老婆の家から市街地の逆の外れに、十秒も経たないうちに着いてしまった気がする。
「目が……回る……」
背中から降ろされてもふらふらとしている私を笑いながら、シロはまた人の形になった。
「慣れないうちはそうかもねー。がんばって」
そういうやり取りを、十回近くくり返された。
訪ねて行った先が留守で、最近流行りの宅配ボックスに配達したこともあったし、相手がなかなか帰してくれず、長い時間一軒の家で話しこんでしまったこともあった。
(本当に、やっていることは普通の宅配と同じだ……)
しかし、いかんせん真夜中のことだ。
朝からめまぐるしくいろんなことがあったせいで私はすっかり疲れており、シロの背に乗りながら、うとうとしかける。
「瑞穂ちゃーん、あと少しだからしっかりしてー」
「う、うん……」
シロの声に励まされながら街中の路地のとある一軒に配達を終えたところで、ふいに彼に肩を抱かれた。
「え……?」
驚いて見てみたシロは、白い着物ではなく、営業所の裏の一軒家に帰ってきた時のような、パーカーにジーンズの格好になっている。
(なんで?)
いつの間に着替えたのだろうなどということはもう考えないが、なぜ着替えたのだろうと凝視する視線の先で、シロが朗らかに笑って手を上げた。
「おーい、深川。佐山ー」
見れば広い道路の向こう側に、大学生ぐらいの若い男女がたむろしており、その中の何人かがシロに気がついて手を振り返す。
「あれ? 凌哉じゃーん。何? 月曜の夜はいつも都合が悪いってそういうことー?」
「えー、白崎くん彼女ー?」
「えーっ」
女の人が何人か非難がましい声を上げているので、私は慌てて誤解を解こうとした。
「いえ、私は……」
しかしその途中で、口が動かなくなる。
(ん?)
私の意志に反して、まるで何かで塞がれているかのようだ。
しかしその『何か』は見えない。
(もしかして……?)
おそるおそる見てみた隣のシロは、ニコニコしながら道路の向こうの男女の問いかけに頷いている。
一瞬ちらりと私に向けられた目が、通常より金色に光っているように見えるのは気のせいだろうか――。
(ううん、きっと気のせいじゃない!)
見えない何かに逆らって、無理に口を動かそうとしてもピクリとも動かない。
(ダメだ……)
抵抗を諦めた私は、一瞬のシロの視線よりも更に鋭い、刺すような眼差しが道路向こうから真っ直ぐに向けられていることに気がついた。
シロと私の仲を誤解して、楽しそうに冷やかしている男の人たちよりも、残念そうに声を上げている派手目の女の人たちよりも、彼らの陰に隠れるようにしてこちらを見ている大人しそうな女の子の視線のほうが、怨念めいて恐ろしい。
(ひいっ)
目線で訴えかける私にすぐに気がついて、その子をちらっと見たシロは、「ああ」と笑って、わざと私の髪を耳にかけてやる仕草をする。
「ひゅーっ」
「見せつけんなよー」
男の子たちのからかいの声と共に、更に鋭くなった一つの視線が私にぐさぐさと突き刺さった。
(わざとやってる! 絶対にわざとやってるでしょ!)
シロの意図に気がついて、怒りでぶるぶると震える私の肩を抱きながら、シロはようやくその場所から歩きだす。
「明日また学校でねー」
「おおー、あんまり遅くまで遊びすぎて遅刻すんなよー」
「あはは、お互いさまー」
楽しそうに笑いあいながら反対の方向へ進んでいった彼らが完全に見えなくなると、シロはずっと抱いていた私の肩をおもむろ離した。
「ありがとうー、瑞穂ちゃん」
「…………」
言いたいことはたくさんあるが、まずは一つずつ確かめていこうと私は口を開く。
私の口はもう動かないなどということはなく、普通に話すことができた。
「あの人たちは、誰?」
「んー? 大学の友だち」
「え? シロくんって大学生なの⁉」
「そうだよー」
「そ、そうなんだ……」
当然とばかりに答えられて、つい毒気を抜かれてしまう。
簡単に白い狐に変化する彼が、まさか普通に学生をしているとは思っていなかった。
「ちなみにクロも、昼間は会社員だよ。俺たちはあちらの世界の者じゃなくて、こちらの世界の者だからね」
「あちらとこちら……」
なんとなく理解はしているつもりだが、どうにもお伽話の中にでも迷いこんだかのような気持ちが強い。だから現実の出来事としての実感は薄い。こうして普段暮らしている街の中を歩いていても、まだどこか夢を見ているかのようだ。
しかし――。
「じゃー最後の一件。配達して帰ろうっか」
わずかに目を離した隙に、シロはもう獣型になっており、金色の目を細めて私をふり返る。
ピンと尖った耳の先で煌めく赤いピアスを見ながら、私は自分の頬を思いっきりつねった。
「痛い!」
「何やってんのー? あはは」
いっそ全てが夢ならば納得もいくのに、シロの声で笑う大きな白い狐は、やっぱり私の目の前から消えてはくれなかった。
シロの背に乗りながら、私は彼に質問を続けた。
「シロくん……さっき、私を女の子除けに使ったでしょ……」
走る速度が速すぎて、聞こえないかもしれないとも思ったが、シロはあっさりと答える。
「あはは、ごめーん」
しれっと認められてしまい、拍子抜けしそうだ。
「途中で口が動かなくなったんだけど、あれって……」
「うん、俺、俺。もう大丈夫でしょ? ごめんねー」
「…………」
ノリの軽さと親しみやすさで、つい忘れてしまいそうになるが、彼は私と同じ人間ではない。
『あやかしなのか』の問いには、はっきりとした答えはまだもらっていないが、この姿と、時々発揮される不思議な力を見る限り、おそらくそうなのだろう。
あまり気を許してはいけないのではないかと、私はひそかに心に刻んだ。
「目が……回る……」
背中から降ろされてもふらふらとしている私を笑いながら、シロはまた人の形になった。
「慣れないうちはそうかもねー。がんばって」
そういうやり取りを、十回近くくり返された。
訪ねて行った先が留守で、最近流行りの宅配ボックスに配達したこともあったし、相手がなかなか帰してくれず、長い時間一軒の家で話しこんでしまったこともあった。
(本当に、やっていることは普通の宅配と同じだ……)
しかし、いかんせん真夜中のことだ。
朝からめまぐるしくいろんなことがあったせいで私はすっかり疲れており、シロの背に乗りながら、うとうとしかける。
「瑞穂ちゃーん、あと少しだからしっかりしてー」
「う、うん……」
シロの声に励まされながら街中の路地のとある一軒に配達を終えたところで、ふいに彼に肩を抱かれた。
「え……?」
驚いて見てみたシロは、白い着物ではなく、営業所の裏の一軒家に帰ってきた時のような、パーカーにジーンズの格好になっている。
(なんで?)
いつの間に着替えたのだろうなどということはもう考えないが、なぜ着替えたのだろうと凝視する視線の先で、シロが朗らかに笑って手を上げた。
「おーい、深川。佐山ー」
見れば広い道路の向こう側に、大学生ぐらいの若い男女がたむろしており、その中の何人かがシロに気がついて手を振り返す。
「あれ? 凌哉じゃーん。何? 月曜の夜はいつも都合が悪いってそういうことー?」
「えー、白崎くん彼女ー?」
「えーっ」
女の人が何人か非難がましい声を上げているので、私は慌てて誤解を解こうとした。
「いえ、私は……」
しかしその途中で、口が動かなくなる。
(ん?)
私の意志に反して、まるで何かで塞がれているかのようだ。
しかしその『何か』は見えない。
(もしかして……?)
おそるおそる見てみた隣のシロは、ニコニコしながら道路の向こうの男女の問いかけに頷いている。
一瞬ちらりと私に向けられた目が、通常より金色に光っているように見えるのは気のせいだろうか――。
(ううん、きっと気のせいじゃない!)
見えない何かに逆らって、無理に口を動かそうとしてもピクリとも動かない。
(ダメだ……)
抵抗を諦めた私は、一瞬のシロの視線よりも更に鋭い、刺すような眼差しが道路向こうから真っ直ぐに向けられていることに気がついた。
シロと私の仲を誤解して、楽しそうに冷やかしている男の人たちよりも、残念そうに声を上げている派手目の女の人たちよりも、彼らの陰に隠れるようにしてこちらを見ている大人しそうな女の子の視線のほうが、怨念めいて恐ろしい。
(ひいっ)
目線で訴えかける私にすぐに気がついて、その子をちらっと見たシロは、「ああ」と笑って、わざと私の髪を耳にかけてやる仕草をする。
「ひゅーっ」
「見せつけんなよー」
男の子たちのからかいの声と共に、更に鋭くなった一つの視線が私にぐさぐさと突き刺さった。
(わざとやってる! 絶対にわざとやってるでしょ!)
シロの意図に気がついて、怒りでぶるぶると震える私の肩を抱きながら、シロはようやくその場所から歩きだす。
「明日また学校でねー」
「おおー、あんまり遅くまで遊びすぎて遅刻すんなよー」
「あはは、お互いさまー」
楽しそうに笑いあいながら反対の方向へ進んでいった彼らが完全に見えなくなると、シロはずっと抱いていた私の肩をおもむろ離した。
「ありがとうー、瑞穂ちゃん」
「…………」
言いたいことはたくさんあるが、まずは一つずつ確かめていこうと私は口を開く。
私の口はもう動かないなどということはなく、普通に話すことができた。
「あの人たちは、誰?」
「んー? 大学の友だち」
「え? シロくんって大学生なの⁉」
「そうだよー」
「そ、そうなんだ……」
当然とばかりに答えられて、つい毒気を抜かれてしまう。
簡単に白い狐に変化する彼が、まさか普通に学生をしているとは思っていなかった。
「ちなみにクロも、昼間は会社員だよ。俺たちはあちらの世界の者じゃなくて、こちらの世界の者だからね」
「あちらとこちら……」
なんとなく理解はしているつもりだが、どうにもお伽話の中にでも迷いこんだかのような気持ちが強い。だから現実の出来事としての実感は薄い。こうして普段暮らしている街の中を歩いていても、まだどこか夢を見ているかのようだ。
しかし――。
「じゃー最後の一件。配達して帰ろうっか」
わずかに目を離した隙に、シロはもう獣型になっており、金色の目を細めて私をふり返る。
ピンと尖った耳の先で煌めく赤いピアスを見ながら、私は自分の頬を思いっきりつねった。
「痛い!」
「何やってんのー? あはは」
いっそ全てが夢ならば納得もいくのに、シロの声で笑う大きな白い狐は、やっぱり私の目の前から消えてはくれなかった。
シロの背に乗りながら、私は彼に質問を続けた。
「シロくん……さっき、私を女の子除けに使ったでしょ……」
走る速度が速すぎて、聞こえないかもしれないとも思ったが、シロはあっさりと答える。
「あはは、ごめーん」
しれっと認められてしまい、拍子抜けしそうだ。
「途中で口が動かなくなったんだけど、あれって……」
「うん、俺、俺。もう大丈夫でしょ? ごめんねー」
「…………」
ノリの軽さと親しみやすさで、つい忘れてしまいそうになるが、彼は私と同じ人間ではない。
『あやかしなのか』の問いには、はっきりとした答えはまだもらっていないが、この姿と、時々発揮される不思議な力を見る限り、おそらくそうなのだろう。
あまり気を許してはいけないのではないかと、私はひそかに心に刻んだ。