ただでさえ憂鬱な月曜日の朝。のろのろとロッカーで制服に着替えていると、隣の部屋から事務員の長田さんに呼ばれた。
「芦原さーん。所長が、ちょっと話があるってー」
「はーい」
大きな声で返事をしてから、私はこめかみを軽く押さえる。
「いたたたた……」
自分の声が頭の中で響いて頭痛がするほど、どうやら昨夜は飲み過ぎたらしい。
(ぜんぜん覚えてないんだけどね……)
肩を竦めながら制服に着替え終わり、営業所の奥の所長室の扉を「芦原です。失礼しまーす」と開けた瞬間、思い出したことがあった。
「あ……」
従業員と同じ、緑が基調の作業着を着て、グレーの事務机に座っている所長の右頬は、真っ赤に腫れている。あれは確か、私が昨日力任せにひっぱたいた跡だ。
部屋の中を素早く見回し、他に人がいないことを確認して、私は顔の前で両手を合わせた。
「雅司……昨日はごめんね」
わが『そよ風宅配便』御橋営業所所長の稲森雅司は、私の顔を見て、苦虫を噛み潰したようなしかめ面になる。
「会社では名前で呼ぶな。いつも言ってるだろう……それにもう、お前とはそういう関係じゃない」
「え……?」
高卒でこの会社に就職してから三年。就業年数がそのままつきあった年数になる八歳年上の恋人は、ぷいっと私から顔を背ける。
昨夜二人で飲みに行き、前後不覚に酔っぱらってしまったことは覚えている。そのあと、何かの理由で彼の頬をひっぱたいたことも――。
しかし詳しい事情は思い出せず、いつものように何か口論にでもなったのだろうと、私は改めて頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
下げた頭の上、はあっという大きなため息と共に、何かをさし出された気配があった。
「瑞穂……これ」
人には会社では名前で呼ぶなと言っておいて、自分は私を名前で呼ぶのかと、喉まで出かかった厭味を呑みこみ、私は顔を上げる。
だからお前は可愛げがないんだと、いつもどおりの口喧嘩になるのが嫌で、言葉を呑んだのに、雅司が手渡してくれた一枚の書類に目を落とした瞬間、私の口からは、やっぱり『可愛げ』なんてない言葉しか出てこなかった。
「……何これ」
雅司がまた、はあっとため息を吐いて、椅子から立つ。
「辞令だよ、辞令。お前には今日から、山の上出張所へ行ってもらうから」
「はああっ?」
思わず大きな声が出てしまった。
雅司は顔をしかめて、今すぐ部屋から出て行けというふうに、私を手で追い払う仕草をする。
「仕方ないだろ、社長が決めたことなんだから……急に欠員が出たらしくて、その補充だそうだ。山の上だから利用客も少ないし、週に三日しか営業してない楽な主張所だから……な?」
確かにその紙には、『芦原瑞穂殿』という宛て名と、『御橋市山の上出張所勤務を命じる』という文面と共に、『稲盛雄三』と社長の名前が書いてある。
雅司の父親である社長の名前と、雅司の顔を、私は何度も見比べた。
(喧嘩の理由はなんだったか、ちょっと忘れちゃったけど……つまりは社長の息子の権限を使って、私に仕返しってわけ……?)
私の中で、何かがぷつんと音をたてて切れた。
「これって……パワハラ?」
辞令書を手にわなわなと震える私を、雅司が慌てて宥めようとする。
「ち、違うぞ! 本当に急に、山の上出張所に欠員が出て……」
私は据わった目で、雅司に問いかける。
「営業は週に三日ってことですが、お給料減ったりしませんよね?」
雅司はおろおろしながらも、うんうんと頷く。
「もちろんだよ! 瑞穂は固定給の正社員だし……!」
「私のアパートから、通勤に片道四十分も車でかかるんですけど……交通費は?」
焦る雅司と裏腹に、私はどんどん落ち着いて頭が冴えてくる。
「もちろん支給する! なんなら、出張所の奥の家に、社宅として住むこともできる!」
「社宅か……」
大きな神社と、その周りの食事処や土産物屋や観光案内所以外には、ほぼ店らしい店もない山の上の集落を思い浮かべ、私は腕組みした。
(まあそれは、行ってみてから考えるとして……)
いかにも思案しているという格好をしながら、ちらりと雅司に目を向けてみると、妙におどおどしたように私の様子をうかがっている。
(なに……?)
いきなり出張所勤務を命じたりしてうしろめたいのかもしれないが、雅司の言うように急な欠員が出たのなら、それは仕方のないことだ。
もともと『そよ風宅配便』は雅司のお父さんが興した会社で、県内に五つの営業所を構え、大手の運送会社と提携を結んでいるとはいえ、あまり規模の大きな企業ではない。
この御橋営業所でも、雅司を除けば、社員は私と配達専門の松浦さんしかおらず、あとはパートとアルバイトばかりだ。
(だからまあ、仕方ない……それはわかってる)
私は息を吐いて、雅司に向かって頭を下げた。
「わかりました。今日から山の上出張所へ行きます」
顔を上げてみると、雅司がうっすらと目に涙を浮かべて、私を見ていた。
「そうか……ごめんな、瑞穂」
「いいえ、仕事ですから……失礼します」
これしきのことで泣くなんて、少しおおげさ過ぎはしないかと、首を傾げながら所長室を出て、ひとまずロッカーの荷物をまとめる。
詳しい話は、今夜いつものように雅司のマンションに行って話せばいいやと、簡単に考えていた。
これから出張所へ行くのならば着替える必要はないだろうと、制服のまま私物を抱えて、営業所へ顔を出す。
五、六人いるパートやアルバイトの人たちは、すでにみんな、私の移動の話を知っていた。
「瑞穂ちゃん、山の上に行くんだって? たいへんだねえ」
「さみしいねー、たまにはこっちにも顔を出してね」
次々と声をかけてくるパートのおばさんたちに混じり、この春アルバイトで入ったばかりの理加ちゃんが、笑顔で手を振る。
「芦原さん、がんばってくださーい」
その顔を見た瞬間、脳裏に蘇ることがあった。
(ああっ!)
昨夜、飲みに行った居酒屋で、私にたくさんの料理とお酒を勧め、いい気分にさせたのち、雅司がとっても言いにくそうに切り出した話――。
「俺、バイトの上原さんとつきあうことにしたから……瑞穂とはその……もう終わりってことで……」
(あーーーーーっ!!)
心の中だけで絶叫し、雅司がいる奥の扉をギンと一回睨んでから、私は営業所をあとにした。
(そうだった……そうだった……!)
思い出すだけではらわたが煮えくり返りそうだ。
怒りに任せて大股でずんずん進み、駐車場の奥に停めている愛車に乗りこむ。
営業所の敷地内を出て、おおかたの車が進んでいるのと逆の方向――山へと行き先を定めながら、声を大にして叫んだ。
「もう一発ぶん殴ってやればよかった!! くっそーーーっ!」
進行方向には青い空と白い雲、新緑も鮮やかな大きな山が、どこまでも裾野を広げていた。
「芦原さーん。所長が、ちょっと話があるってー」
「はーい」
大きな声で返事をしてから、私はこめかみを軽く押さえる。
「いたたたた……」
自分の声が頭の中で響いて頭痛がするほど、どうやら昨夜は飲み過ぎたらしい。
(ぜんぜん覚えてないんだけどね……)
肩を竦めながら制服に着替え終わり、営業所の奥の所長室の扉を「芦原です。失礼しまーす」と開けた瞬間、思い出したことがあった。
「あ……」
従業員と同じ、緑が基調の作業着を着て、グレーの事務机に座っている所長の右頬は、真っ赤に腫れている。あれは確か、私が昨日力任せにひっぱたいた跡だ。
部屋の中を素早く見回し、他に人がいないことを確認して、私は顔の前で両手を合わせた。
「雅司……昨日はごめんね」
わが『そよ風宅配便』御橋営業所所長の稲森雅司は、私の顔を見て、苦虫を噛み潰したようなしかめ面になる。
「会社では名前で呼ぶな。いつも言ってるだろう……それにもう、お前とはそういう関係じゃない」
「え……?」
高卒でこの会社に就職してから三年。就業年数がそのままつきあった年数になる八歳年上の恋人は、ぷいっと私から顔を背ける。
昨夜二人で飲みに行き、前後不覚に酔っぱらってしまったことは覚えている。そのあと、何かの理由で彼の頬をひっぱたいたことも――。
しかし詳しい事情は思い出せず、いつものように何か口論にでもなったのだろうと、私は改めて頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
下げた頭の上、はあっという大きなため息と共に、何かをさし出された気配があった。
「瑞穂……これ」
人には会社では名前で呼ぶなと言っておいて、自分は私を名前で呼ぶのかと、喉まで出かかった厭味を呑みこみ、私は顔を上げる。
だからお前は可愛げがないんだと、いつもどおりの口喧嘩になるのが嫌で、言葉を呑んだのに、雅司が手渡してくれた一枚の書類に目を落とした瞬間、私の口からは、やっぱり『可愛げ』なんてない言葉しか出てこなかった。
「……何これ」
雅司がまた、はあっとため息を吐いて、椅子から立つ。
「辞令だよ、辞令。お前には今日から、山の上出張所へ行ってもらうから」
「はああっ?」
思わず大きな声が出てしまった。
雅司は顔をしかめて、今すぐ部屋から出て行けというふうに、私を手で追い払う仕草をする。
「仕方ないだろ、社長が決めたことなんだから……急に欠員が出たらしくて、その補充だそうだ。山の上だから利用客も少ないし、週に三日しか営業してない楽な主張所だから……な?」
確かにその紙には、『芦原瑞穂殿』という宛て名と、『御橋市山の上出張所勤務を命じる』という文面と共に、『稲盛雄三』と社長の名前が書いてある。
雅司の父親である社長の名前と、雅司の顔を、私は何度も見比べた。
(喧嘩の理由はなんだったか、ちょっと忘れちゃったけど……つまりは社長の息子の権限を使って、私に仕返しってわけ……?)
私の中で、何かがぷつんと音をたてて切れた。
「これって……パワハラ?」
辞令書を手にわなわなと震える私を、雅司が慌てて宥めようとする。
「ち、違うぞ! 本当に急に、山の上出張所に欠員が出て……」
私は据わった目で、雅司に問いかける。
「営業は週に三日ってことですが、お給料減ったりしませんよね?」
雅司はおろおろしながらも、うんうんと頷く。
「もちろんだよ! 瑞穂は固定給の正社員だし……!」
「私のアパートから、通勤に片道四十分も車でかかるんですけど……交通費は?」
焦る雅司と裏腹に、私はどんどん落ち着いて頭が冴えてくる。
「もちろん支給する! なんなら、出張所の奥の家に、社宅として住むこともできる!」
「社宅か……」
大きな神社と、その周りの食事処や土産物屋や観光案内所以外には、ほぼ店らしい店もない山の上の集落を思い浮かべ、私は腕組みした。
(まあそれは、行ってみてから考えるとして……)
いかにも思案しているという格好をしながら、ちらりと雅司に目を向けてみると、妙におどおどしたように私の様子をうかがっている。
(なに……?)
いきなり出張所勤務を命じたりしてうしろめたいのかもしれないが、雅司の言うように急な欠員が出たのなら、それは仕方のないことだ。
もともと『そよ風宅配便』は雅司のお父さんが興した会社で、県内に五つの営業所を構え、大手の運送会社と提携を結んでいるとはいえ、あまり規模の大きな企業ではない。
この御橋営業所でも、雅司を除けば、社員は私と配達専門の松浦さんしかおらず、あとはパートとアルバイトばかりだ。
(だからまあ、仕方ない……それはわかってる)
私は息を吐いて、雅司に向かって頭を下げた。
「わかりました。今日から山の上出張所へ行きます」
顔を上げてみると、雅司がうっすらと目に涙を浮かべて、私を見ていた。
「そうか……ごめんな、瑞穂」
「いいえ、仕事ですから……失礼します」
これしきのことで泣くなんて、少しおおげさ過ぎはしないかと、首を傾げながら所長室を出て、ひとまずロッカーの荷物をまとめる。
詳しい話は、今夜いつものように雅司のマンションに行って話せばいいやと、簡単に考えていた。
これから出張所へ行くのならば着替える必要はないだろうと、制服のまま私物を抱えて、営業所へ顔を出す。
五、六人いるパートやアルバイトの人たちは、すでにみんな、私の移動の話を知っていた。
「瑞穂ちゃん、山の上に行くんだって? たいへんだねえ」
「さみしいねー、たまにはこっちにも顔を出してね」
次々と声をかけてくるパートのおばさんたちに混じり、この春アルバイトで入ったばかりの理加ちゃんが、笑顔で手を振る。
「芦原さん、がんばってくださーい」
その顔を見た瞬間、脳裏に蘇ることがあった。
(ああっ!)
昨夜、飲みに行った居酒屋で、私にたくさんの料理とお酒を勧め、いい気分にさせたのち、雅司がとっても言いにくそうに切り出した話――。
「俺、バイトの上原さんとつきあうことにしたから……瑞穂とはその……もう終わりってことで……」
(あーーーーーっ!!)
心の中だけで絶叫し、雅司がいる奥の扉をギンと一回睨んでから、私は営業所をあとにした。
(そうだった……そうだった……!)
思い出すだけではらわたが煮えくり返りそうだ。
怒りに任せて大股でずんずん進み、駐車場の奥に停めている愛車に乗りこむ。
営業所の敷地内を出て、おおかたの車が進んでいるのと逆の方向――山へと行き先を定めながら、声を大にして叫んだ。
「もう一発ぶん殴ってやればよかった!! くっそーーーっ!」
進行方向には青い空と白い雲、新緑も鮮やかな大きな山が、どこまでも裾野を広げていた。