「それで? 結局ここに住むことにしたのか?」

 夕刻――。

 熱々の湯気を上げる鍋を卓袱台で囲みながら、クロが私に鋭い目を向ける。
 柔らかな豆腐を箸で掴もうと悪戦苦闘しながら、私は少し唇を尖らせた。

「だって、せっかく週の半分が休みでも、アパートに一人でいたら寝るぐらいしかすることないし……」
「お前な……」

 クロは呆れたように何かを言いかけたが、シロが明るい声でそれを遮る。

「あ! 瑞穂ちゃん、庭の掃除してくれたんだよね。すごい綺麗になってた! ありがとー」
「あ……うん」

 率直なお礼に気分が良くなって、私は少し胸を張りながらクロを見返した。
 クロはふんっと私から顔を逸らし、鍋へ視線を落とす。

「ご飯もさー、二人で食べるより三人のほうが賑やかでいいよね。クロも作り甲斐があるでしょ?」

 無言で白菜を口へと運ぶクロを横目に見ながら、シロは大きく口を開けてにかっと笑う。

「夏も近くなって鍋っていうのは、ちょっと驚いたけど……」
「ご、ごめんね!」

 あまり深く考えずそのメニューをリクエストした身としては、肩身が狭い。

「明日は素麺なんてどうかな?」
「早すぎるだろ、馬鹿」

 シロとクロのやり取りを聞きながら、私も食事を続けた。

「午後からは荷物を取りにアパートに帰ったけど、午前中草むしりをしてる時もいろんな人に会ったよ」

 私の話を聞きながし、次々と鍋からお肉を取っていたシロの箸が、次の瞬間ぴたりと止まる。

「昨日宅配を頼みに来たお婆ちゃんでしょ……それから『みや』ちゃん」
「みや……ちゃん……?」

 訝るように目を向けられたので、私は簡単に説明をした。

「まだ小学校にいかないくらいの小さな女の子……私が草むしりするのを鳥居の向こうからずっと見てて……呼んだら来たんで、それから一緒に作業したの」
「ねえ! それって……」

 がばっと自分のほうを体ごとふり返ったシロを、クロが視線で制した。
 それきり口を噤んでしまったシロと、黙りこんだままのクロの顔を、私は交互に見る。

「なに? みやちゃんがどうかしたの……?」
「いや、なんでもない」

 クロはさっさと答えて、食事を再開したけれど、何も入っていないお皿を箸でかき回している。
 シロのほうは、自分の取り皿にお肉を山盛り取ったのに、いつまでもじっと鍋を睨んでいる。

(へんなの……)

 あからさまに態度のおかしくなった二人が気になって、せっかくの美味しいお鍋も魅力が半減したようだった。




 翌日、朝八時に営業所へ行き、配送車が運んできたこの近辺の荷物を受け取り、配達を済ませてから十時に営業所を開店させると、待ってましたとばかりにガラガラガラと台車を押して、多香子さんがやってきた。

「瑞穂ちゃん、こんにちは。お疲れ様。今日の荷物はこれだけよ。代金はこれ。前回の領収書をくれる?」

 他にお客もいないのだからゆっくりと順番に用を済ませればいいのに、多香子さんはせっせと台車から荷物を下ろし、カウンターの中の私に向かって右手をさし出す。

「ちょ、ちょっと待ってくださいね」

 一昨日準備しておいた領収書を、そよ風宅配便の名前が入った封筒に入れ、手渡すと、多香子さんはいそいそとカウンターに背を向けた。

「じゃあまた明後日ね。今日のぶんの領収書はその時に! ありがとう」

 ばたばたと営業所を出ていく多香子さんを見送るため、私も慌ててカウンターを出て、先に立って重たいガラス扉を押し開ける。

「ありがとうございました! またよろしくお願いします!」

 大きく手を振って帰っていく多香子さんが置き去りにした荷物を、それから仕分けしてカウンターの中へ運び入れ、数を確認して伝票を整理し、売上帳に記入して領収書を書いた。
 それらすべてを、街の営業所でやっていた時の三倍も時間をかけて、一つ一つ丁寧にやったのに、終わって壁に掛けられた時計を見てみたら、まだ十時半。

(三十分しか経ってないじゃない……)

 時間の進みがあまりにも遅いことに絶望しながら、仕方がないので、棚の書類の整理をして、営業所内の掃除までやった。

(でもこれって、本来は営業時間中にやることじゃないわよね)

 お昼になったのでお湯を沸かしてお茶を淹れ、クロが作ってくれたお弁当を食べる。

「いただきます」

 自分とシロのぶんを作るついでだからと、出がけに渡されたが、楕円形の竹製のお弁当箱の蓋を開いてみると、彩りの美しさと栄養バランスの見事さに感嘆せずにはいられない。

(鰤の照り焼きとほうれん草のお浸し、卵焼き、きんぴら、ミニトマト、ゆかりご飯……)

 ぴしっとスーツを着こなしたクロも、おしゃれな大学生のシロも、それぞれの昼の活動場所でこのお弁当を開いているのかと思うと笑いがこみ上げてくる。

(ぜったい料理男子って思われてるでしょ)

 自分だけは、この綺麗で美味しそうなお弁当を、見せる相手がいないことを少し寂しく思いながら、私は全て食べ終えて、奥の小さな流し台でお弁当箱を洗い、乾かすまでしておいた。

(休憩時間と仕事時間の線引きが難しいな……)

 することもないので、午後からも掃除を続け、そろそろやる場所もなくなったので屋外にまで手を伸ばそうかと思った頃、ようやくガラス扉の向こうに人影が映った。

「あ……」

 昨日麦わら帽子を貸してくれたお婆さんだと思い当たり、急いでカウンターを出て、扉を開いてやる。
 営業所内へ入って来たお婆さんは、今日は誰かへ送るための荷物は持参していなかったが、手提げ袋の中から大きな包みをとり出した。

「瑞穂ちゃん、これ。蒸しパンだけど、たくさん作ったからおすそ分け」

 ラップに包んだ丸い蒸しパンをさし出されて、思わず手を叩いて喜んでしまった。

「やったあ! ありがとうございます!」

 私に蒸しパンを手渡したお婆さんは、ニコニコしながら周囲を見まわしている。
 壁際に並べた順番待ち用の椅子に目を止めたように見えたので、私は急いでカウンターを出て、椅子をもっと部屋の真ん中に移動してあげた。

「よかったらお茶でもどうですか? 今淹れますから」

 流しの隣の棚に幾つもしまわれている湯呑みは、前任の田中さんもそういう使い方をしていたのだろうと勝手に解釈する。

「ありがとう」

 椅子にちょこんと座ったお婆さんは、背が低すぎてカウンターの向こうに見えなくなってしまったので、私もカウンターを出て、お婆さんの横に椅子を並べて座ることにした。
 ガラス扉越しに参道の風景を見ながら、のんびりと二人でお茶を飲む。
 午前中にガラスをピカピカに磨いておいてよかったと思った。参拝客が御橋神社へ向かって歩いている光景がよく見える。

「お参りの人、多いですね」
「有名なお宮じゃけえね」

 年配の団体客や着物姿の男女。制服姿の若い子たちは修学旅行だろうか。
 土産物屋や甘味処、食堂や足湯などは人で賑わっているが、参道沿いにあるというのに、宅配便の出張所はさっぱりだ。

「お客さん来ないな」

 思わず声に出して呟くと、お婆さんはふぉふぉふぉと笑った。

「庄吉さんもよくそう言っちょった」
「やっぱりですか?」

 思わず一緒に笑った時、ガラス扉の端から見たことのある顔がぬっと現れた。黒髪の女の子で、私と目があうと慌てておかっぱの頭が引っ込む。
 私は急いで椅子を立ち、扉に駆け寄って呼びかけた。

「みやちゃん!」

 慌てて建物の陰に隠れかけていた少女は、私が扉を開いて呼びかけると足を止める。
 うかがうような目でふり返るので、私はなるべく笑顔を心がけて、少女を手招きした。

「遊びに来たの? おいで、蒸しパンがあるよ」

 少女はぱあっと顔を輝かせて、ぱたぱたと足音をたてて駆け寄ってくる。
 腕に抱き上げて出張所の中へ連れて帰ると、お婆さんが目をまん丸に見開いていた。

「あれまあ……瑞穂ちゃん、みや様と知りあっちょったの……?」

 少女は私の腕の中で体を捻って、お婆さんに手を振る。

「千代!」

 それでお婆さんの名前は千代さんというのだと、初めて知った。
 みやちゃんをカウンターの中へ連れていって手を洗わせてから、私がさっきまで座っていた椅子に座らせる。千代さんから蒸しパンを受け取ったみやちゃんは、可愛らしいお口を大きく開けて噛みつき、とても嬉しそうだ。

 もう一つ椅子を出してきて、千代さんと私でみやちゃんを挟む並びになって、しばらく一緒にお茶を飲んだり蒸しパンを食べたり、参道を眺めたりした。
 千代さんが帰る時、みやちゃんも一緒に帰っていったのだが、みやちゃんの手を引きながら千代さんが、私にふり返って言った。

「みや様と仲良くなったんなら、瑞穂ちゃん。暇だと言ってられるのも今のうちだけじゃよ」
「え?」

 どういう意味だと聞き返すことはできなかった。
 私が返した麦わら帽子を片手に、反対の手にはみやちゃんの手を引いて、千代さんは神社のほうへ帰っていった。