翌日の出張所で、開店時間と同時にがらがらと台車を押してやってきた多香子さんは、私の顔を見た瞬間に、昨夜のシロと同じことを言った。

「あら、瑞穂ちゃんすごい顔……何? 失恋でもした?」
「そんな相手いません」

 昨夜シロにしたのと同じ返事をして、私は田中さんが都会の息子さんのところへ行くことになったと説明する。

「なるほどね……でも寂しいけど、そのほうがいいわよ。やっぱり一人じゃ心配だもの」
「そうですよね」

 私も頭ではわかっているのだ。だがここしばらく一日おきに会っていたせいで、どうしても寂しい気持ちのほうが勝る。豆太くんはなおさらだろう。

(いったいどう説明したらいいんだろう……)

 昼からもかなり落ちこんで、いつもより千代さんとの会話も弾まないでいると、珍しくみやちゃんが自分から口を開いた。

「瑞穂は、本当はどうしたい?」
「え……」

 普段は、私と千代さんの会話に耳を傾けているだけ、たまに問いかけられたら返事をするくらいのみやちゃんが、逆に質問してきたことに驚いて、私はなるべく丁寧に答えなければと思った。
 昨日から、何度も心の中で思い描いていたことを思いきって言葉にしてみる。

「そうだな……もし私が、一瞬で山も越えるような特別な力を持っていたら、遠くの街に行っちゃった田中さんにも、これまでと同じように豆太くんの荷物を届けに行けるのにな……とは思うよ」

 尋常ではない速さで空を駆ける能力を持つシロやクロをうらやましく思う気持ち半分、小さなみやちゃんになら、とても実現できそうにない願望も、夢として語れるという気持ち半分で言ってみたのだったが、みやちゃんは「わかった」と言って頷いた。

「え?」

 驚く私の前で、小さな着物の袂から一枚の紙を取り出す。

「これを瑞穂に」

 それは短冊形の紙で、私にはとても読めない達筆で、何か文字が記してあった。

「ええっと……これは?」

 裏返してみると、裏にも何か書いてある。黒文字の上に被せるように赤い印が押された仕様は、最近流行りの御朱印にも似ている。

「お札……かな?」

 形から推測して訊ねてみると、みやちゃんはこっくりと頷いた。

「おやまあ、みや様……神車のお札を下賜されますの?」

 みやちゃんは、訊ねた千代さんに黙っていろとばかりに、小さな人差し指を唇に当ててみせる。

「しーっ」
「しーっですね」

 千代さんはふふふと笑いながら、私に説明してくれる。

「御橋神社のお札だから、車に貼っておいたらいいね。本当に助けが欲しい時、瑞穂ちゃんが本気で願ったら、きっと助けてくださるよ」
「あ……はい」

 みやちゃんは神社の子だったと思い出し、元気のない私を励ますために、お札をくれたのだと理解した。それも、車に関してご利益がありそうな札を――。

「みやちゃん、ありがとう!」

 お礼を言うと、ほんのりと頬を染めて、はにかむように笑われる。
 その様子は、もういつも通りのみやちゃんで、私は何の疑いも持たず、彼女がくれたお札を、すぐに車のダッシュボードの裏に貼りに行った。



 その夜の、狭間の時間の宅配屋の扉を開くのには、かなりの勇気が必要だった。

(豆太くん悲しむかな……きっと泣いちゃうよね……)

 わかっていても、田中さんがいなくなってしまうことと、託されたお別れの言葉を伝えるしかなくて、私は預かった荷物を片手に、扉を開く。

(うっ……)

 全身を膜に包まれる感覚に呻いて、閉じた目を開けてみると、宅配屋の隅に、もう豆太くんが立っていた。私の姿を認めると、ぱあっと笑顔になる。

(ごめんね……)

 その笑顔を、今夜は守れそうにないことに心の中で手を合わせて、私は急いでカウンターへ入った。
 豆太くんと話をする時間を少しでも確保するため、今並んでいるお客をなるべく早く受け付けしていく。

「ありがとうございましたー。はい、次の方!」
「すっごい速さ」

 シロは隣でけらけら笑っているが、それに構っている時間さえ惜しい。

「はい、どうぞ! 次々どうぞ!」

 今まで一番速く仕事を片づけて、カウンターを出て、豆太くんの前に立った。

「あのね、豆太くん……」

 私が話を始めようとすると待ってましたとばかり、豆太くんも話しだす。

「うん、姉ちゃん! 今日はね、これをじいちゃんに持って行ってほしくてね!」

 彼が意気揚々とさし出した筒のようなものを、私は手で制した。
 残念ながらもう豆太くんから田中さん宛ての荷物を、引き受けることはできない。

「ごめん。先にお話聞いてくれるかな?」

 今までにないことに、豆太くんはきょとんと目を瞬かせたけれど、素直に頷いてくれた。

「うん、わかった」

 私は大きく息を吸いこんで、自分の気持ちを落ち着けてから話を始めた。
 なるべく優しい声で、少しでも豆太くんの悲しみを和らげてあげられるように――それだけを心がけた。

「田中のお爺ちゃんね。今住んでいる家から、お引越しすることになったんだって」
「え?」

 どういうことかと首を傾げた豆太くんの前でしゃがみ、彼と目の高さを合わせるようにしながら、一言一言ゆっくりと心に届くように話す。

「遠くに住んでいる家族のところへ行くんだって。そこはとても遠くて、もう私の車でも行くことは出来ないから、豆太くんからのお届け物は、この間ので最後にしてほしいって……」
「そんな……」

 とても小さな声でぽつりと呟いてから、豆太くんの顔がくしゃっと歪んだ。

「どうしてだよ? だっておいらからの荷物、とっても嬉しいっていつも……」
「そうだよね。いつもとても喜んで受け取ってくれたよ」
「じゃあなんで……」

 何故と問いながらも、豆太くん自身も理由は理解しているのだ。ただわかってはいても、納得できなくて、同じ言葉をくり返すしかない。その気持ちは私にもよくわかる。

「ごめんね。だからもうその荷物は預かれない。田中さんが今までありがとうって。最後に豆太くんにこれをって」

 田中さんから預かった、そよ風宅配便のダンボール箱を、豆太くんに渡した。大きさのわりに軽い箱だった。

「おいらに……?」

 目に涙をいっぱい溜めながら、箱を受け取った豆太くんが、いったんそれを床に置いてガムテープをはがして、箱の中から取り出したものを見て、ぽろぽろ涙を零す。

「じいちゃん……」

 それは小さな麦わら帽子だった。豆太くんにちょうど合うほどのサイズなので、彼のために田中さんが作ったのだろう。藁でかごや帽子を編んでいるのを、見たことがあった。
 以前に私が千代さんに貸してもらった麦わら帽子も、田中さんの手作りだと聞いていた。

「よかったね、豆太くん。よく似あいそう」

 麦わら帽子を手にした豆太くんが涙を流しているので、私は田中さんとの別れが悲しいながらも、最後のプレゼントを喜んでいるのだとばかり思っていた。
 だが違った。豆太くんは麦わら帽子を凝視して、驚きに目をみはり、それから肩を震わせて泣いていた。

「どうして? おいら……何も言ってないのに……」

 豆太くん用の麦わら帽子には、頭の上のほうに二つ、穴が開いていた。頭のてっぺんから少し離れた場所に、左右に二つ。

「どうして……?」

 泣き崩れた豆太くんの茶色い髪の間から、ぴょこんと丸い耳が飛び出す。半ズボンの腰のあたりからもふさふさとした尻尾が――。

「あ……!」

 そういえば彼はあやかしだったのだと、私が改めて思い返した時、隣に誰かが立った気配がした。

「お前が人間の子じゃなくて豆だぬきだって……爺さんはちゃんとわかってて、それでも可愛がってくれてたってことさ」
「――――!」

 クロだった。

 クロの言葉にぎゅっと唇を噛みしめた豆太くんは、次の瞬間、それを大きく開けて声を上げて泣き始める。

「ああーん、あーん、じいちゃーん!!」

 眉をしかめて耳を塞いだクロに代わり、背後からシロが声を上げた。

「瑞穂ちゃん! 田中のお爺ちゃん、いつ引っ越しちゃうって?」
「あ……明日?」

 それを聞いた豆太くんが、ますます大きな声を上げて泣く。

「じいちゃーん! じいちゃあーーーん!!!」

 クロがその襟首を掴んで持ち上げ、私へさし出した。

「うるさくてかなわん。瑞穂、今日はもういいから、こいつを連れて帰れ」
「え……?」

 豆太くんが胸に抱きしめていた麦わら帽子を取り上げて、頭に被せてぽんぽん叩きながら、もともと彼が配達を頼もうと持ってきていた筒のようなものを手に握らせる。

「ほら、これもそれも全部持って帰れ、豆太」

 宅配屋のガラス扉を開けて、豆太くんを外にぽいっと捨ててから、私を促す。

「お前も早く行け」

 シロがすかさず、うしろから声をかけた。

「瑞穂ちゃんは、ちゃんといつもの扉を通ってね。抜けた先の宅配便出張所の前で、豆太が泣いているはずだから!」

 クロがまったく説明してくれないことを、シロが教えてくれるのがありがたく、私はシロをふり返って手を合わせた。

「ありがとう、シロくん!」

 扉を開けて帰る際、やっぱりクロにも一応お礼を言っておく。

「クロさんも、ありがとうございます!」

 ふんとそっぽを向いて、カウンターの中へ帰って私の代わりに窓口で受け付けを再開してくれるクロに、本当に感謝していた。