(苦しい……)

 気づけば私は川の中で、遥か上のほうに水面がぼんやりと明るく光って見える。
 急いで上昇し、水面に出て大きく息を吸った。

「ぷはああっ……はあ……はあ……っ」

 幸い川の流れは穏やかで、水深もそう深くなく、泳いで岸にはたどり着けそうだ。
 そう思って、里穂さんの旦那さんはどうしただろうと周囲を見回してみると、少し離れたところにぶくぶくと泡が浮いているのに気が付いた。

「まさか!」

 私は大きく息を吸いこんで、水の中へ潜ってみる。思っていたよりも水質も綺麗で、里穂さんの旦那さんの姿もすぐに見つかった。しかし――。

 長い髪をゆらゆらと水に漂わせ、紅い目を爛々と光らせた河太郎さんが、里穂さんの旦那さんを羽交い絞めにしている。
 河太郎さんはおそらく河童なので、水の中でも平気だろうが、里穂さんの旦那さんはそうはいかない。苦しそうに暴れて、ぶくぶく泡を口から出している。

(河太郎さん! やめて!)

 私は身振り手振りでそう表現したが、しゃべることができないのでうまく伝わっているのかわからない。
 例え伝わっていたとしても、河太郎さんは恐ろしい形相で、決して放さないとばかりに里穂さんの旦那さんの首を掴んでいる。
 次第に動きが鈍くなっていく里穂さんの旦那さんが、とり返しのつかないことになるのもそう遠くないように思え、私は夢中で二人に手が届くところまで近づいた。
 河太郎さんの腕を掴み、里穂さんの旦那さんの首から引き剥がそうとするが、びくとも動かない。
 逆に突き飛ばされ、邪魔をするなとばかりに河太郎さんに睨まれる。
 それでも私は、果敢に何度もアタックした。

(こんなことダメだよ!)

 聞こえるはずないのに、里穂さんが泣きながら旦那さんを呼んでいる声が聞こえる。
 彼女をあんなに悲しませることは、河太郎さんの本意ではないはずだ。
 今はかっとなってこんなことをやってしまっているが、あとで冷静になったら、必ず後悔するだろう。
 その時に、里穂さんの旦那さんがもし亡くなっていたら、河太郎さんは今以上に傷つく。
 その罪はもう、贖いようがない。

(だから! 絶対にダメ!)

 渾身の力で腕にしがみつく私を、河太郎さんが力いっぱい突き飛ばし、はずみで里穂さんの旦那さんから手が離れた。一瞬の隙をつき、私は里穂さんの旦那さんを水面へ向かって押し上げながら、自分も上昇する。しかし河太郎さんに足を掴まれて、水底へひきずりこまれてしまう。

(あ……ダメかもしれない……)

 ちょうど、肺いっぱいに吸いこんでおいた空気も尽きかけ、私はすーっと意識が遠くなる。

(私……死んじゃうのかな……?)

 ぼんやりとそう考えた時、水面から何か黒いものがざばっと水の中へ飛びこんできた。

(え……?)

 まるで鳥が水中の魚を直接狙いすまして獲るように、私を抱え上げた腕の持ち主は、水面を飛び出て、そのまま空へと上昇していく。

「クロ……さん……? ごほ、ごほっ」

 そういうことができるのはクロだけだろうと思い、問いかけてみると、耳のすぐ横で怒鳴られる。

「馬鹿かお前は! 心配させるな!」

 息もできないほど強くぎゅっと一度私を抱きしめてから、クロは上昇を止めた。
 その腕に抱かれながら、シロによって里穂さんの旦那さんが川から引き上げられている様子が、下に見える。
 土手を駆け下りてきた里穂さんと数人の手によって、旦那さんが土手のほうへ運ばれていくと、クロは私を片手に抱き直して、すっと右手を頭上に上げた。

「戒めだ! この痴れ者っ!」

 クロが掲げていた手を振り下ろすと同時に、夜空を切り裂くような激しい稲光が、猛スピードで、川へ落ちた。

「きゃあああっ!」

 耳を劈くような轟音に、私は思わず両手で耳を塞いで叫んだが、土手を登っていた人たちは何が起きたのか見ておらず、音だけが聞こえたようだ。

「なんだ? なんだ?」
「どうした? 雷か?」

 皆が大騒ぎしている中、まったく驚くことなくシロだけが、里穂さんの旦那さんを運んでいる。おそらく彼には、何が起こったのかわかっているのだろう。

水面にぷかりと河太郎さんが浮かび、私は驚いてクロの顔を見る。

「なんだ? 気絶しているだけだ」

 ほっと息を吐くと、呆れたように言い捨てられた。

「お前はあいつに殺されかけたんだぞ? 同情なんてしてる場合じゃ……」
「そうじゃない!」

 大きな声で叫んでから、私は思わずクロの装束の胸もとを強く握りしめた。

「そうじゃないんです……」

 言いたいことはたくさんあるのに、一つも言葉になってくれない。これでは河太郎さんの悲しい気持ちも、里穂さんと出会うまで抱えていた孤独も、彼が本当は優しいということも、クロには何も伝わらない。
 私は何も伝えられない、はずだったのに――。

 自分の不甲斐なさが悔しくて零れた私の涙を、そっと指で拭ったクロは、その手を私の頭の上に載せた。
 あのお堂の前で私が泣きだしてしまった時のように、そっと優しく撫でてくれるので、私ははっと彼の顔を見上げる。

(クロ……さん……?)

 彼の背後で輝いている月が眩しくて、クロの表情はよく見えない。だけど、優しく私を見つめてくれているように感じた。

(…………)

 恥ずかしさを感じて、顔を伏せた私を抱え直し、クロが下降を始める。河太郎さんが水面に浮かんでいる近くで、私を地面に下ろすと、彼へ歩み寄った。
 クロが激しく河太郎さんを詰るのではないかと思い、私はあとをついていったが、そういうことはなかった。
 クロは川べりでしゃがんで、川の流れに逆らってその場に浮かび続けている河太郎さんに話しかける。

「これで凝りたか、陰気河童」

 河太郎さんは気を失っているのだろうと私は思ったが、違っていた。彼はすでに意識をとり戻しており、仰向けで水面に浮かびながら、星が綺麗な夜空を見上げている。その頬にはかすかに火傷の跡があった。

「気安く話しかけないでください……僕はあなたが苦手です……」

 ぼそぼそと枯れた声で答える河太郎さんは、眦からすーっと涙を零す。
 その様子を見ながら、苦笑いをしたクロは、表情を引き締めた。

「だったらもう放っておくが……その前に何か言いたいことはないか?」
「――――!」

 河太郎さんははっと瞳を瞬かせ、川岸へ飛び上がった。くるりと一回転して地面に着地するまでに、いつものパーカー姿になっており、クロの足もとの地面に額がつくほどに、低く頭を下げて平伏する。

「誠に申し訳ございませんでした……どうかお赦しください……評定衆『烏天狗』のご宗主、黒羽様……」
「赦す」

 クロはひと言だけ言って、河太郎さんの前から立ち去った。
 クロが土手に近い木の下へ行ってしまっても、土下座をしたまま顔を上げない河太郎さんの肩を、私はそっと揺する。

「河太郎さん……」

 その時、背後で声がした。