夜鹿が研究室で植物の状態を観察して、周りの音も忘れるほど集中しているとき、その声は聞こえることがある。
 言葉というより笑い声、それもずいぶんと幼い子どもが、高く得意げに喉を鳴らしたような声だった。
 顔を上げて辺りを見回しても、そこに子どもの姿はない。研究室は薬剤を扱っていて子どもには危ないから、誰かが連れてくるとも思えない。
 それが真夜中であれば怪談の一つにでもなるのだろうが、それが聞こえるのは決まって昼下がり、灰に似た陽光が窓から入って来る頃なのだった。
 実験動物を扱うのは別の部署だから、何かの機器の音を聞き違えているのだろう。そういつものように思おうとして、夜鹿は開け放った扉に目を留めた。
 夜鹿の研究室には分室に続くいくつかの扉がある。普段は閉じているが、誰かが入室しているときは開け放つこともある。
 そこから聞こえてきたのは、冷慈の声だった。誰かにささやくような声に、夜鹿を小さな嫉妬心が刺した。
 冷慈とは公言しているものではないが、恋人同士だと思っている。もちろんここは職場で、冷慈が誰かに声をかけるのも当然のことだが、その声色がとても優しいのだ。
 けれど夜鹿はそれを追及して冷慈に嫌われるのを恐れた。彼は仕事でも先輩以上に夜鹿の中で大きな存在で、彼に失望されたくない一心で目を背けた。
 開け放った扉から冷気が流れ込むように、夜鹿はひどくそちら側に身を固くしながら、目を伏せて仕事に集中しようとした。皮肉にもそれはますます夜鹿の耳を鋭敏にして、耳に届くか届かないかの微かな声に全身を傾けてしまった。
 まだ……まだ早い。時間をかけて、たくさん……の方が、いい。
 冷慈の声に子どもの笑い声が重なったとき、夜鹿はふっと目の前が暗くなった。
 肩を叩かれて振り向くと、そこに冷慈の心配そうなまなざしがあった。彼の視線の先を追うと、頬に涙が流れた跡があった。
 彼はハンカチを取り出して夜鹿の頬を拭うと、どうしたのと視線で問いかけた。
「……私は病気なんでしょうか」
 ここが職場ということを忘れて、夜鹿は不安を口にしていた。
 時々見る幻覚、ありもしない子どもの声、どうしてか途切れる現実感、この不安の正体がわからない。
「夜鹿は繊細な子だから。そこが愛おしくもあるのだけど」
 冷慈は夜鹿の背をさすって、考えた後に言った。
「少し仕事を休んでみる? それと……医者にも行こうか。一緒にね」
「でも、迷惑をかけたくありません」
 抵抗した夜鹿に、冷慈は優しく目をのぞきこんだ。
「永くここにいてほしいんだよ。寄りかかって構わない」
 冷慈は夜鹿の肩を引き寄せて自分にもたれさせた。
 夜鹿は自分の中の不安を言葉にできないまま、彼の肩を拠り所に目を閉じた。