それは、突然私の目の前にあらわれた。

 ======

 やみくもに山の中を歩いていた私は、ふいに気づいた匂いに汗だくの顔をあげる。これだけは自慢できる淡い金の髪が、今は乱れて額に張り付いていた。

 そこはかとなくあたりに漂っているのは、微かな甘い匂い。

 これ、知っているような……何の匂いだったかしら。

 私は一度立ち止まって少し考えると、目の前の枝をさらにかきわけてその匂いをたどることにした。

 足元には道なんてないから、前に進もうとするなら、背の高い草や枝をがさがさとかき分けていくしかない。おかげで、スカートの裾はあちこち破れてもうぼろぼろ。
 たった一着だけあった、おさがりじゃない服。ママが、私のために作ってくれた大切なスカートだったのに。

 ああ、お腹すいたなあ。
 もう丸一日、何も食べていない。最後に食べたのだって、硬いパンがひとかけらだったもの。そんなのとっくにお腹の中でどっかに行っちゃったわ。一日中歩き続けて、足もくたくただし。それでも、こんなとこで座りこむわけにはいかない。

 頭上にこれでもかと生い茂る木の向こうには、そろそろ茜色に染まり始めている空がちらほらと見え隠れしていた。

 じきに、夜が来る。

 甘ったるい匂いは、そんな山の中でやけに場違いだった。もしかして、そんな匂いがしている、って、私が思っているだけなのかしら。あんまりお腹がすいて、幻の匂いを感じているだけとか。だったら、いっそのこと焼きたてのパンの匂いとかの方がよかったわ。ママの焼いてくれたパンなんて、どれくらい食べてないんだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、目の前にぶらさがった蔦を払い続ける。固いその弦が手の平をひっかいて、じわりと血がにじんだ。
 微かだけど、だから余計に気になる痛みに眉をひそめながら歩いていく。次第に前の方が明るくなってきて、がさり、と大きな枝を動かした瞬間、私の視界が急にひらけた。

 そこにあったのは、一面の薔薇の庭だった。

 今までの景色とのあまりのギャップに、私はあっけにとられて立ち尽くす。

 ……幻? 私、夢でも見ているの?

 ピンク、黄色、白、赤、黒、紫……縁取りをされたような2色のものまである。大輪の見事な薔薇から、小ぶりのかわいらしい花がたくさんついたアーチまで、ありとあらゆる薔薇がそこにはあった。それらが、きちんと区画に分けられて広がっている。
 そして、庭の向こうには見たことないくらい大きな館があった。村長様の家より、もっともっと大きい。

 庭も館も、しん、としてまるで人気がなかった。


「……ここ」

 私は、疲れ切った足をなんとか動かしてその庭へと降りて行った。きちんとレンガのひかれた小道は、嘘みたいに歩きやすい。

 むせかえるほどの甘い匂いは、この薔薇が原因だったのね。
 おそるおそる手元にあった一つに触れてみる。大きなピンクの薔薇。しっとりとしたその手触りは、幻なんかじゃなかった。


「綺麗でしょ?」
「きゃっ……!」
 背後からいきなり聞こえた声に、私は文字通り飛び上がって振り向く。

 一人の少年が、そこにいた。

 私と同じくらい……17、8歳くらい、かな? でももっと上にも見えるし、逆に年下にも見える。不思議な雰囲気の少年だった。
 私の目を吸い寄せたのは、その少年の髪。
 夜の闇を切り取ったような黒色をしていた。東の方の国に住む人たちがそんな髪の色をしていると聞いたことがある。でも、私がそんな色の髪の毛を見たのは初めてだ。瞳は、夏に見たことのある抜けるような空の青色。シミ一つない白い肌。整った顔立ち。

 なんて綺麗な人なんだろう。

 にこにことほほ笑むその手には、大きな水桶が下げられていた。
 どうやら、薔薇の手入れをしていたようだ。



「それね、僕が開発した新しい薔薇なんだ。気難しい子で、この微妙な色を出すのに本っ当に苦労したんだよ。ようやく、一つだけ花をつけてくれた」
 気さくに言いながら少年は私の前を通って、私が触れていた薔薇の足元にひしゃくで水をそっと流す。
 言われてみれば、群生している他の薔薇に囲まれて、それは一本だけで凜としてまっすぐ立っていた。

「とても、綺麗ね。素敵な色だわ」
 薔薇の種類や名前なんて知らない。紫より薄くてピンクよりは濃い、赤色とも違う。その色がなんていう色なのかわからないけれど。
 決してお世辞ではなく、私はその薔薇が綺麗だと思った。

「勝手に触ってしまってごめんなさい。せっかくの薔薇が、傷ついてないといいのだけれど」
 私が言うと、少年は少しく目をみはって、それから微笑んだ。
「大丈夫だよ。こう見えて、結構丈夫なんだ」
「よかった」
 ほ、として私は、その薔薇に視線を落とした。

「あなたが愛情込めて育てたのがわかるわ。この子、とても誇らしく咲いているもの。愛されていることをよくわかっていて、それに応えようとがんばったのね。この子も、あなたも素敵だわ」
 うらやましいな。私はこんなよれよれのぼろぼろなのにね。
 
 短い沈黙の後、少年が明るく言った。
「僕だけが見てたんじゃもったいないと思ってたから、お客様が来てくれて嬉しい。ねえ、君、ヒマ? よかったら、一緒にお茶でもどう?」
「え?」

 お茶って……
 我に返った私は、当初の目的を思い出した。

「その前に、一つ聞いていいかしら」
「何?」
「あなたは、悪魔かしら?」
 私の質問に、少年は目を丸くして私を見つめた。

「僕は自分が悪魔だなんて思ったことないけど。どうして?」
「この山の奥には、心の臓と引き換えに願いをかなえてくれる悪魔がいるって聞いたの。私、悪魔を探しにきたのよ」
 少年は、んー、と首をかしげて考えこむ。そんな仕草は、やけに子供っぽい。

「僕もここに住んで長いけど、悪魔にはまだ会ったことないなあ」
「そう……」
 私は、力が抜けてそこにへたりと座り込む。ここじゃなかったんだ。

 そうよね、悪魔の家って、もっとどろどろしたところに違いないもの。こんな風に、美しい薔薇の咲き乱れるような庭は、悪魔の雰囲気に似合わない。……と思う。本物の悪魔なんて見たことないから知らないけど。

「大丈夫?」
 少年は、私の隣にしゃがみこんで聞いた。
「大丈夫よ。ただちょっと、がっかりしちゃっただけ。また、探しにいかなくちゃ」
「悪魔を探してるの?」
「ええ」

 よっこらせ、と私は立ち上がる。と、ふらり、とめまいがした。
 いけない。きっと、お腹がすき過ぎたせいだわ。
 倒れそうになって、とっさに伸ばしてくれた少年の腕につかまってしまう。
 私はあわてて手を離した。

「あ……!」
「え?」
 私のあげた声に、少年が自分の腕に視線をむける。彼の着ていた白いシャツ、私が触れた部分に、転々と赤い血がついていた。さっき、枝で切ってしまった時の手の傷だ。

「ごめんなさい! 服が……!」
「ああ、作業着だから大丈夫。よく自分でも泥だらけに汚したりするんだ。それより、君の手は大丈夫?」
 少年は私の腕を持ち上げて、手を平を広げさせた。そこには、土や埃にまぎれて赤い血がにじんでいる。

「まずは、汚れを落とそうか」
 言いながらもう一度私と一緒にそこにしゃがみこむと、丁寧に水桶の中で手を洗ってくれた。
「大丈夫みたいだね。ほら、傷なんてない」
「……え?」
 少年が見ていた自分の手を覗き込むと、汚れの落ちた手には微かな傷一つ、ついてはいなかった。

「あら……?」
 おかしいな。さっきまで切り傷がいくつかあったと思ったんだけど……

「でも、確かに……」
 顔を上げた瞬間、豪快に私のおなかが鳴った。
「……」
「……」
 ごまかしようのない事態に、私の頬が熱くなる。少年は、にこりと邪気のない顔で笑って立ち上がった。

「ちょうど、ベリーのパイが焼けたんだ。一人で食べるのも味気ないから、一緒に食べてくれる?」
「……ありがとう。いただくわ」
 うう。あまりの恥ずかしさに逃げ出そうかとも思ったけど、結局、焼きたてのパイの魅力に負けてしまった。

   ☆

 少年は、私を庭の中央にあるガゼボへと誘った。真っ白いクロスをかけられたテーブルを見て、私は目を丸くする。

 テーブルの上には、所狭しとたくさんの食べ物が用意されていた。

 ケーキスタンドに盛り付けられているのは、いろんな形のスイーツに、クロテッドクリームの添えられたスコーン。それに分厚いハムをはさんだサンドイッチ。見たこともない果物もたくさんあって、そのどれもがみずみずしくて新鮮そうだった。誰かいた様子もないのに、ポットからは白く湯気が立ち上っている。

 それは、本でしか知らなかった、貴族のお茶会そのものだった。

「どうぞ」
 少年は、私のために優雅な仕草で椅子を引いてくれる。

 まるで、お姫様になったみたい。
 私は、どきどきしならそこへと腰を下ろした。服は汚れていたし体も疲れていたけれど、なるべく、淑女に見えるように、なるべく、気取って。
 私の人生の中で、こんな風に貴婦人になれる瞬間なんて、もうないはずだから。最初で最後の、最高のお茶会だわ。

 緊張する私に微笑みかけながら、少年は飲み頃になった紅茶をカップへと注いで、私の前に置いてくれる。

「わあ、おいしい……」
 一口飲んでみたその紅茶は、今まで飲んだどの紅茶よりも美味しかった。まあ、紅茶と言えば、かろうじて色がついているのかあ? なんてものしか飲んだことないから、たぶん、どんな紅茶を飲んでも、そう感じるのかもしれないけれど。

「そう? よかった」
 何が楽しいのか、その少年はずっとにこにこしたままだ。

「ね、このタルト、僕がとってきたイチゴを使ってるんだ。食べてみて。きっと美味しいよ」
「ありがとう」
 少年が取り分けてくれたお皿を受け取って、さくりとタルトにフォークを入れる。一口食べてみると、甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がった。

「んん……おいしい! こんなおいしいお菓子、食べたことないわ!」
「まだあるよ。こっちのフールもどうぞ。あんずのコンポートはどう?」
 甘いものなんて、一年に一度、食べられるかどうかだったから、目の前にあるスイーツに私は手と口が止まらなくなる。

 は、と気づくと、次々にお菓子をたいらげていく私を、少年は楽しそうに見ていた。見れば、その少年が食べ物に手を付けた様子がない。
「あ……ごめんなさい」
 急に恥ずかしくなって、持っていたサンドイッチを、そ、と自分のお皿に戻す。

「私、もしかして、あなたの分まで食べてしまったのかしら?」
 私は少し上目遣いになって聞いてみた。
「ううん、今は食欲がないだけ。遠慮しないで、どんどん食べて」
 少年は、私のカップに紅茶のおかわりを注いでくれる。
「でも……」
「君の食べっぷりって、見ててすっごく気持ちいい。こっちまで楽しくなっちゃうよ。おかわりなら、いくらでもあるからね」

 そうは言われても、さすがにこれだけ食べると、おなかはいっぱいだ。
 おなかがいっぱいになるまで食べたなんて、どれくらいぶりだろう。最後の晩餐にするには、十分すぎるほど豪華な食事だったわ。
 これ、ちびたちにも食べさせてあげたいなあ。あの子たちも甘いもの好きだから、きっと喜ぶ。

「あなた、この家の人なの?」
 一通り食べつくしてようやく人心地ついた私は、紅茶を飲みながらバラ園の向こうに見える館に目を向けた。

 外から見ても、その館がかなり豪華な建物であることはわかる。なんでこんな不便なとこに作ったんだろう。どこかのお金持ちの別宅なのかな。当然ここに住んでいる目の前の少年だって、私みたいな貧乏人じゃない、お金持ちのお坊ちゃま。着てるものも、作業着って言ってたけど、かなり上質の生地を使っているもの。
「そうだよ」
「私が言うのもなんだけど、知らない人間が現れたら、もっと警戒した方がいいんじゃない? もし私が、悪い人だったり人さらいだったりしたら、どうするのよ。のんきにお茶に誘っている場合じゃないわよ?」
 重々しく言った私の言葉に、少年は一瞬目を見開いてから、弾けるように笑いだした。

 太陽のような笑顔に、言葉もなくみとれてしまう。
 人形みたいに綺麗な顔。でもそうやって笑っていると、生き生きとしていて触れたくなるようなつややかな肌。

 そんな人と一緒にお茶してるなんて、私、もしかして今、すごく幸せなんじゃない?
 そう思ったら、急に恥ずかしくなってきた。

 考えてみたら、男の子と二人きりで話すなんて、初めてじゃないかしら。しかもこんなに素敵な人と一緒なんて。

「君って、ずいぶんしっかり者なんだね」
「普通よ。あなたがぼんやりしすぎなんじゃないの?」
「ああ……よく言われる。でも、君、悪い人には見えないし。こんなかわいい子とお茶ができるなんて、僕って幸せ者だなあとしか思わなかった」
「はあ……」

 どっかねじが外れてるのかしら、この人。でも、同じように思ってくれていたのは、ちょっと嬉しいな。

 私は、もう一度、館を見上げる。いつのまにか、いくつかの部屋には明かりが揺れていた。

 こんな人里離れた山の中で、薔薇の世話をするおつむの幸せな王子様。きれいな服を着せられて、食べるものにも不自由しなくて。

 まるでこの場所だけ、時が止まっているみたい。

 そうか。ここは、この世じゃないのかもしれない。おとぎ話にあったティルナ・ノーグって、きっとこんな感じなのね。


「今度は僕が聞いてもいい?」
「どうぞ」
「君は、なんだって悪魔なんて探しているの?」
 少年はテーブルの上に身を乗り出しながら、くりくりとした目で聞いた。私は、早くなった胸の音を落ち着かせるように、紅茶を飲みながらゆっくりと答える。

「叶えて欲しい願いがあるの」
「心の臓と引き換えに? 君は死んじゃうかもしれないんだよ?」
「構わないわ。それで、母が助かるなら」
「お母さん?」

 急に、少年の顔が真面目なものになった。

「ええ。私の母、病気なの。悪いものが胸に出来て、すごく元気な人だったのに、毎日苦しそうで……でもうち貧乏だから、お薬とか買えなくて……今の母は、もう起き上ることもできないわ」
「じゃあ、叶えて欲しい願いって……」
「私の命と引き換えに、母を助けてもらうの」
「でも君のお母さんは、たとえ自分の命が助かっても代わりに君が死んでしまったら、とても悲しむと思うよ?」
「大丈夫よ。うちには、まだ4人も子供がいるもの。私一人いなくなっても、気付きもしないわ。だってね」

 兄さまはパパと一緒に朝早くから夜遅くまで働きっぱなしだし、姉さまはママの代わりにうちの事をやっていて、私にはお小言ばかり。弟と妹の面倒を見るのが私の仕事だけど、しょっちゅうけんかしていて、言うことなんて聞きやしない。

 ありったけの愚痴をまくし立てる私に、少年はふんわりと笑った。
「幸せな家族なんだね」
「そうかしら。貧乏だからお腹いっぱいご飯を食べられることもめったにないし、服なんていつもおさがりばかり。あーあ、私も、あなたのようなお金持ちの家に生まれればよかったわ」
「でも君、話している間中、ずっと笑ってるよ?」
「え……?」

 あわてて私は、自分の顔を両手で押さえた。そんなつもりはなかったけど。

 少年は、静かな声で続けた。

「好きな人たちと一緒にいられるって、それだけでとても幸せなことじゃない? 誰も、誰かの代わりになんてなれない。君も、誰かにとっては誰にも代わることのできないかけがえのない一人だ」
「でも……」

 慈しむような優しい声と笑顔に、ずっと我慢してきた涙がこぼれそうになった。私はあわててカップをテーブルに戻すと、ぎゅ、と自分の手を握りしめる。
「……母が病気になってから、うちのみんなは笑わなくなっちゃったわ。貧しくてもいつも笑いが絶えない家族だったのに、今は、顔を合わせても口もきかないわ。やっぱり、ママが笑っていなくちゃ、みんなも笑顔になれないのよ。それにね」

 少年の言葉があんまり優しいから、私はぽつりぽつりと、ずっと内緒にしてしまってきた心の中の言葉を吐き出す。

「弟や妹には、まだまだ母親が必要だわ。私はたくさん、ママとの思い出を持っているけど、ちびたちはこれから母との思い出を作っていくところだもの。私は、姉としてできることをしにきたの」
「君は、優しいんだね。それにやっぱり、家族のことが大好きだ」
 小さく言われた言葉に、ついに堪え切れなくなってぽたぽたと涙が落ちた。

「ママ、苦しくても、笑うの。私たちに心配させたくないから……私、そんな無理した笑顔なんて見たくない。ママには心から笑ってほしい。ママが……死んじゃうなんて、嫌」

 病気がわかってから、どんどん痩せていくママ。村の先生に見せても、手に負えないって言われて、もっと大きな町の医者に見せた方がいいって言われたけど、そんなお金はうちにはなくて。

 みんなが、泣きたいのを我慢している。パパや兄様があまり話さなくなったのも、姉さまの小言が増えたのも、みんなみんな、涙をこらえるためなんだって、本当は知っている。

 そんなときに、友達が教えてくれた。私たちが迷いの森と呼んでいる森の向こうの山には悪魔が住んでいて、心の臓と引き換えにどんな願いでも聞いてくれるって。

 そんなお伽噺なんて、正直、信じたわけじゃない。けれど、万が一……万が一、本当だったら。もう、そんな微かな望みしか、すがるものがなかったの。
 それに、もし悪魔に会えなかったとしても、このまま私がいなくなってうちの食いぶちが減れば、少しでも生活は楽になる。パパと兄さまは一生懸命に働いてくれているけれど、病気のママと小さい子供たちを養うのはとても大変だもの。

 なにより。

「怖かったの……」
「うん」
「どんどん痩せてくママが……時々辛そうに顔をしかめているのを見ていると……ぎゅ、って私の胸の中を何かに掴まれているみたいに息ができないくらい苦しくて……もう、家にいられなかったの……」
「うん」
 少年の声は優しく、私の涙は止まらなかった。

「だから、悪魔にお願いして、ママを、元気なころのママに戻してもらうの。そのために、私……」
「ねえ」
 ごしごしと乱暴に涙をぬぐう私に、少年の低い声が聞こえた。
「もし僕が、悪魔だったらどうする?」
「え?」

 顔をあげると、少年はあいかわらず微笑んだままだった。でも、どこかさっきまでの笑顔とは違う。じ、と青い瞳で私を見つめながら、少年は続けた。

「もし僕が君の願いを叶えてあげたら、君は僕に何をくれる?」
 雰囲気の変わった少年に戸惑うけど、そう聞かれたら私の答えは決まっている。

「私は、私しか持っていない。だから、私をあげる。頭のてっぺんから足の先まで、全部あげる」
 そのために、一張羅の服を着てきたんですもの。せっかく悪魔に会えても、あまりみすぼらし格好をしてたら、心の臓だっていらないって言われるかもしれない。だから、少しでも見栄えがいいほうがいいと思って。
 ここへ来るまでに、すっかり汚れちゃったけど、でも、これが私にできる精一杯だった。
 私はあわてて乱れた髪を整えた。

「最高の贈り物だね」
「やっぱりあなたは悪魔なの?」
「違うけれど……君のために、悪魔になってみるのもいいかな」
「……そんなこと、出来るの?」
 すい、と少年の目が笑んだ形に細められる。

「そうだね。できるかもね」
「どうして……」
「君が、気に入ったから」

 そう言った少年の後ろで、ぽう、とろうそくの火が灯った。いつの間にか夜が始まっていた庭に、順々にろうそくの光が増えていく。 

 誰がつけているの? 誰も、いないのに。

「でも、私なんて綺麗でもないし、身なりもこんなんだし……」
「君は綺麗だよ」
 そう言った少年を見返す。じ、とこっちを見ている瑠璃色の瞳と目が会った。
「あなたの方がずっと綺麗だわ」
「じゃあ僕のことも気にいってもらえる?」
「ええ」
 少年は嬉しそうに微笑んだ。

「ねえ。たとえばこの庭に咲く薔薇が、僕が願いを叶えた人間のなれの果てだとしたら? それでも君は、僕に願いをかなえてと言える?」
 私は、微かに揺れるろうそくと薔薇を眺めた。闇に浮かぶその景色は、まるで夢の中のように現実味がない。
 でも、なんて、綺麗なんだろう。

 この人が作ったという薔薇の花を思い出した。
 たった一本、まっすぐに立っていた凛とした薔薇。
 私も、あんな風になれるのかしら。
 何色の薔薇になるのかしら。

「そうしたら、毎日私に水をあげてくれる?」
「もちろん」
「だったら、構わないわ。こんなにきれいな薔薇になれるなんて想像もしていなかったけど、想像していたよりもずっと、素敵な最後だわ」
 はっきりと言った私へと、少年が席を立って近づいて来る。

「わかった。君の願いを叶えてあげる。その代り、君の大切なものをもらうよ」
「大切なもの?」
「そう。でも、今はまだもらわないでいてあげる。そう……一年。一年たったら、僕は君のもとへあらわれる。ただし」

 私は、思わず息をのんだ。

 見つめていた少年の目が、青い色から赤い色へと、変わったのだ。

「僕のことは、誰にも話してはいけないよ。ここで君が見たもの、すべても。もし話してしまったら、僕は、君の命どころか、君のママや家族の命までもらわなければいけない」
 その言葉が嘘や冗談でないことは、少年の目を見ればわかる。私は、ごくりと唾を飲み込んでから頷いた。

「わかったわ。絶対に、言わない」
「ん。いい子」

 そう言って少年は、その両腕をゆっくりと私にのばしてくる。何をされるのか少しだけ怖かったけど、私は、じ、と動かなかった。すると、少年の細くて長い指が、私のブラウスのボタンを2つだけ外す。少年は身をかがめると、私の首元へと口づけた。


「痛っ……」
 ちり、とした痛みが走って、思わず声をあげた。
「な……何をしたの?」
「しるしをつけたんだ。君が、僕との約束を忘れないように」
 耳元で囁かれて、思わず肩をすくめる。

「これで君は、もう僕のものだよ」
 吐息交じりの声に、ぞくりと全身が粟立った。

「あなたのもの?」
「そう」
 そうして少年はゆっくりと体を離すと、目を細めて笑った。

 その笑顔は、さっきまでにこにこして私の話を聞いてくれた少年と、同じ人のものとは思えない。笑っているのに、どうしてだかとても冷たく感じる。私は、その少年の赤い瞳から目が離せなくなる。

 綺麗な、赤。綺麗な、瞳。

 とくん、と、私の胸が鳴った。
 私、この人のものになったんだ。

「さあ、もうお帰り。ママが心配している」
「帰っても、いいの?」
「いいよ。ふもとまでは、彼が案内してくれる。彼と一緒なら、獣たちに会うこともなく無事に下まで降りられるから、安心してお帰り」
 そう言って彼の視線の先を追うけれど、そこにはろうそくの明かりがあるだけだった。

 違う。
 ろうそくの、火だけが浮いているんだ。

「お茶の時間に付き合ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
「私も、いろいろとありがとう……あの、次にあなたに会うときは、私が薔薇になる日なのかしら?」
 少年は少し考えてから、にこりと笑った。

「君が薔薇になったら、きっとこの庭でも一番美しい薔薇になるだろうね」
「その時までに、私、きっと素敵なレディになっておくわ。そして、あなたのために、この庭で一番きれいな薔薇になってあげる」
 そうして、あなたの愛を一身に受けて、きっとあの薔薇のように誇らしく咲き誇るんだわ。

 少年は、それを聞いてまた、弾けるように笑った。それは、一緒にお茶を飲んだ少年の笑い声だった。
 瞳は、青に戻っている。
「楽しみにしているよ。またね」
「ええ、また」
 そうして私は、ろうそくの火を追いかけて、森の中へと足を踏み出した。

  ☆

「イリヤ!」

 山を下りた時には、もうすっかり夜が明けていた。家の近くまでくると、まだ朝早いというのに、ラウラ姉さまが私を見つけてすごい勢いで走ってくる。

「姉さま?」
「姉さま、じゃないわよ! あんた、一晩中どこへ行ってたの?! もうっ……こんなに心配かけて……!」
 そう言って姉さまは、私を、ぎゅ、と強く抱きしめた。

「暗くなっても帰ってこないし、このままあんたが見つからなかったら、私たち、どうしたらいいかと……」
「心配かけて、ごめんなさい」

 誰も、誰かの代わりにはなれない。
 そうだね。いつもは小言ばかりの姉さまが、泣きはらした目で私を待っていてくれた。
 私も、姉さまにとって大切な一人、なのね。

 体を離した姉さまは、にっこりと笑った。
「無事で、本当によかったわ。それより、早く家に入りましょう!」
 なぜだか、姉さまは急かすように家の扉を開く。わけがわからないながらも私が家に入ろうとすると……

「イリヤ!? 帰ってきたの?」
 開いた家の扉から、ママが飛び出してきた。

「マ、ママ?! 起きて大丈夫なの!」
「ええ。それより、あなたこそどこへ行ってたの? みんな心配したのよ」
 軽やかに走ってきたママが、私を抱きしめる。信じられない。昨日まで起き上ることもできなかったママが、私のことを抱きしめている!

「無事で、よかった……!」
「ママ……!」
 暖かいその体に腕をまわす。間違いない。ママの匂いだ。

 ありがとう。悪魔。
 私の願いを、かなえてくれたのね。

「ママ、大丈夫なの? 辛くないの?」
「ええ。どういうわけかわからないけど……今朝起きたら、体が軽くて……昨日までの苦しさが嘘のようだわ」
「よかったね、ママ。本当に、よかった……」

「イリヤ! どこへ行っていたんだ!」
「心配したんだぞ」
 家の中から、パパとヨアン兄さまも出てきた。

「夕べお前を探しているときにアンに会って、お前にカジエ山の悪魔のことを話したって聞いたんだ。もしや、と思って、これからヨアンと二人で迷いの森に行こうとしてたとこだ」

「私、悪魔にママを助けてもらおうと思ったの。だから、迷いの森に……」
「行ってきたの?!」
「うん。でも、悪魔には会えなかったわ」
「ばかね。悪魔なんて、いるはずないじゃない。それでなくてもあの森は、獣も多くて危ないというのに……」
「イリヤ、ありがとう」
 ママが、また私を抱きしめる。その腕は、少しだけ震えてた。

「でもね。イリヤが死んでしまったら、ママ、自分が死ぬよりも、もっともっと辛くて悲しいわ。だから、お願い。もう、ママから離れないで」
「うん……ごめんなさい。ママ」
「もういいから。さ、朝御飯にしましょう。お腹すいたでしょう? イリヤが戻ってきたら食べさせてあげようと思って、ママ、久しぶりにパンを焼いたの」
「嬉しい! お腹すいた!」
「じゃあ、手を洗って着替えを……あら?」
 私の様子を見たママが、ふと、首元を見つめた。

「これ、どうしたの?」
「え?」
 二つボタンの開いたブラウスに、ママが手を寄せる。

「なにか痣が……虫にでも刺されたのかしら」
「まるで、バラの花みたいな形ね」
 姉さまも覗き込んで言った。

 自分では見えないけれど。
 そこにあるのは、約束のしるし。

「さあ? 痛くもかゆくもないけど」
「一晩中山の中にいたんじゃ、虫にも刺されるわよ。あーあ、スカートも泥だらけじゃない」
「ごめんなさい、ママ。せっかくママが作ってくれた服なのに……」
「いいのよ、イリヤが無事なら。スカートなら、また作ってあげるわ」
 嬉しそうなママの頬は、バラ色に光っていた。

 それは、私が見たかった笑顔だった。

「ママー! ごはんー!」
「ママー!」
 家の中から、弟たちの元気な声が聞こえる。パパと兄さまが、それを聞いて笑いながら家に入っていった。

「はいはい、すぐ支度するわね。ほら、イリヤも」
「うん」
 返事をして、私はカジエ山を振り返る。

 緑の森の向こうに、高々とそびえる山。
 そこにいるのは、薔薇の庭に住む優しくてきれいな悪魔。

 そういえば名前を聞きそびれちゃったな。悪魔に、名前があればの話だけど。私も名乗ってこなかったけど、一年後、ちゃんと私を見つけることができるのかしら。

 私は、そっと首元の痣に手を当てる。

 見つけてもらえなかったら、私から行けばいい。
 もう一度、あの人に会うために。

「イリヤ?」
「ううん、なんでもない」

 私は、姉さまと手を繋いで、一緒に家へと入った。おいしいパンの匂いのする、笑顔のあふれる私の家へ。






Fin

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