いい先生ってなんだろう?
そもそも僕はどうしてこの職に就いた?
作者の気持ちや考えを書きなさい、って問題よりも、スパッと答えが出る数学が好きだった。
解けない問題でも、あの手この手を使って正解を探すのが楽しい。
大学は親の期待を裏切って数学科へ入学した。
そこでこれまで習ってきた数学は解けることが前提で、世の中には解けない方程式が山ほどあることを知る。
むしろ解ける問題の方が少なくて衝撃を受けた。
それでも面白い。
ただ、「数学科の就職は難しい」と言われるから、なにか資格がほしくて教職課程を履修した。
しかし、教育実習がはじまる。
朝から晩まで立ちっぱなし。授業の打ち合わせや報告書の作成に追われて、目が回る忙しさを体験した。
このときすでに「僕は教師に向いていない」それが答えだったが、教育実習最終日に一生忘れられない贈り物をもらってしまう。
ほんの十分クラスを離れて、戻ってきたときのことだった。
『水樹先生、ありがとうー!!』
目の前でクラッカーが鳴り、僕は紙吹雪に包まれた。
今日で最後だから、感謝の気持ちを込めて綺麗に消したはずの黒板に、僕の好きなキャラクターが描かれて、『いい先生になれよ!』と。
チョークで黒板に文字を書くのは難しかった。それなのに赤や緑のチョークをうまく使って、たった十分の間にアート作品のような絵を完成させていた。
それから生徒からのメッセージが詰まった色紙に、いったいどこに隠してたんだ? と首を傾げたくなるほどの花束。
僕は半人前以下なのに、思いがけないプレゼントを受け取って泣きそうになった。
『水樹くん、教師という仕事はブラックだ。しかも想像以上のブラックだ。でもね、やんちゃで手を焼いた生徒たちからサプライズがあって、素敵な笑顔や嬉しい涙であふれててね。それがあるから、やめられない。先生とはそういう職業だよ』
恩師からの言葉。
僕の未来が決まった瞬間だった。
「あれ、カナ兄ぃ。帰ってたの?」
妹の香奈恵がリビングの電気をつけた。
「さっき帰ってきたところ」
「ウソつき。電気もつけないで、ぼーっとしてた。なにかあったの?」
「……今日学校で、いい先生って言われた」
「ん? よかったじゃん」
「よくないよ。着替えてくる」
部屋に入ると疲れがどっと押し寄せてきて、そのままベッドに倒れ込んだ。
久遠寺ユイを最初に見かけたのは、凍える冬。
吐く息は白く、吹き付ける風が針のように突き刺さる季節なのに、校舎の陰に隠れてパンをかじっていた。
真っ赤な手と頬が痛々しくて目にとまったが、知らない生徒だったので声をかけなかった。
平塚先生と話をしているところも見た。
涙をこらえて必死に訴える姿が印象的だった。でも最終的には感情を爆発させて、教室を飛び出していく。
激しすぎる姿に興味を持った。
『平塚先生、今の生徒は?』
『やだ、水樹先生。見てたんですか? あの子は久遠寺ユイですよ。ほら、いっとき話題になったでしょう。俳優、久遠寺公康の娘って』
『へぇー』
芸能の話に疎い僕でも、久遠寺公康は知っている。
なにかと話題になる派手好きだ。ユイはその娘なのに、他人を寄せつけない雰囲気があった。
『だからひとりでパンをかじってるのか。有名人の娘も大変ですね』
他人事のように話をしたら、平塚先生はため息交じりで吐き捨てるように話を続けた。
『久遠寺の家庭環境が複雑すぎて、扱いにくいんですよ。勉強を頑張ってくれたら、もっと目をかけてやれるけど。見てください、この成績』
入学当初はそこそこの成績だったが、二学期から酷い数字が並んでいる。
『久遠寺に転校をすすめたら、さっきの通り大激怒ですよ。ここは国公立大学を目指さない生徒には厳しいでしょう。単位を落として留年する前に、決めさせないと』
『進学校は大変ですね』
『勉強についていけない生徒が転校して、明るさを取り戻した話もたくさんありますから。それより水樹先生、今晩、飲みにいきませんか?』
『あー、妹がうるさいから、やめときます』
そそくさと逃げ出した。
問題を抱え込んだ生徒。それが久遠寺ユイで、気になるけど僕にできることはなにもない。
それでそのまま終わるはずだった。
鉄の扉が開くまで。
うっかり屋上に閉じ込められた日、僕は慌ててスマホを取り出した。
でも連絡先は先生ばかり。屋上にいることがバレたらクビが飛ぶ。
非常勤なんて弱い立場だ。
妹が帰宅する時間まで我慢するしかない。しかし、トイレが……。
あれこれ考えて焦っていたとき、鉄の扉を蹴る大きな音が響いた。
扉の向こうに誰かいる。
それだけで救われた気分だった。
開けてくれと頼んで、ゆっくりと鉄の扉が開くと僕は言葉を失う。
目の周りを赤く腫らして、酷く怯えた顔のユイがいた。
あまりの偶然に嬉しくなって思わず……抱きついたのは軽率だった。ボコボコに殴られても文句は言えない。
でもユイの目がうつろで、表情も硬い。
どうにかして打ち解けようと、僕はしゃべり続けた。自分のことをひたすら話したのは、はじめてかもしれない。
そしてこの偶然がなければ、僕はユイを見捨てていた。
関係ない生徒として……。
「いいセンセイー。お父さんから電話だよー」
茶化すような香奈恵の声が、暗い部屋に飛び込んできた。
「へいへい」
受話器を受け取ると、威厳に満ちた声がする。
複雑な家庭環境。
ユイほどではないが、僕のところも似ていた。
研究家の母は日本を飛び出して帰ってこない。医者の親父とはそりが合わない。
やっとひとり暮らしをはじめても、たった数年で「ここは駅前で大学に通いやすいから」と、香奈恵がやってきて親父からの電話が増えた。
最初はちょっとした医療事務の依頼。
小遣い稼ぎになるから快く引き受けたが、「奏人が医者になってくれたら」からはじまって、「香奈恵はどうしてる?」で、あとはずっと香奈恵の話。
親父は香奈恵のことが心配で、僕に仕事を運んでくる。
自分の娘なのに、わざわざ僕を通さないといけない不器用な人だ。
母への不満も僕に押しつけて、愚痴ばかり。そんな親父の盾になるのが嫌で家を出たんだけどなぁ……。
まあ香奈恵の生活費として、なにかと資金援助してくれるのはありがたい。それなのにユイには「大人には大人の考え方がある」なんて偉そうに言って。
――水樹はいい先生だよ。
ふと必死になって慰めようとする、ユイの姿を思い出した。
いい先生は、叱られたことを生徒のせいにしないし、愚痴なんてこぼさないんだよ。
クビになるかも、なんて情けないことも言わない。
責任感の強いユイのことだから、僕の言葉を気にしているかもしれない。
悪いことしたなぁ。
『奏人、聞いてるのか?』
野太い親父の声にハッとした。
「聞いてます。今日は疲れてるのでまた……」
最近疲れやすくて、長時間立っていられない。
ふぅと肩で息をして、椅子に腰かけた。
「ねえ、やっぱりなにかあったでしょう」
香奈恵が心配半分、好奇心半分な顔で聞いてきた。
適当に誤魔化そうとしたが、じっと僕を見据える香奈恵の目は、小さなウソひとつ逃すまいと真剣だ。
「少し前に、生徒が突き飛ばされるところを見たんだ。助けに入ったら、翌日からクレームの嵐で、今日なんか」
「女子生徒を助けたの?」
ムッとした声に話が途切れた。
「今まで女子生徒に関わっていいことあった?」
「目の前でいじめがあったら、見逃せないだろ」
「大学の近くで、今川桃佳に会ったわよ。カナ兄ぃのこと聞かれた。また同じことを繰り返すつもり?」
「…………」
鋭利な刃物のように、鋭く突き刺さる言葉。
今川は、おとなしくて真面目な生徒だった。
長い髪をおさげにして、前髪はきっちり眉毛の上。校則に文句を言う生徒が多い中、誰よりも校則を守っていた。
あまりにも几帳面な性格だから、新任の僕が頼りなく見えたのだろう。
指導教官役の先生よりも鋭い目を光らせて、僕が失敗する前に色々とフォローしてくれた。
頼りになる生徒、それが今川だった。
だから自然と話す機会が増えていく。
だが、最初に違和感を覚えたのは「水樹先生の家にいきたい」と言い出したとき。
教壇に立っても、僕はまだ一年目。試用期間に過ぎない。
公私ともに問題を起こせば、採用を取り消されることもある。
丁寧に断ったが、今川は諦めなかった。
偶然、街中で今川と出会った。
控えめなロングスカートだが、化粧をしている。学校では絶対に見せない、意外な姿で似合っていない。
軽く挨拶をして、その場を離れようとしたが「水樹先生、一枚だけ! 一緒に写真、お願いします」と、スマホを差し出した。
一枚ぐらいなら……、それが過ちだった。
おとなしくて控えめな今川が僕の腕にしがみつき、シャッター音がなる。
それからだ。教室の雰囲気がガラリと変わった。
生徒たちとの距離が微妙に開いた。ヒソヒソ話す声も聞こえる。
少し戸惑ったが、仕事が山のようにふってくる。
若いからと言って、運動部をふたつも任された。
働かない先生の仕事まで押しつけてくる。
休む暇もなく、がむしゃらに働いたが、校長室に呼び出された。
『今川桃佳くんと付き合ってるという話は、本当か?』
耳を疑った。
校長は一枚の写真を僕に突きつけた。
今川には色々と助けてもらっていたから、一枚ぐらいならと撮った写真。
腕を組んでいるが、そんなんじゃない。
僕は激しく抗議した。
クラスのよそよそしい態度。デマがどこまで広がっているのか。そもそも誰がそんなウソを……。
厳重注意を受けたあと、僕の仕事がますます増える。
無意味な研修会に、無駄な出張。クラスの生徒と話す機会がぐんと減って、担任らしくない担任になっていた。
一生懸命になればなるほど、ズブズブと沈んでいく泥沼のような道。それでも助けてくれる先生の手を借りながら、必死に頑張っていた。
それなのに、また今川が――。
『水樹先生は、生徒を蔑ろにしてサボってる』
僕の忙しさを一ミリも知らないくせに、騒ぎ立てた。
ムカついた。腹が立った。そもそも誰のせいでこんなことに……いや、僕が悪かった。
今川が頼りになるから、都合よく甘えている部分もあった。
贔屓しているつもりはなかったが、そう見られても仕方がない。
今川から大きく距離をとった。
これ以上のトラブルはごめんだから、他の生徒より冷たくなったかもしれない。
すると今川が狂いはじめた。
家の周りをウロウロしている。
妹の香奈恵を彼女と勘違いして、「未成年の女を連れ込んでいる」と警察に通報したり、あのときの写真をばらまいたり。
とうとう、保護者を呼び出しての話し合いになった。
そこでも今川は普通ではなかった。
血走った目を僕に向けて「私は水樹先生を愛してます!!」と。
付き合っている、結婚の約束をした、その証拠はこの写真。ビリビリと耳に響くほどの大声で、ウソばっかり。
はじめて女が怖いと思った。
今川の保護者もかんしゃく持ちで、「娘をたぶらかした」とか「洗脳した」とか理不尽な言葉がずらりと並ぶ。
僕はひとつずつ、丁寧に説明をして、今川の矛盾点をつくしかなかった。
最終的に、これまでのことはすべて今川の暴走で、付き合った事実はない。結婚の約束もしていない。ウソを暴くことに成功したが、これだけのゴタゴタを起こせば、二年目はない。
そこの学校は一年間でさようなら。思い出しただけでも気が滅入る。
今川は災難しか運んでこなかったが、多くのことも学べた。
「……結婚したい」
「カナ兄ぃが結婚? 相手は、誰なの?」
香奈恵が僕の胸ぐらをつかみ、容赦なく揺さぶった。
「やめろ、苦しい。結婚してたら「妻がいるから」で、全部片付くだろ」
「バッカねぇ、あのストーカー女がそんなことで諦めると思う? カナ兄ぃが結婚したら、お嫁さんを刺しに来るわよ」
鼻で笑われた。
「そこまでするか?」
まったく、理解できない。
人を刺すような人間と添い遂げたいなんて思うはずがない。
好かれたいはずなのに、なぜ嫌われるようなことをするのか。その神経がわからない。
「ストーカーのおぞましい事件、たくさんあるよね。もと教え子だとしても、油断しないで。ここがバレたら、絶対に押しかけてくるよ。ご近所さんを巻き込んで大騒ぎになったら、また引っ越し。それでもいいの?」
ふと視線を宙に浮かせて、貯金残高を考えた。
引っ越し費用を考えると頭が痛くなる。
「そのときは僕だけで引っ越すから安心しろ」
「だいたい、カナ兄ぃは昔から女に甘いのよ。女子生徒には近づかない! これだけでいいのに、すーぐ優しくするから。勘違いした女は怖いよ~」
「でも目の前で突き飛ばされたら」
ユイが本当に危ない転び方をしたから、ついカッとなった。
そのあとは、思い出すだけでも恥ずかしい。
そもそも僕は、あまり喧嘩をしてこなかった。殴り合いも、激しい言い争いも記憶にあるのはほんの数回。だから紺野との言い合いは、まるで子どもの喧嘩だ。
みっともない姿を見せたのに、ユイは目に涙を浮かべて嬉しそうな顔をした。
すぐ怒るし、僕のことは呼び捨てだし、生意気なことも多いけど、表情が猫の目のみたいにくるくるとよく変わる。
急にフラフラとフェンスに近づくユイの目と、この世から消えたいと願う顔。
あれがなくなったのだから、ユイの手をつかんでよかったはずだ。
僕はあの目とあの顔を昔に見たことがある。だからユイの手を離してはいけない。でも、近づきすぎてしまったかもしれない。
「はあああぁぁ、どうしてこうなったんだろ」
「もう、うっとうしいため息をつかないでよ。カナ兄ぃは、いい先生なんでしょう? 先生が嫌ならお父さんの病院で働けばいいのに」
「医師免許、持ってないぞ」
実家が小さな診療所だから、幼い頃から医者になると決めていた。
兄の智也《ともや》と一緒に、どんな病気も治す医者になろうとしたのに、幼すぎる夢は中学生になって消えた。
もともと病気がちだった兄が、小さな骨となって帰宅したからだ。
親父は医者だ。
必ず智也を救ってくれると信じていたのに、裏切られた。その怒りを親父にぶつけてしまった。
それからずっと深い溝ができたまま。
「あたしが医者になって家業を継ぐから、カナ兄ぃはサポートをしてよ。それで万事解決でしょう?」
「ふざけるな。妹の世話にはなりたくない」
香奈恵ならいい医者になれるだろう。僕と違って努力家だ。
ひとつの道を見つけたら、それに向かってまっすぐ進む妹。「智也と同じ病に苦しむ子どもを、ひとりでも多く救いたい」と家を出た、母に似ている。
母は家族よりも、新薬の開発に命をかける人。
智也の死をきっかけに、それぞれが自分の道を進み、家族はバラバラになった。
ユイにも生きる道を見つけてほしい。
死にたいと願う顔は、もう二度と見たくなかった。
「ちょっと疲れたから、少し寝る」
「ご飯は? 最近、また食が細くなったでしょう。マッチョになれとは言わないけど、カナ兄ぃはもっと食べて太らないと」
「梅雨が明けて急に暑くなったから、ただの夏バテだよ」
「よし、それならウナギね。特上うな重、ふたつ~♪ カナ兄ぃのおごりで」
「並、にしてくれ」
「特上ひとつ、並、ひとつね。りょうかーい」
香奈恵は全然わかっていない。非常勤講師の給料の少なさを。
これでは本当に、近い将来妹の世話になっていそうだ。
魂まで抜け落ちそうなため息をついて、僕は部屋に戻った。
このままの状態を続けたら、ユイも今川みたいになってしまうのだろうか?
――ユイって、呼んでよ。
失敗した。
紺野を羨ましがるユイが不思議で、正直な気持ちを伝えた。「ユイの方がかわいいと思うよ」と。
あのときどうして、久遠寺さんと呼ばなかったんだろう。
――名前で呼んでくれますか?
どうしてそこで敬語になるんだ。
羞恥に耐えられないといった態度で目をうるませて、生意気なユイらしくない。
そして僕も、僕らしくない。
ゆっくり目を閉じた。
様々なユイの姿を思い出すけど、最後に浮かぶのは兄、智也だ。
狭い病室に閉じ込められて、窓の外を見ることもできない。
『なあ、奏人。お願いがあるんだ』
白い天井を見つめたまま、感情のない声が耳に届く。
その先は聞きたくない。
どれだけ拒んでも、いつも同じ夢を見る。
眠りたくない。
必死に抵抗しても、意識はまどろみの中へ吸い込まれていった。
夢の中で僕は中学生だった。
兄が生きていた頃の、なつかしいけど苦しい思い出。
入院先の病院まで、無我夢中で自転車をこいでいる。
季節は夏で、過酷な太陽が照りつける中、きっつい坂道をのぼっている。
壁のような坂道を、あと少し、もう少しと念じながら進む。重たくなったペダルに体重をかけると、汗が滝のように流れた。
『再発した。智也はもうダメかもしれない』
セミの鳴き声がうるさすぎて、聞き間違いだと思った。でもすぐに二段ベッドのひとつが空になって、家から兄が消えた。
辛い闘病生活がはじまっても、兄は我慢強く治療に向き合う。
病を克服するために、ICU(集中治療室)に入るほどの重篤な状態に陥っても持ち直して、頑張っていた。
僕はただそれを見ているだけ。
智也のためになにかしたい。
壁のような坂道を立ち止まることなく進めたら、兄の病を消してくれ。そのようなことを勝手に願って、挑戦して、息が苦しくなって、足が止まる。
今日もダメだったとうなだれて、ゼーゼーと肩で息をしながら、智也を救えないもどかしさに半泣きだ。
そのことを話すと、派手に笑いやがった。
『あの坂道を、自転車で? バカだろ。そんなことしないで、空、見てみろよ。面白いから』
坂の下から空を見上げて進んでみた。
街路樹の、葉と葉の隙間からふり注ぐキラキラとした輝きに目が痛い。だが、それ以上に空が青い。
坂道をのぼるにつれて、空がどんどん近づいてくる。青いガラスのように美しい空が、手に届きそう。
目の前のきつい坂道が、どこまでも広がる青い空へと誘う道に見えてくる。
心が躍るのを感じた僕は、さっそく兄に報告した。
『すげぇ、空だった。退院したら、一緒に見にいこう』
約束をしたのに、病は次から次へと襲いかかってくる。
体を痛め、内臓を蝕み、やがて精神を壊していく。
薄暗い病室で、兄ははじめて弱音を吐いた。
『奏人、俺を助けてくれないか?』
助けたい。でも、僕は無力でなにもできない。
どうすればいいのか尋ねると、か細い息のような声で『……殺してくれ』と。
そんなこと、できるはずがない。
『なあに、簡単だよ。そこの果物ナイフで俺を刺せ。血を流せばもう止まらない』
皮と骨だけになった、細すぎる体。
くぼんだ目の奥に底なしの闇が広がって、血の気のない唇からは絶望の言葉しか出てこない。
――やめてくれ!
強すぎる風が吹いた。
僕は、窮屈なネクタイを外して屋上にいる。
『いかなきゃ……』
空は青くて美しいのに、ユイがフラフラとフェンスに近づいていく。
飛び降りる気だ。
手をのばした。
でもつかめない。
いつだって届かない。
それは、僕が逃げたから。
親父は医者を続けている。
母は研究に没頭して、命を救うことだけを考えている。
香奈恵も医学の道を選んだ。
逃げて選んだ、教師への道。
僕は、いい先生にはなれない。
『辛そうだな』
振り返ると智也がいる。
『奏人もこっちへくるか?』
小さな手が差し出された。
これをつかむと、どうなる?
「カナ兄ぃ、起きてッ!!」
香奈恵の大声に、ハッと目が覚めた。
「夢……。智也の夢を見たよ」
「知ってる。兄ちゃんってつぶやいてた」
「そっか」
右目から涙がこぼれた。
苦しい闘病生活に「……殺してくれ」と頼む姿。
暗くて冷たい、生気を失ったまなざしで死にたがる姿。
僕はなにもできなかった。
「カナ兄ぃ、ご飯だよ。あったかいうちに食べよう」
テレビや映画をみて涙ぐむと「男が泣いてみっともなぁーい」とはやし立てるのに、こういうときはなにも言わない。
香奈恵の心遣いが身に染みる。
ふとどこかの詩人の言葉を思い出した。
人の心は見えない。でも「心遣い」は見える。それと同じように、胸の奥にある思いは誰にも見えない。けれど「思いやり」は見える。そんな感じの言葉。
ユイが僕に「いい先生」を求めるなら、それに応えよう。
光を失った死んだ目を見るのはもう嫌だ。
傷つけ、傷つけられる未来かもしれないが、それでもユイが無事に卒業できることを願っている。
そのときはふたりで笑っていると……いいな。
そもそも僕はどうしてこの職に就いた?
作者の気持ちや考えを書きなさい、って問題よりも、スパッと答えが出る数学が好きだった。
解けない問題でも、あの手この手を使って正解を探すのが楽しい。
大学は親の期待を裏切って数学科へ入学した。
そこでこれまで習ってきた数学は解けることが前提で、世の中には解けない方程式が山ほどあることを知る。
むしろ解ける問題の方が少なくて衝撃を受けた。
それでも面白い。
ただ、「数学科の就職は難しい」と言われるから、なにか資格がほしくて教職課程を履修した。
しかし、教育実習がはじまる。
朝から晩まで立ちっぱなし。授業の打ち合わせや報告書の作成に追われて、目が回る忙しさを体験した。
このときすでに「僕は教師に向いていない」それが答えだったが、教育実習最終日に一生忘れられない贈り物をもらってしまう。
ほんの十分クラスを離れて、戻ってきたときのことだった。
『水樹先生、ありがとうー!!』
目の前でクラッカーが鳴り、僕は紙吹雪に包まれた。
今日で最後だから、感謝の気持ちを込めて綺麗に消したはずの黒板に、僕の好きなキャラクターが描かれて、『いい先生になれよ!』と。
チョークで黒板に文字を書くのは難しかった。それなのに赤や緑のチョークをうまく使って、たった十分の間にアート作品のような絵を完成させていた。
それから生徒からのメッセージが詰まった色紙に、いったいどこに隠してたんだ? と首を傾げたくなるほどの花束。
僕は半人前以下なのに、思いがけないプレゼントを受け取って泣きそうになった。
『水樹くん、教師という仕事はブラックだ。しかも想像以上のブラックだ。でもね、やんちゃで手を焼いた生徒たちからサプライズがあって、素敵な笑顔や嬉しい涙であふれててね。それがあるから、やめられない。先生とはそういう職業だよ』
恩師からの言葉。
僕の未来が決まった瞬間だった。
「あれ、カナ兄ぃ。帰ってたの?」
妹の香奈恵がリビングの電気をつけた。
「さっき帰ってきたところ」
「ウソつき。電気もつけないで、ぼーっとしてた。なにかあったの?」
「……今日学校で、いい先生って言われた」
「ん? よかったじゃん」
「よくないよ。着替えてくる」
部屋に入ると疲れがどっと押し寄せてきて、そのままベッドに倒れ込んだ。
久遠寺ユイを最初に見かけたのは、凍える冬。
吐く息は白く、吹き付ける風が針のように突き刺さる季節なのに、校舎の陰に隠れてパンをかじっていた。
真っ赤な手と頬が痛々しくて目にとまったが、知らない生徒だったので声をかけなかった。
平塚先生と話をしているところも見た。
涙をこらえて必死に訴える姿が印象的だった。でも最終的には感情を爆発させて、教室を飛び出していく。
激しすぎる姿に興味を持った。
『平塚先生、今の生徒は?』
『やだ、水樹先生。見てたんですか? あの子は久遠寺ユイですよ。ほら、いっとき話題になったでしょう。俳優、久遠寺公康の娘って』
『へぇー』
芸能の話に疎い僕でも、久遠寺公康は知っている。
なにかと話題になる派手好きだ。ユイはその娘なのに、他人を寄せつけない雰囲気があった。
『だからひとりでパンをかじってるのか。有名人の娘も大変ですね』
他人事のように話をしたら、平塚先生はため息交じりで吐き捨てるように話を続けた。
『久遠寺の家庭環境が複雑すぎて、扱いにくいんですよ。勉強を頑張ってくれたら、もっと目をかけてやれるけど。見てください、この成績』
入学当初はそこそこの成績だったが、二学期から酷い数字が並んでいる。
『久遠寺に転校をすすめたら、さっきの通り大激怒ですよ。ここは国公立大学を目指さない生徒には厳しいでしょう。単位を落として留年する前に、決めさせないと』
『進学校は大変ですね』
『勉強についていけない生徒が転校して、明るさを取り戻した話もたくさんありますから。それより水樹先生、今晩、飲みにいきませんか?』
『あー、妹がうるさいから、やめときます』
そそくさと逃げ出した。
問題を抱え込んだ生徒。それが久遠寺ユイで、気になるけど僕にできることはなにもない。
それでそのまま終わるはずだった。
鉄の扉が開くまで。
うっかり屋上に閉じ込められた日、僕は慌ててスマホを取り出した。
でも連絡先は先生ばかり。屋上にいることがバレたらクビが飛ぶ。
非常勤なんて弱い立場だ。
妹が帰宅する時間まで我慢するしかない。しかし、トイレが……。
あれこれ考えて焦っていたとき、鉄の扉を蹴る大きな音が響いた。
扉の向こうに誰かいる。
それだけで救われた気分だった。
開けてくれと頼んで、ゆっくりと鉄の扉が開くと僕は言葉を失う。
目の周りを赤く腫らして、酷く怯えた顔のユイがいた。
あまりの偶然に嬉しくなって思わず……抱きついたのは軽率だった。ボコボコに殴られても文句は言えない。
でもユイの目がうつろで、表情も硬い。
どうにかして打ち解けようと、僕はしゃべり続けた。自分のことをひたすら話したのは、はじめてかもしれない。
そしてこの偶然がなければ、僕はユイを見捨てていた。
関係ない生徒として……。
「いいセンセイー。お父さんから電話だよー」
茶化すような香奈恵の声が、暗い部屋に飛び込んできた。
「へいへい」
受話器を受け取ると、威厳に満ちた声がする。
複雑な家庭環境。
ユイほどではないが、僕のところも似ていた。
研究家の母は日本を飛び出して帰ってこない。医者の親父とはそりが合わない。
やっとひとり暮らしをはじめても、たった数年で「ここは駅前で大学に通いやすいから」と、香奈恵がやってきて親父からの電話が増えた。
最初はちょっとした医療事務の依頼。
小遣い稼ぎになるから快く引き受けたが、「奏人が医者になってくれたら」からはじまって、「香奈恵はどうしてる?」で、あとはずっと香奈恵の話。
親父は香奈恵のことが心配で、僕に仕事を運んでくる。
自分の娘なのに、わざわざ僕を通さないといけない不器用な人だ。
母への不満も僕に押しつけて、愚痴ばかり。そんな親父の盾になるのが嫌で家を出たんだけどなぁ……。
まあ香奈恵の生活費として、なにかと資金援助してくれるのはありがたい。それなのにユイには「大人には大人の考え方がある」なんて偉そうに言って。
――水樹はいい先生だよ。
ふと必死になって慰めようとする、ユイの姿を思い出した。
いい先生は、叱られたことを生徒のせいにしないし、愚痴なんてこぼさないんだよ。
クビになるかも、なんて情けないことも言わない。
責任感の強いユイのことだから、僕の言葉を気にしているかもしれない。
悪いことしたなぁ。
『奏人、聞いてるのか?』
野太い親父の声にハッとした。
「聞いてます。今日は疲れてるのでまた……」
最近疲れやすくて、長時間立っていられない。
ふぅと肩で息をして、椅子に腰かけた。
「ねえ、やっぱりなにかあったでしょう」
香奈恵が心配半分、好奇心半分な顔で聞いてきた。
適当に誤魔化そうとしたが、じっと僕を見据える香奈恵の目は、小さなウソひとつ逃すまいと真剣だ。
「少し前に、生徒が突き飛ばされるところを見たんだ。助けに入ったら、翌日からクレームの嵐で、今日なんか」
「女子生徒を助けたの?」
ムッとした声に話が途切れた。
「今まで女子生徒に関わっていいことあった?」
「目の前でいじめがあったら、見逃せないだろ」
「大学の近くで、今川桃佳に会ったわよ。カナ兄ぃのこと聞かれた。また同じことを繰り返すつもり?」
「…………」
鋭利な刃物のように、鋭く突き刺さる言葉。
今川は、おとなしくて真面目な生徒だった。
長い髪をおさげにして、前髪はきっちり眉毛の上。校則に文句を言う生徒が多い中、誰よりも校則を守っていた。
あまりにも几帳面な性格だから、新任の僕が頼りなく見えたのだろう。
指導教官役の先生よりも鋭い目を光らせて、僕が失敗する前に色々とフォローしてくれた。
頼りになる生徒、それが今川だった。
だから自然と話す機会が増えていく。
だが、最初に違和感を覚えたのは「水樹先生の家にいきたい」と言い出したとき。
教壇に立っても、僕はまだ一年目。試用期間に過ぎない。
公私ともに問題を起こせば、採用を取り消されることもある。
丁寧に断ったが、今川は諦めなかった。
偶然、街中で今川と出会った。
控えめなロングスカートだが、化粧をしている。学校では絶対に見せない、意外な姿で似合っていない。
軽く挨拶をして、その場を離れようとしたが「水樹先生、一枚だけ! 一緒に写真、お願いします」と、スマホを差し出した。
一枚ぐらいなら……、それが過ちだった。
おとなしくて控えめな今川が僕の腕にしがみつき、シャッター音がなる。
それからだ。教室の雰囲気がガラリと変わった。
生徒たちとの距離が微妙に開いた。ヒソヒソ話す声も聞こえる。
少し戸惑ったが、仕事が山のようにふってくる。
若いからと言って、運動部をふたつも任された。
働かない先生の仕事まで押しつけてくる。
休む暇もなく、がむしゃらに働いたが、校長室に呼び出された。
『今川桃佳くんと付き合ってるという話は、本当か?』
耳を疑った。
校長は一枚の写真を僕に突きつけた。
今川には色々と助けてもらっていたから、一枚ぐらいならと撮った写真。
腕を組んでいるが、そんなんじゃない。
僕は激しく抗議した。
クラスのよそよそしい態度。デマがどこまで広がっているのか。そもそも誰がそんなウソを……。
厳重注意を受けたあと、僕の仕事がますます増える。
無意味な研修会に、無駄な出張。クラスの生徒と話す機会がぐんと減って、担任らしくない担任になっていた。
一生懸命になればなるほど、ズブズブと沈んでいく泥沼のような道。それでも助けてくれる先生の手を借りながら、必死に頑張っていた。
それなのに、また今川が――。
『水樹先生は、生徒を蔑ろにしてサボってる』
僕の忙しさを一ミリも知らないくせに、騒ぎ立てた。
ムカついた。腹が立った。そもそも誰のせいでこんなことに……いや、僕が悪かった。
今川が頼りになるから、都合よく甘えている部分もあった。
贔屓しているつもりはなかったが、そう見られても仕方がない。
今川から大きく距離をとった。
これ以上のトラブルはごめんだから、他の生徒より冷たくなったかもしれない。
すると今川が狂いはじめた。
家の周りをウロウロしている。
妹の香奈恵を彼女と勘違いして、「未成年の女を連れ込んでいる」と警察に通報したり、あのときの写真をばらまいたり。
とうとう、保護者を呼び出しての話し合いになった。
そこでも今川は普通ではなかった。
血走った目を僕に向けて「私は水樹先生を愛してます!!」と。
付き合っている、結婚の約束をした、その証拠はこの写真。ビリビリと耳に響くほどの大声で、ウソばっかり。
はじめて女が怖いと思った。
今川の保護者もかんしゃく持ちで、「娘をたぶらかした」とか「洗脳した」とか理不尽な言葉がずらりと並ぶ。
僕はひとつずつ、丁寧に説明をして、今川の矛盾点をつくしかなかった。
最終的に、これまでのことはすべて今川の暴走で、付き合った事実はない。結婚の約束もしていない。ウソを暴くことに成功したが、これだけのゴタゴタを起こせば、二年目はない。
そこの学校は一年間でさようなら。思い出しただけでも気が滅入る。
今川は災難しか運んでこなかったが、多くのことも学べた。
「……結婚したい」
「カナ兄ぃが結婚? 相手は、誰なの?」
香奈恵が僕の胸ぐらをつかみ、容赦なく揺さぶった。
「やめろ、苦しい。結婚してたら「妻がいるから」で、全部片付くだろ」
「バッカねぇ、あのストーカー女がそんなことで諦めると思う? カナ兄ぃが結婚したら、お嫁さんを刺しに来るわよ」
鼻で笑われた。
「そこまでするか?」
まったく、理解できない。
人を刺すような人間と添い遂げたいなんて思うはずがない。
好かれたいはずなのに、なぜ嫌われるようなことをするのか。その神経がわからない。
「ストーカーのおぞましい事件、たくさんあるよね。もと教え子だとしても、油断しないで。ここがバレたら、絶対に押しかけてくるよ。ご近所さんを巻き込んで大騒ぎになったら、また引っ越し。それでもいいの?」
ふと視線を宙に浮かせて、貯金残高を考えた。
引っ越し費用を考えると頭が痛くなる。
「そのときは僕だけで引っ越すから安心しろ」
「だいたい、カナ兄ぃは昔から女に甘いのよ。女子生徒には近づかない! これだけでいいのに、すーぐ優しくするから。勘違いした女は怖いよ~」
「でも目の前で突き飛ばされたら」
ユイが本当に危ない転び方をしたから、ついカッとなった。
そのあとは、思い出すだけでも恥ずかしい。
そもそも僕は、あまり喧嘩をしてこなかった。殴り合いも、激しい言い争いも記憶にあるのはほんの数回。だから紺野との言い合いは、まるで子どもの喧嘩だ。
みっともない姿を見せたのに、ユイは目に涙を浮かべて嬉しそうな顔をした。
すぐ怒るし、僕のことは呼び捨てだし、生意気なことも多いけど、表情が猫の目のみたいにくるくるとよく変わる。
急にフラフラとフェンスに近づくユイの目と、この世から消えたいと願う顔。
あれがなくなったのだから、ユイの手をつかんでよかったはずだ。
僕はあの目とあの顔を昔に見たことがある。だからユイの手を離してはいけない。でも、近づきすぎてしまったかもしれない。
「はあああぁぁ、どうしてこうなったんだろ」
「もう、うっとうしいため息をつかないでよ。カナ兄ぃは、いい先生なんでしょう? 先生が嫌ならお父さんの病院で働けばいいのに」
「医師免許、持ってないぞ」
実家が小さな診療所だから、幼い頃から医者になると決めていた。
兄の智也《ともや》と一緒に、どんな病気も治す医者になろうとしたのに、幼すぎる夢は中学生になって消えた。
もともと病気がちだった兄が、小さな骨となって帰宅したからだ。
親父は医者だ。
必ず智也を救ってくれると信じていたのに、裏切られた。その怒りを親父にぶつけてしまった。
それからずっと深い溝ができたまま。
「あたしが医者になって家業を継ぐから、カナ兄ぃはサポートをしてよ。それで万事解決でしょう?」
「ふざけるな。妹の世話にはなりたくない」
香奈恵ならいい医者になれるだろう。僕と違って努力家だ。
ひとつの道を見つけたら、それに向かってまっすぐ進む妹。「智也と同じ病に苦しむ子どもを、ひとりでも多く救いたい」と家を出た、母に似ている。
母は家族よりも、新薬の開発に命をかける人。
智也の死をきっかけに、それぞれが自分の道を進み、家族はバラバラになった。
ユイにも生きる道を見つけてほしい。
死にたいと願う顔は、もう二度と見たくなかった。
「ちょっと疲れたから、少し寝る」
「ご飯は? 最近、また食が細くなったでしょう。マッチョになれとは言わないけど、カナ兄ぃはもっと食べて太らないと」
「梅雨が明けて急に暑くなったから、ただの夏バテだよ」
「よし、それならウナギね。特上うな重、ふたつ~♪ カナ兄ぃのおごりで」
「並、にしてくれ」
「特上ひとつ、並、ひとつね。りょうかーい」
香奈恵は全然わかっていない。非常勤講師の給料の少なさを。
これでは本当に、近い将来妹の世話になっていそうだ。
魂まで抜け落ちそうなため息をついて、僕は部屋に戻った。
このままの状態を続けたら、ユイも今川みたいになってしまうのだろうか?
――ユイって、呼んでよ。
失敗した。
紺野を羨ましがるユイが不思議で、正直な気持ちを伝えた。「ユイの方がかわいいと思うよ」と。
あのときどうして、久遠寺さんと呼ばなかったんだろう。
――名前で呼んでくれますか?
どうしてそこで敬語になるんだ。
羞恥に耐えられないといった態度で目をうるませて、生意気なユイらしくない。
そして僕も、僕らしくない。
ゆっくり目を閉じた。
様々なユイの姿を思い出すけど、最後に浮かぶのは兄、智也だ。
狭い病室に閉じ込められて、窓の外を見ることもできない。
『なあ、奏人。お願いがあるんだ』
白い天井を見つめたまま、感情のない声が耳に届く。
その先は聞きたくない。
どれだけ拒んでも、いつも同じ夢を見る。
眠りたくない。
必死に抵抗しても、意識はまどろみの中へ吸い込まれていった。
夢の中で僕は中学生だった。
兄が生きていた頃の、なつかしいけど苦しい思い出。
入院先の病院まで、無我夢中で自転車をこいでいる。
季節は夏で、過酷な太陽が照りつける中、きっつい坂道をのぼっている。
壁のような坂道を、あと少し、もう少しと念じながら進む。重たくなったペダルに体重をかけると、汗が滝のように流れた。
『再発した。智也はもうダメかもしれない』
セミの鳴き声がうるさすぎて、聞き間違いだと思った。でもすぐに二段ベッドのひとつが空になって、家から兄が消えた。
辛い闘病生活がはじまっても、兄は我慢強く治療に向き合う。
病を克服するために、ICU(集中治療室)に入るほどの重篤な状態に陥っても持ち直して、頑張っていた。
僕はただそれを見ているだけ。
智也のためになにかしたい。
壁のような坂道を立ち止まることなく進めたら、兄の病を消してくれ。そのようなことを勝手に願って、挑戦して、息が苦しくなって、足が止まる。
今日もダメだったとうなだれて、ゼーゼーと肩で息をしながら、智也を救えないもどかしさに半泣きだ。
そのことを話すと、派手に笑いやがった。
『あの坂道を、自転車で? バカだろ。そんなことしないで、空、見てみろよ。面白いから』
坂の下から空を見上げて進んでみた。
街路樹の、葉と葉の隙間からふり注ぐキラキラとした輝きに目が痛い。だが、それ以上に空が青い。
坂道をのぼるにつれて、空がどんどん近づいてくる。青いガラスのように美しい空が、手に届きそう。
目の前のきつい坂道が、どこまでも広がる青い空へと誘う道に見えてくる。
心が躍るのを感じた僕は、さっそく兄に報告した。
『すげぇ、空だった。退院したら、一緒に見にいこう』
約束をしたのに、病は次から次へと襲いかかってくる。
体を痛め、内臓を蝕み、やがて精神を壊していく。
薄暗い病室で、兄ははじめて弱音を吐いた。
『奏人、俺を助けてくれないか?』
助けたい。でも、僕は無力でなにもできない。
どうすればいいのか尋ねると、か細い息のような声で『……殺してくれ』と。
そんなこと、できるはずがない。
『なあに、簡単だよ。そこの果物ナイフで俺を刺せ。血を流せばもう止まらない』
皮と骨だけになった、細すぎる体。
くぼんだ目の奥に底なしの闇が広がって、血の気のない唇からは絶望の言葉しか出てこない。
――やめてくれ!
強すぎる風が吹いた。
僕は、窮屈なネクタイを外して屋上にいる。
『いかなきゃ……』
空は青くて美しいのに、ユイがフラフラとフェンスに近づいていく。
飛び降りる気だ。
手をのばした。
でもつかめない。
いつだって届かない。
それは、僕が逃げたから。
親父は医者を続けている。
母は研究に没頭して、命を救うことだけを考えている。
香奈恵も医学の道を選んだ。
逃げて選んだ、教師への道。
僕は、いい先生にはなれない。
『辛そうだな』
振り返ると智也がいる。
『奏人もこっちへくるか?』
小さな手が差し出された。
これをつかむと、どうなる?
「カナ兄ぃ、起きてッ!!」
香奈恵の大声に、ハッと目が覚めた。
「夢……。智也の夢を見たよ」
「知ってる。兄ちゃんってつぶやいてた」
「そっか」
右目から涙がこぼれた。
苦しい闘病生活に「……殺してくれ」と頼む姿。
暗くて冷たい、生気を失ったまなざしで死にたがる姿。
僕はなにもできなかった。
「カナ兄ぃ、ご飯だよ。あったかいうちに食べよう」
テレビや映画をみて涙ぐむと「男が泣いてみっともなぁーい」とはやし立てるのに、こういうときはなにも言わない。
香奈恵の心遣いが身に染みる。
ふとどこかの詩人の言葉を思い出した。
人の心は見えない。でも「心遣い」は見える。それと同じように、胸の奥にある思いは誰にも見えない。けれど「思いやり」は見える。そんな感じの言葉。
ユイが僕に「いい先生」を求めるなら、それに応えよう。
光を失った死んだ目を見るのはもう嫌だ。
傷つけ、傷つけられる未来かもしれないが、それでもユイが無事に卒業できることを願っている。
そのときはふたりで笑っていると……いいな。