あの日、記憶を失って初めて目が覚めた日のことだ。
ぱちりと目を開けると、いつもの天井が視界に飛び込んでくる。
「起きたか!大丈夫か、早苗」
枕元にはなぜか遠十郎がいて、まるで、病人でも看病していたかのよう。
「遠十郎さん・・・・・・?」
起き上がろうとすると、頭に鋭い痛みが走った。
遠十郎が心配そうに早苗の背を支えてくれる。
「頭が痛いのか?無理はいけない。他に痛いところは?」
「いえ・・・・・・痛いところはありませんが、なんだか、変な気分ですね」
心にぽっかり穴が空いて、なくしてしまったかのよう。
なにか、忘れているような。
そんな気がしてならない。
とにかく、状況を確認したくて遠十郎になにがあったのかを聞こうとしたその時。
ガタンっと障子が開け放たれて、見知らぬ青年が飛び込んできた。
「早苗・・・・・・!」
早苗は彼のことをまったく知らないが、彼は早苗の名前を呼び抱きついてくる。
「よかった・・・・・・!起きれるようになったんだな!」
そう言った声はとても嬉しそうで、心の底から早苗を慈しんでくれているのは分かる。
けれども、早苗にとっては知らない男にいきなり抱きつかれて、困惑の気持ちしかない。
「あの」
早苗は彼の言葉を遮る。
「どちら様、ですか」
「───────・・・・・・え」
そういったときの、彼の絶望の表情が忘れられない。
「さ、早苗・・・・・・!まさかお前」
「遠十郎さん、この方はどなたなのですか?」
遠十郎は目を見開いて、呆然としてしまった。
「時仁のことが、わからないのか・・・・・・?」
早苗は、わけもわからずにただ頷いた。
早苗と時仁は恋人だ。
郷にいたころから時仁とはそういう関係で、郷を出てからは二人で水明町で店を開いている。
そう遠十郎から教えてもらったが、いまいちピンとこなかった。
早苗の記憶の中では、郷では師匠と二人暮しで、独立してからはここで一人で店をやっているはずだった。
師匠のことも、遠十郎のことも覚えているのに、時仁という男性のことは何一つとして頭にない。
だが、この家にある二人分の食器や布団、男性の衣服などを見る限り、彼が共に生活をしていたというのは確かめるまでもなく事実である。
遠十郎がる医者を呼んでくると言って、家を飛び出していく。
二人きりで室内に残された早苗は、気まずさを感じて、自分の家のはずなのに居心地が悪かった。
「ほんとに、何も覚えてないんだな・・・・・・」
蒼白な顔で呟いた時仁の声は、震えていた。
「ごめんなさい」
「謝んなくていいよ。早苗ちゃんは悪くない」
少しの沈黙のあと、時仁は決心したかのように口を開いた、
「早苗ちゃんさ、郷に帰ってしばらく休んだ方がいいよ。俺と一緒に暮らすのも嫌でしょ。それか、俺が出てこうか」
確かに、彼の言うことには一理ある。
ここにいたところで、何も覚えていない恋人だった人と生活しなければならなくなるのだ、それならいっそ、郷に戻って体を休めれば思い出したりするかもしれない。
けれど、早苗はどうしてかそんな気にはなれなかった。
悲しそうな時仁を、これ以上突き放すことができなかったのだ。
「いえ、今まで通りにしてください。私たちは恋人だったんでしょう。そうしていれば、思い出すこともあるでしょうから」
以前のようにしていれば、何かの拍子に思い出すものもあるはずだ。
それに、忘れてしまったからさようなら、で終わらせてしまうのは、あまりにも時仁に申し訳ない。
だが、早苗の言葉を聞いた時仁は喜んだりはしなかった。
何かを思い詰めたような表情で、後ろめたいことでもあるかのように、早苗から視線を逸らしている。
「俺の本当の姿を見て、それでもそう言えるのか・・・・・・?」
震える声で彼はそう言った。
その言葉とともに、彼の姿は徐々に変化していく。
黒髪の間から獣の耳が生えてきた。
口元には鋭い牙があり、ただでさえ長身で迫力のある彼の姿が、より一層恐ろしさを増していく。
人狼、否・・・・・・彼は狛犬だ。
なぜだろうか、直感ですぐにそう思った。
霊力が高いのか、巧妙に化けている。
これほど近くにいても、今の今まで気づかなかった。
時仁に強い力で腕を握られても、早苗は一切怯まない。
彼がわざと怖がらせる為にやっているのだと、早苗はすぐに気づいた。
先程抱きしめられたときは、綿でも触るかのように大切に優しく触れられたのだ。
「あなた、あやかしだったの。かわいい耳ね」
早苗はそっと手を伸ばして、その頭を撫でた。
途端に、鋭い刃のようであった彼の目付きが元に戻っていく。
彼は、自身のことを乱暴で恐ろしいあやかしだという印象を早苗に植え付けて、遠ざけようとしていた。
多分、今までのことを全て忘れてしまった早苗にとって、あやかしである彼の正体は受け入れられないものだろうと考えたのだろう。
あやかしは人に恋焦がれるが、人はあやかしを忌み嫌うからだ。
「昔、最初に会った時も同じことを言ってた。俺の耳をくすぐって、尻尾を引っ張って、かわいいって笑ってたよ」
そう言って彼は、早苗の肩に顔を埋める。
温かな彼の体温が伝わってきて、そのぬくもりが、不思議と心地よく感じられた。
ぱちりと目を開けると、いつもの天井が視界に飛び込んでくる。
「起きたか!大丈夫か、早苗」
枕元にはなぜか遠十郎がいて、まるで、病人でも看病していたかのよう。
「遠十郎さん・・・・・・?」
起き上がろうとすると、頭に鋭い痛みが走った。
遠十郎が心配そうに早苗の背を支えてくれる。
「頭が痛いのか?無理はいけない。他に痛いところは?」
「いえ・・・・・・痛いところはありませんが、なんだか、変な気分ですね」
心にぽっかり穴が空いて、なくしてしまったかのよう。
なにか、忘れているような。
そんな気がしてならない。
とにかく、状況を確認したくて遠十郎になにがあったのかを聞こうとしたその時。
ガタンっと障子が開け放たれて、見知らぬ青年が飛び込んできた。
「早苗・・・・・・!」
早苗は彼のことをまったく知らないが、彼は早苗の名前を呼び抱きついてくる。
「よかった・・・・・・!起きれるようになったんだな!」
そう言った声はとても嬉しそうで、心の底から早苗を慈しんでくれているのは分かる。
けれども、早苗にとっては知らない男にいきなり抱きつかれて、困惑の気持ちしかない。
「あの」
早苗は彼の言葉を遮る。
「どちら様、ですか」
「───────・・・・・・え」
そういったときの、彼の絶望の表情が忘れられない。
「さ、早苗・・・・・・!まさかお前」
「遠十郎さん、この方はどなたなのですか?」
遠十郎は目を見開いて、呆然としてしまった。
「時仁のことが、わからないのか・・・・・・?」
早苗は、わけもわからずにただ頷いた。
早苗と時仁は恋人だ。
郷にいたころから時仁とはそういう関係で、郷を出てからは二人で水明町で店を開いている。
そう遠十郎から教えてもらったが、いまいちピンとこなかった。
早苗の記憶の中では、郷では師匠と二人暮しで、独立してからはここで一人で店をやっているはずだった。
師匠のことも、遠十郎のことも覚えているのに、時仁という男性のことは何一つとして頭にない。
だが、この家にある二人分の食器や布団、男性の衣服などを見る限り、彼が共に生活をしていたというのは確かめるまでもなく事実である。
遠十郎がる医者を呼んでくると言って、家を飛び出していく。
二人きりで室内に残された早苗は、気まずさを感じて、自分の家のはずなのに居心地が悪かった。
「ほんとに、何も覚えてないんだな・・・・・・」
蒼白な顔で呟いた時仁の声は、震えていた。
「ごめんなさい」
「謝んなくていいよ。早苗ちゃんは悪くない」
少しの沈黙のあと、時仁は決心したかのように口を開いた、
「早苗ちゃんさ、郷に帰ってしばらく休んだ方がいいよ。俺と一緒に暮らすのも嫌でしょ。それか、俺が出てこうか」
確かに、彼の言うことには一理ある。
ここにいたところで、何も覚えていない恋人だった人と生活しなければならなくなるのだ、それならいっそ、郷に戻って体を休めれば思い出したりするかもしれない。
けれど、早苗はどうしてかそんな気にはなれなかった。
悲しそうな時仁を、これ以上突き放すことができなかったのだ。
「いえ、今まで通りにしてください。私たちは恋人だったんでしょう。そうしていれば、思い出すこともあるでしょうから」
以前のようにしていれば、何かの拍子に思い出すものもあるはずだ。
それに、忘れてしまったからさようなら、で終わらせてしまうのは、あまりにも時仁に申し訳ない。
だが、早苗の言葉を聞いた時仁は喜んだりはしなかった。
何かを思い詰めたような表情で、後ろめたいことでもあるかのように、早苗から視線を逸らしている。
「俺の本当の姿を見て、それでもそう言えるのか・・・・・・?」
震える声で彼はそう言った。
その言葉とともに、彼の姿は徐々に変化していく。
黒髪の間から獣の耳が生えてきた。
口元には鋭い牙があり、ただでさえ長身で迫力のある彼の姿が、より一層恐ろしさを増していく。
人狼、否・・・・・・彼は狛犬だ。
なぜだろうか、直感ですぐにそう思った。
霊力が高いのか、巧妙に化けている。
これほど近くにいても、今の今まで気づかなかった。
時仁に強い力で腕を握られても、早苗は一切怯まない。
彼がわざと怖がらせる為にやっているのだと、早苗はすぐに気づいた。
先程抱きしめられたときは、綿でも触るかのように大切に優しく触れられたのだ。
「あなた、あやかしだったの。かわいい耳ね」
早苗はそっと手を伸ばして、その頭を撫でた。
途端に、鋭い刃のようであった彼の目付きが元に戻っていく。
彼は、自身のことを乱暴で恐ろしいあやかしだという印象を早苗に植え付けて、遠ざけようとしていた。
多分、今までのことを全て忘れてしまった早苗にとって、あやかしである彼の正体は受け入れられないものだろうと考えたのだろう。
あやかしは人に恋焦がれるが、人はあやかしを忌み嫌うからだ。
「昔、最初に会った時も同じことを言ってた。俺の耳をくすぐって、尻尾を引っ張って、かわいいって笑ってたよ」
そう言って彼は、早苗の肩に顔を埋める。
温かな彼の体温が伝わってきて、そのぬくもりが、不思議と心地よく感じられた。