男性の半歩後ろを、随分歩いた。「旦那さま」と声をかけると、「久しい菊と書いて、きゅうぎく」と穏やかな声が返ってきた。「好きなように呼んでくれたらいい」と。

 「なぜ、あそこにいらしたのですか」

 うむ、と彼は小さく喉の奥を鳴らした。「仲間をね、探しているんだよ」

 「仲間、ですか」

 旦那さまは袖の中で腕を組んで、優しく、どこか淋しげに微笑む。

 「君、名前はなにかな」

 「はい、綺と申します」

 「あや。どんな字を書くのかな」

 「綺羅の綺と」

 「ほう」と旦那さまはいった。「いい名だね」と。

 互いの足音を聞きながら歩くうち、香のような薫りが流れてきた。父の散ったあとのことが思い出される。

幾人もに支えられ帰ってきた父はなにも話さず、閉じた瞼をぴくりとも動かさない。

それからはほとんどなにもわからないまま事ばかりが進み、私は父の刀を持って家を出た。

持っていたもののほとんどをお金に換え、そのほとんどで模造刀を作った。

 やがて、旦那さまは大きな寺の前を過ぎて、大きな門扉の開いている前で歩みを緩めた。ゆったりと足を止める旦那さまの半歩後ろで、私も立ち止まる。

 「いかにも賑やかそうだろう」と旦那さまは笑う。

 あまりに広大な敷地だった。中心に延びる通路の両脇、庭一面には菊の花が咲き乱れ、通路の先には大きな玄関がある。

その向かって左の方では、なにやら隣の寺とこちらの宿との二階を結ぶ渡り廊下が横たわっている。

 風を切る音がして、木が地面を叩く軽やかな音と共に若い男性が舞い降りた。濃紺と深紅の着物の二人の女性を両腕に抱いている。

淡い灰色の着物に包まれた体は特に胸の辺りがしっかりしており、顔が小さい。髪は灰色で茶色の眼をしている。

 濃紺の着物の女性は「久菊さま」と声を弾ませ、男性のもとを離れると軽やかに飛び上がり、旦那さまのもとで傘となった。同時に、深紅の着物の女性も私のもとで傘となった。

 「御案内致します」という男性に、「いろいろと教えてあげて」と旦那さまが答える。男性は一瞬、驚いた顔をして、「畏まりました」と頭を下げる。

 旦那さまは濃紺の傘——蛇の目傘だった——と共に通路を歩いていく。

 「お前さん、名は?」

 「綺羅の綺と書いて、あやと」

 彼は「お綺だな」と頷き「俺は鳩に司と書いてきゅうじという」といった。

 「鳩司。では鳩のあやかしか」

 なるほど、彼の髪の色や体型は鳩と通ずるものがある。

 「わかりやすいだろ」と彼は笑う。「名はわかりやすいものに限る。久菊さまが下すったんだ」

 「司とつくから、ほかの鳩を統べているのか」

 「ただ古株で出しゃばっているだけだ」

 「さぞ疎まれていることだろう」と笑うと「怖いことをいうものじゃない」と鳩司も笑った。