「ええっと……たぶんこっちだと思うんですけど……」
河太郎さんに教えてもらった住所へ近づくと、私は車を停め、歩いて目的の家を探した。
スーツに革靴姿のクロもうしろをついてくる。私はそよ風宅配便の制服姿なので、おかしな組み合わせだと思うのだが、クロはまったく気にしていない。
「本当に合ってるのか?」
私が手にしていた住所の書かれた紙を、手からさっと上に抜き取り、高い位置で確認されては、私には何も見えない。
「ちょっと! 返してください!」
ジャンプして取り戻そうとすると、更に高い位置に上げられる。
「クロさん!!」
「伊助たちと一緒だ……」
「――――!」
完全にからかわれているのだとわかり、私は渾身のジャンプでそれをクロの手からひったくった。
「早く届けないと、午後から他の用事があるんじゃないんですか?」
出がけに確かそういうふうに言っていたと思いながら問いかけると、普段より少し緩んでいたクロの表情が、すっと冴えたものになる。
「ああ……そうだ」
(なに……?)
その感情の変化は、私にはよくわからないが、ひとまず今大切なのは、河太郎さんから預かったこの荷物を、彼の恋人だという女性にまちがいなく届けることだ。
電柱やブロック塀に貼られた住所表示を確認して、私は目的のマンションにたどり着いた。
「あった……ここだ」
その様子をうしろから見ているクロは、呆れたように呟く。
「人間の配達はまどろっこしいな……あやかしなら気配だけで一発だ」
「悪かったですね!」
五階建ての小さなマンションだったので宅配ボックスもなく、私は管理人さんに首から提げたそよ風宅配便の社員証を見せて、エレベーターを使わせてもらった。
エレベーターを待っている間に、一組の男女がうしろに並んだので、一緒にエレベーターへ乗る。
「何階ですか?」
「五階です。ありがとうございます」
笑顔で私たちの行き先を訊いて、「一緒ですね」と行き先の階のボタンを押してくれた女性は、三十歳前後の優しい雰囲気の可愛らしい人だ。同じ年くらいの男性と手を繋ぎ、とても幸せそうに顔を近づけて話をしている。
対して私とクロは、壁際と壁際にめいっぱい離れて立っており、互いに無言で、ちぐはぐな服装も含めて、いったいどういうふうに見えるのだろうと思うと、虚しくなる。
(あー……なんか私も、新しい幸せを求めたい気がする……)
最近はそういう感情などまったくなかったのだが、二人の幸せそうな様子にあてられてしまったようだ。それくらい幸せオーラいっぱいの男女だった。
目的の五階へ着くと、クロが「お先にどうぞ」と声をかけたので、カップルのほうが先に降りていく。
見た目がイケメンで態度もスマートなクロに、女性のほうがうっすらと頬を染めてお辞儀をし、それを恋人らしい男性にからかわれている一連の流れまで微笑ましい。
(いいなあ……)
羨望の眼差しで二人を見送っていた私を、クロがエレベーターの外へ押し出す。
「さっさと降りろ。ぼけっとするな」
幸せカップルのおかげでほわほわとしていた気持ちが、一気に現実へひき戻された。
「…………はい」
やっぱりシロについて来てもらったほうがマシだったと、怒りを覚えながら歩く私は、河太郎さんの恋人の『後藤里穂』さんが住んでいるという部屋の番号を探す。
「ええっと、五〇五……五〇五……」
しかし、五〇一、五〇二と順番に通り過ぎて、五〇三にさしかかったあたりで、思わず足が止まってしまった。
先ほどの仲のいいカップルが、二つ先の部屋の扉の鍵を開けて、中へと入っていった。
「え……?」
扉が閉まると思わず駆け寄って、表札に書かれた部屋番号と、河太郎さんから教えてもらった住所が書かれたメモ用紙を、私は何度も見比べる。
「え? え?」
どちらも部屋番号は『五〇五』。
焦る私に、クロが表札に書かれた名前を指さした。
「おい」
そこには『田辺裕司・里穂』と先ほどの男女の名前らしきものが、書かれていた。
(え、里穂って……まさか……?)
驚いて目線で問いかける私に、クロが黙ったまま頷く。
「そんな……」
「ひとまず帰るぞ」
さっさと踵を返したクロを追い、河太郎さんから託された小箱を握りしめたまま、私もその部屋に背中を向ける。
「はい……」
目的のマンションをうまく見つけられてからあれほど軽かった足が、帰りはとても重かった。
黙ったままクロと共に車まで帰り、乗りこんで扉を閉めてから、私は一気に問いかけた。
「いったいどういうことですか? 河太郎さんからは、この間喧嘩別れした恋人に、仲直りのきっかけとして贈り物を届けてほしいって依頼されたんですけど……彼女には、もう別の彼氏ができたってことですか? そもそも表札の名前が『後藤』じゃなくて『田辺』だったんですけど……新しい恋人どころか、結婚したってことですか???」
私が大きな声でまくし立てるのを、クロは好きではなく、よく「うるさい」と言い放たれるのだが、今日はとりあえず我慢してくれているらしい。こめかみをぴくぴくさせながらも、かろうじて返事をしてくれる。
「まあ、そういうことだろうな」
「ちょっと早すぎないですか?」
思わずクロに詰め寄ってしまう私を、手で押し返しながら、クロは迷惑そうな顔をする。
「瑞穂……あの陰気男は、別れてどれぐらいだって言ってた?」
「確か……二週間ぐらい?」
それで別の男と結婚というのは、まさか河太郎さんとつきあっていた頃から、あの男性ともつきあっていたのではないだろうかと、優しそうな印象に反した女性のしたたかさに、思わず身震いする私を、クロが腕組みしながらたしなめる。
「いや、そうじゃない。あちらの世界と、こちらの世界では時間の流れ方がまったく違うんだ……河太郎にとって二週間なら、彼女にとっては四、五年ってところか……」
「四、五年⁉」
思っていた以上の時差に、思わず大きな声が出てしまった。
クロはますます眉間の皺を深くする。
「ああ……それだけ音沙汰なかったら、新しい恋人が出来たり、結婚したりするのも当然だろ」
「そうか……そうですよね」
説明をされて理解はしたが、納得は出来ない。
山の上出張所に赴任して、あやかしと関わるようになってから、こういうことが増えた。 彼らにとっての常識は、私にとっては常識ではない。その違いに出会うたびに、私は何度も、こうして納得できない思いを重ねていくのだろう。
(だって……あんなに必死だったのに……)
私に彼女宛ての荷物を頼んだ時の河太郎さんの、藁にも縋るような表情をよく覚えている。
本当に大切で、絶対に幸せにしたいと思っていた彼女なのに、些細な諍いで別れてしまった。だからどうにかして、もう一度自分の気持ちを伝えたいのだと涙ながらに訴えられて、その手伝いを出来ることが、私は誇らしくさえあった。
しかしクロの言うように、その河太郎さんとの別れから、彼女の中では四、五年もの時が経っているのなら、心変わりも責められない。
(だって……あんなに幸せそうなんだもの……)
夫となった人と、楽しそうに手を繋いでいた彼女の姿を見てしまったので、彼女の今の幸せも否定できない。
そこへ行き着くまでに、河太郎さんとの別れの辛さや苦しさを乗り越えて、ようやくたどり着いた新しい幸せなのかもしれないのだから――。
「…………」
二つの感情が心の中でせめぎあい、河太郎さんから預かった荷物を膝に抱えたまま、何も言えない私の車から、突然クロが降りた。
「え……?」
驚いて彼に目を向けた私に、クロはスーツの上着を脱いで後部座席に投げながら命じる。
「瑞穂……今からちょっと俺につきあえ」
それだけ言うと、車の扉を閉めて、さっさとどこかへ行ってしまう広い背中を、私も慌てて車から降りて追う。
「どこへ行くんですか?」
クロの返事はない。私をふり返りもしない。その姿が、誰かの姿と重なる――。
(……?)
不思議な残像は、瞬きする間に消えてしまったが、それと一緒にクロまで消えてしまいそうなおかしな焦燥に駆られ、私は必死に叫ぶ。
「ちょっと待って!」
その声にはかろうじて足を止めてくれたので、半身だけふり返ったクロに向かい、私は全速力で駆け寄った。彼をどこへも逃がさないために――。
河太郎さんに教えてもらった住所へ近づくと、私は車を停め、歩いて目的の家を探した。
スーツに革靴姿のクロもうしろをついてくる。私はそよ風宅配便の制服姿なので、おかしな組み合わせだと思うのだが、クロはまったく気にしていない。
「本当に合ってるのか?」
私が手にしていた住所の書かれた紙を、手からさっと上に抜き取り、高い位置で確認されては、私には何も見えない。
「ちょっと! 返してください!」
ジャンプして取り戻そうとすると、更に高い位置に上げられる。
「クロさん!!」
「伊助たちと一緒だ……」
「――――!」
完全にからかわれているのだとわかり、私は渾身のジャンプでそれをクロの手からひったくった。
「早く届けないと、午後から他の用事があるんじゃないんですか?」
出がけに確かそういうふうに言っていたと思いながら問いかけると、普段より少し緩んでいたクロの表情が、すっと冴えたものになる。
「ああ……そうだ」
(なに……?)
その感情の変化は、私にはよくわからないが、ひとまず今大切なのは、河太郎さんから預かったこの荷物を、彼の恋人だという女性にまちがいなく届けることだ。
電柱やブロック塀に貼られた住所表示を確認して、私は目的のマンションにたどり着いた。
「あった……ここだ」
その様子をうしろから見ているクロは、呆れたように呟く。
「人間の配達はまどろっこしいな……あやかしなら気配だけで一発だ」
「悪かったですね!」
五階建ての小さなマンションだったので宅配ボックスもなく、私は管理人さんに首から提げたそよ風宅配便の社員証を見せて、エレベーターを使わせてもらった。
エレベーターを待っている間に、一組の男女がうしろに並んだので、一緒にエレベーターへ乗る。
「何階ですか?」
「五階です。ありがとうございます」
笑顔で私たちの行き先を訊いて、「一緒ですね」と行き先の階のボタンを押してくれた女性は、三十歳前後の優しい雰囲気の可愛らしい人だ。同じ年くらいの男性と手を繋ぎ、とても幸せそうに顔を近づけて話をしている。
対して私とクロは、壁際と壁際にめいっぱい離れて立っており、互いに無言で、ちぐはぐな服装も含めて、いったいどういうふうに見えるのだろうと思うと、虚しくなる。
(あー……なんか私も、新しい幸せを求めたい気がする……)
最近はそういう感情などまったくなかったのだが、二人の幸せそうな様子にあてられてしまったようだ。それくらい幸せオーラいっぱいの男女だった。
目的の五階へ着くと、クロが「お先にどうぞ」と声をかけたので、カップルのほうが先に降りていく。
見た目がイケメンで態度もスマートなクロに、女性のほうがうっすらと頬を染めてお辞儀をし、それを恋人らしい男性にからかわれている一連の流れまで微笑ましい。
(いいなあ……)
羨望の眼差しで二人を見送っていた私を、クロがエレベーターの外へ押し出す。
「さっさと降りろ。ぼけっとするな」
幸せカップルのおかげでほわほわとしていた気持ちが、一気に現実へひき戻された。
「…………はい」
やっぱりシロについて来てもらったほうがマシだったと、怒りを覚えながら歩く私は、河太郎さんの恋人の『後藤里穂』さんが住んでいるという部屋の番号を探す。
「ええっと、五〇五……五〇五……」
しかし、五〇一、五〇二と順番に通り過ぎて、五〇三にさしかかったあたりで、思わず足が止まってしまった。
先ほどの仲のいいカップルが、二つ先の部屋の扉の鍵を開けて、中へと入っていった。
「え……?」
扉が閉まると思わず駆け寄って、表札に書かれた部屋番号と、河太郎さんから教えてもらった住所が書かれたメモ用紙を、私は何度も見比べる。
「え? え?」
どちらも部屋番号は『五〇五』。
焦る私に、クロが表札に書かれた名前を指さした。
「おい」
そこには『田辺裕司・里穂』と先ほどの男女の名前らしきものが、書かれていた。
(え、里穂って……まさか……?)
驚いて目線で問いかける私に、クロが黙ったまま頷く。
「そんな……」
「ひとまず帰るぞ」
さっさと踵を返したクロを追い、河太郎さんから託された小箱を握りしめたまま、私もその部屋に背中を向ける。
「はい……」
目的のマンションをうまく見つけられてからあれほど軽かった足が、帰りはとても重かった。
黙ったままクロと共に車まで帰り、乗りこんで扉を閉めてから、私は一気に問いかけた。
「いったいどういうことですか? 河太郎さんからは、この間喧嘩別れした恋人に、仲直りのきっかけとして贈り物を届けてほしいって依頼されたんですけど……彼女には、もう別の彼氏ができたってことですか? そもそも表札の名前が『後藤』じゃなくて『田辺』だったんですけど……新しい恋人どころか、結婚したってことですか???」
私が大きな声でまくし立てるのを、クロは好きではなく、よく「うるさい」と言い放たれるのだが、今日はとりあえず我慢してくれているらしい。こめかみをぴくぴくさせながらも、かろうじて返事をしてくれる。
「まあ、そういうことだろうな」
「ちょっと早すぎないですか?」
思わずクロに詰め寄ってしまう私を、手で押し返しながら、クロは迷惑そうな顔をする。
「瑞穂……あの陰気男は、別れてどれぐらいだって言ってた?」
「確か……二週間ぐらい?」
それで別の男と結婚というのは、まさか河太郎さんとつきあっていた頃から、あの男性ともつきあっていたのではないだろうかと、優しそうな印象に反した女性のしたたかさに、思わず身震いする私を、クロが腕組みしながらたしなめる。
「いや、そうじゃない。あちらの世界と、こちらの世界では時間の流れ方がまったく違うんだ……河太郎にとって二週間なら、彼女にとっては四、五年ってところか……」
「四、五年⁉」
思っていた以上の時差に、思わず大きな声が出てしまった。
クロはますます眉間の皺を深くする。
「ああ……それだけ音沙汰なかったら、新しい恋人が出来たり、結婚したりするのも当然だろ」
「そうか……そうですよね」
説明をされて理解はしたが、納得は出来ない。
山の上出張所に赴任して、あやかしと関わるようになってから、こういうことが増えた。 彼らにとっての常識は、私にとっては常識ではない。その違いに出会うたびに、私は何度も、こうして納得できない思いを重ねていくのだろう。
(だって……あんなに必死だったのに……)
私に彼女宛ての荷物を頼んだ時の河太郎さんの、藁にも縋るような表情をよく覚えている。
本当に大切で、絶対に幸せにしたいと思っていた彼女なのに、些細な諍いで別れてしまった。だからどうにかして、もう一度自分の気持ちを伝えたいのだと涙ながらに訴えられて、その手伝いを出来ることが、私は誇らしくさえあった。
しかしクロの言うように、その河太郎さんとの別れから、彼女の中では四、五年もの時が経っているのなら、心変わりも責められない。
(だって……あんなに幸せそうなんだもの……)
夫となった人と、楽しそうに手を繋いでいた彼女の姿を見てしまったので、彼女の今の幸せも否定できない。
そこへ行き着くまでに、河太郎さんとの別れの辛さや苦しさを乗り越えて、ようやくたどり着いた新しい幸せなのかもしれないのだから――。
「…………」
二つの感情が心の中でせめぎあい、河太郎さんから預かった荷物を膝に抱えたまま、何も言えない私の車から、突然クロが降りた。
「え……?」
驚いて彼に目を向けた私に、クロはスーツの上着を脱いで後部座席に投げながら命じる。
「瑞穂……今からちょっと俺につきあえ」
それだけ言うと、車の扉を閉めて、さっさとどこかへ行ってしまう広い背中を、私も慌てて車から降りて追う。
「どこへ行くんですか?」
クロの返事はない。私をふり返りもしない。その姿が、誰かの姿と重なる――。
(……?)
不思議な残像は、瞬きする間に消えてしまったが、それと一緒にクロまで消えてしまいそうなおかしな焦燥に駆られ、私は必死に叫ぶ。
「ちょっと待って!」
その声にはかろうじて足を止めてくれたので、半身だけふり返ったクロに向かい、私は全速力で駆け寄った。彼をどこへも逃がさないために――。