何も思い出せないまま、無情に時は過ぎていく。
時仁はそれでもいいと笑ってくれるが、自分の病すら祓えない己への不信感は募るばかりだった。

今帰っても、時仁に無駄な心配をかけるだけだろう。
そうしてしばらく落ち込んだ気持ちのまま、わけもなくぶらぶらと歩く。
日が出ているとはいえ、真冬の外は寒い。
雑踏の中、しゃん、しゃんと早苗の鈴の音だけがいやに耳につくようだった。

「お嬢ちゃん、考え事かい?」

ふと、背後から声をかけられて振り返る。
赤みがかった髪の、知らない男性がいた。
彼は人の良さそうな笑顔で、早苗に近づていくる。

「迷子かなって思ったけど、なんだか深刻そうな顔してるから気になっちゃった」

「迷子じゃありません。それにもうそんな歳でもありません」

彼は時仁と同じくらいの外見年齢で、知り合いにこんな人がいただろうかと思ったが、やはり初対面だった。
まさかこの歳で迷子に間違えられるとは思わなかったが、見知らぬ人から声をかけられるほど沈んだ顔をしていたなんて。

「お気遣いありがとうございます。ですが、私のことは気にしないでいただけると」

「そんなこと言わずにさ、俺に相談してみなよ。よく知らない人の方が気兼ねなく話せることもあるだろ」

軽薄そうな笑顔だが、言っていることは確かにと頷きたくはなる。
だが、他人に話して解決する悩みなら、こんなに長い間苦しんだりしない。

「ですが、本当に私は・・・・・・」

「そうだ!俺、この町には来たばかりでよく分かってないんだよね。良かったら、あんないしてくれないかな」

断ろうとすれば、強引に話をすり替えられた。
一体なんなのだと思いつつ、聞けば、寺に用があるのだが場所が分からないのだと。
迷子はそちらの方じゃないかと言いたくなる気持ちを抑えて、しぶしぶ早苗は彼を案内することに。

「お嬢ちゃんってもしかして良いとこの娘さんだったりする?」

早苗の身なりをみてそう思ったのだろう。
相手に見くびられないよう、できる限りきちんとした格好を心がけているが、見ようによればそう思えなくもない。

「いえ、私は祓い屋をやっております」

「へぇ!そりゃすごいな!」

彼の声が一段と跳ね上がった。
早苗は一瞬驚くと、彼の顔をまじまじと見る。

「ああ、疑ったりはしてないからね?俺、祓い屋さんにはお世話になったことがあるから、君のこと尊敬するよ」

「・・・・・・別に、私なんて尊敬されるような人ではありませんよ」

無意識的に、拗ねたような返事をしてしまった。
嬉しそうな顔で祓い屋へ感謝している彼を前にすると、どうにもその賞賛が受け取り難かった。

「もしかして、仕事で何か嫌なことでもあったのかい?」

気遣うようにそう尋ねられて、こくりと頷いた。
そんなつもりはなかったのに、彼の人懐こい雰囲気につられてしまったのだろうか。

早苗は祓い師としての自信を無くしかけているということを思わず話してしまった。

もちろん、時仁のことや具体的な名前などは伏せて。

「そうかぁ・・・・・・それは、大変だっただろうなぁ」

話を聴き終わって、彼はしみじみとそう言う。

「あんたは偉いよ。よく頑張ってる」

立ち止まって、早苗の瞳をしっかり見つめる。
飾り気のない素朴で率直な言葉は、早苗の心を溶かすようだった。

「・・・・・・ありがとう」

小さな声で呟く。
いつしか早苗は敬語も忘れて、友人に話すように、ふっと表情を緩めた。

「もう少し、頑張ってみようと思う。きれいごとでも」

早苗の言葉に、彼は大きく頷いてくれた。
苦しい思いを抱えているよりも、こうして、誰かに話すことで楽になる。
成海たち姉妹に言ったように、きれいごとでもその言霊は早苗の心を支えてくれるようだった。

目的の寺はもうすぐそこのはずだ。
思いがけない巡り合わせだったが、そろそろ別れなければ。

「ただ、俺が思うに・・・・・・今の君に本当に必要なものは、もっと別にあるんじゃないかな」

「・・・・・・え?」

思わぬ言葉に、早苗は足を止める。
どういうことだろうか。
先程と変わらないような笑顔なのに、その視線は早苗を射抜くような鋭いものだった。
なんだか急に、彼の雰囲気が変わってしまったような・・・・・・。
いつの間にか、早苗の鈴の音が鳴らなくなっていた。

「もっと別って、」

「例えば、失った記憶を取り戻す薬、とか」

早苗は息をするのを忘れてしまったかのように、かたくなってしまった。

「なん、で・・・・・・」

先程まで隣にいた彼と、今目の前で喋っている男は、本当に同一人物だろうか。
屈託なく笑っていた彼のその眼差しは、真冬の冷たさそのものだ。
早苗の鼓動が早くなる。
その言葉は、まるで協会で問題となっているあの人物、六檀のようではないか。
甘い言葉で素敵な薬を売りつけて、人が呪いに蝕まれる様を眺めるような、そんな男。

「あなた、まさか六檀・・・・・・っ!」

いつの間にか、周囲の景色が今まで通ってきた道と違うことに気づいた。
気付かないうちに、結界に引きずり込まれたのか。
一体いつ、どうやって。
彼は祓い師ではないはずだ。
隣にいた時、こんな結界を作り出せるほどの霊力は感じられなかった。
混乱する中、なんとか札を取り出して身を守ろうとするが、いくら霊力込めても術は発動されず、早苗の指が震えているだけ。

「嬉しいねぇ、俺のことを覚えてくれてるなんて。君さえよければ、俺と一緒においでよ。君の悩みなんて、いくらでも解決してあげるさ」

彼・・・・・・否、六檀は早苗に恭しく差し伸べたが、当然その手をとるわけがない。
こんな男についていってしまったことを心底後悔する。

「あやかしを恋人に持つ、不思議な術師の娘・・・・・・君がいれば、きっともっと楽しくなる」

「・・・・・・っ!」

六檀は時仁のことを、知っている。
時仁の正体は、早苗とごく一部の人間しか知らないはずのことだ。
それにも関わらず、初対面であったはずのこの六檀が知っているということは、入念に調べ尽くしたとしか考えられない。
今日出会ったのは偶然ではなく、仕組まれたものだったのだ。

嫌だ、嫌だ。
はやくこんな奴、霊力で吹き飛ばして退治してやりたい。
でも、体は縛られたかのようにまったく動かない。
真冬の寒さも忘れ、早苗の首すじを冷や汗が伝う。

「だめ、負けない・・・・・・!」

それでも早苗は諦めなかった。

「帰らなきゃ。時仁が待ってるから」

早苗の言葉に、六檀は眉をひそめる。

「忘れてしまった男への未練は捨てた方が君の為だと俺は思うよ」

「それでもいいの。それに、忘れてしまったけど、彼のことをもう一度好きになったっていいでしょう」

初めて、六檀が表情を崩した。
明らかに苛立って、嫌悪感をあらわにしている。
早苗はそれに構わず、今度は軽やかに札を振るった。

「『応えよ。現世の道を示せ』」

景色がぐらりと揺れる。
少しの間、霧のようなものに視界が包まれ、それが消えると早苗は元の世界に戻っていた。
どこから道を支えられていたのか、水明町の外れにある林の中に来ていたようで、当たりは雪と木々以外何も無い。

早苗の鈴が、しゃんと鳴った。
その直後、早苗の予想通り、彼の気配がした。

「​───────お前、俺の早苗に手ェだしやがったな」

現れた時仁は真っ先に六檀の顔面に殴りかかった。
狛犬のあやかしだというのに、恐ろしいほどの鬼迫で六檀を攻撃している。
顔の次は六檀の腹に蹴りをいれると、凄まじい音と共に六檀はよろめいた。
しかし、殴られっぱなしの六檀だったが、この程度で倒れる相手なら協会は苦労しない。

「乱暴だな。これだからあやかしは」

血の混じった唾を吐き捨てると、ぱちんと指を鳴らした。

「待てっ!」

六檀の姿が、幻影のように消えてしまう。
だが、直前に間一髪で時仁が掴んだものは、成海のところで捕まえたものと同じ式神の形だった。
時仁は悔しそうにそれを握り潰すと、早苗の元へ駆け寄ってくる。

「早苗・・・・・・!」

時仁は時々、動揺したりすると早苗のことを呼び捨てにする。
彼の素の顔が垣間見えるようで、早苗はそう呼ばれるのは嫌いではなかった。

「ただいま、時仁」

「おかえり、早苗ちゃん」

時仁はそう言うと、早苗に勢いよく抱きついてきた。
その弾みで雪の上へ押し倒される。
降り積もった雪はまだ誰にも触れられておらず、ふかふかで柔らかく、早苗と時仁を受け止めてくれた。