夜鹿が琥珀街に移り住んだわけは、職場の近さと、生まれた街に似たつくりだった。
そこはどちらかというと田舎ではあるが、生活に必要なものは歩いて買いに行ける範囲にあった。住処に選んだところから歓楽街は橋の向こうに離れていて、橋のこちら側は道の脇で野菜を育てているようなところだった。
特別なところは……無いわけではなかった。冷慈に出会ったことだ。
「琥珀街に好かれてしまったら帰れないよ」
たぶん先に好きになったのは夜鹿の方だったから、冷慈が「好き」という言葉を使ったときはうれしいより、後ろめたいような思いがした。
「街に好かれるんですか?」
「人が街を好きになるように、街だって人を好きになるからね」
職場の仲間たちに囲まれた中で、夜鹿は彼の顔かたちより、その長くしなやかな指先に見とれていた。
「好かれると思うな」
それは酒の席での他愛ない一言で、明日になったら忘れていると思っていた。
冷慈ははじめ、それほど親しいわけではなかった。職場の歓迎会で夜鹿に琥珀街の話をして、一月くらいはお互いに話すこともなかった。
それが時々顔を合わせるうちに話す機会も増えて、仕事の帰りに一緒に食事に行って、その間隔が次第に狭くなった気がする。
「じゃ、また明日」
ある日、冷慈に送ってもらってアパートの扉を閉めたとき、ずっと昔から冷慈といるような気分に包まれていた。
別に悪いことじゃないのに、また後ろめたいような思いになっていた。
もしかしたら、最近お母さんにも電話をしていないから? ふと思い立って、玄関に立ったまま携帯電話を見た。
母の番号にリコールを押そうとして、違和感に気づく。
着信履歴では、昨日もお母さんに電話した。一昨日もその前も履歴がある。最近どころか、ちゃんと毎日お母さんと話している。
だったら最近お母さんに電話していないと思った、自分の感覚は何なのだろう?
経験上、数字と感覚が合わないときは良くない。そういうときは立ち止まるのが夜鹿の癖で、今もそうすべきように思った。
数字と感覚をみつめることで違和感の正体に気づくこともあるが、そうするより夜鹿が好むのは、机を離れて散歩することだった。
携帯電話をバッグにしまって玄関を出ると、階段を下ってアパートの外に出た。
夜鹿の住むアパートは昔からここに住んでいる人たちの家々の中に、取り立てて新しいというほどではない程度の築年数で混ざっている。古い住人とのトラブルも地域同士の関係も気にするほどは無く、今日も至って静かな夜が広がっていた。
それほど遅い時間でもないからいいとアパートを離れて、北に向かう。
北の橋を渡れば歓楽街だが、そこまで行くつもりはなかった。職場の歓迎会も橋のこちら側で開かれたくらいで、橋の向こうに行く必要はない。
必要はないはずなのに、橋の上を歩いている自分に気づいて立ち止まった。
振り返ると、夜の灯りで照らされた琥珀街が見えた。橋を渡れば、琥珀街の外だとも気づいた。
夜景というにはささやかで、見渡すほどの広さもない。けれどとろりと溶けていくような金色の街並みを見ているうちに、数字と感覚が合わないときのような違和感が押し寄せた。
バッグから携帯電話を取り出して、母に電話をかけようとした。最近母と電話をしていない、その感覚は嘘だと証明してもらうために。
コールボタンの上に触れた夜鹿の指、そこに優しく指が重なったのは、そのときだった。
長くしなやかな指が自分の指に重なったのが、怖いくらいに胸を衝いた。それは初めて会ったときから顔かたちさえ忘れて見とれていた、彼のものだったから。
「好きになって」
まるで彼の指に吸い込まれるように、携帯電話の電源が落ちた。夜鹿はまだ顔も上げられないまま、彼の指を見ていた。
「もう僕は君のこと、好きだから」
とろりと溶けていく金色の街並みのように、夜鹿の指が彼の指と接合していくことを望んでいた。
そこはどちらかというと田舎ではあるが、生活に必要なものは歩いて買いに行ける範囲にあった。住処に選んだところから歓楽街は橋の向こうに離れていて、橋のこちら側は道の脇で野菜を育てているようなところだった。
特別なところは……無いわけではなかった。冷慈に出会ったことだ。
「琥珀街に好かれてしまったら帰れないよ」
たぶん先に好きになったのは夜鹿の方だったから、冷慈が「好き」という言葉を使ったときはうれしいより、後ろめたいような思いがした。
「街に好かれるんですか?」
「人が街を好きになるように、街だって人を好きになるからね」
職場の仲間たちに囲まれた中で、夜鹿は彼の顔かたちより、その長くしなやかな指先に見とれていた。
「好かれると思うな」
それは酒の席での他愛ない一言で、明日になったら忘れていると思っていた。
冷慈ははじめ、それほど親しいわけではなかった。職場の歓迎会で夜鹿に琥珀街の話をして、一月くらいはお互いに話すこともなかった。
それが時々顔を合わせるうちに話す機会も増えて、仕事の帰りに一緒に食事に行って、その間隔が次第に狭くなった気がする。
「じゃ、また明日」
ある日、冷慈に送ってもらってアパートの扉を閉めたとき、ずっと昔から冷慈といるような気分に包まれていた。
別に悪いことじゃないのに、また後ろめたいような思いになっていた。
もしかしたら、最近お母さんにも電話をしていないから? ふと思い立って、玄関に立ったまま携帯電話を見た。
母の番号にリコールを押そうとして、違和感に気づく。
着信履歴では、昨日もお母さんに電話した。一昨日もその前も履歴がある。最近どころか、ちゃんと毎日お母さんと話している。
だったら最近お母さんに電話していないと思った、自分の感覚は何なのだろう?
経験上、数字と感覚が合わないときは良くない。そういうときは立ち止まるのが夜鹿の癖で、今もそうすべきように思った。
数字と感覚をみつめることで違和感の正体に気づくこともあるが、そうするより夜鹿が好むのは、机を離れて散歩することだった。
携帯電話をバッグにしまって玄関を出ると、階段を下ってアパートの外に出た。
夜鹿の住むアパートは昔からここに住んでいる人たちの家々の中に、取り立てて新しいというほどではない程度の築年数で混ざっている。古い住人とのトラブルも地域同士の関係も気にするほどは無く、今日も至って静かな夜が広がっていた。
それほど遅い時間でもないからいいとアパートを離れて、北に向かう。
北の橋を渡れば歓楽街だが、そこまで行くつもりはなかった。職場の歓迎会も橋のこちら側で開かれたくらいで、橋の向こうに行く必要はない。
必要はないはずなのに、橋の上を歩いている自分に気づいて立ち止まった。
振り返ると、夜の灯りで照らされた琥珀街が見えた。橋を渡れば、琥珀街の外だとも気づいた。
夜景というにはささやかで、見渡すほどの広さもない。けれどとろりと溶けていくような金色の街並みを見ているうちに、数字と感覚が合わないときのような違和感が押し寄せた。
バッグから携帯電話を取り出して、母に電話をかけようとした。最近母と電話をしていない、その感覚は嘘だと証明してもらうために。
コールボタンの上に触れた夜鹿の指、そこに優しく指が重なったのは、そのときだった。
長くしなやかな指が自分の指に重なったのが、怖いくらいに胸を衝いた。それは初めて会ったときから顔かたちさえ忘れて見とれていた、彼のものだったから。
「好きになって」
まるで彼の指に吸い込まれるように、携帯電話の電源が落ちた。夜鹿はまだ顔も上げられないまま、彼の指を見ていた。
「もう僕は君のこと、好きだから」
とろりと溶けていく金色の街並みのように、夜鹿の指が彼の指と接合していくことを望んでいた。