夜鹿が妊娠している事実は、誰かに伝えたわけではないのにまもなく同僚たちに伝わった。
 祝いの言葉をかけられたり、部署を変えられたわけではない。けれど夜鹿の周囲から心を乱すものが遠ざけられ、同僚たちは優しさとも恐れとも区別がつかない距離から夜鹿を見るようになった。
 夜鹿自身もありがたかった配慮がある。直接指示をしたのは冷慈だが、育てている植物の経過観察のために、胎教室で過ごす時間が多くなったことだ。
 普段は陽射しが入り込みやすい温室で仕事をしているが、胎教室と呼ばれるそこは緑のカーテンで壁が覆われていて、心地よい薄暗がりが広がっていた。聞こえるか聞こえないかの加減でいつもクラシックが流れていて、時折木々の音や小鳥の声が混じる。
「ここにいた方が夜鹿は顔色がいいみたいだね」
 ある日部屋を覗いた冷慈に声をかけられて、夜鹿は困った。
「私が胎教をされてしまっているのかもしれません。その……時々見た幻覚や貧血も、ここではないんです」
 その言葉に冷慈はとても満足なようで、うなずいて笑う。
「何よりだ。胎教はまずは母体の心を安定させるものだから、それでいいんだよ」
 夜鹿の中でちくりと痛むものがあった。
 やはり冷慈は夜鹿の体のためにここでの仕事を命じたのだ。それは夜鹿の自尊心と甘え心を真綿のように包んで締め付けた。
「……元のところに戻してもらえませんか。働いていない気がします。同僚たちに申し訳ないです」
「夜鹿」
 ふいに冷慈は夜鹿を抱え上げて椅子に座らせると、立ったまま屈んで夜鹿にキスをした。
 ここは会社で、夜鹿が小声で怯えたように言うと、冷慈は顔を離して言い聞かせた。
「僕は夜鹿に健やかでいてほしい。今は二人分、体を大事にしてほしい。僕らの会社はそれを認めてくれてる」
 夜鹿がまだ不安の目で冷慈を見上げると、彼は安心させるように笑う。夜鹿の頭を胸に抱いてそっとなでた。
 そのまま夜鹿の背を撫でて、冷慈は順々に手足もさする。
「夜鹿の心が穏やかでないと、赤ちゃんも穏やかでいられないよ」
 目を閉じれば木々のさざめきと鳥の声が残響のように耳に届き、息を吸えば森の香りに包まれている。
「愛してるんだ。……呼吸するみたいに、それを受け入れてほしいな」
 子どもの頃、どこか遠いところで聞いた音楽に冷慈の声が重なって、夜鹿は少しずつ手足の力を抜いていった。