夜鹿が通院を始めて五か月が過ぎ、慣れた定期健診と気に留めていなかった頃、その不調は忍びやかに訪れた。
「元気がないようですが、どうされましたか」
 医師に言われるまで夜鹿にも自覚はなかった。夜鹿の代わりに医師に答えたのは、一人で通院できると夜鹿が笑っていても付き添いを欠かさなかった、冷慈だった。
「三日ほど前から眠りが浅く、食欲も落ちているみたいです。大きく体調を崩しているわけではないのですが」
 そうだったかしらと夜鹿が疑問を抱いたのは、まばたきするような少しの間だった気がする。淀みなく答えた冷慈の声の方が、夜鹿のささやかな違和感より確かだった。
「そうですね。数値的な異常はありませんが……旦那さんとは同じ職場だそうですね。お仕事の忙しさはどうですか」
 医師の問いかけに、冷慈は表情をくもらせて言った。
「仕事は平常どおりです。……それがいけなかったのかもしれません。もっと配慮すべきでした」
「冷慈さん」
 夜鹿は冷慈の袖をつかんで首を横に振った。冷慈の指示がまちがいだと思ったことなどない。
 まだ新入社員の域を出ない夜鹿への事細かな指導を欠かさず、休憩の取り方さえ教えてもらっている。体だって、これ以上労わってもらいようがないほど気を遣ってもらっている。
「彼女は優秀で、素直ですから。仕事があれば、それをこなしてしまうんでしょう……」
 冷慈は夜鹿を見て考えをめぐらせたようで、医師に答えるまでに少し時間があった。
「早期に休暇を取らせることを考えます」
 息を呑んだのは夜鹿の方で、医師はその提案を好ましく聞いたようだった。
「それがよろしいでしょう」
「待ってください。大げさです。少し経てば、また体調は戻ると思います」
 抵抗した夜鹿は冷慈を見上げて、彼が言葉を返す前からその意思の堅さを感じた。
「夜鹿、だめだよ」
 そこにあったのは恋人というより、記憶の中でだけ残る、亡き父親のまなざしにも見えた。
 診察を終えて院内を二人で歩いたとき、夜鹿は冷慈に恐れのような感情を抱いていた。
 彼は少し、過保護なように思う。夜鹿を包む慈愛と労わりの網は、少しずつ夜鹿の体を締め付けて、やがて命さえ奪うような錯覚を持つ。
 病院の一角、四方を大きなガラス張りの窓で囲まれた箱庭があった。
 整然と並ぶ白い石と澄んだ池が取り囲み、天窓から陽光が差し込む光の中で一本の木が伸びている。たぶん移植されてから一度も外気に触れていない、水槽のような世界にいる木に足を止める。
 どこかに行きたい? 心の中で木に問いかけて、答えを待たずに思った。
 ごめんなさい、余計なことを訊いた。そこはあなたの世界だものね。
「おいしいものを食べて、よく眠って、気分がいいときは一緒に街を歩こう」
 そんな夜鹿に、冷慈は子どもにさとすように優しく言った。
「夜鹿。……できるね、夜鹿?」
 冷慈の冷たい手に手を包まれて、夜鹿は植物が水を浴びるように言葉なく受け入れた。