そこは琥珀街~隠り世と溺愛ご夫君に囚われて~

 会社で冷慈と夜鹿の関係を言い表すとすると、親子という言葉が一番近いように思う。
 夜鹿には機構図だけで見知っている上司がいるが、会社は社員ごとに詳細な教育を施していて、上司との関係はほとんどなかった。入社したときから夜鹿は一つの職責を持っていて、各部門から指示を受けて仕事を進めていた。
「夜鹿、何に見える?」
 でも淡白な人間関係に思える会社の仕組みに反して、夜鹿は冷慈にだけは仕事の一つ一つを手作業で教わっている。
「実……のように見えます」
「そう。おめでとう。夜鹿の初めての成果だよ」
 冷慈が葉をめくりその下に宿るものをみつめる目は、慈しみで満ちている。研究対象を見るより、それはもっと親密な感情のように思う。
 夜鹿もまた、主人に水を与えられる植物のようだった。冷慈は優しく、慈愛をもって夜鹿に知識と仕事の進め方を教える。体調が優れなければ労わり、植物を叱る者などいないように、そこに荒い感情はどこにもない。
「社の目的は果実を得ることではないと聞きました」
 ただ子どもは親の愛情を独占したがるもののように、冷慈から特別なものを受け取ることを望んでいる自分がいる。
 夜鹿の声はすねた子どものように聞こえただろうか。冷慈は優しく夜鹿の感情をなだめて言葉を返した。
「持続していくという目的には、実は不可欠なものなんだよ」
 夜鹿の勤める会社は、農業とも製造業とも区別のつかない生産行動を行っている。社は植物を生育し、加工物を作り、琥珀街の生活に貢献しているらしいが、その個々の部門は名前も知らない社員たちの分業で成り立っている。
「ちょっと疲れたかな。休憩しよう」
 今の夜鹿に任されているのは、温室の一角の植物に水と肥料をやって、日々温度と養分をはかり、実をつけるところを見届けるまで。
 今しがたまで夜鹿が日夜みつめ続けた植物たちは、別の部門の社員が台車に乗せて運んでいく。その先でどんな加工がされるのか、最終的にどのような姿になるのか、想像がつかなくて少し胸が痛んだ。
 冷慈がポットからコーヒーを淹れて差し出してくれた。夜鹿は就職するまでコーヒーを飲む癖はなかったのに、この社で飲むコーヒーは苦くも胃を痛めることもなく、気が付けばいつも口にしている。
「子どもたちはまた戻って来るよ」
 夜鹿は冷慈のように、育てた植物を子どもたちと呼べない。自分と植物は、主人といつか殺められる家畜の関係のようで、そこに愛情を挟むには残酷に思えるから。
 社員たちが植物を運び出して姿を消した後、冷慈はその繊細な指先で夜鹿の手を包んだ。
 手を握り返すにはここは職場で、けれど振り払うことはできないままもう片方の手でコーヒーを一口飲んだ。
 コーヒーの香りは、先ほど実の側で鼻先をかすめた匂いと同じような気がして、鈍い違和感を抱いた。
 赤道直下で育つコーヒーが実をつけるとしたら、ここはどこにあるというのだろう。
「おいしい?」
 冷慈が指先をくすぐったから、子どものようにはにかんでうなずいた。
 いつ飲んでも同じ味がするコーヒーは、今日もとても美味しい。
 夜鹿の会社は琥珀街の木々に水を巡らせ、その水を浄化する生業も行っている。
 琥珀街は至るところに並木道のあるところで、その水を巡らすのは重要な仕事だった。水道というと公共の仕事にも思えるが、夜鹿には関わりのない部署で公の機関と取り決めがされて、区別されていると聞いた。
 夜鹿は化学者の一人として、会社の管理する並木道の樹木を点検することがあった。水質を調査し、樹皮から生育状況を確かめていた。
 美しい木であるからといって、健康とは限らない。夜鹿は大学でそう学んだ記憶があるが、琥珀街の樹木は退屈なくらいに病理が発見できない。
 少し歩み、立ったまま樹皮を調査しては、また少し歩む。琥珀街の並木道には特異な種や色はなく、整然と同じ木が続く。
 ふと顔を上げると、木立の間から陽光が差し込んでいた。緑より灰に近いような色と肌触りでぱらぱらと夜鹿の頬に落ちてくる。
 光をみつめた直後にそうであるように、夜鹿が顎を引いたとき、世界が一瞬暗闇に沈んだ。
 けれどその暗闇は白昼夢を伴って、夜鹿は立ったままそこに森を見ていた。
 そこには密林のように枝葉が垂れ下がり、重そうにいくつも実を結んでいた。それは母体の樹から過酷なほど養分を奪って、今にも母体を殺めてしまいそうに思えた。
 ついに枝では支えきれず、人の頭ほどにふくらんだ真っ赤な実が枝を離れて落ちたとき、夜鹿は両手を差し出してその実を受け止めようとした。
「先を急ぐことはないよ」
 背中を支えられて我に返ると、点検に同行していた冷慈の腕が回っていた。
 立ち仕事を続けたための貧血だったのか、雑音に似た頭痛が襲ってきた。冷慈に助けられて縁石に腰を下ろして、持ち合わせの水を渡される。
 水を喉に通して深呼吸すると、平常で整った並木道だけが辺りに広がっていた。不安にとらわれて冷慈を見上げると、彼は先ほど夜鹿の背を支えたように優しくその不安を受け止めた。
「僕は「早く」「果実」を産むように……そういうやり方は教えてない。過去や世界のどこかでは、そうだとしても」
 それは仕事のすべなのか、それとも二人だけのときに話すささやかな未来のことなのかわからなくて、夜鹿はまた視界が少しかすんだ。
 冷慈はそのどちらのことも含んだらしかった。夜鹿によく水を飲ませて休ませると、時間をかけて夜鹿が回復したかを確かめていた。
 もう歩けますと、夜鹿はそう口にした。けれどどこまでも続くような並木道にまだ目がくらんでいる自分に気づくのは、時間がかかりそうだった。
 琥珀街には目立つ娯楽施設はないが、時代に取り残されたようなものがぽつぽつと点在する。
 たとえば無人の駄菓子屋、不規則な格子模様の長い軒下、看板のない金物屋、夜鹿が街を歩いていると、ふとした拍子にそういったものに出会う。
 どれもうまくすれば観光資源になりそうであるのにまるで商売っ気がなく、ほこりがかぶったままという印象の遺物だった。夜鹿も意識してそれらを探しているわけではなかったから、みつけるたびに既視感に似た感情を抱くくらいだった。
「ここ、会社の廃水を扱っているところですね」
 だからあるとき夜鹿がそこで足を止めたのは、関心からというより仕事の名残からだった。
 土曜日、まだ仕事の感覚が抜けきらない午前中、冷慈と街を歩いていた。ここのところ仕事で四六時中一緒にいる冷慈と休日も共に過ごしているのは、いつからか当然の光景のように思っていた。
「入ってみる?」
 冷慈に誘われて、夜鹿は古びたのれんをくぐって中に入った。
 そこは温室のような園芸店で、鉢植えや肥料が無造作に並べられていた。入口は狭かったが奥行きはあるらしく、夜鹿は商品に袖を引っかけないように慎重に奥に進む。
 あまり花は売っておらず、そもそも値札は貼られていなかった。けれどそんな無造作さに反して、店内の環境は理想的に近かった。化学者の夜鹿が驚くほど、試験管の中で管理しているような温度と湿度で、実際に緑の蔓が鉢植えからあふれんばかりに伸びていた。
 ただ植物にとっての最適と人における最適は違う。そこは蒸し暑く、夜鹿は次第にじっとりと肌ににじんでいく汗を感じた。何と名指しできるものでもないが、むせるような土の匂いもどちらかというと不快だった。
 誰もいない店内、奇妙に長い通路を進むうち、夜鹿はなぜ進んでいるのか疑問を抱いた。
 廃水の行き先など詮索してどうするのだ。数値的に環境基準に反しないことは夜鹿だって確認している。まして人の口に入るような河川に放水しているわけではなく、植物を育てるのに再利用しているなら咎められるところもない。
 でも喉を異物が通っていく瞬間のように、どうにも肌が粟立って仕方がない。不安感に似た感情にとらわれたとき、後ろを歩く冷慈が優しく声をかけた。
「夜鹿、立ち止まって息を吸ってごらん。何の匂いがする?」
 夜鹿は子どものように言う通りにしていた。立ち止まって慎重に息を吸う。
 好まない匂いの中で呼吸をするのをためらっていたのか、それは案外夜鹿の体を楽にしてくれた。
 今までだって、植物が排するものを吸って息をしてきた。そう思い返すと、どうして植物の匂いを恐れていたのかわからなくなった。
「会社の植物と同じ匂いがします」
「うん。この子たちもいずれ同じ実をつける」
 馴染んだ水の音がどこかで聞こえていて、次第に会社でいつものコーヒーを飲んでいるような気分に落ち着いていく。
「愛せるようになるよ。いずれね」
 結局、店では誰にも会うこともなく、音だけが聞こえる水のありかも目にすることはなかった。
 冷慈に手をすくいあげられて歩くうちに、手のひらから伝わる熱だけを追っていた。
 夜鹿が研究室で植物の状態を観察して、周りの音も忘れるほど集中しているとき、その声は聞こえることがある。
 言葉というより笑い声、それもずいぶんと幼い子どもが、高く得意げに喉を鳴らしたような声だった。
 顔を上げて辺りを見回しても、そこに子どもの姿はない。研究室は薬剤を扱っていて子どもには危ないから、誰かが連れてくるとも思えない。
 それが真夜中であれば怪談の一つにでもなるのだろうが、それが聞こえるのは決まって昼下がり、灰に似た陽光が窓から入って来る頃なのだった。
 実験動物を扱うのは別の部署だから、何かの機器の音を聞き違えているのだろう。そういつものように思おうとして、夜鹿は開け放った扉に目を留めた。
 夜鹿の研究室には分室に続くいくつかの扉がある。普段は閉じているが、誰かが入室しているときは開け放つこともある。
 そこから聞こえてきたのは、冷慈の声だった。誰かにささやくような声に、夜鹿を小さな嫉妬心が刺した。
 冷慈とは公言しているものではないが、恋人同士だと思っている。もちろんここは職場で、冷慈が誰かに声をかけるのも当然のことだが、その声色がとても優しいのだ。
 けれど夜鹿はそれを追及して冷慈に嫌われるのを恐れた。彼は仕事でも先輩以上に夜鹿の中で大きな存在で、彼に失望されたくない一心で目を背けた。
 開け放った扉から冷気が流れ込むように、夜鹿はひどくそちら側に身を固くしながら、目を伏せて仕事に集中しようとした。皮肉にもそれはますます夜鹿の耳を鋭敏にして、耳に届くか届かないかの微かな声に全身を傾けてしまった。
 まだ……まだ早い。時間をかけて、たくさん……の方が、いい。
 冷慈の声に子どもの笑い声が重なったとき、夜鹿はふっと目の前が暗くなった。
 肩を叩かれて振り向くと、そこに冷慈の心配そうなまなざしがあった。彼の視線の先を追うと、頬に涙が流れた跡があった。
 彼はハンカチを取り出して夜鹿の頬を拭うと、どうしたのと視線で問いかけた。
「……私は病気なんでしょうか」
 ここが職場ということを忘れて、夜鹿は不安を口にしていた。
 時々見る幻覚、ありもしない子どもの声、どうしてか途切れる現実感、この不安の正体がわからない。
「夜鹿は繊細な子だから。そこが愛おしくもあるのだけど」
 冷慈は夜鹿の背をさすって、考えた後に言った。
「少し仕事を休んでみる? それと……医者にも行こうか。一緒にね」
「でも、迷惑をかけたくありません」
 抵抗した夜鹿に、冷慈は優しく目をのぞきこんだ。
「永くここにいてほしいんだよ。寄りかかって構わない」
 冷慈は夜鹿の肩を引き寄せて自分にもたれさせた。
 夜鹿は自分の中の不安を言葉にできないまま、彼の肩を拠り所に目を閉じた。
 夜鹿が冷慈に付き添われて訪れた病院は、高台の上で緑に囲まれて佇む建物だった。
 周囲はおそらく夜になれば真っ暗になるほど孤立したところで、商業施設も住宅街もない。病院に用事のある車とバスしか通行できず、ふもとからは距離があるので徒歩で来るのは難しいところにあった。
 夜鹿が病院前のバス停で降りたとき、かぐわしい花の匂いがしていた。季節はもう冬に近づいているのに色鮮やかに緑は茂り、風さえ柔らかいように思えた。
 設備は小さな街にあるとは思えないほど充実していて、丁寧なカウンセリングと事細かな検査を受けることができた。これだけ手厚いのであれば遠方から訪れる患者も多いのではと思ったが、夜鹿が何度か部屋を転々として検査を受けても、彼女以外の患者とすれ違うことはなかった。
 二時間ほどかけて体と心の診察を受けた後、書斎のような部屋に通された。薄暗い部屋で青白いレントゲン写真を見ることになると思っていた夜鹿は、温かみのある部屋の様子に少し体を楽にした。
「長時間お疲れさまでした。診察結果をお伝えしますね」
 向き合った壮年の医師の表情も穏やかで、深刻な病状にも思えなかった。夜鹿がうなずいて先を促すと、医師はその答えを告げた。
「あなたは妊娠されています。まだ極めて初期の状態です」
 その答えは、ある程度予想していた。妊娠の兆候は基礎知識ではあったものの、ひととおり学んでいた。
 けれど夜鹿に走った恐れは、知識とは別に彼女を強く打った。どうしたら、喉からは言葉こそ出なかったものの、たぶん一人だったら泣き出していた。
 隣に座る冷慈の顔を見ることができなかった。半分は彼の血を引く存在を、もし彼に否定されたらと思うと怖かった。
 不意に冷慈の両手が夜鹿の手を包んだ。いつになく強い力に夜鹿が息を呑むと、彼は照れたように笑っていた。
「私が夫です。入院が必要ならすぐに手続きを」
 冷慈は彼にしては性急に、医師に言葉を投げかける。
「まだ日常生活を変える必要はありません。通院しながら体調を整えていかれるといいでしょう」
 わかりましたと冷慈はうなずいて、忙しなく膝をさすった。少し震えているようにも見えた。
 診察室を出ると、夜鹿はいきなり冷慈に抱きしめられた。息が詰まるくらいで、夜鹿は彼の興奮に反射的に身を固くしたほどだった。
「はは……昨日まで自分が言ったことを全部笑いたい。急がないなんて嘘ばかりだ。夢じゃないだろうな」
「冷慈さん、は」
 夜鹿はまだ追いつかない実感の中で、探すように言葉を口にする。
「喜んでくれる……?」
 夜鹿と彼は夜を過ごすこともあったが、まだ確かな未来を約束したわけではない。
 今が「極めて初期」と耳にしたとき、夜鹿は引き返すことさえも考えたのだから。
 冷慈は体を離して夜鹿の目を見返すと、昔話のように夜鹿の手を取ったまま膝をついた。
「君を誰より愛すると誓う」
 夜鹿を見上げて、冷慈は彼女の両手を包んだ。
「結婚してくれ」
 夜鹿の中の不安がとろりと溶けて、お腹の中に宿った命に初めて愛おしさを感じた瞬間だった。
 茜色の雲が空に浮かぶ頃、夜鹿は少しいつもより早く帰路についた。
 夜鹿が勤める会社はさほど残業を必要としないものの、残務をこなしているうちに陽は暮れているのがいつものことだった。
 こんなに早く帰路につくのは学生のとき以来かもしれない。その頃、夜鹿の思い描いた未来はいくつかが叶って、叶わないものは意図的に忘れてしまった。
 一番大きなこと、研究者として働くことが叶ったのだから、そのときの自分は一応及第点を出してくれるだろう。けれどそのときの自分が今の夜鹿を見たら、確実に眉をひそめることもある。
 赤信号で立ち止まって、そっと腹部を押さえた。
 学生の頃、在学中に結婚した同級生がいた。結婚式のときにすでにお腹が大きかったから、たぶん授かり婚だった。今の時代、それも幸せの形だろう。
 けれど夜鹿はその結婚式以来、彼女と距離を置くことになった。他のどんなものよりお腹を庇っていた彼女は、もう自分の知っている友人ではなく、別の世界の存在に見えた。
 夜鹿もまた妊婦となって、宿った命に愛おしさを抱きながら、同じくらいに恐ろしさを感じた。
 その存在は、自分であって自分でないもの。この現代にと人は笑うかもしれないが、夜鹿はその存在に自分を、もしかしたら命さえも連れ去られそうに思う。
 赤信号をみつめたまま、呼吸がうまくできないでいた。たまらなく愛おしいのにどうしようもなく恐ろしい、自分が自分の中で分離してしまって、動けない。
 自分は母親になれないのだろうか。ずっと声を聞いていない気がする母に縋りたい思いで、立ちすくんだ。
「迎えに来たよ」
 夜鹿に声をかけたのは母ではなく、冷慈だった。
「どこかで立ち止まってると思って」
 私はこのひとに、どこか母の面影を見ている気がする。そう気づいたのは、出会ったときから彼が夜鹿に差し伸べてきた、柔らかい保護の手のせいのように思う。
 見上げればもう信号はとっくに青に変わっている。ただ交差点を渡る車も人もなく、そこには赤い陽だけが降りていた。
 沈んでいく夕陽の中で、夜鹿は体の横で手を握りしめながら告げる。
「……冷慈さん。不安なんです。子どもが生まれるまで、結婚は待ってもらえますか」
 夜鹿の言葉に、彼はなぜとも問いかけなかった。
 代わりに夜鹿の手を包んで、隣に並びながら言った。
「君がそうしたいなら。……さ、帰ろう」
 また信号が点滅を始めていた。でも交差点には誰もいない。伸びた影を踏みながら二人、渡り始める。
 夜鹿は今日から、冷慈と同じ家で暮らし始める。
 夜鹿が冷慈と暮らし始めて、濁らない水の中で漂っているような気分でいるのが不思議といえば不思議だった。
 二人とも働くことが一日の中心だから、朝起きて仕事に行くまでと、仕事から帰って眠るまでしか普段の時間はない。けれどその短い時間の中に生活が詰め込まれているのだから、家事のやり方一つで喧嘩になってもおかしくないはずだった。
「夜鹿、出られる?」
「はい」
「行こう」
 でも付き合っていた頃もそうだったように、冷慈とは喧嘩になる気配もない。彼は夜鹿に怒りの矛先を向けることもなければ、自分の殻に閉じこもることもなかった。
「ごめん。ちょっと寝坊した」
「時々昼も寝てますけど、眠いんですか?」
「うん。だめになってたら起こして」
 急ぎ足で仕事に行くのだって夜鹿の生活を変えたには違いないのに、呼吸をするように受け入れている自分がいた。過熱するような感情はどこにもなく、昔からそうだったような気さえしていた。
 仕事の間も冷慈とはほとんど四六時中同じ部屋にいるが、だから苛立つかというとそうでもなかった。冷慈の監督と指示の下で仕事をするのは、夜鹿の日常にはめこまれているように当然だった。たまに彼の目から離れて別の部署に行くだけでも、少し頼りない気持ちになるくらいだった。
 一日は早くも遅くもなく一定の速さで過ぎて、やがては二人とも仕事を終える。後は一日おきに買い物をして帰るくらいで、どこかに遊びに行きたいとも特に思わない。
「寄りたいところがあるんだ」
 珍しく冷慈が寄り道をしたのは、家具店だった。夜鹿も彼もさほど家具にこだわりがなく、少しだけ不思議だった。
 店に着くなり彼が熱心に選び始めたのは、子ども用のベッドだった。大きさも高さも彼の中でほとんど決めているようで、普段にはない熱をもって検分する。
「まだだいぶ先です」
 夜鹿が苦笑して言葉をかけると、彼はそうだねと照れたように笑った。
「……ずいぶん前から待っていたから」
 冷慈は愛おしげにベッドをなでて、それは子どもをあやす仕草にも見えた。夜鹿はふと、その仕草は彼が夜鹿の手を取り、なだめるときにも似ているように思えた。
 冷慈は決して乱暴さはないが、夜鹿を懐にしまうように守り、ある意味では支配している。夜鹿もその関係を望んでいるから、彼に抗う日はきっと来ない。
 彼のゆりかごの中で育てられた子どもが、子どもを産む。それは不自然なようで、とても幸せな未来に思う。
「おいで、夜鹿。帰ろう」
 どこか鎖に似た手につながれて、夜鹿は彼の日常に接合していく。
 夜鹿が妊娠している事実は、誰かに伝えたわけではないのにまもなく同僚たちに伝わった。
 祝いの言葉をかけられたり、部署を変えられたわけではない。けれど夜鹿の周囲から心を乱すものが遠ざけられ、同僚たちは優しさとも恐れとも区別がつかない距離から夜鹿を見るようになった。
 夜鹿自身もありがたかった配慮がある。直接指示をしたのは冷慈だが、育てている植物の経過観察のために、胎教室で過ごす時間が多くなったことだ。
 普段は陽射しが入り込みやすい温室で仕事をしているが、胎教室と呼ばれるそこは緑のカーテンで壁が覆われていて、心地よい薄暗がりが広がっていた。聞こえるか聞こえないかの加減でいつもクラシックが流れていて、時折木々の音や小鳥の声が混じる。
「ここにいた方が夜鹿は顔色がいいみたいだね」
 ある日部屋を覗いた冷慈に声をかけられて、夜鹿は困った。
「私が胎教をされてしまっているのかもしれません。その……時々見た幻覚や貧血も、ここではないんです」
 その言葉に冷慈はとても満足なようで、うなずいて笑う。
「何よりだ。胎教はまずは母体の心を安定させるものだから、それでいいんだよ」
 夜鹿の中でちくりと痛むものがあった。
 やはり冷慈は夜鹿の体のためにここでの仕事を命じたのだ。それは夜鹿の自尊心と甘え心を真綿のように包んで締め付けた。
「……元のところに戻してもらえませんか。働いていない気がします。同僚たちに申し訳ないです」
「夜鹿」
 ふいに冷慈は夜鹿を抱え上げて椅子に座らせると、立ったまま屈んで夜鹿にキスをした。
 ここは会社で、夜鹿が小声で怯えたように言うと、冷慈は顔を離して言い聞かせた。
「僕は夜鹿に健やかでいてほしい。今は二人分、体を大事にしてほしい。僕らの会社はそれを認めてくれてる」
 夜鹿がまだ不安の目で冷慈を見上げると、彼は安心させるように笑う。夜鹿の頭を胸に抱いてそっとなでた。
 そのまま夜鹿の背を撫でて、冷慈は順々に手足もさする。
「夜鹿の心が穏やかでないと、赤ちゃんも穏やかでいられないよ」
 目を閉じれば木々のさざめきと鳥の声が残響のように耳に届き、息を吸えば森の香りに包まれている。
「愛してるんだ。……呼吸するみたいに、それを受け入れてほしいな」
 子どもの頃、どこか遠いところで聞いた音楽に冷慈の声が重なって、夜鹿は少しずつ手足の力を抜いていった。
 夜鹿は、勤務時間という縛りがなければ研究室で一日を完結してしまいそうな真面目さを持っていたが、妊娠がわかってからは冷慈がそれをさせなかった。
 冷慈がいつから夜鹿の正式な上司に置き換わったかは、夜鹿さえわからなかった。配偶者を近い配置にしない世間の会社の仕組みと違うことは、かえって夜鹿を安心させた。
「明日でしょうか」
「そうだろう」
 育てている植物が実をつける時期も、いつしかわかるようになっていた。確かめるように冷慈に問う声が、迷子の子どものようであるのも気づいていた。
「いつになったって、目の前から子どもがいなくなるのは寂しいね」
 泣きたくなるこの気持ちを受け止めてくれる人が側にいなければ、夜鹿は仕事をやめていたに違いない。
 実をつけた植物が台車に乗せられて他部署に消えるのは、家畜が屠殺場に連れていかれるのを見送るようで、もっと夜鹿の心の深いところを抉る。相手は植物だと自分に言い聞かせるのは、もうだいぶ前にやめた。
「夜鹿が愛したからここまで育ったんだ。大丈夫、新しいところでも愛されているよ」
 冷慈が言う通り、夜鹿は会社の植物を子どものように愛してしまう。夜鹿がそういう子だからここに呼んだんだよと、冷慈がいつか話していたことがある。
 離れがたいように植木鉢をみつめていた夜鹿に、冷慈は優しく言う。
「今日の仕事はここまで。……けど」
 冷慈は先に腰を上げて夜鹿に手を差し伸べる。
「少し寄り道をして帰ろう」
 夜鹿は冷慈の手を借りて立ち上がると、問うように首を傾げた。
 冷慈が夜鹿を連れて行ったのは、会社の敷地の中にある小さな植物園だった。夜鹿の働く区域は薬品を扱うために一般の立ち入りが禁止されているが、その辺りは子どもが遊びに来ることがある。
 小さな街の、取り立てて前評判があるわけでもないささやかな箱庭。子どもの遊び場には向かないと思うのに、夜になるとどこからか子どもが訪れる。
 今日もそこでは、数人、小学生くらいの子どもたちが植物を見ていた。そのくらいの年なら大人も一緒に訪れるだろうが、いつも子どもたちは一人ずつ、迷い込むようにそこに現れる。
 夜鹿も小学生の頃、ここを訪れた。どういう経緯だったかは知らないが、夜鹿もまた一人で来たのを覚えている。
「この辺りの木はずっと変わりがないのだけど」
 冷慈が見上げる先には、柳のように青くしだれる木がそびえていた。夜になると亡霊のようで、少し怖い。
「夜鹿の背はずいぶん伸びた」
「もう大人ですから」
 隣に立って夜鹿が答えると、冷慈はふと笑った。
「冷慈さん?」
「そうだね。あの子たちは家に帰すけれど」
 冷慈は夜鹿の手をつかんで、存外に強い力で握りしめた。
「……夜鹿を帰す日は、もう来ない」
 瞬間、夜鹿は穴の開いた暗闇に引きずり込まれたような恐ろしさを感じた。
 幼い日、夜鹿は冷慈の袖をつかんだ。冷静な意思で伸ばしたわけではないその手は、つかんではいけないものをつかんだのかもしれないと、唐突に思う。
 帰してと叫ぶべきだったのかもしれない。いつそうすべきだったのかは、もう思い出せないけれど。
「明日、検査だね」
 母につながる唯一の手立ての携帯電話は、ずいぶん前に失くしたまま場所がわからなかった。