り少ない時間を少しでも楽しく病気の人が過ごせるように、難病カードを作ったんだって」

「すげぇ。めっちゃ立派な政治家だな」

「……長野くんの病気ってそんなに悪いの? 知里ちゃんのおじいちゃんの言葉がずっと引っかかっていたの」

 長野くんの表情が変わった。明らかに動揺して私から目を逸らして下を向いた。だがすぐに観念したかのように大きなため息を吐く。真っ直ぐ私を見るその表情は、長野くんとは思えないほど真剣だった。

「ごめん」

「え……」

 なんで謝られているのだろうか。全く意味がわからない。なにも言えなくなってしまった私に、今度は妙に軽い口調で長野くんはとんでもない事実を告げた。

「いや、本当にごめん。あのカード、余命半年切ってる人しかもらえないんだよね。いつかちゃんと話さなきゃいけないよなぁって思っていなんだけど、余計な心配かけたくなくて言い出せなかった」

「半年って……」

 ある程度は覚悟していたが頭が追いつかない。長野くんが言った言葉をただオウム返しすることで精一杯だ。

「あぁ、それなんだけど……実はもう十二月までもたないんだ。色彩灰化っていう特定の色が見えなくなる症状があって、それが出ちまったからね」

「そんな……だって長野くん元気じゃん。そんな話、受け入れられないよ」

 考えるよりも先に言葉が出てしまいハッとした。長野くんに失礼で酷いことを言ってしまったのだ。すぐに謝ろうと思ったが、長野くんは諦めたように笑ってから言った。

「信じられないのは無理ないよ。この病気、死ぬ数日くらい前までは元気だからね。一週間もしないうちに足から身体が徐々に灰になっていくんだ」

「は、灰?」

「そう。灰壊病って病気で体が灰になっちゃうの。骨も残らないから火葬場いらずってわけよ」

 まるでいつもの冗談のように長野くんは言った。冗談ならタチが悪すぎる。でも冗談であって欲しい。
 長野くんから目を逸らし、自分の靴を見る。長野くんがショルダーバッグを開けるような音が聞こえてきたが右から左に流れていった。

「ちょっとオレの方を向いて」

 自分に向けて長野くんが言ったと、理解するのに少し時間がかかった。ゆっくりと長野くんの方を向くと笑顔で私の方を見ている。その手には包装された長方形の箱が置かれていた。

「今日はハルカちゃんの誕生日だろ? これ、プレゼントね」

 一体、誕生日のことをいつ話したのだろうか。自分でも誕生日だと言うことを忘れてしまうくらい頭が真っ白だったためか、全く思い出せない。それでもプレゼントを差し出された驚きで、反射的に声を出すことができた。

「え? これを私に?」

「もちろん。渡せないかなと思ったけど、渡せて良かったよ。開けてみて」

「う、うん」

 プレゼントを受け取って包装を外すと、オシャレな箱が出てきた。箱を開けて中身を見る。
 真っ青な財布だ。
 私が持っているワンピースの空色とは違い、こちらの青の方が高級感がある。私には勿体ないくらいだ。

「可愛い。これ、本当に貰っていいの?」

「あげるために買ったんだから、むしろ貰ってくれよ」

「ありがとう。大切に使うね」

「気に入ってくれてよかった。空色はハルカちゃんに似合うからさ」

「これ、空色というにはちょっと濃すぎない? でもこの色も好きだよ」

 長野くんは軽く笑うと、最初に謝った時と同じくらい真剣な顔になった。

「こちらこそありがとうな。今日はオレのせいで辛い思いさせてごめんね」

 辛い思いは確かにした。でもそれだけではなかった。長野くんに伝えたい気持ちを言葉にする。

「長野くんは悪いことなんてなにもしてないし、今日は楽しかったよ」

「そう言ってもらえるとオレも少しは楽になるよ」

 笑顔になった長野くんに、私も笑顔を返した。こうやって自然と笑えるようになったのも長野くんのおかげだ。

「もう遅いからそろそろ帰ろうぜ」

「そうだね。今日は映画もプレゼントもありがとう」

「そんなの気にしなくていいよ。駅まで送ろうか?」

「お願いしようかな」

 帰る準備をして、公園のベンチを立った。
 駅までの短い道のりは、まるで何事もなかったかのようだ。長野くんが面白い話をしてくれて、楽しくお喋りする。普段の二人と変わらない。
 改札の前に着いたので、長野くんとはここで別れた。駅のホームまで一人で降り、電光掲示板を見る。電車は行ったばかりのようでしばらくは来ないようだ。
 一人になると恐怖が押し寄せてくる。
 なにもしないと余計に怖くなりそうなので、スマホでメッセージアプリを開き、二人のやり取りを見た。さっきも会ったし、長野くんは確かに存在している。それがもうすぐ灰になって死んでしまうなんて、あまりにも現実離れしていて信じられない。
 長野くんを失う恐怖に抗うようにやり取りを遡る。すると長野くんのアイコンに指が触れてしまいプロフィールが表示された。名前の下に、ケーキのマークと日付が書いてある。どうやら誕生日がプロフィールに表示されるようで、きっと長野くんもこれを見たから私の誕生日を知っていたのだろう。
 長野くんの誕生日はもうとっくに過ぎていた。十二月までもたないと言っていたので、プレゼントをお返しすることもできない。そう思うと身体が震えてきた。長野くんの寿命が残り僅かだなんて信じたくない。
 そうだ。難病カードを調べよう。
 僅かな望みだった。難病カードの正確な交付条件は長野くんからしか聞いていない。もしかしたらなにかの間違いの可能性だってある。長野くんが私をからかって言ったことだってあり得るかもしれない。
 難病カードについて検索すると、政府のホームページが出てきた。祈るような気持ちでクリックする。一般向けに作られたホームページでレイアウトも見やすく、わかりやすい言葉で難病カードについて説明されていた。
 難病カードは余命半年を切ると貰える。
 どこを読んでも、何度読み返しても、文章の意味を無理やり深く考えても、そこに書かれていた事実は覆ることがなかった。長野くんがカードを持っている時点で余命半年を切っていることに間違いはないのだ。
 電車が来たので乗った。
 空いている席がなかったので、絶望しながら電車に揺られる。あと二ヶ月もしないうちに長野は灰になってしまう。その事実がより鮮明になったのに全くイメージが付かない。そういえば、全くイメージできない病気が他にもあった気がする。
 最寄駅に着いた時、ふと思い出した。
 確かエーテル気化症候群だ。長野くんと初めて会った日、教室で病気の特集を読んだけどそこに書いてあった気がする。もしかしたら、その記事に灰壊病についても書いてあるかもしれない。
 電車から降り、灰壊病について調べる。
 人生で初めて歩きスマホだ。人の邪魔にならない場所まで着いて足を止める頃、その記事は見つかった。これが最後の望みだ。長野くんの寿命がそこまで短くない可能性に賭けて、灰壊病のところをじっくりと読む。その記事を読み終わると、今度は別のホームページを読んだ。

『灰壊病の遺伝子を持っていても発症するのは稀である』

『体力が低下していく』

『特定の色が見えなくなる色彩灰化が起きると、約三ヶ月後に亡くなる』

『体毛灰化が起きる』

 ここまでの情報を得た時、思い出した。そういえば長野くんにスマホを操作してもらった時、画面に白い粉みたいな物がついていたのだ。夜のコンビニで会った時も、なにかがジャージの袖から溢れるのも見た。もしかしたら、あれが灰になった長野くんの体毛だったのかもしれない。
 それでも希望を捨てずにさらに情報を調べる。

『足趾灰化が起きると、三日かけて四肢が灰になる』

『眼球灰化が起きると、二時間以内に残りの全てが同時に灰化して亡くなる』

『灰壊病の治療方法はなく、薬で体力の低下を防ぐことしかできない』

 私が望んでいる情報はなに一つなかった。絶望さえも失い、虚無のまま駅を後にしたのだ。
 もう外はすっかり暗くなっている。帰り道を漂うように歩くと、いつの間にか家の前まで着いていた。チャイムを押してからドアを開く。

「ただいま」

 力なく言う私を、お父さんが心配そうに出迎えてくれた。

「るーちゃん大丈夫か? 具合悪そうだけど」

「ちょっとね。今日はご飯いらない」

「相当顔色悪いよ。早く寝な」

「そうする」

 二階にある自分の部屋に入ると、ベッドに寝転んだ。疲れが一気に噴き出して身体が全く動かない。次の日も一日中、トイレと水分補給以外はベッドから起き上がれずなにもできなかった。出来たのは長野くんになにもしてあげられない自分の無力さを憎むことだけだ。
 知里ちゃんと会う日が月曜日で良かった。