ちゅんちゅんちゅん ちゅんちゅんちゅん
のどかなスズメのさえずりに、私は胸までかけていた毛布を鼻が隠れる位置までひき上げて、ベッドの上で丸くなる。
(ん……朝からスズメの声で起こされるなんて、私、実家に帰って来たんだっけ……?)
寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、確かに布団の寝心地が、私のアパートのベッドではなく、実家のそれのような気がした。
少しずつ意識が覚醒してくると、卵の焼けるいい香りと、味噌汁の匂いも漂ってくる。
(これこれ、やっぱり朝はお母さんのご飯が最高よねー。一人暮らしのアパートじゃ、昨日のコンビニの買い物の残りか、パン一枚が限界だもの……)
そう考えかけて、私ははっとあることに気がついた。
(違う! 実家じゃなーい!)
突然の僻地勤務の辞令と、そこで出会った不思議な二人組。
その夜の姿と、夢としか思えない昨夜の出来事の数々。
その全てを一気に思い出した私は、毛布を跳ねのけてがばっと起き上がった。
私が寝かされているのは純和風の布団。
それはテレビが置かれた居間の隅に敷かれており、すぐ隣に窓があるため、窓の外のスズメの声がやけに近く聞こえたわけだ。
部屋の入り口では、白い髪に寝ぐせをつけた、Tシャツにスウェット姿のシロが、眠い目を擦りながら歯を磨いている。
「んふぁ、瑞穂ひゃん、ほふぁよー」
居間と繋がる台所で、黒シャツに紺色のエプロンをぴしっと着けて、朝食を作っているらしいクロが、シロの声にこちらをふり返る。
「瑞穂、起きたのか。さっさと顔洗ってこい。もう朝飯ができる」
さも当たり前のように言われても、若い男の人二人のすぐ傍で、自分がパジャマ姿で無防備に寝こけていた事実を知ってしまった私は、とりあえず叫ばずにはいられない。
「どうしてーーーー!?」
クロはいかにもうるさそうに顔をしかめ、シロは嬉しそうに、にかっと笑った。
「はい、瑞穂ちゃん。ご飯はお代わりもたくさんあるよー」
シロが手渡してくれた茶碗を無言で受け取りながら、私は複雑な気持ちを拭えない。
丸い卓袱台には、三人分の焼鮭と味噌汁と卵焼きと漬物。
どれもほっぺたが落ちそうに美味しくて、隣でガツガツ食べているシロに負けない勢いで食べられる自信もあるが、私はあえて黙々と食べ続けた。
私が何も話さないことをクロは特に気にしていないらしく、同じように黙して食事をしている。
しかしシロは、とても気になるらしい。ちらちらと様子をうかがい、何度か虚しく声をかけたあと、ついに私に向き直る。
「瑞穂ちゃん、ほんとゴメンって……そんなに怒ると思わなかったんだよー」
殊勝に顔の前で手を合わせているが、あいかわらず言葉が軽すぎて、あまり謝られている気はしない。
「昨夜、帰る途中で疲れきって寝ちゃったから、とりあえずこの部屋で寝かせたってだけで、本当は一人で使ってくれていい部屋もあるし、なんなら鍵もかかるしー」
鍵などはたして彼らに意味があるのだろうかと考えながら、私はひとまず口くらいは開いてあげることにした。食べ終わった茶碗と箸を置いて、シロのほうを向く。
「居間で寝ていた理由はわかった……でも、着替えは? どうやって私、パジャマに着替えたの?」
「それは……」
いかにも言い難そうに言葉を切ったシロに、助けを求めるように目を向けられ、クロも手にしていた箸を置く。
「そんなの簡単なことだ。こうやって……」
面倒そうに言いながら、私を見つめるクロの目が妖しく光り始めたところで、シロが慌てて割って入った。
「ストップ! ストーーーーップ!! 今やんなくていいから!」
クロの瞳に吸い寄せられたように、意識が飛んでいた私は、シロの叫びではっと我に返った。
(なんだったの? 今の?)
考えるのも恐ろしい。
シロは困ったように、私に向かってまた手を合わせる。
「とにかく、俺たちが服装を変えるのと同じような方法だよ。誓って瑞穂ちゃんには指一本触れてません! 御橋神社に祀られている神さまに誓って!」
ぱんぱんと柏手を打ってみせるシロを、私はそろそろ許してやることにした。
「わかった……もういい」
もとはと言えば、昨晩帰る途中で寝落ちてしまった私が悪いのだ。
眠る私を背中に乗せて帰ったシロは、落ちないように気を配るだけでも大変だったろうに、クロが勝手に始めた競争にも負けて、今日の掃除係になっている。
本当は感謝こそすれ、非難することではないのかもしれないが、知らない間にパジャマに着替えさせられていたことと、実は直前までシロも隣で寝ていたとクロに聞かされて、すっかり頭に血が上ってしまった。
「もう気にしないことにする」
見た目が若い男の子ということをいったん忘れて、大きな白狐が添い寝していたと思えばいい。むしろその背中に、昨晩はあんなに自分からしがみついていたのだから――。
目を閉じて必死に瞑想する私以外の二人が、立ち上がる気配があった。
(え……?)
目を開いてみると、私のぶんまでさっさと食べ終わった食器を台所へ運び、手早く二人で洗い終わって、各々何かの支度を始める。
「どこか行くの?」
何げなく聞いてみた私に、クロが鋭い視線を向けた。
「もちろん仕事だ。完全に週三日しか働かない誰かさんと違って、こっちは、昼間は毎日普通に働いてるんだ」
「えーーーーっ!」
確か昨夜、シロからちらりとそういう話を聞いた気もしたが、ぴしっとスーツを着て、ネクタイを締めるクロの姿を、私は驚きの思いで見つめる。
シロも寝癖のついた髪を直して、カラフルなヘアピンでサイドを留め、赤い眼鏡をかけて洗面所から帰ってきた。
「俺も今日は一限から授業ー」
軽やかに玄関へ向かう背中に、私は慌てて問いかける。
「昨夜も遅くまで宅配の仕事だったし、あまり寝てないんじゃ? ……大丈夫?」
「うん、ありがと」
シロは曖昧に笑ってごまかすだけだが、その彼を追い越して先に玄関に着き、革靴を履いているクロが、ふり返らずに答える。
「瑞穂。お前……あやかしが寝ると思ってるのか?」
「え?」
瞳を瞬かせた私からそっと目を逸らし、シロは逃げるように家を出ていく。
「じ、じゃあ俺、行ってきまーす」
その背中をぽかんと見送り、私は我に返った。
(寝なくてもいいんなら、昨夜シロくんが私の隣で寝てたのはなんで? ねえ、なんでなの!?)
今にも叫び出しそうな私の気配を察したらしく、クロが付け足すように呟く。
「シロはまあ……ちょっと特殊だから……」
このタイミングでそんなことを言われても、とっさのごまかしだとしか思えない。
怒りでぶるぶる震える私をさすがに放っては出勤できないらしく、クロが困ったように問いかけた。
「瑞穂……お前、今夜は何が食べたい?」
「え……?」
不意を突かれて見たクロの顔は、照れたようにかすかに赤くなっているようにも見える。
私は慌てて、顔を伏せた。
「鍋……」
焦りのあまり適当に口にした、まるで季節違いのリクエストを、クロの声は少し嬉しそうにくり返す。
「鍋な、わかった」
がらがらっと扉を開けて出ていく背中を見送り、朝からいろんな意味ですっかり疲れきった私は、へなへなと廊下に座りこんだ。
誰もいなくなった家で、一人で留守番しているのも暇で、簡単に室内を掃除したあと、私は外へ出てみた。
昨日は暗い中でしか見なかったのでそれほど実感がなかったが、かなり古い木造の建物だ。
(住宅メーカーが建てた家って感じじゃないわよね……いかにも昭和。まさかそれ以上?)
周囲を雑草に囲まれているので、目立つものだけでもと抜いていると、次第に止まらなくなってきた。
家から営業所へと続く空地――配送車が車を横付けする場所と私が車を停めている場所も含めて――を真剣に草むしりし始めると、額にじんわり汗が浮かんでくる。
(なかなかの重労働……これって終わらなくない?)
たいした準備もせずに作業を始めたことを後悔していると、営業所の入り口がある参道のほうから聞き覚えのある声がした。
「瑞穂ちゃん? 草むしりしとるの? 帽子を被らんと日射病になるよ」
顔を上げて見てみると、昨日焼き芋をくれたお婆さんだった。
「あ……ですよねぇ……」
雑草を踏みしめながら傍までやってきたお婆さんは、自分が被っていた麦わら帽子を脱いで、私に被せてくれる。つばの広い帽子で、固定用の二本のリボンが付いており、それを私の顎の下で結んでくれた。
「私はもう今日の畑仕事が終わったところじゃけぇ、貸してあげる。時々は休憩もせんといかんよ」
営業所の隣にある自動販売機を指さされ、確かにその通りだと、私は頷く。
「はい、そうですね。ありがとうございます!」
お婆さんは腰の後ろで手を組んで、ニコニコ笑いながら帰って行った。
「若い人が住むようになったら、このへんも少し活気づくねぇ……」
その言葉を聞いて、私ははっと気がつく。
「あ……」
私はまだ、この社宅に住むと決めたわけではなかった。
昨日はすっかり暗くなってしまい、夜道を運転するのが怖かったので、ひとまずここに泊ることにしたのだった。
それなのに昨夜からの成り行きで、まるでこれからここで暮らすかのように、草むしりなど始めてしまっている。
(しかもちゃっかりと、今晩のおかずのリクエストもしてるし……住むにしても、必要なものを取りに、いったん街のアパートへ帰ったほうがいいかな?)
古い建物と、営業所横に停めた愛車を交互に見ていると、背後から視線を感じた。
(…………?)
ふり返って見てみると、営業所の斜め前に聳え立つ、御橋神社の大鳥居の陰に、四、五歳くらいの女の子がしゃがんでいる。
(……ん?)
肩の位置で切り揃えたおかっぱ頭の、色の白い可愛らしい女の子だった。顔の半分ほどもある大きな目を輝かせて、私を見ている。
周りを見渡してみても、親らしき人影はない。
(ええっと……)
あまりにまじまじと見られていることが照れ臭くて、手を振ってみると、女の子はぱっと笑顔になって、一生懸命に手を振り返す。
(すごい可愛い子だな……)
何度かそれをくり返した末に試しに手招きしてみると、待ってましたとばかりにぱたぱたぱたと足音を響かせて、私のもとへ走ってきた。
神社の巫女さんが着ているような、紅い袴と白い着物を着た子だった。
「神社の子?」
鳥居の奥にあるはずの御橋神社のほうを指さしてみせると、細い首が折れてしまいそうにこっくりと頷かれる。
「お父さんか、お母さんは?」
少女は少し悲しそうな顔になって、黒髪をさらさらと揺らして首を横に振った。
(お仕事中なのか、そもそもいないのか……なんにせよこんな小さな子に、根掘り葉掘り聞くことはないか……)
少女が私の隣にしゃがみこんで、真似をして草むしりを始めたので、着物の袖が地面につかないようにたくし上げてやる。お婆さんに貸してもらった麦わら帽子を被せてやると、ぱあっと笑顔になった。
(本当にお人形みたいに可愛い子だな……)
しばらく二人で草むしりをしていたが、お昼が近くなったこともあり、いったん作業を中断する。
「喉が渇いたよね……何か飲む?」
営業所隣に置かれた自動販売機へ向かうと、少女もぱたぱたとついてきた。
子供の目線では並んでいる商品が見えないので、脇を持って抱き上げてやる。
想像していた以上に軽くて、まるで本当に人形を抱きかかえているかのようだった。
「どれがいいかな?」
少女が指さした小さなオレンジジュースのペットボトルを私も選んで、並んで営業所の入り口の段差に腰を下ろす。
キャップが開けられなくて少女が悪戦苦闘していたので、開けて手渡してやると、少女はすぐに飲み口に口をつけ、嬉しそうな笑顔になった。
「おいしい?」
問いかけには頷くので、意思の疎通はできているが、少女は言葉を話さない。
これぐらいの年齢の子どもが、どれぐらい会話ができるのかに私は詳しくないのでなんとも言えないが、あまりおしゃべりなほうでないのはまちがいない。
小さな喉をこくこくと鳴らしてジュースを飲んでいた少女が、飲み終わって私の隣で立ち上がったので、ちょうど同じ目線になった大きな目を見つめて、私は言った。
「そろそろお昼ご飯だから、お家に帰ったほうがいいんじゃないかな? お家の人が捜してるかもよ?」
少女は長い睫毛をぱちぱちと瞬かせて、神社の鳥居のほうをふり返った。
少女の黒髪を巻き上げて、さあっと一陣の風が吹き、鳥居の下を潜り抜けて行ったような気がした。
(え……?)
私が瞬きする間に、少女がまた私のほうを向く。
「うん……」
可愛らしい声で深々と頷くので、私はカラになったペットボトルをその手から取ってあげた。
「またね。ええと……」
少女の名前を知らないので、なんと呼びかけていいのか困っていると、少女が再び口を開く。
「みや……」
小さな声で名前らしきものを伝えてくれたので、私は笑顔で言い直した。
「またね、みやちゃん」
少女はぱあっと笑顔になって、麦わら帽子を脱いで私に返すと、鳥居の向こうへ帰っていく。
途中何度もこちらをふり返って、手を振っていく仕草が愛らしかった。
その姿が見えなくなるまで見送って、私も腰を上げる。
「ひとまずアパートに帰って、必要なものを取ってこようかな……」
ここに住むか、営業のある日だけ街から通うか迷っていたのだが、草むしりをしているうちに自然と、ここで住むほうに気持ちが傾いていた。
コンビニもないし、人は少ないし、利便性には欠けるが、このゆったりとした時間の流れは嫌いじゃない。
一度会ったらもう身内のような、気持ちのかけあい方も――。
みやちゃんから返された焼き芋のお婆さんの帽子を手に、私は営業所横の空地に停めてある車へ向かった。
「みやちゃんとも、『またね』って約束したしね……」
街の中心にあるアパートへといったん帰る道は、山の上の営業所へ飛ばされたと怒り半分で来た往路より、目に映る木々も鮮やかで、心が浮き立つようだった。
「それで? 結局ここに住むことにしたのか?」
夕刻――。
熱々の湯気を上げる鍋を卓袱台で囲みながら、クロが私に鋭い目を向ける。
柔らかな豆腐を箸で掴もうと悪戦苦闘しながら、私は少し唇を尖らせた。
「だって、せっかく週の半分が休みでも、アパートに一人でいたら寝るぐらいしかすることないし……」
「お前な……」
クロは呆れたように何かを言いかけたが、シロが明るい声でそれを遮る。
「あ! 瑞穂ちゃん、庭の掃除してくれたんだよね。すごい綺麗になってた! ありがとー」
「あ……うん」
率直なお礼に気分が良くなって、私は少し胸を張りながらクロを見返した。
クロはふんっと私から顔を逸らし、鍋へ視線を落とす。
「ご飯もさー、二人で食べるより三人のほうが賑やかでいいよね。クロも作り甲斐があるでしょ?」
無言で白菜を口へと運ぶクロを横目に見ながら、シロは大きく口を開けてにかっと笑う。
「夏も近くなって鍋っていうのは、ちょっと驚いたけど……」
「ご、ごめんね!」
あまり深く考えずそのメニューをリクエストした身としては、肩身が狭い。
「明日は素麺なんてどうかな?」
「早すぎるだろ、馬鹿」
シロとクロのやり取りを聞きながら、私も食事を続けた。
「午後からは荷物を取りにアパートに帰ったけど、午前中草むしりをしてる時もいろんな人に会ったよ」
私の話を聞きながし、次々と鍋からお肉を取っていたシロの箸が、次の瞬間ぴたりと止まる。
「昨日宅配を頼みに来たお婆ちゃんでしょ……それから『みや』ちゃん」
「みや……ちゃん……?」
訝るように目を向けられたので、私は簡単に説明をした。
「まだ小学校にいかないくらいの小さな女の子……私が草むしりするのを鳥居の向こうからずっと見てて……呼んだら来たんで、それから一緒に作業したの」
「ねえ! それって……」
がばっと自分のほうを体ごとふり返ったシロを、クロが視線で制した。
それきり口を噤んでしまったシロと、黙りこんだままのクロの顔を、私は交互に見る。
「なに? みやちゃんがどうかしたの……?」
「いや、なんでもない」
クロはさっさと答えて、食事を再開したけれど、何も入っていないお皿を箸でかき回している。
シロのほうは、自分の取り皿にお肉を山盛り取ったのに、いつまでもじっと鍋を睨んでいる。
(へんなの……)
あからさまに態度のおかしくなった二人が気になって、せっかくの美味しいお鍋も魅力が半減したようだった。
翌日、朝八時に営業所へ行き、配送車が運んできたこの近辺の荷物を受け取り、配達を済ませてから十時に営業所を開店させると、待ってましたとばかりにガラガラガラと台車を押して、多香子さんがやってきた。
「瑞穂ちゃん、こんにちは。お疲れ様。今日の荷物はこれだけよ。代金はこれ。前回の領収書をくれる?」
他にお客もいないのだからゆっくりと順番に用を済ませればいいのに、多香子さんはせっせと台車から荷物を下ろし、カウンターの中の私に向かって右手をさし出す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね」
一昨日準備しておいた領収書を、そよ風宅配便の名前が入った封筒に入れ、手渡すと、多香子さんはいそいそとカウンターに背を向けた。
「じゃあまた明後日ね。今日のぶんの領収書はその時に! ありがとう」
ばたばたと営業所を出ていく多香子さんを見送るため、私も慌ててカウンターを出て、先に立って重たいガラス扉を押し開ける。
「ありがとうございました! またよろしくお願いします!」
大きく手を振って帰っていく多香子さんが置き去りにした荷物を、それから仕分けしてカウンターの中へ運び入れ、数を確認して伝票を整理し、売上帳に記入して領収書を書いた。
それらすべてを、街の営業所でやっていた時の三倍も時間をかけて、一つ一つ丁寧にやったのに、終わって壁に掛けられた時計を見てみたら、まだ十時半。
(三十分しか経ってないじゃない……)
時間の進みがあまりにも遅いことに絶望しながら、仕方がないので、棚の書類の整理をして、営業所内の掃除までやった。
(でもこれって、本来は営業時間中にやることじゃないわよね)
お昼になったのでお湯を沸かしてお茶を淹れ、クロが作ってくれたお弁当を食べる。
「いただきます」
自分とシロのぶんを作るついでだからと、出がけに渡されたが、楕円形の竹製のお弁当箱の蓋を開いてみると、彩りの美しさと栄養バランスの見事さに感嘆せずにはいられない。
(鰤の照り焼きとほうれん草のお浸し、卵焼き、きんぴら、ミニトマト、ゆかりご飯……)
ぴしっとスーツを着こなしたクロも、おしゃれな大学生のシロも、それぞれの昼の活動場所でこのお弁当を開いているのかと思うと笑いがこみ上げてくる。
(ぜったい料理男子って思われてるでしょ)
自分だけは、この綺麗で美味しそうなお弁当を、見せる相手がいないことを少し寂しく思いながら、私は全て食べ終えて、奥の小さな流し台でお弁当箱を洗い、乾かすまでしておいた。
(休憩時間と仕事時間の線引きが難しいな……)
することもないので、午後からも掃除を続け、そろそろやる場所もなくなったので屋外にまで手を伸ばそうかと思った頃、ようやくガラス扉の向こうに人影が映った。
「あ……」
昨日麦わら帽子を貸してくれたお婆さんだと思い当たり、急いでカウンターを出て、扉を開いてやる。
営業所内へ入って来たお婆さんは、今日は誰かへ送るための荷物は持参していなかったが、手提げ袋の中から大きな包みをとり出した。
「瑞穂ちゃん、これ。蒸しパンだけど、たくさん作ったからおすそ分け」
ラップに包んだ丸い蒸しパンをさし出されて、思わず手を叩いて喜んでしまった。
「やったあ! ありがとうございます!」
私に蒸しパンを手渡したお婆さんは、ニコニコしながら周囲を見まわしている。
壁際に並べた順番待ち用の椅子に目を止めたように見えたので、私は急いでカウンターを出て、椅子をもっと部屋の真ん中に移動してあげた。
「よかったらお茶でもどうですか? 今淹れますから」
流しの隣の棚に幾つもしまわれている湯呑みは、前任の田中さんもそういう使い方をしていたのだろうと勝手に解釈する。
「ありがとう」
椅子にちょこんと座ったお婆さんは、背が低すぎてカウンターの向こうに見えなくなってしまったので、私もカウンターを出て、お婆さんの横に椅子を並べて座ることにした。
ガラス扉越しに参道の風景を見ながら、のんびりと二人でお茶を飲む。
午前中にガラスをピカピカに磨いておいてよかったと思った。参拝客が御橋神社へ向かって歩いている光景がよく見える。
「お参りの人、多いですね」
「有名なお宮じゃけえね」
年配の団体客や着物姿の男女。制服姿の若い子たちは修学旅行だろうか。
土産物屋や甘味処、食堂や足湯などは人で賑わっているが、参道沿いにあるというのに、宅配便の出張所はさっぱりだ。
「お客さん来ないな」
思わず声に出して呟くと、お婆さんはふぉふぉふぉと笑った。
「庄吉さんもよくそう言っちょった」
「やっぱりですか?」
思わず一緒に笑った時、ガラス扉の端から見たことのある顔がぬっと現れた。黒髪の女の子で、私と目があうと慌てておかっぱの頭が引っ込む。
私は急いで椅子を立ち、扉に駆け寄って呼びかけた。
「みやちゃん!」
慌てて建物の陰に隠れかけていた少女は、私が扉を開いて呼びかけると足を止める。
うかがうような目でふり返るので、私はなるべく笑顔を心がけて、少女を手招きした。
「遊びに来たの? おいで、蒸しパンがあるよ」
少女はぱあっと顔を輝かせて、ぱたぱたと足音をたてて駆け寄ってくる。
腕に抱き上げて出張所の中へ連れて帰ると、お婆さんが目をまん丸に見開いていた。
「あれまあ……瑞穂ちゃん、みや様と知りあっちょったの……?」
少女は私の腕の中で体を捻って、お婆さんに手を振る。
「千代!」
それでお婆さんの名前は千代さんというのだと、初めて知った。
みやちゃんをカウンターの中へ連れていって手を洗わせてから、私がさっきまで座っていた椅子に座らせる。千代さんから蒸しパンを受け取ったみやちゃんは、可愛らしいお口を大きく開けて噛みつき、とても嬉しそうだ。
もう一つ椅子を出してきて、千代さんと私でみやちゃんを挟む並びになって、しばらく一緒にお茶を飲んだり蒸しパンを食べたり、参道を眺めたりした。
千代さんが帰る時、みやちゃんも一緒に帰っていったのだが、みやちゃんの手を引きながら千代さんが、私にふり返って言った。
「みや様と仲良くなったんなら、瑞穂ちゃん。暇だと言ってられるのも今のうちだけじゃよ」
「え?」
どういう意味だと聞き返すことはできなかった。
私が返した麦わら帽子を片手に、反対の手にはみやちゃんの手を引いて、千代さんは神社のほうへ帰っていった。
結局その日も、山の上出張所を訪れた人物は多香子さんと千代さんとみやちゃんだけだった。
しかも千代さんとみやちゃんは、暇な私につきあってお茶を飲んでいっただけなので、ちゃんとしたお客さんとしては多香子さんだけということになる。
(これって本当に大丈夫なのかな? ……営業所の存続に関わるのでは?)
壁に掛けられた時計が午後四時半を過ぎると、のんびりと閉店準備をし、ガラス扉に鍵をかけた。
カウンターの中で事務作業をしているうちに、カウンターの入り口がある壁とは逆の壁に、昼間はなかったドアがいつの間にか姿を現わしている。
「しまった……いつ出てくるのか、見張ってようと思ってたのに……」
カウンターを出て、扉の前に立ってみる。なんの変哲もない、ごく普通の扉だ。
(だから一昨日、警戒もなく開けちゃったんだよね……)
果たして今日はどうしたものかと、扉の前で腕組みして考える。
(開けたらやっぱり、あの不思議な部屋に繋がってるのかな……確か『狭間の時間の宅配屋』って、シロくんは言ってたよね……)
少し悩んだ末に、ドアノブを掴んで回してみる。扉はあっさりと開き、一歩を踏み出すと全身を膜のようなものに包まれた感覚があった。
(…………)
何度経験しても、あまり気持ちのいいものではない。ぎゅっと固く目を瞑っているので周囲の状況は見えないが、音だけは一足先に私の耳に飛びこんできた。
「あーっ、やっと来たぁ」
「遅いぞ、瑞穂」
シロの嬉しそうな声と、クロの不機嫌な声、その背後でがやがやと響くたくさんの声。
目を開けてみると、年代物の古いカウンターの中で着物姿のシロとクロが働いており、店舗側ではいろいろな形をした来店客たちがひしめきあっていた。その列は扉の外まで続いている。
(きゃああああ!)
異形の利用客へ目を向けると、背筋がぞわぞわして悲鳴を上げそうになるので、カウンターの中のシロとクロを見ながら足を進める。
しかしなかなかに、私を見るクロの目は鋭い。
「さっさと荷物を奥へ運べ。置き場がなくて仕事の効率が悪い」
「はっ、はいっ!」
慌ててカウンターの中へ入り、うず高く積まれた荷物を奥へ運び始める私に、シロが申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。
「ごめんね、瑞穂ちゃん。女の子なのに力仕事任せちゃって……」
「ううん」
「気にしなくていいよ」とシロに伝えたかったのに、クロに「それしかできないんだから仕方ないだろ」と言い放たれると腹が立つ。
(むっ……)
こちらをふり返りもしない黒い大きな背中を睨みながら、私は荷物を運んだ。
昼間、彼が作ってくれたお弁当にたいへん感謝したことは、ひとまず意識から追い払っておく。
昼間の宅配便出張所とは真逆に、いつまで経っても来店客が途切れることはなかった。
(うらやましいような……ここまで忙しいのは、やっぱり望んでいないような……)
黙々と荷物を積んでいる私の耳に、珍しく少し困ったようなシロの声が聞こえてくる。
「ごめんね。それは預かれないんだ……」
配達を断ることもあるのだと思いながら、シロのほうをふり返ってみると、利用客がいるはずのカウンターの向こうに誰もいない。
「!?!?」
荷物を取りに行くついでに覗いてみると、背が低くて見えていないだけだった。
(びっくりした……)
みやちゃんより少し大きいくらいだろうか。目がくりくりした茶色い髪の可愛い少年が、涙目で必死に訴えている。
「お願いします! お願いします!」
困ったようにシロがクロのほうを向き、クロが黙ったまま首を横に振ったので、シロはもう一度少年に向かって謝った。
「ごめんね」
「次」
クロが冷たく言い放つと、少年の後ろに並んでいた大男が前に出て、少年は列からはじき出されてしまう。
(あっ!)
ぶつかられた拍子に少しよろめいて、落としそうになった荷物を大切に抱え直した様子に、私は憤りを感じた。
「ちょっと! クロさん……」
しかしまだ何も言葉にできないうちに、クロの声が重なる。
「口を開いている暇があるのなら、さっさと手のほうを動かせ、瑞穂」
(むむむ……)
私はきゅっと唇をひき結び、これまでよりもスピードを上げて荷物を運んだ。
その間に、男の子は列の後ろに並び直して、またシロくんに荷物の引き受けを頼んでいるけれど、何度も断られている。
(どうして……?)
怒りのあまり猛スピードで荷物を積み終え、少し余裕ができた私は、カウンターを出て、外の夕暮れ具合と、残りのお客の数を確認するふりをして、シロとクロからは死角になる場所に、男の子を手招きした。
涙に潤んだ瞳で私を見た男の子は、怪訝そうにしながらもこちらへやってくる。
「これを送りたいの?」
胸に大切に抱えている包みを指さして小声で尋ねると、細い首が折れてしまいそうにこっくりと頷いた。
私はカウンターの中から持ち出してきた木簡と印章をとり出して、見よう見まねで引き受けの手続きをしてみる。
(ここにお届け先の名前を書いて、ここに差出人の名前を書いて……)
筆など扱えないので、ボールペンでいいだろうかと危ぶみながら、少年に問いかける。
「僕のお名前は?」
少年は私の横にしゃがみこみ、小さな声で耳打ちした。
「豆太」
「まめたくん、と……」
漢字でどう書くのかまでは訊ねなかった。あやかしの子どもが私たちと同じ字を使っているのかわからないし、ひらがなでいいのかも不明だし、そもそも時間がない。
クロとシロに気づかれないうちに、なるべく早く引き受けてしまわなければいけない。
「誰に届けるの?」
少年は少し頬を緩めて、にっこりと笑った。
「じいちゃん」
「じいちゃん……」
さすがにそれではダメだろうと思いながら、もう一度訊ねてみる。
「じいちゃんのお名前は? わかる?」
「ん? 瑞穂……どこ行った?」
私がいないことに気づいたらしいクロの声がカウンターの向こうから聞こえてきて焦る。
木簡に先に割印を押して、少年が答えてくれた名前を急いで走り書きした。
「たなかしょうきち」
「たなかしょうきち」
問題は、私に指で木簡が切れるのかということだ。
指ですっと撫でてみたが、変化はなかった。
「おい、瑞穂?」
「瑞穂ちゃん?」
私を捜しに二人がカウンターから出てくる前にと念をこめて、もう一度指で線を引く。
やっぱり切れない。
(お願い!)
少年の縋るような眼差しをすぐ近くに感じながら、祈りをこめて指を動かすと、何をどうしてそうなったのか、木簡がぱかりと二つに切れた。
「あ……できた」
「いたいた瑞穂ちゃん、こんなところにって……ああ?」
「瑞穂、お前!」
ちょうど私を発見したシロとクロから庇うように、豆太くんを背中に隠し、小さな手に木簡の控えを握らせた。
「はい、確かにお引き受けしました」
「何をやったかわかってるのか? おい!」
すごい剣幕のクロから守るように、豆太くんを出入り口のほうへ押し出して、それからその場に立ち上がる。
「何をって……だから、宅配の引き受けを……」
「いったいいつの間に印を結べるように……そもそもあれは……」
もともと吊り気味の目を更に吊り上げて、大きな声で怒鳴るクロよりも大きな声で、その時シロが叫んだ。
「まずいよクロ! 日が暮れ終わる!」
その声に弾かれたようにふり返ったクロと共に、私が目を向けたガラス扉の向こうでは、確かに参道の風景が闇に染まり終わろうとしていた。
クロは大きなため息を吐いて頭を左右に振ると、声の大きさをいつものレベルに戻して、私の腕を掴み、壁へ向かって歩き始める。
「とにかく今は戻れ、瑞穂。話は家へ帰ってからだ」
「え? ……え」
山の上出張所へと続く扉を開けたクロに、背中をぐいぐいと押され、何も答えられないままに私は、狭間の時間の宅配屋から追い出される。
「ちょ、ちょっと!」
ぼわっと体を膜に包まれ、次の瞬間には、何もない白い壁に向かって叫んでいた。
「なんだっていうのよ!」
誰もいない店内に、響く声が虚しい。
気がつけば私は、すっかり暗くなった宅配便出張所の店内に、一人で佇んでいた。
「あ……」
頭では理解しているつもりだが、あちらの世界とこちらの世界の間にあるという狭間の宅配屋の営業時間は、日が沈み始めてから沈み終わるまでの間だけ。
その時間を過ぎるとこちらの世界へ帰れなくなるそうで、それを回避すべく、クロとシロが私を返してくれたことは理解できるが、突然気持ちを切り替えるのは難しい。
『話は家へ帰ってからだ』
最後にクロが言っていた言葉を思い出すと、出張所裏の社宅へも帰りたくなくなる。
(嫌だな……街のアパートに帰ろうかな……)
そうは思っても、どうしてあそこまでクロが怒ったのかも気になり、理由を知るためには、やはり社宅へ帰るしかない。
(嫌だな……怒られるんだろうな……)
憂鬱な気持ちながらも、お昼に美味しくいただいたクロの手作り弁当のカラになった容器を持って帰ることは、しっかりと忘れなかった。
(どうしよう……)
帰ろうと決意して出張所を出たものの、なかなか決心がつかなくて、私は社宅を前にしてもうかなりの時間立ち尽くしている。
中からは声が聞こえてくるし、なんだかいい匂いもしてきたので、クロとシロはとっくに帰り、夕食の支度も始めているのだろう。
(ええい、ままよ!)
勢いのままに玄関扉をガラガラと開き、「ただいま」と靴を脱いでいると、玄関から真っ直ぐ続く廊下に、シロが滑り出てくる。
「瑞穂ちゃん! よかった……ちゃんと帰って来た……」
その手に持っている菜箸と、白いエプロン姿を見て、今日は彼も夕食作りを手伝っているのだと察する。
「能天気狐、揚がってるぞ」
台所から聞こえてくるクロの声に、慌ててそちらへ帰りながら、シロは私に茶の間で待っているように指さした。
「もう少しで出来るから、手を洗って待っててね」
「うん、ありがとう」
言われるままに洗面所で手を洗い、台所と続き間になっている部屋に入ると、とてもいい匂いが充満している。
(今日は天ぷらか……)
ぱちぱちと油の跳ねるいい音と共に、シロは何度も私をふり返り、卓袱台を拭いてくれだの、箸を並べてくれだの手伝いを頼むが、隣に立つクロは一度もふり返らない。
調理台のほうを向いたままの背中が、やけに怖い。
(やっぱり怒ってる……)
できればその怒りの理由を先に聞きたかったが、天ぷらが冷めないうちにと、まずは夕食を食べることになった。
「いただきまーす!」
一人で元気にふるまっているシロが可哀相なので、私も「いただきます」と答えて白いご飯が山盛りになった茶碗を手に取ったが、クロはひと言もしゃべらない。
黙々と、シロと二人で作った夕食を口に運ぶ。
「………………」
山菜と根野菜の天ぷらに、卵とわかめのすまし汁。かぶの浅漬けと小魚の佃煮。
どれもほっぺたが落ちそうなほど美味しいのに、食卓には重い空気が漂う。
クロにつられたように私もシロも黙々と食べ続け、後片付けをし、配達へ向かう準備を始める段階になって、ようやくクロが重い口を開いた。
「瑞穂……お前、今日自分が何をしたかわかってるのか……?」
勝手なことをして叱られるとは重々承知していたので、私はクロの前に正座し、素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、勝手なことをして……でも豆太くんが可哀相で……」
私の言い分を聞いて、クロははあっと溜め息を吐く。
しかしここで怯んではいけない。
「どうして彼の荷物は引き受けてあげなかったんですか? 子供だから? 支払いができないとか?」
そもそも他の来店客も、代金らしいものを支払っているところを見たことはないのだが、いったいどういうシステムになっているのだろうと思いながら問いかけると、それ以上言うなとばかりに、クロが私の顔の前で大きな手を広げた。
「違う。あれは俺たちの管轄外の荷物だったからだ」
「管轄外?」
首を傾げた私の隣に、シロが座る。
私の顔を覗きこむようにして、紅い縁の眼鏡越しに問いかけてくる。
「俺たちが引き受けているのは、あやかしの荷物だってことはわかってるよね? あやかしからあやかし宛ての……」
「うん、もちろん……」
それがどうしたのだろうと頷きながら、私ははっとした。
「ああっ!」
豆太くんが宛先の名前を言った時に、どこかで聞いたような気はしたのだ。
しかしクロとシロに見つかる前にと、とにかく焦っており、聞いたままに木簡にボールペンで走り書きした。
「田中庄吉……」
山の上出張所の前任者の名前を、豆太くんは確かに口にした。
「あれ……あやかし宛てじゃなかったんだ……」
呆けたように呟く私から、クロがぷいっと顔を逸らす。
「だから断わっていたのに、お前が勝手に……」
これは思っていた以上にたいへんな事態ではないかと、私は必死に頭を下げた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
クロが私の前から立ち上がった気配がする。
「引き受けてしまったものは仕方がない。お前がどうにかしろ」
「え……?」
思いがけない言葉に驚いて、顔を上げてみると、もうさっさと玄関へ向かっている。
「俺たちは俺たちの仕事をやる。引き受けたあやかし宛ての荷物を、今夜中に配り終えなくちゃならない。明日も仕事だからな」
シロも私の肩をぽんと叩いて「ごめんね」と小さく呟くと、クロのあとを追って立ち上がる。
「人間宛ての荷物は、人間の宅配業者のお前がどうにかしろ。幸い明日は定休日だろ」
そう言い残すと、玄関扉を開けて出て行ったクロに何も言い返すことはできなかった。
「じゃあ、これ……」
申し訳なさそうにしながらも、私が豆太くんから預かった荷物を私に渡し、シロもクロのあとを追って出て行った。
「そんなあ……」
カラカラと軽い音のする小さな荷物を抱きかかえて、私はその場で彼らを見送った。
その夜、彼らが何時ごろ仕事を終えて帰ってきたのかを私は知らない。
茶の間で豆太くんの荷物を抱えたまま、途方に暮れた私は、どうやら眠ってしまったらしく、気が付くと翌日の朝だった。
「――――!」
初日の夜に続き、自分に割り当ててもらった部屋に帰らず居間で寝てしまったことに焦って飛び起きたが、今回は服装が変わっていることもなかった。
そよかぜ宅配便の制服のままだ。
「ああ……着替えさせてもどうせまた、その服に着替えなくちゃならないだろうと思ってほっといた」
涼しい顔で厭味を言うクロは、朝からきっちりと髪形も決まっている。
自分が作った朝食をさっさと食べ終わると、スーツ姿にネクタイをびしっと締めたビジネスマンスタイルになって、早々に家を出ていく。
「シロ……今日は何限からだ?」
「昼からだよ」
「弁当の残りのおかずがそこにあるから、昼に瑞穂と食べろ。定時には帰れるはずだから、買い物は俺がしてくる」
「はーい」
シロにだけ言いたいことを言うと、さっさと行ってしまった。
今日はのんびり朝ご飯を食べていていいらしいシロと、私はクロが作ってくれたご飯をいただく。
「今日も美味しいね」
「うん……」
ぽりぽりときゅうりの漬物を噛んでいる私に、シロが視線を向けた。
「瑞穂ちゃんさ……豆太の荷物、どうやって運ぶつもり?」
昨晩ぼんやりと考えた答えを、私はシロに話す。
「私の車で……しかないよね。シロくんやクロさんみたいに空は飛べないし……」
「いや、そうじゃなくて……」
シロは私が脇に置いている豆太くんの荷物を箸で指さした。
「届け先、わからないでしょ?」
「え?」
言われて、まじまじとそのニ十センチ四方の荷物を見直して、初めて気が付く。一般的な宅配便の伝票替わりであろう木簡には、確かに宛先の名前しか書かれていない。
私は昨日、豆太くんにそれしか聞かなかったし、それしか木簡に書かなった。住所を書く欄などなかったからだ。
「しまった! やっぱり住所も聞くんだった? でも書くところが……」
頭を抱える私を見て、シロは明るくはははと笑った。
「ううん、普通は名前だけでいいよ。あやかしからあやかし宛ての場合はね。俺たちは住所を頼りに配達に行くんじゃないから」
「そ、そうなんだ……」
だったらどうやって行くのだろうと訝りながらも、私はひとまず頷く。
「うん。でも昼間の宅配便は違うでしょ? 住所を書いてもらって、それに従って行くんだよね?」
「うん。どうしよう……」
茶碗と箸をいったん置いて、豆太くんの荷物を膝に抱え上げ、私は必死に知恵を絞った。
「幸い、山の上出張所で私の前に働いていた人みたいだから、お家を千代さんに教えてもらうか、多香子さんに教えてもらうか……わかるのかな?」
場合によっては雅司に連絡して、職員名簿を当たってもらうことになるかもしれないと思っていると、シロが卓袱台の向こうから身を乗り出して、私の顔を覗きこんだ。
「俺が一緒について行こうか?」
「え……?」
それで田中庄吉さんの住所がわかるのかと、私は疑問に思ったが、シロはもう決定したとばかりに自分の座布団に座り直し、食事を続ける。
「狭間の時間の宅配屋として行くんじゃないから、姿は変えられないし、空も飛べないけど、道案内くらいはできるよ」
自信たっぷりのその顔に、私は賭けてみることにした。
「じゃあ、お願いしようかな……」
「うん、任しといて!」
ひとまずクロが作ってくれた朝食を食べ、その後片付けをしてから、私たちは豆太くんの荷物を配達に出た。
私の軽自動車の助手席に乗りこんだシロは、シートベルトを締めながら明るく笑う。
「よし、出発進行ー!」
仕事の時の和装ではなく、細身のダメージジーンズに丈の長いシャツ姿の彼は、同じ年ぐらいの若い男の子にしか見えなくて、普段は感じたことのない緊張を覚える。
「う、うん……」
頬杖を突きながら窓の外を眺めている横顔には、白狐の姿になっている時の面影など微塵もなかった。そう思うと、ますます緊張が増す。
「田中庄吉さんねー」
ふいに話しかけられて、思わず声が裏返った。
「ふぁい?」
「ぶっ、何その声?」
ふき出されて我に返った。こんなことでは事故を起こしてしまうと、私は頭を左右に振って気持ちを切り替え、ハンドルを握り直す。
「たまに出張所の裏の家にも来ることがあってね……だから気配を追えると思うんだけど……」
「……そうなんだ」
『気配』というのがどういうものなのか私にはわからないが、だからシロは出かける前に念入りに作った髪形がぐしゃぐしゃになるのも構わず、車の窓を開けて外をうかがっているのだと察する。
「あやかしって、いろんなことが出来ていいね……」
あまり気の利かない褒め言葉だとは自分でも思ったが、シロが私の賞賛を喜ぶことはなく、ずっと窓の外へ目を向けている。
「そうでもないよ。人間のほうがよっぽど……」
言いかけてはっとしたように口を噤み、それから急に話題を変えた。
「クロはさ……人間とあやかしが関わるのをあまりよく思っていないんだ。お互いのためにならないって……豆太に厳しくしたのはそういうわけだから、大目に見てやって……」
「うん……」
頷きながらふと気になって、訊ねてみた。
「シロくんは? やっぱりあやかしと人間はあまり関わらないほうがいいと思ってるの?」
「……俺?」
訊ねられたのが意外とばかりに形のいい眉を片方上げて、シロは苦笑いの表情になった。
「俺の場合は、それを否定すると自分の存在を否定することになっちゃうからなぁ……」
「え?」
いったいどういう意味だろうと、思わず彼のほうへ顔を向けてしまった私に、シロは慌てて前方を指さした。
「前! 前見て運転して、瑞穂ちゃん!」
「う、うん」
若干道の端に傾きかけていた進行方向を、私は急いで道路の中心へと修正した。
ほっと溜め息を吐いたシロが、明るい声で語る。
「俺は、学校の友だちと楽しく騒ぐ程度には、人間と仲良くやってるよ」
街でその友人たちと偶然遭遇した時の、シロの様子を思い出し、私はなぜだかほっと胸を撫で下ろす。
「そうか。そうだよね……」
「うん」
声音は明るかったけれど、シロがこの時本当に笑っていたのかは疑問だったし、出来れば顔を見て確かめたかった。
しかしそう何度もよそ見運転で注意されるわけにもいかない。
(大丈夫……だよね……?)
その不安が、予感めいた虫の知らせだったということを私が知るのは、もっと後のことになる――。
「瑞穂ちゃん、そこ。その狭い道を登って」
「はい」
「次は左。道沿いに進んで、右」
「…………はい」
シロの案内に従って車を走らせ、出発してからもうどれほどの時間が経ったのだろう。
軽く一時間を越えたことは確かだ。その間に山を一つ下り、別の山を登って更に下った。
出た先は、私がこれまで来たことのない集落であり、一人で帰れと言われても山の上出張所まで帰れる気がしないほど、複雑に入り組んだ山道を辿ってきた。
「あのう……シロくん……」
本当に田中庄吉さんの家へ向かえているのかと、緑が濃くなったり、県境を越えたり戻ったりするたびに私が尋ねているので、シロもすっかり慣れてしまっている。
先回りして答えられる。
「大丈夫! 合ってる! きっともうすぐ見えてくるはずだから……ほら! 見えた!」
彼が指さす先には、住宅なのか作業小屋なのか判断に困るような、いかにも手作りふうの小さな建物が建っていた。山の斜面を切り開いて建てられており、玄関へ向かうには、かなり急な角度のスロープを登らなければならない。
(私の車で登れるかな……?)
不安だったので車は道路脇に止め、歩いて坂道を登った。
玄関の前には軽トラックが停めてあり、確かにこれならば急な坂道も平気だろうと感嘆する。
「ごめんくださーい」
ガラス製の引き戸に向かって声をかけると、違うほうから声がした。
「はーい」
コの字型の建物の反対側から、小さな籠を手に持った老人が歩いてくる。
大きな麦わら帽子を被って、首にタオルをかけた老人は、私の制服を見ると目尻を下げて笑った。
「あー、そよ風宅配便の社員さんやねー、わしの代わりに来てくれた……」
少し腰の曲がった田中さんに、私のほうからも歩み寄った。
「後任の芦原です。はじめまして」
「はじめまして。よろしくお願いしますねー」
タオルで汗を拭いている田中さんに促されるまま、私もシロも日当たりのいい縁側に座る。
「何もないけんど……」
そう言いながら田中さんは縁側から家へ入り、何度も行ったり来たりしながら、お茶やお菓子や漬物を運んでくれる。
「あの、どうぞ、お構いなく……私たち、荷物を届けに来ただけなんで……」
そう言っても「いいから、いいから」とお茶を勧めてくれる田中さんは、この家に一人暮らしで、時々お茶を飲みに来る近所の人以外は、話し相手もいないのだという。
「定年過ぎても出張所で働かせてもらえたおかげで、寂しいと思ったことなぞ今までなかったけどね……腰を痛めたから……いたた、さすがにもう潮時やな」
「そうだったんですか……」
「あ! 俺が持ちますよ」
シロは腰をさする田中さんの横に付き添い、いろいろなものを運ぶ手伝いをしている。
その気遣いが、いかにも今風な彼の風貌とちぐはぐで、私は心があったかくなりながら、それより温かい出されたばかりのお茶に手をつける。
「……おいしい!」
「だろ? わしが手揉みした茶じゃけんね」
「手揉み?」
田中さんが視線で示した先を見てみると、向かいあった建物の入り口で、ざるに緑の葉っぱが山盛りになっていた。
「お茶、米、里芋、玉葱……今の季節は、きゅうりとへちまも……」
さまざまな箱やかごやざるに盛られた農作物を指さしながら、指折り数える田中さんに、私は驚きの思いで問いかける。
「そんなに作ってるんですか?」
「そうよ、もう何十年も作っとる」
誇らしげに胸を張る田中さんは、逆に私に尋ねた。
「それで……? なんか荷物をだったけ?」
「あ……!」
危うく、仕事で訪問したことを忘れてしまいそうになったことを反省しながら、私は豆太くんから預かった小さな包みを、田中さんに手渡した。
「これです」
長くそよ風宅配便で働いていた大先輩なので、伝票を貼っていないことを怪しまれるかと思ったが、そういうことはなかった。持ち上げた時にからからと小さな音がしたので、思い当たることがあったらしく、田中さんの皺深い顔が喜びに輝く。
「ひょっとして……!」
田中さんが大切そうに膝の上で開けた小箱の中身は、大きなさつまいもだった。それから綺麗な色の木の葉が数枚と、どんぐり。
「豆太が……あの子が頼んだんか?」
「え……はい」
田中さんが豆太くんのことをどういうふうに解釈しているのかわからないので、私は曖昧に頷いた。
田中さんはとても嬉しそうな顔で、てのひらに載せたどんぐりを見つめる。
「わしが営業所で暇をしとると、よく遊びに来てな……葉っぱやら、木の実やらいっぱい集めて、遊んどるのは変わらんみたいじゃな……豆太は元気かい?」
「はい」
田中さんはほっとしたように笑って、それから大きなさつまいもを手に取る。
「芋を持ってきたら、千代さんが焼き芋にしてくれるのを、喜んでの……わしに送ってきても、焼き芋にはできんぞ、豆太、ははは」
その時の豆太くんの姿を頭に思い描いたのか、懐かしそうに――けれど寂しそうに、笑った田中さんは次の瞬間、縁側で立ち上がって、また家の奥へ向かう。
「そうじゃ……」
田中さんが家の中から持ってきたのは、綺麗な洋菓子の箱だった。
「都会に住んどる息子が送ってきての……一人じゃどうせ食べきれんけえ……」
個包装された焼き菓子を次々と取り出して、私とシロの手に載せる。
「食べていきんしゃい。そして、豆太や千代さんにも持っていってほしいんじゃが……」
田中さんがちらりと私の制服を見るので、それは宅配便として仕事で引き受けるべきなのかと一瞬頭をよぎったが、私が口を開く前に、シロがさっさと引き受けてしまった。
「いいですよ! 今度豆太が遊びに来たら、渡します。瑞穂ちゃん、千代さんに渡せる?」
「あ、たぶん明日も来ると思うから……」
私が出張所で暇を持て余していると、千代さんは必ず顔を出して話し相手になってくれるのだ。その際いつも、田中さんが残していったと思われる道具でお茶を飲んでいることに思い当たり、私は慌てて田中さんへ向き直った。
「そういえば、出張所のお茶セットお借りしてます。いつも助かってます」
「そうかい、そうかい。じゃあこれも持っていって千代さんと飲みんしゃい」
田中さんは手揉みだというお茶も一缶くれ、これもこれもと野菜を私の車に積んでくれた。
「こんなにたくさん新鮮な野菜が……きっとクロが喜ぶね」
「うん、そうだね」
シロと笑いあって、田中さんに何度もお礼を言う。
「本当にありがとうございました。こんなにお土産をいただいて……」
「なんの! 遠いところを来てくれたけんね。またいつでも遊びに……」
そう言いかけて、田中さんは言葉を切った。
「いや、なんでもない……豆太と千代さんによろしく。出張所の仕事、ほどほどにがんばってなー」
「はい。ありがとうございました」
道まで出て手を振る田中さんに見送られ、私とシロは帰路についたが、車が見えなくなるまでずっと見送ってくれている田中さんの姿が印象的だった。
「喜んでもらえてよかったね」
「そうだね」
来る時よりも言葉数が少なくなったシロと二人、山の上の出張所までの長い道のりを帰った。
翌日。
いつものように出張所を開店する準備をしたが、体が重かった。
「あいたたたた」
昨日往復四時間もかけて、田中さんの家へ行き来した間、ずっと車のハンドルを握りっぱなしだったことがいけなかったのかもしれない。
家へ帰るとすぐに昼食を食べて、大学へと行ったシロを見送り、私自身はずっと午後からだらだらしていたのに、疲労は抜けなかった。
もちろん、そんなことを態度に出そうものなら、「余計なことをするからだ」とクロに冷たい目を向けられるとわかっていたので、昨夜も今朝も必要以上に溌溂と、元気にふるまった。そのツケを感じる。
「もう今日は、ここでずっと座ってていいかな……」
回転椅子に座って机に突っ伏していると、いつものように多香子さんがやって来た。
「あらー、今日は朝からお疲れ? 休みの日に遊びすぎちゃったんじゃないのー?」
押してきた台車からテキパキと荷物を下ろして、代金の入った封筒をさし出す多香子さんに、私は慌てて椅子から立ち上がり、準備していた領収書を渡す。
「遊びじゃないんですけど、ちょっと前任の田中さんのお家へ車で行ったら、思っていた以上に遠くて……」
「ええっ!? 田中のお爺ちゃんの家へ行ったの? それはくたびれ果てるはずだわ……」
多香子さんは驚いたように目を見開いて、それからすぐ同情するような顔になる。
「すごーく遠かったでしょ?」
「はい」
「でも田中のお爺ちゃんは、毎日あそこからここまで通ってたのよ」
「そ……うなんですか……」
聞き取りやすいはっきりとした声で、多香子さんは朗々と語る。
「ええ。出張所の裏の家も掃除はしてたみたいだから、いっそそこに住んだらって何度も言ったんだけど、自宅のお仏壇を放っておけないからってね……十年前くらいに、奥さんが亡くなったから……毎日お線香を上げて、自分が食べるのと同じ料理を供えて、まだ一緒に暮らしてる気分なんだって言われたら、もう何も言えないわよね……」
「そうですね……」
まるで自分のことのように胸が痛み、自然とうつむきがちになる私の肩をバシンと叩いて、多香子さんはガラス扉を押し開けた。
「訪ねて行ったら喜んだでしょう? また行くことがあったら、私からもよろしくって伝えておいてね、じゃあ!」
忙しく店を出ていく多香子さんを見送り、私は昨日の帰り道に感じたような、寂しさをまた感じていた。
午後になると、いつものように千代さんがやって来た。今日は都会に住むという娘さん宛ての荷物を持っての来店だったので、私はカウンターから出て、小さなダンボールをカートから下ろしてあげる。
「ええ、庄吉さんの家に行ったの……それは喜んだじゃろうねぇ」
多香子さんと同じことを言って、千代さんは私が準備した椅子に座る。
「これ、田中さんから千代さんにって預かってきました。お菓子です。手揉みのお茶ももらったから、今日はそれを淹れますね」
「庄吉さんのお茶がまた飲めるとは嬉しいねぇ……甘くて美味しいんじゃよね」
「そうですよね」
二人でお茶の準備をしていると、ガラス扉に小さな人影が映った。みやちゃんだ。
「いらっしゃい、みやちゃん」
扉を開けてやると、ぴょこんとお辞儀をして出張所へ入ってくる。
千代さんの隣に置いた椅子によじ登って座ったので、みやちゃんにも田中さんのお菓子をわけてあげた。
「はい、みやちゃんもどうぞ。田中のお爺ちゃんのことは知ってるんだっけ?」
千代さんに負けないくらい頻繁に顔を出してくれるので、てっきり前任の田中さんのことも知っているのかと思っていたら、肩までの黒髪をさらさらと揺らして首を横に振られた。
「ううん、知らない」
「そうじゃったの?」
千代さんに聞き返されて、今度はこっくりと頷いている。
「うん」
みやちゃんが焼き菓子を袋から出して、食べる手伝いをしてやりながら、千代さんが顔を近づけて、小さな声で訊いている。
「さては、みや様……瑞穂ちゃんのことは呼びなさったな……?」
みやちゃんは、まるで悪戯を見つかったかのように笑う。
「へへ」
同じような顔をして千代さんも笑っていたので、私は聞こえてしまった二人の会話を聞かなかったふりをしてお茶を淹れていたが、本当は気になっていた。
(呼ばれた? 私が? みやちゃんに……?)
そのあと二人は何食わぬ顔をして、美味しい美味しいとお茶とお菓子を楽しんでいたので、私も特に尋ねはしなかったが、心にひっかかった。
夜になり、いつものように閉店準備を終えると、私は意を決して壁に突然現れた扉を開く。
残念ながら今日も、扉が出来る瞬間は見逃してしまった。
日暮れが近づいたあたりから、目を離さずにずっと何もない白壁を見つめていたはずなのに、気がついたらそのど真ん中に扉が出現している。
(いったいいつ……まさか瞬きしている間にとか? それじゃいつまでも『その瞬間』は見れっこないよ……)
残念に思いながらも、田中さんから預かった豆太くん宛てのお菓子は忘れなかった。
(今日来てくれるかはわからないけれど……)
扉を押し開けて踏みこんだ先は、薄暗くなった木造建築の宅配屋で、クロからの声が飛ぶ前に、私は急いでカウンターの中に走りこむ。
「おっ、瑞穂ちゃん。今日は早いね」
シロはにかっと笑いかけてくれたが、クロは何も言わなかった。黙ったまま私に近づいてくる。
「え、なに……」
特に怒られることはしていないはずなのに、思わず及び腰になってしまうのは、忙しさのせいなのか、クロの全身からピリピリとした雰囲気が感じられるからに他ならない。
表情の変化に乏しいので、感情の移り変わりもわかりづらいが、少なくとも料理を作っている最中はもっと機嫌がいいと、一緒に暮らしている私は知っている。
クロは長い前髪のせいで片方しか見えていない目を光らせて、私に木簡と印章をさし出した。
「代われ、瑞穂。この間は勝手にできたんだ。もう受付のほうもできるだろう」
「あっ、そうか。そうだね」
シロは明るく言っているが、クロは私の返事を待ちもしない。さっさと奥へ行き、先日まで私がやっていた荷物を積む作業のほうを始める。
「え? できるかな……」
不安に思いながら窓口に立つと、クロがこの場所から逃げ出したかった理由がわかった気がした。
「えー、クロ様行っちゃうのー」
残念そうな声を上げる首の長い女性や、残念そうに俯く目鼻口のない女性。
「ほ? 宗主様!? まだ私めの話は終わっておりませんぞ?」
烏天狗の姿になった時のクロと同じように、背中に黒い翼、頭に四角い帽子のようなものを乗せた、限りなく鳥に近い顔をした背の低い男性。
クロが担当していた窓口には、単純に宅配を頼みに来ただけではないような客ばかり並んでいる。
「宗主様って?」
シロくんに尋ねると、眼鏡越しににかっと笑われた。
「んー、クロのあだ名みないなもの?」
「……そうなんだ」
多少納得できない思いを残しながらも、私はクロが丸投げしていったお客さんを受け付けることにした。
「いらっしゃいませ」
首の長い女性は、いかにも不満そうに私へ荷物を手渡す。
「あんた、誰?」
迫力に怯みそうになりながらも、私は営業スマイルで頭を下げる。
「芦原瑞穂です。よろしくお願いします」
「ふーん、私は真理恵。そう書いてね」
真っ赤に塗られた爪で、とんとんと木簡をつつかれるので、下のほうにとりあえずひらがなで書き入れる。もちろん筆などすぐには使えないので、昼間の出張所から持ってきたボールペンだ。
「まりえさん……あの、苗字は?」
おそるおそる訊ねると、呆れたように首を伸ばされた。
「はあっ? あやかしに苗字なんてあるわけないでしょ。届け先は紀理恵。私の姉。ねえ、あんた大丈夫? ちゃんと届くんでしょうね?」
長すぎる首がカウンターを越えて、今にも私の首に巻きつきそうにとぐろを巻き、綺麗にメイクされた真理恵さんの顔が私の顔のすぐ前に迫る。
「届けるのは俺とクロだから大丈夫だよ、真理恵ちゃん」
シロが横から答えてくれると、真理恵さんの首はしゅるっと短くなった。
「あ、はい。じゃあ、よろしくお願いしまーす」
すっかりしおらしくなった真理恵さんと、そのお姉さんだという紀理恵さんの名前を書いた木簡に、私は印章を押してからすっと指で線を引いた。
これで失敗したらまた真理恵さんの首が伸びるのではないかとひやひやしたが、一発でぱかっと割れて安心する。
(よかった!)
長いほうを荷物に差し、短いほうを真理恵さんに渡すと、ようやく一つ目の荷物の引き受けが終わった。
「ありがとうございました」
「できたね」
隣からシロの声がして、ちゃんと見守ってくれていたことに感謝する。
「うん、ありがとう」
私の様子も見ながら、自分の仕事もしているシロの負担を少しでも減らせるように、同じ要領で、目鼻口のない女性の荷物も引き受けた。
次に並んでいたのは、クロと似た格好の小柄な男性で、私の前に立つと一気にまくしたて始める。
「なんじゃお主は? 人間の女子か? はっ、まさか宗主様をたぶらかそうと⁉ この伊助の目の黒いうちは、人間の女子など決して近づけ……」
カウンターからほぼ顔が出ていないのに、壁に向かって機関銃のように話しているのが面白くて、どちらかといえば私は笑いをこらえてその小柄な烏天狗の話を聞いていたのに、背後から鋭い声が飛ぶ。
「伊助! 荷物の依頼じゃないのなら今すぐ帰れ!」
烏天狗は可哀相なほどに飛び上がって、ぶるぶる震えながら、声を飛ばしたクロにペコペコ頭を下げた。
「もちろん、依頼でございますよ。依頼でございますとも……これを雷蔵どのに。我が名は伊助」
「いすけさんから、らいぞうさんへ……」
私が木簡を書き終わって指で切ると、ひったくるように控えを受け取って烏天狗は帰っていく。
「宗主様に色眼鏡を使ったら、容赦せんからな、小娘!」
「伊助っ!」
クロの叫びに、文字どおりすっ飛んで帰っていった。
「なんか……今日は変わったお客さんが多いね……」
呟く私に、シロが次々と作業を進めながら笑ってみせる。
「そう? クロ目当てのお客は、いつもこんなものだよ……あ、瑞穂ちゃん目当てのお客さまだよ」
目線で示された先には、豆太くんが立っていた。
自分の順番が来るまで、私の立つ窓口の前に出来た列に並んでちゃんと待っていた豆太くんは、「どうぞ」と私が声をかけると、不安そうに歩み寄ってきた。
「じいちゃんの荷物は……」
「ちゃんと届けたよ」
私が答えると、ほっとしたように笑顔になる。
「それでこれ、田中さんから豆太くんにお返しだって……」
預かった焼き菓子を手渡すと、豆太くんはますます笑顔になった。
「田中さん、とっても喜んでたよ。『ありがとう』だって。よかったね、豆太くん」
「うん! うん!」
何度も頷くと、豆太くんは、頭に乗せた葉っぱの下から、箱を取り出した。
「じゃあ、今度はこれ……」
(絵本やアニメに出てくるたぬきみたいに、いかにもって感じで頭に葉っぱなんか乗せてるんだなーって思ってたけど……それってそうやって使うの???)
思わず違うことを考えてしまってから、私ははっと首を振る。
(いかん! いかん! 今は仕事中……)
目をきらきらと輝かせて私を見つめる豆太くんを見ていると、とても断ることは出来そうにない。
「えっと……今度はそれを届けるの?」
「うん!」
「……田中のお爺ちゃんに?」
「うん! じいちゃんに!」
念のために確認してみたが、どうやらまた私が明日の休業日に、自分の車で田中さんの家まで行かなければならないのは確定のようだ。
「わかった……たなかしょうきちさんへ、まめたくんより」
本当は泣きたいような気持ちだったが、嬉しそうな豆太くんの笑顔には抗えなかった。
宅配屋内はかなりの賑わいなのに、うしろから聞こえてきたクロの呆れたようなため息だけは、しっかりと私の耳に届いた。
夕食時、丸い卓袱台を三人で囲んでクロが作ってくれた本格中華を食べながら、クロが何度も呟く。
「馬鹿か」
「…………っ」
そのたびに、何か言い返そうと私は口を開きかけるが、結局何も言えなくて、悔しまぎれに酢豚や棒棒鶏や餃子を口に詰めこむ。
(悔しいっ! でもそれにも増して美味しいっ!)
このままこの家に住んでいると、太ってしまうのではないかと危ぶみながら、すごい勢いで食事を続ける私に、シロが助け舟を出す。
「まあでも、お爺さんも豆太もとても喜んでくれてるしね」
その通りだと思いながらも、ちょうど炒飯を口いっぱいにほおばったばかりで声が出せず、私は代わりにうんうんと頷く。
クロはすっと冷たい目をシロへ向けた。
「一度や二度ならそれでよくても、続けているとどうなるか……わかるだろ?」
「それは……まあ……」
気まずそうに視線を伏せてしまったシロから私へと、クロは向き直る。
「瑞穂、昨日の配達に何時間かかった?」
車を運転していたのは往復四時間だが、田中さんの家でお茶をご馳走になったり、話をしたりしていた時間を含めて、私は答える。
「五時間……かな?」
「ガソリンはどれくらい減った?」
「山を登ったり下ったりしたから……満タンの半分くらいかな……」
実際はそれより少し多いくらい消費していたが、クロから訊ねられるうちに自分でもヒヤリとして、ごまかしてしまった。
(そうか……)
「善意だけで何度も続けるには、負担が大きい。見返りもない。だからこそ、宅配便っていう仕事が存在してるんだろ?」
「はい……」
それを仕事として賃金を貰いながら、無償で豆太くんと田中さんの荷物を運ぶことは確かに矛盾している。それでも私は、期待に満ちた豆太くんの顔を、裏切る選択はできなかった。
「プロ失格だな……」
落ちこみながら唐揚げに箸を伸ばすと、ちょうど同じ唐揚げをクロも狙っていたらしく、同時に掴んでしまう。
きまり悪そうにそれを放して、ごほんと咳払いして、クロが小さく呟いた。
「だけど、気持ちはわかる……」
「え?」
思いがけない言葉に、ぽろっと私の箸から落ちた唐揚げを、横からシロがさらっていく。
「俺も」
ぱくりと唐揚げに噛みついたシロを見て、上げた抗議の声がクロと重なった。
「「ああっ!」」
二人で顔を見あわせて、それぞれ大慌てで確保した残り少ない唐揚げを、自分の取り皿に取っておく。そこまでの動きがクロとまったく同じで、私はそれまでの気落ちした気分も忘れて、思わず笑ってしまった。
見ればクロも、少し表情を柔らかくして、話はここでいったん終わりにして、食事のほうへ専念すると決めたようだ。
それからは少しリラックスして、三人で食事を続けた。
私の悪いところはちゃんと指摘しながらも、二人揃って「気持ちはわかる」と同意もしてくれたことが、とても嬉しかった。
それから豆太くんは、狭間の宅配屋の営業日のたびに、田中さん宛ての荷物を持って来るようになった。
逆に田中さんからは、豆太くん宛てのお菓子や遊び道具と一緒に、たくさんの新鮮な野菜をお土産として持たされる。
「なんか……いつもすみません……」
「なんの! これくらいしかお礼が出来んけの……一人じゃ食べきれんくて、腐らすより喜んで食べてもらったほうがわしも嬉しい!」
「ありがとうございます!」
今日も瑞穂がいい食材を手に入れてきたと、クロの機嫌がよくなることは嬉しかったし、豆太くんと田中さんの嬉しそうな顔を見るのも、二人に喜んでもらえるのも、本当に幸せだった。
しかし――。
「こうも続くと、本当に疲れが抜けきらない……」
「若いのに何言うちょるの、はははっ」
宅配便の出張所で、伸びている私を笑っている千代さんのほうが、よほど若々しく見える時がある。
「千代さんって……何歳なんですか?」
試しに訊ねてみると、「あらやだ、女の人に年を聞くなんてぇ」と言いながら教えてくれた。
「八十八? ん? 九だったけぇ? とにかく、もうすぐ九十よ」
「九十⁉」
年配だとは思っていたが、とてもそこまでには見えず、思わず私は叫んでしまった。
「もっと……田中のお爺ちゃんと同じくらいかと思ってました……」
「あらあら、嬉しいことを。庄吉さんは七十五じゃったけぇ? 十五歳も下じゃね」
「十五……」
とてもそうは思えないともう一度言いかけて、私はどきりとした。確かに千代さんは九十近いとは思えない元気さだが、逆に田中さんが、七十代にしては年を取って感じられるのだ。
(腰を痛めたとかで、少し背が曲がってるし……足もひきずってるし……そういえば最近咳を……)
ごほごほと咳きこむことが多くて、私が心配すると、少し前に風邪を引いてから咳だけ抜けない、他に症状はないから大丈夫だと笑っていた。
(大丈夫……かな……?)
ご近所ともかなり距離があるような場所に、一人で住んでいる田中さんのことが心配になってくる。
(本当は、誰かと一緒に住むといいんだろうけど……)
一瞬、豆太くんの顔が頭をよぎったが、私は首をぶるぶると左右に振って、それを追い払った。
(ダメ、ダメ、豆太くんと田中さんは住む世界が違うんだもの……)
実際にあやかしであるクロとシロと同居している私は、ともすればその線引きがわからなくなる。
一人住まいの田中さんと、その田中さんをあそこまで慕っている豆太くんが一緒に生活するというのは、それほどいけないことなのだろうか。
シロに少し訊ねてみたが、しばらく沈黙した末に、「難しいと思う」という返事だった。
おしゃべりな彼が、それだけしか答えないことにはかなり深い意味があるように感じたし、クロにはきっと否定されると思ったので、私がそれ以上深入りして、その問題を話題にすることはなかった。
ただ、自分に出来るせめてものことをと、豆太くんの荷物を届ける時に、田中さんの様子をよく見ておくことは心がけた。
ある日、いつものように田中さんの家の近くに車を停めて、建物へを続く長いスロープを上がると、異変に気がついた。いつも様々な野菜やお茶などが入れてあるざるやかごが、整頓されて小屋の前に積まれている。
軒先に下がっていた玉葱やへちまも片づけられており、今まさに田中さんが、自分で彩色したいろいろな形の瓢箪を、大きなダンボールにしまっているところだった。
「こんにちはー」
声をかけた私を見て、「よお」と手を上げてくれたが、ごほごほと咳きこんで手にしていた瓢箪を落とす。
私は慌てて田中さんに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
しばらく背中をさすってから、縁側に置いてあった水筒から麦茶をグラスに注いで田中さんに手渡すと、田中さんはごくごく飲んでひと息つく。
「ありがとう、瑞穂ちゃん。助かったわ」
お礼を言うとすぐにまた作業を再開するので、私もそれを手伝う。
「全部片づけるんですか?」
田中さんは眉尻を下げて、少し寂しそうな顔になった。
「ここを引き払うんじゃよ。都会に住んどる息子が、自分のところに来いって前から言ってくれちょったんだけど、なかなかこの咳が抜けんで心配じゃから、もうすぐにでもって……」
豆太くんや私以外にも、田中さんを気にかけて、心配する存在はいるのだと気がつき、私は少しほっとした。
「そうなんですか……」
「仏壇も準備するから、位牌だけ持って来いって言われたら、いつもの言い訳も通用せん……畑は放り出すことになるけど、仕方ないの……」
荷物をたくさん運び入れる場所もないので、家財の多くも置いていくことになるのだという。
「よかったら、一つ持って行かんか?」
箱に詰められた瓢箪の中から、私は赤とオレンジで塗られた小さなものを選んだ。
田中さんが庭に植えている木から取った実を、乾燥させて中身をくり抜いて彩色して上塗りしてと、一つ一つ手作業で作って、近くの農作物直売所で売っていたのを知っているので、箱にしまわれてしまっているのを見ると、切ない気持ちになる。
「ありがとうございます。出張所に飾りますね」
「ああ」
田中さんは笑顔で、そよ風宅配便のロゴが入った箱を持ってきた。
「最後にこれを豆太に届けてくれんか。もうわしへの荷物は送らんでいい。これまでにもらったものは、全部大切に持っていくからって伝えてくれるとありがたい」
「はい、わかりました」
それを聞いた時、豆太くんがどれほど悲しむかと思うと、喉の奥に熱いものがこみあげてきそうになったが、私は必死に我慢した。
田中さんが、箱の上に封筒を乗せる。
「これは瑞穂ちゃんに。こんな遠くまで一日おきに……大変じゃったやろ? 何度も断ろうと思いながら、来てくれるのが嬉しくて……断りきれんかった。少ないけど、ガソリン代と手間賃。そしてこの宅配便の代金じゃ」
封筒の中にはかなりの額のお札が入っており、私は慌てて首を振る。
「受け取れません! 私そんなつもりじゃ……」
「わかっとるよ。善意で来てくれちょったんじゃよな。でも仕事もしながら、たいへんだったとわかっちょる。だから受け取ってくんしゃい」
深々と頭を下げられると、もう断わる言葉が出てこなかった。代わりに、必死にこらえようとしていた涙が溢れてくる。
「出張所の仕事もがんばっての。優しい社員さんが働いちょる、いい宅配便じゃった、そよ風宅配便は……こんなじじいを、七十五まで雇ってくれたんじゃからの……これからいく街には、そよ風宅配便はないのが寂しいのう……」
涙を必死に拭って、田中さんから預かった荷物を私は大切に抱え直す。
「確かにお預かりしました。明日の夜には、豆太くんに渡せると思います」
「ああ。わしも明後日には出発じゃけ……今頃豆太が喜んどるだろうなと思いながら、明日は荷造りするよ」
「本当にありがとうございました」
「ああ。こちらこそ、ありがとうのう」
田中さんに見送られて、いつものように車に乗ったが、私はなかなか出発できずにいた。
瞳は潤ませながらも、最後まで笑顔で私を見送ってくれた田中さんが、顔をくしゃっと歪めて、腕で顔を大きく拭ったのが見えたから――。
「…………」
唇を噛みしめて、嗚咽をこらえながら車のエンジンをかけた。
涙で視界が塞がると危ないので、何度も何度も拭いながら、時には道路脇に車を停めて、いつもより長い時間をかけて、山の上の営業所までの道のりを帰った。