次の日の夕暮れ、狭間の時間の宅配屋へ行くのが、私はとても憂鬱だった。河太郎さんに、頼まれた荷物を渡せなかったと報告しなければならない。
(まさか豆太くんみたいに、大きな声を上げて泣いたりはしないだろうけど……)
荷物を頼んだあやかしと、受け取った人間が喜んでくれるためにと、始めた橋渡しのつもりなのに、悲しい思いをさせてしまう確率が高いことに、落ちこみそうになる。
(本当に続けていけるのかな……)
不安な思いで夕方、扉を通ったが、仕事着姿のクロを見て、ドキリとした。
(――――!)
昨日はあの後、またあやかしの姿に変わったクロに抱きかかえられて私が車を停めていた場所まで帰り、更に山の上の家まで帰る間、会話らしい会話はほぼなかった。
車に乗ってスーツ姿になったクロは、腕組みをして目を閉じてしまったので、私は邪魔にならないような静かな曲をカーステで流しながら帰ったのだが、往路ほどの気まずさは感じなかった。クロが少し、自分のことを語ってくれたせいかもしれない。これまでより距離が近くなったように感じた。
しかしそのせいで、今まで冷たくて怖い人だとばかり思っていたクロの違う一面を知ってしまったことも事実で、これからどういうふうに接したらいいのか戸惑いがある。
(実は優しい……のかもしれない……そしてたぶん、ずっと寂しさを抱えている……)
昨日私の頭を撫でてくれた手の温もりを思い出し、そういうふうに考えていたので、そのクロにふいに視線を向けられて、またドキリとした。
「…………!」
実は優しいのかもしれない――などと思ったクロの眉が、とても不愉快そうに、あからさまにひそめられる。
「おい何やってる、瑞穂。忙しいんだからさっさと働け」
ギロリと私を睨みながらの呼びかけに、これからいったいどう接したらいいのかなどと迷っていた気持ちが、一瞬にして跡形もなく吹き飛んだ。
「働きますよ!」
クロに負けないほどの睨みを返した私を、シロがけらけら笑っている。
「瑞穂ちゃん、今日も元気だなー」
「元気が有り余っているのなら荷物も積め、受け付けもしろ、記録も付けろ」
矢継ぎ早に仕事を私に振ってくるクロに、私はしかめ面で答えた。
「言われなくてもやります! あー心配して損した」
「はあ?」
訳がわからないといった顔で首を傾げたクロに背を向け、私は自分の担当の窓口へ向かう。出社早々因縁をつけられるという、よくよく考えればパワハラ案件だったのに、心は妙にすっきりしていた。
いつものように受け付けをこなし、その列が切れたのを見計らってから、私は少し外に出てもいいかと隣のシロに訊ねる。
「だって、ほら……今日も入ってくる気はなさそうだから……」
ガラス扉の向こうに見える大きな木の陰には、私が仕事を始めた時からずっと、ひそかにこちらをうかがっている河太郎さんの姿があった。
「あー」
理解したとばかりに頷きながらも、シロはクロをふり返る。
クロは私を見ず、荷物の受け付けを続けながら答えた。
「瑞穂はダメだ。逆上して何をされるかわからない。俺かシロが……」
言葉の途中ではあるが、シロが申し訳なさそうに口を挟む。
「いや、それは……無理じゃないかな……ほら」
シロがすっと木の陰の河太郎さんを指さすと、彼は小さく飛び上がり、慌てて木の陰に完全に姿を隠す。
「ちっ」
舌打ちしたクロに、私は手を挙げた。
「やっぱり、私が行きます。二人がここから見守っていてくれれば、それで安心だし……ね?」
河太郎さんが身を隠している木は、それほど建物から離れていないので、例えもしクロが心配するような事態になったとしても、二人がすぐに駆けつけるだろう。
そう考えてシロとクロの顔を見ると、シロはにっこり笑い、クロは渋々といったふうではあるが、頷いてくれた。
「気をつけて行くんだぞ」
クロに念を押されて、私はガラス扉を出た。
「あの……河太郎さん……」
私が呼びかけても、体の半分は木の陰に隠したままの河太郎さんは、そこから出てこようとしない。目に被さるほど長い前髪の隙間から、私が手に持っている小さな箱を凝視している。
それは先日彼に人間の恋人宛てに届けてくれと預けられた箱で、それが今ここにあるということは、配達が完了していないことを示している。
「どうして……?」
震える声で問いかけてくる彼に、私は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! 荷物はお届けできませんでした」
「だから……どうして?」
どこまで話していいのか迷いながら、私は自分の判断の理由を伝える。なるべく彼を傷つけずに済むように、言葉を選びながら――。
「私……あやかしの世界と人間の世界の時間の流れにはズレがあるって理解してなくて……河太郎さんから、二週間くらい前に喧嘩別れした彼女だって聞いてたので、きっと話をすれば受け取ってもらえると簡単に考えていたんですけど、その話をするのが、今の彼女にとってはいいことなのか、悪いことなのか、判断がつかなくて……」
「里穂……どうなってたの?」
恐る恐る訊いてくる河太郎さんに、なんと説明すればいいのか、頭を捻る。だがいくら考えても、事実を伝える以外にはなく、もう一度頭を下げる。
「人間の男の人と結婚されてました。とても幸せそうだったので、河太郎さんの荷物は……」
そこまで言ったところで、ざあっと大量の雨が降ってきたような音がした。
「え?」
しかし雨に打たれた感覚はなく、慌てて顔を跳ね上げた私の目の前には、河太郎さんが立っている。
「きゃ……」
悲鳴を上げかけた私の手から、ひったくるように箱をとり戻すと、彼はさっとどこかへ行ってしまった。
「もういい」
小さな呟きに重なるようにして背後から声が響く。
「瑞穂!」
「瑞穂ちゃん!」
私の悲鳴を聞きつけて、クロとシロが宅配屋から飛び出してこようとするところだった。
私は慌てて、二人へ向かって手を振る。
「大丈夫、大丈夫。なんでもないから」
言いながら宅配屋へ帰る私に駆け寄り、シロは顔をのぞきこむ。
「本当に? 何もされてない?」
クロはきょろきょろと辺りをうかがっている。
「あいつ……どこへ逃げた?」
二人が私の左右に立ち、護られながら宅配屋へ帰ったが、自分の脚が震えていることは自覚していた。おそらく顔色も悪いだろう。
(びっくりした……あんなスピードで移動されたら、何もできない……)
改めて、あやかしに対して自分はとても無力なことに、私は恐怖を覚えていた。
「いいか? 扉を潜って宅配便出張所へ帰ったら、すぐに家へ帰れ。絶対に鳥居の向こうへは行くなよ」
完全に陽が沈みかけ、私がいつものように壁に出来た扉を通って出張所へ帰る時、クロは何度も念を押した。
「気をつけろよ」
「……うん、わかった」
真剣に頷いて帰ろうとする私に、シロが心配そうな顔を向ける。
「やっぱり俺たちがここを締め終わるまで、出張所で待ってたほうが……」
「それじゃ完全に夜になる。俺たちが間にあわなかったらどうなる?」
「……そうだよね」
クロと話しあって、シロは私に向けて拝むように顔の前で手を合わせた。
「ごめんね、瑞穂ちゃん」
「ううん、大丈夫! すぐに走って帰るから!」
シロが気にしないように、明るく答えたが、本当は私も不安に思っていた。
「瑞穂……帰ったら今日は、ちらし寿司と鰹のたたきだ」
クロが謎の励まし方をしてくれる。
「へ? ……っは、何それ」
一瞬呆気に取られ、それから私は笑ってしまった。
「ははっ……楽しみに帰ります」
「ああ」
笑う私を見つめるクロの顔つきが、昨日寺院で頭を撫でてくれた時のように優しくなる。
あの後の複雑な感情まで思い出してしまいそうで、私は慌てて二人へ背中を向けた。
「じゃあ、帰ります」
「お疲れ様でしたー」
シロの声を背中で聞きながら扉を通り、すぐに宅配便出張所の戸締りをした。
外は完全に暗くなる前のわずかな陽光で茜色に染まっており、それがなくならないうちにと、私は急いでガラス扉を出る。
扉を施錠して、なるべく神社の鳥居に遠いほうから建物をまわりこもうと、ふり返った時には目の前に河太郎さんが立っていた。
「―――――!!」
悲鳴を上げかけた私の口を手で塞いで、そのまま私をひきずりながらどこかへ向かう。
それはもの凄い力で、まったく逃げられそうにないし、そもそも恐くて体が動かない。
(助けて! シロくん! クロさん!)
それは、彼らが今閉店準備をしている狭間の時間の宅配屋ではないのに、電気の消えた出張所へ向かって、私は祈るように心の中で叫ぶしかなかった。
(まさか豆太くんみたいに、大きな声を上げて泣いたりはしないだろうけど……)
荷物を頼んだあやかしと、受け取った人間が喜んでくれるためにと、始めた橋渡しのつもりなのに、悲しい思いをさせてしまう確率が高いことに、落ちこみそうになる。
(本当に続けていけるのかな……)
不安な思いで夕方、扉を通ったが、仕事着姿のクロを見て、ドキリとした。
(――――!)
昨日はあの後、またあやかしの姿に変わったクロに抱きかかえられて私が車を停めていた場所まで帰り、更に山の上の家まで帰る間、会話らしい会話はほぼなかった。
車に乗ってスーツ姿になったクロは、腕組みをして目を閉じてしまったので、私は邪魔にならないような静かな曲をカーステで流しながら帰ったのだが、往路ほどの気まずさは感じなかった。クロが少し、自分のことを語ってくれたせいかもしれない。これまでより距離が近くなったように感じた。
しかしそのせいで、今まで冷たくて怖い人だとばかり思っていたクロの違う一面を知ってしまったことも事実で、これからどういうふうに接したらいいのか戸惑いがある。
(実は優しい……のかもしれない……そしてたぶん、ずっと寂しさを抱えている……)
昨日私の頭を撫でてくれた手の温もりを思い出し、そういうふうに考えていたので、そのクロにふいに視線を向けられて、またドキリとした。
「…………!」
実は優しいのかもしれない――などと思ったクロの眉が、とても不愉快そうに、あからさまにひそめられる。
「おい何やってる、瑞穂。忙しいんだからさっさと働け」
ギロリと私を睨みながらの呼びかけに、これからいったいどう接したらいいのかなどと迷っていた気持ちが、一瞬にして跡形もなく吹き飛んだ。
「働きますよ!」
クロに負けないほどの睨みを返した私を、シロがけらけら笑っている。
「瑞穂ちゃん、今日も元気だなー」
「元気が有り余っているのなら荷物も積め、受け付けもしろ、記録も付けろ」
矢継ぎ早に仕事を私に振ってくるクロに、私はしかめ面で答えた。
「言われなくてもやります! あー心配して損した」
「はあ?」
訳がわからないといった顔で首を傾げたクロに背を向け、私は自分の担当の窓口へ向かう。出社早々因縁をつけられるという、よくよく考えればパワハラ案件だったのに、心は妙にすっきりしていた。
いつものように受け付けをこなし、その列が切れたのを見計らってから、私は少し外に出てもいいかと隣のシロに訊ねる。
「だって、ほら……今日も入ってくる気はなさそうだから……」
ガラス扉の向こうに見える大きな木の陰には、私が仕事を始めた時からずっと、ひそかにこちらをうかがっている河太郎さんの姿があった。
「あー」
理解したとばかりに頷きながらも、シロはクロをふり返る。
クロは私を見ず、荷物の受け付けを続けながら答えた。
「瑞穂はダメだ。逆上して何をされるかわからない。俺かシロが……」
言葉の途中ではあるが、シロが申し訳なさそうに口を挟む。
「いや、それは……無理じゃないかな……ほら」
シロがすっと木の陰の河太郎さんを指さすと、彼は小さく飛び上がり、慌てて木の陰に完全に姿を隠す。
「ちっ」
舌打ちしたクロに、私は手を挙げた。
「やっぱり、私が行きます。二人がここから見守っていてくれれば、それで安心だし……ね?」
河太郎さんが身を隠している木は、それほど建物から離れていないので、例えもしクロが心配するような事態になったとしても、二人がすぐに駆けつけるだろう。
そう考えてシロとクロの顔を見ると、シロはにっこり笑い、クロは渋々といったふうではあるが、頷いてくれた。
「気をつけて行くんだぞ」
クロに念を押されて、私はガラス扉を出た。
「あの……河太郎さん……」
私が呼びかけても、体の半分は木の陰に隠したままの河太郎さんは、そこから出てこようとしない。目に被さるほど長い前髪の隙間から、私が手に持っている小さな箱を凝視している。
それは先日彼に人間の恋人宛てに届けてくれと預けられた箱で、それが今ここにあるということは、配達が完了していないことを示している。
「どうして……?」
震える声で問いかけてくる彼に、私は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! 荷物はお届けできませんでした」
「だから……どうして?」
どこまで話していいのか迷いながら、私は自分の判断の理由を伝える。なるべく彼を傷つけずに済むように、言葉を選びながら――。
「私……あやかしの世界と人間の世界の時間の流れにはズレがあるって理解してなくて……河太郎さんから、二週間くらい前に喧嘩別れした彼女だって聞いてたので、きっと話をすれば受け取ってもらえると簡単に考えていたんですけど、その話をするのが、今の彼女にとってはいいことなのか、悪いことなのか、判断がつかなくて……」
「里穂……どうなってたの?」
恐る恐る訊いてくる河太郎さんに、なんと説明すればいいのか、頭を捻る。だがいくら考えても、事実を伝える以外にはなく、もう一度頭を下げる。
「人間の男の人と結婚されてました。とても幸せそうだったので、河太郎さんの荷物は……」
そこまで言ったところで、ざあっと大量の雨が降ってきたような音がした。
「え?」
しかし雨に打たれた感覚はなく、慌てて顔を跳ね上げた私の目の前には、河太郎さんが立っている。
「きゃ……」
悲鳴を上げかけた私の手から、ひったくるように箱をとり戻すと、彼はさっとどこかへ行ってしまった。
「もういい」
小さな呟きに重なるようにして背後から声が響く。
「瑞穂!」
「瑞穂ちゃん!」
私の悲鳴を聞きつけて、クロとシロが宅配屋から飛び出してこようとするところだった。
私は慌てて、二人へ向かって手を振る。
「大丈夫、大丈夫。なんでもないから」
言いながら宅配屋へ帰る私に駆け寄り、シロは顔をのぞきこむ。
「本当に? 何もされてない?」
クロはきょろきょろと辺りをうかがっている。
「あいつ……どこへ逃げた?」
二人が私の左右に立ち、護られながら宅配屋へ帰ったが、自分の脚が震えていることは自覚していた。おそらく顔色も悪いだろう。
(びっくりした……あんなスピードで移動されたら、何もできない……)
改めて、あやかしに対して自分はとても無力なことに、私は恐怖を覚えていた。
「いいか? 扉を潜って宅配便出張所へ帰ったら、すぐに家へ帰れ。絶対に鳥居の向こうへは行くなよ」
完全に陽が沈みかけ、私がいつものように壁に出来た扉を通って出張所へ帰る時、クロは何度も念を押した。
「気をつけろよ」
「……うん、わかった」
真剣に頷いて帰ろうとする私に、シロが心配そうな顔を向ける。
「やっぱり俺たちがここを締め終わるまで、出張所で待ってたほうが……」
「それじゃ完全に夜になる。俺たちが間にあわなかったらどうなる?」
「……そうだよね」
クロと話しあって、シロは私に向けて拝むように顔の前で手を合わせた。
「ごめんね、瑞穂ちゃん」
「ううん、大丈夫! すぐに走って帰るから!」
シロが気にしないように、明るく答えたが、本当は私も不安に思っていた。
「瑞穂……帰ったら今日は、ちらし寿司と鰹のたたきだ」
クロが謎の励まし方をしてくれる。
「へ? ……っは、何それ」
一瞬呆気に取られ、それから私は笑ってしまった。
「ははっ……楽しみに帰ります」
「ああ」
笑う私を見つめるクロの顔つきが、昨日寺院で頭を撫でてくれた時のように優しくなる。
あの後の複雑な感情まで思い出してしまいそうで、私は慌てて二人へ背中を向けた。
「じゃあ、帰ります」
「お疲れ様でしたー」
シロの声を背中で聞きながら扉を通り、すぐに宅配便出張所の戸締りをした。
外は完全に暗くなる前のわずかな陽光で茜色に染まっており、それがなくならないうちにと、私は急いでガラス扉を出る。
扉を施錠して、なるべく神社の鳥居に遠いほうから建物をまわりこもうと、ふり返った時には目の前に河太郎さんが立っていた。
「―――――!!」
悲鳴を上げかけた私の口を手で塞いで、そのまま私をひきずりながらどこかへ向かう。
それはもの凄い力で、まったく逃げられそうにないし、そもそも恐くて体が動かない。
(助けて! シロくん! クロさん!)
それは、彼らが今閉店準備をしている狭間の時間の宅配屋ではないのに、電気の消えた出張所へ向かって、私は祈るように心の中で叫ぶしかなかった。