「あのう……」
女性の声に呼びかけられてふり返ってみると、そこにいたのは里穂さんで、私ははっと河太郎さんを見てみる。
「ええっ⁉」
しかしすでに彼の姿は私の隣になく、捜してみればクロが立っている木の陰に、いつものように半身隠れてこちらを見ている。
(なんて素早い……)
感心する私の手を取り、里穂さんはぽろぽろと涙を零して泣きだした。
「夫と、それからこの子を助けていただいて、本当にありがとうございました!」
「いえ、私は何も……」
「あなたのおかげで、この子は水にさらわれずに済んだんです……夫も……我が身を顧みず、助けに潜っていただいて……本当に……本当に……」
「あ、いえ……」
愛する人たちの一大事だった彼女は、私の行動を実によく見ていたようだ。ひょっとすると河童になった河太郎さんの姿も見てしまったのではという考えが頭をよぎったが、その話は出てこない。
「夜に川べりへ行くと、水に引かれるよって、古い言い伝えがあるけど、私この川が好きで……ぜひにって散歩に誘ったせいで、夫とこの子を危ない目に遭わせてしまった……」
後悔して泣く里穂さんに、その気持ちは否定してほしくなく、私は彼女の両腕をそっと掴む。
「ちゃんと二人とも助かったし、何もあなたのせいじゃありませんよ……もうこんなことは起こらないので……だからどうか、川べりを散歩することは嫌いにならないでください」
「……? はい」
首を傾げながらも、頷いてくれた彼女の隣で、小さな男の子が声を上げる。
「僕も川が好きだよ。だって僕のお名前と同じだもの」
「河太郎……」
少年を抱きしめながら里穂さんが呼んだ名前を耳にして、私は上擦った声が出てしまった。
「河太郎⁉」
彼女は照れたように、頬を赤く染める。
「ちょっと変わってますよね、よく言われるんですけど……昔とても私のことを大切にしてくれた人の名前なんです。もう会えないけど……忘れたくなくて……あの人のように優しい人になってほしいと思い、この子に名付けました」
里穂さんに頭を撫でられた小さな河太郎くんは、とても嬉しそうに笑う。
「僕、このお名前大好きだよ!」
微笑んでその様子を眺めていた里穂さんが、はっとしたように私へ視線を戻す。
「すみません! ひき止めてしまって……お迎えがいらしてますよね。早くお着替えになってください!」
彼女が焦ってちらちら見るほうには、大きなバスタオルを持ったシロと、黒いスーツ姿になったクロが立っている。
「お礼には、また後日改めてお伺いします……そよ風宅配便さんに訊けばわかりますか? ええと……」
「山の上出張所の芦原です」
「ありがとうございました! 芦原さん」
小さな河太郎くんの手を引いた里穂さんが、何度も何度もふり返って私に頭を下げながら土手の向こうへ行ってしまうまで、河童の河太郎さんは決して木の陰から出てくることはなかった。
「会わなくてよかったの?」
シロが問いかけるが、河太郎さんは両目から滝のように涙を流しながら、下唇を噛みしめている。
「い、い、のでず……ううう」
その様子を呆れたように見ながら、クロが続ける。
「面と向かって話せる最後のチャンスかもしれないぞ?」
「う、う、うううううう」
河太郎さんは咽び泣きながら、いっそう木の陰に隠れ直した。
「陽の気を纏った者には、隠者の気持ちはわかりませぬ……うう」
「なんだそれは、俺たちだってあやかしだろう」
これ以上誘っても無駄だと思ったらしく、クロはシロと私を促して車へ帰り始める。
「帰るぞ」
私は河太郎さんに駆け寄り、勇気づけるように肩を叩いた。
「里穂さんきっと、これからもこの川の近くを散歩してくれますよ……小さな河太郎くんが大きくなる様子、時々見に来たらどうですか?」
私の提案に、河太郎さんは言葉も出ず泣きながら頷いてくれたが、最後にぼそりとひと言だけ、私に話しかけてくれた。
「瑞穂殿……ありがとう……」
その言葉が、やはりとても嬉しくて、彼の荷物を里穂さんに渡すことは出来なかったが、自分に出来る精一杯をやれたことには後悔はないと思った。
女性の声に呼びかけられてふり返ってみると、そこにいたのは里穂さんで、私ははっと河太郎さんを見てみる。
「ええっ⁉」
しかしすでに彼の姿は私の隣になく、捜してみればクロが立っている木の陰に、いつものように半身隠れてこちらを見ている。
(なんて素早い……)
感心する私の手を取り、里穂さんはぽろぽろと涙を零して泣きだした。
「夫と、それからこの子を助けていただいて、本当にありがとうございました!」
「いえ、私は何も……」
「あなたのおかげで、この子は水にさらわれずに済んだんです……夫も……我が身を顧みず、助けに潜っていただいて……本当に……本当に……」
「あ、いえ……」
愛する人たちの一大事だった彼女は、私の行動を実によく見ていたようだ。ひょっとすると河童になった河太郎さんの姿も見てしまったのではという考えが頭をよぎったが、その話は出てこない。
「夜に川べりへ行くと、水に引かれるよって、古い言い伝えがあるけど、私この川が好きで……ぜひにって散歩に誘ったせいで、夫とこの子を危ない目に遭わせてしまった……」
後悔して泣く里穂さんに、その気持ちは否定してほしくなく、私は彼女の両腕をそっと掴む。
「ちゃんと二人とも助かったし、何もあなたのせいじゃありませんよ……もうこんなことは起こらないので……だからどうか、川べりを散歩することは嫌いにならないでください」
「……? はい」
首を傾げながらも、頷いてくれた彼女の隣で、小さな男の子が声を上げる。
「僕も川が好きだよ。だって僕のお名前と同じだもの」
「河太郎……」
少年を抱きしめながら里穂さんが呼んだ名前を耳にして、私は上擦った声が出てしまった。
「河太郎⁉」
彼女は照れたように、頬を赤く染める。
「ちょっと変わってますよね、よく言われるんですけど……昔とても私のことを大切にしてくれた人の名前なんです。もう会えないけど……忘れたくなくて……あの人のように優しい人になってほしいと思い、この子に名付けました」
里穂さんに頭を撫でられた小さな河太郎くんは、とても嬉しそうに笑う。
「僕、このお名前大好きだよ!」
微笑んでその様子を眺めていた里穂さんが、はっとしたように私へ視線を戻す。
「すみません! ひき止めてしまって……お迎えがいらしてますよね。早くお着替えになってください!」
彼女が焦ってちらちら見るほうには、大きなバスタオルを持ったシロと、黒いスーツ姿になったクロが立っている。
「お礼には、また後日改めてお伺いします……そよ風宅配便さんに訊けばわかりますか? ええと……」
「山の上出張所の芦原です」
「ありがとうございました! 芦原さん」
小さな河太郎くんの手を引いた里穂さんが、何度も何度もふり返って私に頭を下げながら土手の向こうへ行ってしまうまで、河童の河太郎さんは決して木の陰から出てくることはなかった。
「会わなくてよかったの?」
シロが問いかけるが、河太郎さんは両目から滝のように涙を流しながら、下唇を噛みしめている。
「い、い、のでず……ううう」
その様子を呆れたように見ながら、クロが続ける。
「面と向かって話せる最後のチャンスかもしれないぞ?」
「う、う、うううううう」
河太郎さんは咽び泣きながら、いっそう木の陰に隠れ直した。
「陽の気を纏った者には、隠者の気持ちはわかりませぬ……うう」
「なんだそれは、俺たちだってあやかしだろう」
これ以上誘っても無駄だと思ったらしく、クロはシロと私を促して車へ帰り始める。
「帰るぞ」
私は河太郎さんに駆け寄り、勇気づけるように肩を叩いた。
「里穂さんきっと、これからもこの川の近くを散歩してくれますよ……小さな河太郎くんが大きくなる様子、時々見に来たらどうですか?」
私の提案に、河太郎さんは言葉も出ず泣きながら頷いてくれたが、最後にぼそりとひと言だけ、私に話しかけてくれた。
「瑞穂殿……ありがとう……」
その言葉が、やはりとても嬉しくて、彼の荷物を里穂さんに渡すことは出来なかったが、自分に出来る精一杯をやれたことには後悔はないと思った。