その日の来店は、結局その二人だけだった。
 私は昼前には主張所に到着していたはずだが、十六時に配送車が荷物を受け取りに来るまで、たったの二件のみ。
 配送車から下ろされた荷物も、参道脇のお土産屋が発注していた商品が三箱だけで、それを台車で配達したら、私の初日の仕事は全て終わってしまった。

(こんなに楽で本当にいいのかな?)

 十七時になったので店舗の電灯を消して、ガラス扉に鍵をかけて帰ろうとする。
 外はまだ明るくて、おかしな気分だった。
 市街地にある営業所勤務だった昨日までは、遅番と早番があり、遅い時は帰るのが二十二時をまわることもあったので、まるで違う仕事に就いたかのようだ。

(やってることは、確かに同じなんだけど……)

 苦笑しながらふと視線を向けると、建物に入って右側、カウンターの入り口とは逆の壁に扉があり、私は首を傾げた。

「え? こんなところに扉があった?」

 半日をほぼカウンターの中で過ごしていたし、そこからは死角になっている場所なので気がつかなかっただけかもしれないが、入ってきた時はなかったような気もする。
 困惑しながら、雅司の言葉を思い出した。

『なんなら、出張所の奥の家に、社宅として住むこともできる』

「ああ! ……そういえば……!」

 私はてっきり、出張所の建物の奥に社宅にもできる家が建っているという意味だと思っていたのだが、まさか同じ建物内だったのだろうか。
 近づいてドアノブに手をかけてみると、鍵もかかっておらず開いたので、そのまま一歩を踏み出した。

 扉を潜り抜ける瞬間、何か膜のようなもので体を包まれたような、おかしな感覚があった。思わず目を瞑る。
 すぐにその感覚も薄れたので目を開けてみたが、今度は驚きのあまり大きな声を上げてしまった。

「えええっ⁉」

 そこには、今まで私が立っていた出張所を、ちょうど鏡に映したかのような光景が広がっていた。
 十畳ほどの空間をカウンターで仕切り、重そうなガラス扉を開けて入って来られる店舗部分と、カウンターの向こうの作業場所とに分けられているのはまったく同じ。
 ただ出張所の壁は白いコンクート製で、床もビニール製なのに、そこは壁も床も濃い色の板張りだった。
 そのせいか、雰囲気はまったく異なる。
 ちょっとレトロで、どこか懐かしい感じ――。

「え? え?」

 いったいどういうことだろうと、今入って来たばかりの扉をふり返ってみたが、そこには扉などなかった。
 部屋の他の部分と同じように、木製の壁があるばかりだ。

「えええっ?」

 焦る私を、ガラス扉から次々と入ってくる利用客は誰も気にしない。
 さまざまな形の荷物を、出張所では計りが置かれていた場所に据えられた天秤に乗せ、分銅を使って重さを測り、カウンター越しに申告している。

 どうやら宅配便の店舗であることには変わりないようだが、預けようとしている荷物同様、彼らがさまざまな形相をしていることに、気がついた。
 頭から角が生えている者、目が一つしかない者、逆に無数の目がある者。
 一見普通に見える者でも、よく見れば尾が生えていたり、歩いたあとに水たまりができていたり――。

(なにこれ⁉ なにこれーーーーっ!!)

 うっかり悲鳴を上げて彼らの注目を集めないよう、必死に両手で口を覆った私に、鋭い声がかかった。

「おいお前! どこから入ってきた?」

 カウンターの向こうから私に厳しい視線を向けてくるのは、黒髪で背の高い若い男だ。鼻筋の通ったとても整った顔をしているが、三白眼ぎみの目つきが怖い。まるで犯罪者でも見つけたかのように、睨んでくる。

「私? 私は、あの……!」

 確かに扉があったはずの背後の壁を、焦って撫でまわしても木の壁の感触しかない。

「ここに扉があってですね……それで……!」

 懸命に説明しようとする私を、胡乱な目で見ている黒髪の男よりずっと手前で、カウンター越しに来店客の相手をしていた人物が、バッと顔を上げた。

「ひょっとして、あっちの世界から入ってきちゃった? うわー、何十年ぶりだろ、ね、クロ?」

 満面の笑顔で背後の男をふり返るその人も、若い男だ。こちらは少しクセのある白い髪をしている。赤いフレームの眼鏡を鼻の先に乗せて、上目遣いに私を見てくる大きな目は、金色がかった薄い色に見えた。

(純粋な日本人じゃないよね……ハーフ?)

 いずれにせよ、とんでもなく美形なことは確かだ。

「あっちの世界って……?」

 おそるおそる訊ねる私に、にっこり笑う笑顔が愛くるしい。

「今は忙しいんで、説明はあとでいいかな?」

 そう言いながら、カウンターの中に入って来いと私を手招きする。

「宅配のプロでしょ? ちょっと手伝ってもらっていい?」
「あ、はい……」

 人好きのする笑顔につられて、私がカウンターの中へ入ると、黒髪のほうの男が不満げな声を上げた。

「おい、シロ!」

 『シロ』と呼ばれた白髪の男は、黒髪の男を笑顔で制する。

「いいじゃん、いいじゃん、いつもよりお客さんが多いんだし……このままだと時間ギリギリまで営業になるよ? クロだって早く帰れるほうがいいでしょ?」
「…………」

 『クロ』と呼ばれた黒髪の男は、私を睨みながらも、受け付けた荷物をカウンターの奥に積むという作業に戻った。
 『シロ』という男の隣に呼ばれ、私もカウンター越しに宅配を受け付けることになる。

 しかし――。

「はい、これが木簡(もっかん)。これが割印(わりいん)ね」
「?????」

 笑顔で手渡された道具が、いったいどう使うものだかまったくわからない。

「え? わからない? 確かにかなり旧式だもんね……現代の宅配のプロでもやっぱ無理かー……」

 綺麗な色の目を細めて、困ったように笑うシロの耳朶(みみたぶ)で揺れる赤い耳飾りを、私はなんとも言えない思いで見ていた。

(言われてることも、さっぱりわからない……)

「じゃ、ちょっと見てて」

 木製の板をカウンターの天板に置いて、シロは横にある(すずり)から筆を取り上げる。

(毛筆⁉)

 驚く私の目の前ですらすらと筆を滑らせ、木の板に何かを書いた。
 どうやらカウンターの向こうでぶつぶつ言っている一つ目男の、荷物の届け先らしい。
 木片の下方に、先ほど私に手渡してくれようとした印鑑のようなものを押し、付いた印章のちょうど真ん中を横切るように、指で左から右にすっと線を引く。
 するとぱっかりと、木片がその位置で真っ二つになった。

「はい、こちらが控えでーす」

 小さなほうを手渡すと、一つ目の男はそれを受け取って帰っていく。
 シロは素早く大きな木片のほうを荷物に差し、私に向かってウインクした。

「ね? 簡単でしょ?」

 その笑顔がどんなに魅力的でも、とても頷けない。

「いやいやいや……できないです」
「えー、そうかなー」

 不満そうに声を上げる間にも、彼は木の板にすらすらと筆を滑らせ、印を押して、指先でそれを切る。

(そもそも、どうやって切ってるのかわかんない……触れてるようにすら見えないのに……)

 綺麗に手入れされた形のいい爪の先をじっと見ていると、頭上で低い声が響いた。

「霊力がないんなら変われ。奥で力仕事をしてろ。それぐらいならできるだろ」

 クロのほうだった。
 馬鹿にしたような言葉にむっとして、何か言い返してやろうと顔を上げたが、あの鋭い目と間近で視線を戦わせることになってしまい、呆気なく敗北する。
 さっきまで彼がやっていた、引き受けた荷物を部屋の奥に積むという作業を、黙々と始めた私をシロがふり返る。

「女の子に力仕事なんてかわいそうじゃない?」

 彼の声と共に、手にしていた段ボールがふわっと軽くなったように感じた。

(え? え?)

「甘やかすな。それじゃ人手が増えた意味がないだろ」

 クロの厳しい声と同時に、やっぱり腕にずっしりと重くなる。

(もう……いったいなんなの???)

 私の疑問には、店舗の前に長い列を作っている見た目も多様な利用客が途切れるまで、答えを貰えることはなかった。




 ようやく最後の利用客が帰る頃には、もう日が暮れ終わろうとしていた。
 こちらへ来てから長い時間が経ったようにも感じるが、本当のところはわからない。
 もともとの店舗には、壁に丸い時計が掛けられていたが、こちらにはどこを見てもそういうものはなかった。

 ガラス扉に鍵をかけるためカウンターを出たシロのうしろ姿を見て、今さらながら彼が和装だったことに気がつく。
 着流(きなが)しと言うのだろうか。浴衣のような丈の長い白い着物の上に、同色の羽織(はおり)をはおっていた。
 ふり返って見てみると、クロも同じような黒い着物を着ている。どこまでも対照的な色味の二人だった。

 じっと見ているとそのクロに、顎で外を示される。

「おい、いいのか? そろそろ夜時間だぞ」
「え?」

 視線をめぐらしてガラス扉のほうを見ると、シロが慌てたように立ち上がった。

「わあっ! そうだよ。たいへん! たいへん!」

 手招きされるままにカウンターを出ると、壁のほうへぐいぐい押される。

「時刻を過ぎると帰れなくなっちゃうでしょ。今日は手伝いありがとう。えーと……」

 私をなんと呼んでいいのかわからず、彼が言葉を切ったように感じて、ひとまず名乗ってみた。

「芦原瑞穂です」

 シロがぱあっと明るい笑顔になる。

「瑞穂ちゃんね。俺は白崎凌哉(しろさきりょうや)。『シロ』でいいよ。あっちは黒瀬泰志(くろせたいし)。『クロ』でいいから」
「おい」

 クロの不満そうな声を無視して、シロは一気にまくしたてた。

「ここは、昼時間と夜時間が入れ替わる時刻にだけ営業してる宅配屋。営業時間は限られてるし、あっちの世界とこっちの世界で荷物をやり取りできる貴重な場所だから、いつも忙しいんだけど、今日は特にお客が多かったな……だから手伝いに来てくれて助かったよ。明後日もまたよろしくね」
「えっ?」

 なんだか聞き捨てならないことを聞いたようだと、聞き返そうとする私の背中を、シロは壁に向かってぐいぐい押す。
 いつの間にか目の前に、扉があった。

「嘘⁉」

 確かこの部屋へ来てすぐ、扉があったはずだと確かめた時には、いくら壁を見ても、撫でまわしてもなかったはずなのに、いったいどうなっているのかと私は焦る。

「おい、時間だ」

 クロの声に従って、シロがその扉を押し開け、私の背中を扉の向こうへ押し出した。

「じゃあね。またね瑞穂ちゃん」

 ヨロヨロと歩きだした瞬間、また膜のようなものに全身を覆われた感覚があった。
 思わず目を瞑り、開いた時には、私は白壁の宅配便出張所に立っている。

「えっ?」

 がばっとふり返った背後には、扉なんてない。真っ白な壁があるだけだ。
 夢でも見ていたのだろうか。そんなはずはない。背中にはシロに押された感触が残っている。

「頭が痛くなってきた……」

 ふらふらとカウンターの上に置きっぱなしだった荷物を取り、ガラス扉を出て、鍵をかけた。
 外はかなり暗かった。

 燈籠を模した外灯はすでに点灯しているし、参道の宿周辺には人の気配もあるし、話し声も聞こえてくるのに、神社のほうへ視線を向けると妙に静まり返り、闇がとても濃いように感じるのはなぜだろう。
 たった今、おかしな経験をしたせいもあるかもしれない。

(怖い……)

 急いで車に乗って山を降り、市街地の自分のアパートへ帰りたい。
 しかし途中の道が壊れているので、迂回路を探しながら進まなければならないし、真っ暗な中を一人で山道を運転するのも怖い。

「どうしよう……」

 やはり陽が沈む前に帰るべきだったと後悔しながら、車を停めた空地へ行くと、店舗と同じ敷地内に建物があることに気がついた。

「あ……」

 今度こそ、雅司が言っていた社宅にもできる住居だと、店舗の鍵と一緒にキーホルダーに下がっている鍵を握りしめる。

(どういう状態なのか、見るだけでも見てみよう……)

 空地に繁る雑草を踏みしめて、私はその建物へ向かった。