「うあぁ」
 つい、信じられないくらい気が抜けた声が口からこぼれた。たぶん、生きてきた中で最高に緩んでいる。けれど、それもしょうがないと思うのだ、この暑さでは。
「涼し〜」
 カーテンを揺らして入ってくる風は、この時期に似合ってじめじめと湿っているが、たとえそんな風でも吹いてくれるだけありがたいもの。
 ここ数日エアコンが壊れ厳しい状況下に置かれていた輝月(きづき)は、薄暗い部屋の中、ベッドに仰向けになり息をつく。
 完全に内外を遮断する分厚いカーテンまで閉めてしまうと、人々を癒してやろうという心優しい風が、入って来ようにも来られないと、もう外は暗いが薄いレースカーテンのみを閉めていた。たださすがに年頃の乙女ではあるので、外から見えないようにと電気は消している。
「輝月? もう寝たの?」
 養母の声が階下から聞こえた。
 輝月は幼くして両親を亡くし、それからはとある孤児院で育てられた。そして、いろいろあって中学三年生になったと同時にこの家に来たのだった。一年と少し前のことだ。
 養父母は優しく気さくで、まだ普通の家族の十分の一にも手が届かない日数しか過ごしていないにも関わらずしっかりと打ち解けられていた。高校でも過不足なく過ごせている。
「まだー。でも、もう少しで寝ます」
「わかった。窓は閉めて寝なさいね」
 はぁい、と小さく返事をする。
 暑い。輝月はため息をついてから、首を振った。明日までだ、明日までの辛抱だ。養母さんが、明日には業者さんが来てくれるっていうから。
 しばらくごろごろと転がり、少し眠くなってきたところで立ち上がった。
 養母の忠告を思い出して、窓を閉めに行こうと歩き出したと同時に、泣きたくなるほどに涼しい風が、一際強くカーテンを揺らした。
 おお、と軽く感動する。
 ウソみたいだ。さっきの湿気が全部払われてる。
「んん〜」
 黒髪がざあっと風にさらわれた。この気温がキープされていたら世界は平和だろう、とまで思ってしまう心地よさに、つい両手を広げ目を閉じて、全身で受け止める。ああ、涼しい。生き返る〜・・・・・・。
 そのとき。
「なあなあ。お前が、『今かぐや姫』?」
 知らない人の声がして、思わず窓に目を向ける。
 ほのかな月明かりを背負って、今の、目を閉じていた数秒の間に、一人の男子が窓枠に腰掛けこちらを興味深げに見つめていた。
 ん・・・・・・、と一瞬思考が止まる。あれ、ここ二階だよね? てか、え、誰?
「どっ、どなたですか?」
「へー。この髪も、姫っぽいな。なんか、十二単着てそう、っていうか?」
 輝月の問いをスルーして、窓枠からぴょんと飛び降り、輝月の自慢の黒髪をガッとつかまれる。ここにくる前は、ずっと短くて、ぼろぼろだった髪の毛。ありとあらゆるものを使い、艶やかに仕上げられた髪は、もう腰にまで及んでいる。
「・・・・・・っ、触らないで!」
 すぐさま手を振り解き飛び退く。そのままドアの近くに設置された電気のスイッチへ走った。人工的な光の下で改めてよく見ると、その男子はちょっとありえないほど整った顔立ちをしていた。
 担任の古典の先生から教わったフレーズが、ふわっと頭に浮かぶ。
 今光源氏。
 源氏物語の主人公、モテモテだった光源氏にあやかって、その時代のアイドル的なイケメンを今光源氏と呼んでいた、という。
 ・・・・・・それっぽいかも?
「ん? ああ、ごめん。嫌だった? 髪の毛触られるの」
 彼はあっさり髪の毛から離れた自分の掌を眺めてから、くるっと後ろを見てのびのびした声で叫ぶ。
「あー、やっと来れた。見て! 満天の星空。いや〜、故郷があんなに美しく見える!」
 机に座った今光源氏が、しゃっとレースカーテンまで開け、輝月は急に現実世界に引き戻された。視界に霽月(せいげつ)が飛び込んできて、不快感を露わに眉をひそめる。
 本当は一刻も早く薄いカーテンだけでも閉めたい。でも、今すべきことはそんなんじゃなくて・・・・・・急いで、枕元のスマホを取った。
「通報するから!」
 交番、警察、お巡りさん、えっと、確かいちいちぜろ。
 ここに来てその単純な字面を使ったことはないけれど、きっと頼りになるはずだ。この前番組で見たときに、すごくカッコよく犯人を捕まえてたから。
 不法侵入者ですって叫んで、あとはなんとか頭に詰め込んだ住所を伝えればっ・・・・・・。
「えっ、おぉ、落ち着いて『かぐや姫』さん。ちょっと話聞いて」
 かぐや姫? それ、なんの話よ? 輝月はぐっと闖入者を睨んだ。
「なんなのその呼び方」
「あれ、もしかして知らない? まあ、連絡手段も断たれてたもんな・・・・・・あんたさ、なにかしら悪さして地上に流されたんだって噂だよ? だから、あの、かぐや姫」
 なにか、罪を犯して地上に落とされた、あの。
 どこの噂、とは聞き返せない。思い当たる場所はたった一つだけで。
 強張った輝月の顔を見て、ふんふん、とうなずいたところを見れば、事情はあらかた知っているらしい。
「わかってくれた? 俺は、月の都からの使者。ね。だから、通報しないで?」
「つき、の・・・・・・」
 やっぱり、か。予想はしていたけど。限りなく忌まわしい故郷の名に、ざわっと全身に鳥肌が立つ。
「帰って来いってさ。一年間、懲りればいいって、院長さんは思ってたって言ってるし。もういいよって。さ、行くぜ」
 帰って来い? 一年間、懲りればいいだって? 信じられない。知らないの? 院長さんも、この人も。
 アイツの、あの尽きることのない悪行を。私がなぜ、逃げ出そうとしたかを。
 今度は腕を、驚くほど強い力で引かれる。
 あんなところに戻る? 今光源氏の力が引き金となり、忘れられない女の顔が頭に現れた。輝月は思わず甲高い悲鳴をあげて、必死に抗う。
「嫌!」
「しーっ。バレるだろ。びっくりされちゃう」
 朝起きて私がいない方が、びっくりするだろう。なにより、行きたくなかった。今なら、抗えば助かる。ここでの悪者は、間違いなく輝月ではなくこの男子だ。不法侵入の上、女子をさらおうとしているのだから立派な犯罪。勝算なんて余るほどある。・・・・・・人さえ呼べれば。
 だから、必死に抵抗を続けた。
 誰か来て。大声で喚く。
「やめてっ。嫌だ!」
 その暴れっぷりが功を奏し、輝月? と、怪訝そうな養母の声が近づいてくる。それを聞き、ぎょっと今光源氏が顔を強張らせた。反対に、輝月の内心は安堵で満たされる。
 ああ、助かった。私はここでこれからも、安定した生活を、意味のわからない行動に脅かされることのない生活を続けられる。
「ああもう、しょうがない!」
 目の前で、いらいらした声が弾けたと思ったら、ぐっと抱き寄せられベットに二人で倒れ込んだ。
「ちょっ・・・・・・、なにをっ」
 ぐっと輝月の口をふさぎ、自身はこの暑いのに布団に潜り込んで、余った足で輝月を拘束した。
「輝月、大丈夫? 寝てるの?」
 扉の前まで声が近づいてきている。ますます、口を覆う手に力が込められて苦しい。鼓動がちょっとありえないほど早く鳴り、顔が熱い。
「入るわね? ・・・・・・あら、電気つけっぱなしで。こんな暑いのに布団かぶって。さっきの悲鳴は、寝言かしら。聞き間違いかも。もう歳だからねぇ・・・・・・」
 違う、違うよ。ここにいる。助けてお養母さん。まだ全然若いじゃない・・・・・・。
 そんな心の懇願を聞きつけることなく、かちゃんとドアが締まり、ぶつぶつ言いながら声が遠ざかっていく。
 信じられないほどに強く体を締め付ける恐れと、助けのこない絶望感。嫌な汗が全身を覆い始めた。どうしよう。このまま、このまま故郷に帰ったら、どうなるかなんて・・・・・・考えたくもない。
「っは〜! あっぶな」
 大きなため息とともに解放される。すぐにベッドから転がり出て、荒く肩で息をする。徐々に汗が引き、暑さによるそれと入れ替わる。
「もう、そんなに帰りたくないんだな?」
 落ち着いた頃合いを見て、今光源氏は急に優しく言った。当然輝月はすぐにその提案に飛びついて、何度もうなずく。
 もちろんだ。
「わかった。父さんに相談してみるよ」
「父さん?」
 今の言い方だとコイツの父は、犯罪者ということになっている人一人の行動を決定することができるほどの、かなりの権力者らしいけど。
「あれ。言ってなかった? 父さんは、月帝(げつてい)。俺は、その息子」
「げ・・・・・・つてい」
 げつてい。月帝。その単語を聞き、頭の中で素早く変換して、つい身を引く。その名の通り、輝月の故郷、月の都の帝だ。
 えっ、つまりじゃあ、あんたは。
「次期帝?」
「あ〜、えっと・・・・・・、俺は、一番下だから、なにを間違えても順番は回ってこないんだ。だから遠慮はいらない」
 その言葉に、一瞬、いらだちのような感情が混じる。輝月は気づくことなく、うなずいた。
「ふぅん」
 先ほどは思わずその高貴な立場に驚いたが、正直興味はもう失せてしまっていた。もう興味のない、関係もない場所なのだ。
「じゃ。一応延長のことは伝えるけど。また考えて、帰りたいってなったら言って?」
「延長じゃないし中止だし、アンドぜっっっっっったい、ならないから!」
 これだけは伝えておかねばと思わず力み、目をつぶって叫び返す。次に目を開けたときには、今光源氏の姿はなかった。