だが、あれからかやのの夢の中に澄高は出て来なかった。
 夢すら見られていないのだから仕方がない。

 ――あの時、ちゃんと返事をできていたら……。

 何か変わっただろうか。いや、何も変わらないだろう。夢は所詮、夢でしかないのだから。
 残された時間をかやのはどんなことよりも眠ることを優先した。
 けれど、結局夢を見ることはできず、澄高に会えないまま、その日はやって来てしまった。

「お綺麗ですよ。この度はおめでとうございます、かやの様」

 おめでとうございます、と次々に祝いの言葉が飛び交う。
 人々にとっては祝いの言葉。だが、かやのにとっては呪いの言葉だ。

「……ありがとう、ございます」

 淡々とかやのは言葉を述べる。
 丁寧に結われた艶やかな髪。頭から被衣をかぶり、美しく上品な白い着物を着せられ、柔らかな唇には紅がさされた。
 こんなにも着飾ったのは十数年生きてきた中で初めてだ。
 だが、そこに感動などという感情はない。

 ――これが最初で最後の、というやつかしら。できることなら、あの人に見せたかったわ。

 そんな願いは叶いはしないことをかやのはよくわかっていた。
 人々の列に流されるように、かやのは歩く。周囲はお面を被った男性や女性に囲まれている。
 逃げる隙なんてなくて、あっという間に大きな鳥居がある崖に到着した。
 満月の下、燭台の火が煌々と燃えている。
 嗄れた声がかやのを促す。

「さあ、こちらへ」

 鳥居の前にかやのが立てば、手を合わせた人々は次々と頭を下げた。

「神へと嫁ぐかやの様に、お祝いを申し上げます」

 かやのは形式上の言葉を唱える。

「……神よ、人々に幸いをお与えください」

 ――わたしの幸せは、一体何処にあったのかしら。

 思い出したのは現実での母との記憶。そして、夢の中での彼との記憶で。
 不意に泣きたくなった。何もかも捨てて逃げ出してしまいたかった。
 もう戻れないのに。もう二度とあの人には会えないのに。

 ――ちゃんと返事したかったな……。

 恐れも後悔も振り切って、一歩ずつ足を踏み出す。
 かやのが鳥居をくぐり抜けようとしたその時だった。
 まるで雷のような咆哮が天から轟いた。
 聞いたことがないはずなのに、聞いたことのある声にかやのがはっと顔を上げる。
 周囲の人々も誰もが空を仰いだ。
 雫のようにそれは一瞬で地上へと舞い降りた。
 満月の下、白銀の鱗が輝いている。
 あまりの神々しさに人々は息を呑む。
 長い胴体で守るようにかやのを囲んでいるモノ――龍が水面のように凪いだ瞳で、かやのを見つめている。
 小さく震える唇でかやのは名を呼んだ。

「……澄高?」

 かやのに応えるように龍が顔を近づける。

「漸く迎えに来られた」

 背中に手を回され、ぎゅうっと強く抱きしめられた。
 龍の姿から見慣れた人間の姿になった澄高に驚きながらも、かやのはそのぬくもりに安堵した。溢れそうになる涙をそっと拭われて、名残惜しげに体を離される。
 今まで見たこともない冷淡な顔つきで澄高が人々に向き合う。

「この子は僕がもらっていくね」
「……巫山戯るな!そいつは我らが神の花嫁だ!」

 我に返った一人が叫べば、そうだそうだ、と一人また一人と声が重なる。

「五月蠅いなぁ……えいっ」

 煩わしそうに澄高がパチンと指を鳴らすと、人々に豪雨が襲いかかった。
 突然のことに人々が慌てふためく。着物が肌に張り付き、雨の勢いが強くて喋るのも困難なようだ。
 けれども、かやのは全く濡れていない。当然だ。かやのと澄高を避けるように雨は降っているのだから。
 雨に気を取られている人々に対し、澄高が口に手を当てて言い放つ。

「この子をいるかいないかもわからない君たちの神なんかにあげるつもりはないよ!……って、聞こえていないか。どうせ騒ぐことにかわりはないだろうから、暫く降らせておこうっと」

 自分たちのことで精一杯になっている人々のことなど気にせず、澄高がかやのに手を差し出す。

「さあ、行こうか」
「……行くって、何処に?」
「いつものあの場所さ」

 至極当然のように澄高が言う。
 かやのは自身の頬をぎゅっと抓った。
 不思議そうに澄高が首を傾げる。

「何しているの?」
「夢、じゃ、ない……」
「夢じゃないよ。何言っているんだい?」
「だって……」
「それとも、行きたくない?この村から出る気はない?」
「わたし、は……」

 ――『幸せになることを諦めないでね』

 母の言葉が脳裏を過ぎった。

 ――わたしは、幸せになることを諦めたくない!

 かやのは手を伸ばし、澄高の手を握った。
 力強く、言葉を声に乗せる。

「……行きたい。あの場所に、わたしを連れて行ってほしい」
「了解」

 澄高がそう言ったのと同時にぐんっと体が引っ張られた。被衣が地面へと落ちた。
 気づいたら、体が宙に浮いていた。

 ――いや、違う。

 かやのは龍の背に乗って空を飛んでいた。
 眼下に広がるのは広大な土地で。かやのが住んでいた村が何処にあるのかよく見えない。
 今のこの状況に不思議と恐怖はなかった。
 ぽつりとかやのが零す。

「……あなた、龍だったのね」
「あれ?言っていなかったっけ?」
「言っていないわ」

 ちょっと不機嫌そうに、はっきりとかやのが言い切った。
 龍は水を司る水神だ。先程のように雨を操ることなど澄高には容易いことなのだろう。

「驚いた?」
「驚いたけど、水玉ちゃんたちを出している時点で、『ああ、普通の人じゃないな』って思っていたからあんまり?」
「そう……」

 暫しの沈黙が訪れた。

「いきなり連れ出して悪かったね。後で水玉たちに頼んで、置いてきたものを取って来させるよ」
「本当にびっくりしたわ。……でも、ありがとう。わたしをあの村から連れ出してくれて」
「どういたしまして。それにしても、いろいろと大変だったんだから。突然『自分は生贄であと数日で神へ嫁ぎます』なんてことを言われてさ。自分が何処に住んでいるかもわからない子を探すのには本当に苦労したものだよ」
「それは……ごめんなさい」
「でも、間に合って良かった。あと、あの村の人身御供の件に関してだけど、そういうことに詳しいところにちゃんと報告しておいたからね。くだらない村の慣習なんてこれでなくなるさ」

 かやのの憂いを全部晴らすような優し気な声で、澄高は続ける。

「最初はひと時の時間だけで十分だと思っていたんだ。でも、君と過ごしていたら段々それだけじゃ足りなくなってしまってね。毎日君の料理が食べたいし、ずっと一緒にいたいって思ったんだ」
「……わたしも」

 かやのが小さく囁く。

「わたしも、あなたとずっと一緒にいたいって思っていたの。あなたがわたしの作った料理を美味しいと言って食べてくれることが何より幸せだった。だけど、あの時間は夢の中の出来事で、あなたも夢の中だけの存在だと思っていて……それに、わたしは生贄だから諦めていたの」
「でも、僕はここにいるよ。夢じゃなくて現実だよ」
「そうね」

 かやのがそっと、銀の鱗を撫でる。美しく幻想的だが、手に伝わる感触が確かに澄高が現実の存在だと証明してくれている。
 暫し無言だった澄高が唐突に叫んだ。

「あー、こんなことならもっと早く連れ出せば良かった!今すぐにでも人間の姿になって君を抱きしめたい!」
「ちょっと、空中から落下は嫌よ!?」
「抱きしめられるのは嫌じゃないんだ?」
「それは、その……」

 顔を真っ赤にして黙り込んでしまったかやのに、澄高が楽しそうに笑った。

「……それで、あの時の返事は聞かせてもらえる?」
「……それは、あの場所についたら、ね」

 龍と少女は薄明の空を行く。
 夢で見た現実のあの場所へと向かって。