琥珀街には目立つ娯楽施設はないが、時代に取り残されたようなものがぽつぽつと点在する。
 たとえば無人の駄菓子屋、不規則な格子模様の長い軒下、看板のない金物屋、夜鹿が街を歩いていると、ふとした拍子にそういったものに出会う。
 どれもうまくすれば観光資源になりそうであるのにまるで商売っ気がなく、ほこりがかぶったままという印象の遺物だった。夜鹿も意識してそれらを探しているわけではなかったから、みつけるたびに既視感に似た感情を抱くくらいだった。
「ここ、会社の廃水を扱っているところですね」
 だからあるとき夜鹿がそこで足を止めたのは、関心からというより仕事の名残からだった。
 土曜日、まだ仕事の感覚が抜けきらない午前中、冷慈と街を歩いていた。ここのところ仕事で四六時中一緒にいる冷慈と休日も共に過ごしているのは、いつからか当然の光景のように思っていた。
「入ってみる?」
 冷慈に誘われて、夜鹿は古びたのれんをくぐって中に入った。
 そこは温室のような園芸店で、鉢植えや肥料が無造作に並べられていた。入口は狭かったが奥行きはあるらしく、夜鹿は商品に袖を引っかけないように慎重に奥に進む。
 あまり花は売っておらず、そもそも値札は貼られていなかった。けれどそんな無造作さに反して、店内の環境は理想的に近かった。化学者の夜鹿が驚くほど、試験管の中で管理しているような温度と湿度で、実際に緑の蔓が鉢植えからあふれんばかりに伸びていた。
 ただ植物にとっての最適と人における最適は違う。そこは蒸し暑く、夜鹿は次第にじっとりと肌ににじんでいく汗を感じた。何と名指しできるものでもないが、むせるような土の匂いもどちらかというと不快だった。
 誰もいない店内、奇妙に長い通路を進むうち、夜鹿はなぜ進んでいるのか疑問を抱いた。
 廃水の行き先など詮索してどうするのだ。数値的に環境基準に反しないことは夜鹿だって確認している。まして人の口に入るような河川に放水しているわけではなく、植物を育てるのに再利用しているなら咎められるところもない。
 でも喉を異物が通っていく瞬間のように、どうにも肌が粟立って仕方がない。不安感に似た感情にとらわれたとき、後ろを歩く冷慈が優しく声をかけた。
「夜鹿、立ち止まって息を吸ってごらん。何の匂いがする?」
 夜鹿は子どものように言う通りにしていた。立ち止まって慎重に息を吸う。
 好まない匂いの中で呼吸をするのをためらっていたのか、それは案外夜鹿の体を楽にしてくれた。
 今までだって、植物が排するものを吸って息をしてきた。そう思い返すと、どうして植物の匂いを恐れていたのかわからなくなった。
「会社の植物と同じ匂いがします」
「うん。この子たちもいずれ同じ実をつける」
 馴染んだ水の音がどこかで聞こえていて、次第に会社でいつものコーヒーを飲んでいるような気分に落ち着いていく。
「愛せるようになるよ。いずれね」
 結局、店では誰にも会うこともなく、音だけが聞こえる水のありかも目にすることはなかった。
 冷慈に手をすくいあげられて歩くうちに、手のひらから伝わる熱だけを追っていた。