「うあぁ」
 つい、信じられないくらい気が抜けた声が口からこぼれた。たぶん、生きてきた中で最高に緩んでいる。けれど、それもしょうがないと思うのだ、この暑さでは。
「涼し〜」
 カーテンを揺らして入ってくる風は、この時期に似合ってじめじめと湿っているが、たとえそんな風でも吹いてくれるだけありがたいもの。
 ここ数日エアコンが壊れ厳しい状況下に置かれていた輝月(きづき)は、薄暗い部屋の中、ベッドに仰向けになり息をつく。
 完全に内外を遮断する分厚いカーテンまで閉めてしまうと、人々を癒してやろうという心優しい風が、入って来ようにも来られないと、もう外は暗いが薄いレースカーテンのみを閉めていた。たださすがに年頃の乙女ではあるので、外から見えないようにと電気は消している。
「輝月? もう寝たの?」
 養母の声が階下から聞こえた。
 輝月は幼くして両親を亡くし、それからはとある孤児院で育てられた。そして、いろいろあって中学三年生になったと同時にこの家に来たのだった。一年と少し前のことだ。
 養父母は優しく気さくで、まだ普通の家族の十分の一にも手が届かない日数しか過ごしていないにも関わらずしっかりと打ち解けられていた。高校でも過不足なく過ごせている。
「まだー。でも、もう少しで寝ます」
「わかった。窓は閉めて寝なさいね」
 はぁい、と小さく返事をする。
 暑い。輝月はため息をついてから、首を振った。明日までだ、明日までの辛抱だ。養母さんが、明日には業者さんが来てくれるっていうから。
 しばらくごろごろと転がり、少し眠くなってきたところで立ち上がった。
 養母の忠告を思い出して、窓を閉めに行こうと歩き出したと同時に、泣きたくなるほどに涼しい風が、一際強くカーテンを揺らした。
 おお、と軽く感動する。
 ウソみたいだ。さっきの湿気が全部払われてる。
「んん〜」
 黒髪がざあっと風にさらわれた。この気温がキープされていたら世界は平和だろう、とまで思ってしまう心地よさに、つい両手を広げ目を閉じて、全身で受け止める。ああ、涼しい。生き返る〜・・・・・・。
 そのとき。
「なあなあ。お前が、『今かぐや姫』?」
 知らない人の声がして、思わず窓に目を向ける。
 ほのかな月明かりを背負って、今の、目を閉じていた数秒の間に、一人の男子が窓枠に腰掛けこちらを興味深げに見つめていた。
 ん・・・・・・、と一瞬思考が止まる。あれ、ここ二階だよね? てか、え、誰?
「どっ、どなたですか?」
「へー。この髪も、姫っぽいな。なんか、十二単着てそう、っていうか?」
 輝月の問いをスルーして、窓枠からぴょんと飛び降り、輝月の自慢の黒髪をガッとつかまれる。ここにくる前は、ずっと短くて、ぼろぼろだった髪の毛。ありとあらゆるものを使い、艶やかに仕上げられた髪は、もう腰にまで及んでいる。
「・・・・・・っ、触らないで!」
 すぐさま手を振り解き飛び退く。そのままドアの近くに設置された電気のスイッチへ走った。人工的な光の下で改めてよく見ると、その男子はちょっとありえないほど整った顔立ちをしていた。
 担任の古典の先生から教わったフレーズが、ふわっと頭に浮かぶ。
 今光源氏。
 源氏物語の主人公、モテモテだった光源氏にあやかって、その時代のアイドル的なイケメンを今光源氏と呼んでいた、という。
 ・・・・・・それっぽいかも?
「ん? ああ、ごめん。嫌だった? 髪の毛触られるの」
 彼はあっさり髪の毛から離れた自分の掌を眺めてから、くるっと後ろを見てのびのびした声で叫ぶ。
「あー、やっと来れた。見て! 満天の星空。いや〜、故郷があんなに美しく見える!」
 机に座った今光源氏が、しゃっとレースカーテンまで開け、輝月は急に現実世界に引き戻された。視界に霽月(せいげつ)が飛び込んできて、不快感を露わに眉をひそめる。
 本当は一刻も早く薄いカーテンだけでも閉めたい。でも、今すべきことはそんなんじゃなくて・・・・・・急いで、枕元のスマホを取った。
「通報するから!」
 交番、警察、お巡りさん、えっと、確かいちいちぜろ。
 ここに来てその単純な字面を使ったことはないけれど、きっと頼りになるはずだ。この前番組で見たときに、すごくカッコよく犯人を捕まえてたから。
 不法侵入者ですって叫んで、あとはなんとか頭に詰め込んだ住所を伝えればっ・・・・・・。
「えっ、おぉ、落ち着いて『かぐや姫』さん。ちょっと話聞いて」
 かぐや姫? それ、なんの話よ? 輝月はぐっと闖入者を睨んだ。
「なんなのその呼び方」
「あれ、もしかして知らない? まあ、連絡手段も断たれてたもんな・・・・・・あんたさ、なにかしら悪さして地上に流されたんだって噂だよ? だから、あの、かぐや姫」
 なにか、罪を犯して地上に落とされた、あの。
 どこの噂、とは聞き返せない。思い当たる場所はたった一つだけで。
 強張った輝月の顔を見て、ふんふん、とうなずいたところを見れば、事情はあらかた知っているらしい。
「わかってくれた? 俺は、月の都からの使者。ね。だから、通報しないで?」
「つき、の・・・・・・」
 やっぱり、か。予想はしていたけど。限りなく忌まわしい故郷の名に、ざわっと全身に鳥肌が立つ。
「帰って来いってさ。一年間、懲りればいいって、院長さんは思ってたって言ってるし。もういいよって。さ、行くぜ」
 帰って来い? 一年間、懲りればいいだって? 信じられない。知らないの? 院長さんも、この人も。
 アイツの、あの尽きることのない悪行を。私がなぜ、逃げ出そうとしたかを。
 今度は腕を、驚くほど強い力で引かれる。
 あんなところに戻る? 今光源氏の力が引き金となり、忘れられない女の顔が頭に現れた。輝月は思わず甲高い悲鳴をあげて、必死に抗う。
「嫌!」
「しーっ。バレるだろ。びっくりされちゃう」
 朝起きて私がいない方が、びっくりするだろう。なにより、行きたくなかった。今なら、抗えば助かる。ここでの悪者は、間違いなく輝月ではなくこの男子だ。不法侵入の上、女子をさらおうとしているのだから立派な犯罪。勝算なんて余るほどある。・・・・・・人さえ呼べれば。
 だから、必死に抵抗を続けた。
 誰か来て。大声で喚く。
「やめてっ。嫌だ!」
 その暴れっぷりが功を奏し、輝月? と、怪訝そうな養母の声が近づいてくる。それを聞き、ぎょっと今光源氏が顔を強張らせた。反対に、輝月の内心は安堵で満たされる。
 ああ、助かった。私はここでこれからも、安定した生活を、意味のわからない行動に脅かされることのない生活を続けられる。
「ああもう、しょうがない!」
 目の前で、いらいらした声が弾けたと思ったら、ぐっと抱き寄せられベットに二人で倒れ込んだ。
「ちょっ・・・・・・、なにをっ」
 ぐっと輝月の口をふさぎ、自身はこの暑いのに布団に潜り込んで、余った足で輝月を拘束した。
「輝月、大丈夫? 寝てるの?」
 扉の前まで声が近づいてきている。ますます、口を覆う手に力が込められて苦しい。鼓動がちょっとありえないほど早く鳴り、顔が熱い。
「入るわね? ・・・・・・あら、電気つけっぱなしで。こんな暑いのに布団かぶって。さっきの悲鳴は、寝言かしら。聞き間違いかも。もう歳だからねぇ・・・・・・」
 違う、違うよ。ここにいる。助けてお養母さん。まだ全然若いじゃない・・・・・・。
 そんな心の懇願を聞きつけることなく、かちゃんとドアが締まり、ぶつぶつ言いながら声が遠ざかっていく。
 信じられないほどに強く体を締め付ける恐れと、助けのこない絶望感。嫌な汗が全身を覆い始めた。どうしよう。このまま、このまま故郷に帰ったら、どうなるかなんて・・・・・・考えたくもない。
「っは〜! あっぶな」
 大きなため息とともに解放される。すぐにベッドから転がり出て、荒く肩で息をする。徐々に汗が引き、暑さによるそれと入れ替わる。
「もう、そんなに帰りたくないんだな?」
 落ち着いた頃合いを見て、今光源氏は急に優しく言った。当然輝月はすぐにその提案に飛びついて、何度もうなずく。
 もちろんだ。
「わかった。父さんに相談してみるよ」
「父さん?」
 今の言い方だとコイツの父は、犯罪者ということになっている人一人の行動を決定することができるほどの、かなりの権力者らしいけど。
「あれ。言ってなかった? 父さんは、月帝(げつてい)。俺は、その息子」
「げ・・・・・・つてい」
 げつてい。月帝。その単語を聞き、頭の中で素早く変換して、つい身を引く。その名の通り、輝月の故郷、月の都の帝だ。
 えっ、つまりじゃあ、あんたは。
「次期帝?」
「あ〜、えっと・・・・・・、俺は、一番下だから、なにを間違えても順番は回ってこないんだ。だから遠慮はいらない」
 その言葉に、一瞬、いらだちのような感情が混じる。輝月は気づくことなく、うなずいた。
「ふぅん」
 先ほどは思わずその高貴な立場に驚いたが、正直興味はもう失せてしまっていた。もう興味のない、関係もない場所なのだ。
「じゃ。一応延長のことは伝えるけど。また考えて、帰りたいってなったら言って?」
「延長じゃないし中止だし、アンドぜっっっっっったい、ならないから!」
 これだけは伝えておかねばと思わず力み、目をつぶって叫び返す。次に目を開けたときには、今光源氏の姿はなかった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
 月の都に住んでいたのはほんの一年前。だけど、記憶から抹消したい。
 輝月の中に何個も出来上がった、記憶を奥底に眠らせた引き出し。故郷の慣例、地位の決まり、法律や暮らし。その種類は多岐に渡る。
 今光源氏との出会いによりその中で比較的緩く閉じられていたいくつかが開いたことで、輝月は悩んでいた。
 乱れたベッドに座り、首を傾げる。
「そんなに、帝に子供っていらしたっけ・・・・・・?」
 古き良き都。ーーというのはいい解釈すぎる。
 今、地上に慣れた今だからこそ思う、なんとも古臭いあの場所。
 おしゃれな洋服も面白い番組、ドラマも、きらきら光るビルも甘いスイーツも、なにもかもない。まるで、明治、大正にでもタイムスリップしたような建物たち。
 ただ、なにかの事業で儲けたとか、宝くじ連続で一等当てまくったとか、あとはそれこそ帝や皇族とか。リッチな暮らしをする人は地上と同じような生活をすることだって可能だ。
 あちらには密かに地上とツテを持つ商売人がおり、そして、必然的に地上に生まれながら月の都の存在を、企業秘密レベルながら知ることを許された人もいる。そのおかげで、地上の文化や家具、機械などを『お取り寄せ』できるのだ。
 しかし、それは莫大な金を渡すことで成り立つ。一般人には夢のまた夢のまた夢ぐらいの生活。
 それでもカラーテレビは映ったし、ネットも、大きなコンピューターでしか使えず動画サイトこそないもののつながる。ささやかな情報社会ではあった。
 そんな世界でも、帝の子沢山、というフレーズは聞いたことがない。そのため、小さな違和感を抱いたのだ。
 しかし。
 考え事があっても、深く考え込まないタチの体は休養を欲しているらしい。だんだん眠くなってきた。やっぱり、どうしても地上より上の人たちの情報に接する機会が少ないんだし、そのせいだろう。
 もやもやする霧を無理矢理にかき分けて、輝月はベッドに倒れ込んだ。
 レースカーテンさえ閉め忘れた窓からのどんよりした晨光(しんこう)で、いつもよりも早く目覚めてしまう。連なって昨夜のことはやっぱり事実だった、と否応なく意識させられて、朝っぱらから嫌な気分になった。
 絶対帰ろうと思うことはないって宣言、あの無茶苦茶な光源氏が聞いていたとは思えない。
 ずかずかと窓に歩み寄り、不安を払うように勢いよくレースカーテンを閉めて、手早く制服に着替えた。輝月は朝ご飯を制服で食べる派だ。ソースが飛んだとて友達も彼氏もいない輝月には関係のないこと。・・・・・・寂しい学校生活を送ってるもんで。
「おはよう、輝月」
「おはよぉ」
 朝食の席について、思わずのぞいた眠気を噛み殺す。あれから間を置かずに眠りに入れたとはいえ、普段よりだいぶ遅い時間。その上日の出とともに起きてしまったので、寝不足なのは明らかだった。
 ついもれたあくびに、授業ちゃんと受けれるかなと不安になる。
 地上では、故郷と違いデジタルも取り入れた授業風景である。そのため、地上の人なら慣れている操作方法から本来の目的である授業内容など、皆より覚えることが多く、正直核である内容に余裕でついていけてるとは言い難い。
 不安に思いながら、もう一つあくびがこぼれた。
 その様子と時計を見比べたのか、前に座った養母から、心配顔で話しかけられた。
「早いのね。悪い夢でも見たの?」
「え? ううん。なんとなく」
 忠告してくれた養母に、カーテンを閉め忘れた、とはどうにも言いにくい。
 他人とか、そんなの関係なく、本当の母のように、優しくも厳しく接してくれるこの人には、遠慮なく怒られる気がした。ちょっと前に一度、軽く怒られた。ぶっちゃけそれでさえ怖かったから。
「そう・・・・・・なにか悩みがあるなら言ってね」
「悩み?」
「昨日、だいぶうなされてたみたいだったもの」
 どうやら、今光源氏ともめていた声が階下まで漏れ聞こえていたらしい。それを、寝言だと取ったのだろう。
 いや、あれはうなされてるレベルじゃないだろ・・・・・・と自分がやったことながらちょっと呆れる。寝言で金切り声を上げる人っているのかな? 誘拐される夢とか見たら、そうなるんだろうか。
「あ、あぁ・・・・・・ちょっと、数学・・・・・・そう、数学の小テストがね。あってさ。夢にまで出てきたよ。もう、最悪」
 うまく誤魔化せただろうか。前に、数学は一番苦手な科目だと言ったからだろうか、養母はちょっと眉を下げて、うんうんとうなずいた。
「そっか。頑張ってきて。誰か、教えてくれる友達作りなさいよ」
「はぁーい」
 教えてくれる友達、ねえ。
 生返事さえもそこそこに、輝月は学校へと向かう。昨夜の、束の間の五月晴れは分厚い雲にかき消されていたが、雨は寸前で踏みとどまってくれているようだった。
 が、いつ降り出すかはわからない。もしかしたら一秒後かも、いや今かもしれない、なんて地震的思考で考えた養母に一応だから! と言われて押し付けられた傘を手に、湿った空気の中を歩き出す。
 しかし寂しいことながら、早めに学校に着いても一般の人が持つJKのイメージっぽくきゃあきゃあと話す相手もいない。
「あ、おはよ〜」
「おはよう」
 挨拶されたら、返す。だけど、それだけ。
 最初の方は、隣になった子から髪、綺麗だねとか、HRを、新クラスメイトとコミュニケーションをとろう的な時間に当てられたときに好きな食べ物は? とか、聞かれたけど、そういう子たちとはほとんどの確率で仲良くなれない。無理矢理に先生たちが作った時間で話す子とは、長続きしない。
 中学三年生という若さで流罪、そして転校してきて、他の人よりも一つ多く人との別れと出会いを過ごした輝月は、そういう持論がある。
 大してなにをするでもなく、スマホをいじっていた。こういうときにスマホは大活躍。故郷にはなかったからなぁ。
 自分のぼっちの現状から逃げる、なんてこと、気づいてる。もうとっくに。でも、やめたってぼっちから抜け出せるわけじゃないからね。
「ホームルーム、始めまぁす」
 梅雨の嫌ぁな湿気を払うように、涼やかな予鈴が鳴り響く。
 担任の、いつになく生き生きした声にぱっと視線を上げれば、もうクラスメイトが大半揃っていた。いつもより若干早い先生の登場に、JKたちは話をやめて、急いで座り始める。
 ふと視線を外に転じれば、細い雨が、小さな音を立てて降り始めていた。ああ、傘持ってきてよかった。さぁあ、と絶え間ない音に、どうでもいいことを思った。
「今日はね、転校生がいます。だから、ちょっと早く来たんだけど」
 ああ、ぜんっぜんどうでもいい話じゃん。ちらちらとあたりをさりげなく見れば、二、三人、机に突っ伏していた。隣の寝癖男子も。斜め前の前の眼鏡女子も。たぶん後ろの席の、ショートヘアの子も寝てる。あの子、いっつも寝てるもんなぁ・・・・・・正直、プリント配るときとか起こすん面倒なんだよね。気まずい。
 まあ、いいけど、それより。
 再びきょろきょろして、小さくうなずいた。
 ・・・・・・よし。
 寝よう。
 静かに心の中でしょーもない決意して、さりげなく頬杖をついた状態で目を閉じる。すでに眠気はこちらに向かって歩いてきていた。
 せんせ、どんな人ですか?
 ん? 聞きたい?
 はい!
 聞いちゃう? ・・・・・・男子
 え〜っ
 女子! 朗報だよ! いや、もう、本当に、かっこいい。すごいのよ。みんな、覚えてる、私が前教えた言葉。そう、まさに今光源氏──
 先生のうわずった声と、女子生徒のざわめく声をぼんやりと聞き流しながら、夢の世界へ、誘われていく・・・・・・
✳︎ ✳︎ ✳︎
 ぱこっ。
 自分でもそう思うくらいいい音がして、額に軽い衝撃と痛みが走る。いつ先生に名前を呼ばれてもいいように、と体が厳戒態勢だったから、ぱっと目を開くことができた。
「えっ」
 やばい。バレたかな。周りのざわめき具合に、思わず戸惑う。
 チョークでも投げられた? 体罰って教頭か校長かに訴えてもいいけど、非はこっちにあるしな、でも、地上ならゴリ押せばなんとか体罰、ダメ絶対風潮の時代だしなんでもいけるっぽいし、でも今はどう切り抜けよう、どう言い訳すれば。
 あれ、隣の子は? 寝てたよね、さては、名前も知らないアイツ、危険を察知して起きやがったな。抜け駆けはズルい。私だけ怒られるじゃん!
 必死に頭を回して教室の床に視線をそわせ、ちらっと隣を見ても、その男子は寝癖をこっちに向けたまま、微動だにしない。
 え、寝てるじゃん。
 なにか、変だ。もしかして先生に特定でいじめられてる? 身体中がこわばった。
 先生の表情を確認しようと、視線を上げた、そのとき。
「うわあああぁっ」
 椅子が派手な音を鳴らして、前脚を浮かせながら十センチくらい後ろに下がった。
「おっ。おはよ。『かぐや姫』。寝てたろ」
「今光源氏・・・・・・」
 喉の奥から、うめくような声がもれた。あの顔が。寝不足の原因の、あの顔が。
 のぞきこんでいた。
 悪夢の再来だ。
「あれ? 今光源氏の話、聞いてたの。寝てなかった?」
 担任が、頭の上にハテナを浮かべている。が、それより、他の女子生徒の間では、もっと話題に取り上げられたワードがあった。
「『姫』って言ってたよ」
「え・・・・・・やば」
「どういう関係?」
 ざわざわといつまでもさざめく教室で、なんとか今光源氏を睨んで追い払い、輝月は存在を消すしかなかった。
 大きいため息をついて、腕を伸ばし、机に突っ伏す。
 午前の授業を終えて、ようやく訪れた昼休みの上に、思い切りあぐらをかこうと力を抜いた、そのとき。
「『姫』。考え直してくれた?」
「わあっ」
 またコイツ? 毎日毎日、もう!
 がたん、と、自身の口からもれた悲鳴をかき消すように勢いよく立ち上がる。そのまま教室を出て、階段を猛スピードで駆け降りた。
「ひーめっ」
 だけど、走りには、人と関わることと肩を並べるレベルで自信がない。すぐ追いつかれ、強く腕を掴まれて引き戻される。踊り場で、二人は向かい合う。
 ああ、もう・・・・・・。
 転校してきて以来一週間余、毎昼休み、油断すると放課後も、ご丁寧にずっと追いかけられている。それがますます、今光源氏を狙う女子たちの逆鱗をなでまわす。
「いい加減姫ってやめて?」
「だって、『今かぐや姫』は長いじゃん」
「だからって、もう・・・・・・すごい目立ってるの、気づいてるの?」
 全く気にすることなくにこにことしている今光源氏を、輝月はぐっと顔を険しくして、睨む。
「気づいてる。いいことじゃん」
「よくない! 悪目立ちっていうの、こういうのを。指名手配されてポスターあちこちに貼られてテレビでも紹介されるようなものでしょ? それでもあんたは嬉しい? 嬉しいのか、え?」
 さすがにここの生徒は人としての分別などは備えているらしく、いじめなんかは起こっていない。さすが地上、さすが道徳。
 けど。
 ちらりと上を見ると、さっとなにかが壁に隠れた。
 刺すような、冷たい視線が、ほら、今みたいに、ちくちく突き刺さる。人の目は怖い。人を人と思わないで見てくる目は怖い。激しい憎悪と冷たい軽蔑がこもった目は、合ってしまうだけで呪われる気がする。心が負けてしまうのだ。
 できる限り視線は目に向けない。ひたすら視線を伏せて過ごすしかない。そんな日々は、もう繰り返したくなかったのに。
 感情を押し殺した目で、ぐっと涙を堪えて。声を平にして、精一杯強がって。
「帰らない。帰りません。月には帰らないから」
 何度も繰り返す。私の説得なんて早く諦めて、帰ってほしいーー。
 しかし、そんな懇願を見抜いたのか、今光源氏はにやっと笑った。
「高校生終わるまで、留学だから帰らないよ。ま、『姫』を説得できたらなによりだけど、ね」
「え・・・・・・留学期間が終わるまで、これが続くってこと?」
 絶望の色を隠せないまま、輝月は呆然とつぶやいた。
「そうだね。うん」
 それは、困る。非常に困る。あの目と隣り合わせで三年。・・・・・・辛すぎる。
 頭をフル回転させて、なんとかあの恐ろしい視線から逃れる方法はないのか探る。あわよくば月へ帰ることも諦めさせる方法。
 そんなときでも、どこからかにぎやかな声が耳に入る。次の時間に小テストでも控えているのか、歴史を勉強する声がここまで響いてきていた。
「遣隋使は?」
「小野小町、じゃないや、小野妹子!」
 そうだ。ぱっと閃いた。
 小野小町といえば、世界三大美女の一人で、そして。
 百夜通いの伝説がある人!
 なんとか草なんとかって男の人が、かの有名な絶世の美女・小野小町に恋をして。でも小町は、その人の気持ちが鬱陶しいだけ。百日通ったら結婚してやると無理難題をふっかけ、しかしその男の人は怒るでもなく、ちゃんと通う。すごいよね。優男! でも、残念ながら、雪の降りしきる百日目に亡くなってしまう・・・・・・って話だったような。
 古典の先生である担任がぽろっとこぼしていた話を覚えてる! すごい、私。軽く感激しつつ厳しい顔をキープして、今光源氏に提案、と言った。
「ん?」
「千日間、うちに夜通ってくれたら、帰ってあげてもいいかな。その代わり、学校では極力関わらないこと」
 厳しい条件すぎたかな。千日。後で計算したら、二年と九ヶ月だった。今が梅雨真っ盛りの六月だから、ちょうど高校三年生の三月。ちょうどいい! 天才じゃない? 私。
 しかし。
 ぐっと寄せられる、という予想に反して眉根が開き、悲しい色が浮かぶのでは、と思っていた瞳は輝き始めた。
「本当? いいの? マジ? え、千日? ざっと三年・・・・・・え、マジでいいの?」
 いっぱいハテナを投げかけられて、狼狽える。
「え? うん」
 まあ、どうせ無理でしょ、と思う。
 三年。私はそんなになにかが続いたことないし、三年って相当よ? 石の上に座るのもきついけど、同じ女子の家に通うってのもなかなか。
 思えば、百日も同じようなもん。五十歩百歩感覚で一緒。そう思うとすごいな、恋って。小野小町、どんだけいい女だったんだ。そんなにお高く留まっていても嫌われないし怒られないし、後世まで残ってしまうんだから。すげー・・・・・・。
 そう、輝月は軽く考えていた。今光源氏が、どれだけ輝月を月へ連れ戻すことに命をかけているか、知らなかったから。
「『姫』。こんばんは」
「また? 今光源氏っ」
 どうにも顔を背けたくなる、数学の課題プリントに着手しようと机に向かっていた輝月は、珍しく課題に顔を向ける、どころか勢いよく顔を引っ付けた。
 過多ではあると思うが所詮紙数枚。クッション代わりにはならない。しかし、ごん、と鈍い音が鳴るのは、寸前で今光源氏の掌により防がれた。
「いや。千日通ってこいって言ったの『姫』だし」
 いってー、と、クッションになった右手をぶんぶん振りながら、拗ねたように言う。そして無断でペン立てからペンを抜き取り、カレンダーに三十、と書き込んだ。
 はあっ、とこれみよがしにため息をついて、輝月はその存在を無視し、シャープペンシルを握る。課題課題。こんなやつ、相手にすることない。
 くっ・・・・・・全然わからん。
 思わずその内容にうめく。それでもスルーで通そうと思っていたのに、今光源氏がペンを取り上げ、すらすらと解いていく。さすがに無視はできなかった。
「はぁあ? なんでそんなに解けるの?」
「ま、ね」
 にやりと笑う顔が憎らしい。さらに憎らしいのは、解法を教えてくれたこと、それにすごくわかりやすかったこと。もう、マジ、ウザい。
 なにコイツ。
 ずっと思ってしまう。そろそろ梅雨明け、とニュースで叫ばれ始めても、蝉が喧しく鳴き始めても。
 今光源氏は、通うことをやめなかった。
「もう一ヶ月だよ・・・・・・」
 思わず再びうめく。最初の方は、三日も続かないと侮っていた。
 三日経ってからは一週間でやめるから心配ないと考え、一週間が経過したときは半月で終わるだろうと、三週目に突入してからは、まあ一ヶ月でだんだん疎遠になるでしょと思っていた。
 それが、今日で一ヶ月。それでも、やはり半年でこの光景はなくなるとおしはかり、そして五ヶ月後には一年、と、ほとんど願うような気持ちで思っているのではないか。
 十五年とちょっと、この体と、この脳みそ、この思考と付き合ってきたのだ、それくらい予想はつくが、その思考をやめることはできなかった。
「ねえ、『姫』。海、行かない?」
 突飛な提案すぎる。海なんて、去年に家族三人で行ったっきりだ。それが一年で、男子と? 女友達飛び越えて、男と行けっての?
「ななななな・・・・・・なんでっ」
「クラスの女の子たちから誘われた。夏休み初日。どう?」
 『女の子』なんて、そんな言い方するのはコイツだけだ、と思う。大抵は『女子』。と、どうでもいいことが頭に浮かぶ。慣れてないんだろうな〜。
「やだ」
 即答した輝月に、今光源氏はコケる真似をした。意外とお茶目らしい。
「なぁんでっ」
「寂しいだけじゃん、そんなの! 私、友達いないし」
「大丈夫。俺が相手してあげる」
「やだよ。男子と海なんて」
 結局行きたくないだけだ、という気持ちが透けて見えたのか、ぐっと唇を尖らせた。
「じゃ、どうしたら来てくれるの?」
「ん〜・・・・・・」
 考え込む。どうしたら断れるかなぁ。
 あ。
「交通費、食事費、その他諸々負担してくれるなら」
「いーよ」
「えっ、はっ?」
「了解。じゃ、約束ね。ばいば〜い」
 今光源氏は、風とともに気づいたらふらっと横にいて、気づいたらふっといなくなっている。今日もそうだった。目を瞬いているその隙に、どこかに消えている。
 とにもかくにも、あと一ヶ月後くらいに、輝月は強制的に海へと連れ出されることになったのだ。