いい先生ってなんだろう?
 そもそも僕はどうしてこの職に就いた?
 
 作者の気持ちや考えを書きなさい、って問題よりも、スパッと答えが出る数学が好きだった。
 解けない問題でも、あの手この手を使って正解を探すのが楽しい。

 大学は親の期待を裏切って数学科へ入学した。
 そこでこれまで習ってきた数学は解けることが前提で、世の中には解けない方程式が山ほどあることを知る。
 むしろ解ける問題の方が少なくて衝撃を受けた。
 それでも面白い。

 ただ、「数学科の就職は難しい」と言われるから、なにか資格がほしくて教職課程を履修した。
 しかし、教育実習がはじまる。
 朝から晩まで立ちっぱなし。授業の打ち合わせや報告書の作成に追われて、目が回る忙しさを体験した。

 このときすでに「僕は教師に向いていない」それが答えだったが、教育実習最終日に一生忘れられない贈り物をもらってしまう。
 ほんの十分クラスを離れて、戻ってきたときのことだった。

『水樹先生、ありがとうー!!』

 目の前でクラッカーが鳴り、僕は紙吹雪に包まれた。
 今日で最後だから、感謝の気持ちを込めて綺麗に消したはずの黒板に、僕の好きなキャラクターが描かれて、『いい先生になれよ!』と。

 チョークで黒板に文字を書くのは難しかった。それなのに赤や緑のチョークをうまく使って、たった十分の間にアート作品のような絵を完成させていた。

 それから生徒からのメッセージが詰まった色紙に、いったいどこに隠してたんだ? と首を傾げたくなるほどの花束。
 僕は半人前以下なのに、思いがけないプレゼントを受け取って泣きそうになった。

『水樹くん、教師という仕事はブラックだ。しかも想像以上のブラックだ。でもね、やんちゃで手を焼いた生徒たちからサプライズがあって、素敵な笑顔や嬉しい涙であふれててね。それがあるから、やめられない。先生とはそういう職業だよ』

 恩師からの言葉。
 僕の未来が決まった瞬間だった。

「あれ、カナ()ぃ。帰ってたの?」

 妹の香奈恵(かなえ)がリビングの電気をつけた。

「さっき帰ってきたところ」
「ウソつき。電気もつけないで、ぼーっとしてた。なにかあったの?」

「……今日学校で、いい先生って言われた」
「ん? よかったじゃん」
「よくないよ。着替えてくる」

 部屋に入ると疲れがどっと押し寄せてきて、そのままベッドに倒れ込んだ。
 久遠寺ユイを最初に見かけたのは、凍える冬。

 吐く息は白く、吹き付ける風が針のように突き刺さる季節なのに、校舎の陰に隠れてパンをかじっていた。
 真っ赤な手と頬が痛々しくて目にとまったが、知らない生徒だったので声をかけなかった。

 平塚先生と話をしているところも見た。
 涙をこらえて必死に訴える姿が印象的だった。でも最終的には感情を爆発させて、教室を飛び出していく。
 激しすぎる姿に興味を持った。

『平塚先生、今の生徒は?』
『やだ、水樹先生。見てたんですか? あの子は久遠寺ユイですよ。ほら、いっとき話題になったでしょう。俳優、久遠寺公康の娘って』
『へぇー』

 芸能の話に疎い僕でも、久遠寺公康は知っている。
 なにかと話題になる派手好きだ。ユイはその娘なのに、他人を寄せつけない雰囲気があった。

『だからひとりでパンをかじってるのか。有名人の娘も大変ですね』

 他人事のように話をしたら、平塚先生はため息交じりで吐き捨てるように話を続けた。

『久遠寺の家庭環境が複雑すぎて、扱いにくいんですよ。勉強を頑張ってくれたら、もっと目をかけてやれるけど。見てください、この成績』

 入学当初はそこそこの成績だったが、二学期から酷い数字が並んでいる。

『久遠寺に転校をすすめたら、さっきの通り大激怒ですよ。ここは国公立大学を目指さない生徒には厳しいでしょう。単位を落として留年する前に、決めさせないと』
『進学校は大変ですね』

『勉強についていけない生徒が転校して、明るさを取り戻した話もたくさんありますから。それより水樹先生、今晩、飲みにいきませんか?』
『あー、妹がうるさいから、やめときます』

 そそくさと逃げ出した。
 問題を抱え込んだ生徒。それが久遠寺ユイで、気になるけど僕にできることはなにもない。

 それでそのまま終わるはずだった。
 鉄の扉が開くまで。

 うっかり屋上に閉じ込められた日、僕は慌ててスマホを取り出した。
 でも連絡先は先生ばかり。屋上にいることがバレたらクビが飛ぶ。

 非常勤なんて弱い立場だ。
 妹が帰宅する時間まで我慢するしかない。しかし、トイレが……。
 あれこれ考えて焦っていたとき、鉄の扉を蹴る大きな音が響いた。

 扉の向こうに誰かいる。
 それだけで救われた気分だった。
 
 開けてくれと頼んで、ゆっくりと鉄の扉が開くと僕は言葉を失う。
 目の周りを赤く腫らして、酷く怯えた顔のユイがいた。

 あまりの偶然に嬉しくなって思わず……抱きついたのは軽率だった。ボコボコに殴られても文句は言えない。
 でもユイの目がうつろで、表情も硬い。

 どうにかして打ち解けようと、僕はしゃべり続けた。自分のことをひたすら話したのは、はじめてかもしれない。
 そしてこの偶然がなければ、僕はユイを見捨てていた。
 関係ない生徒として……。

「いいセンセイー。お父さんから電話だよー」

 茶化すような香奈恵の声が、暗い部屋に飛び込んできた。

「へいへい」

 受話器を受け取ると、威厳に満ちた声がする。
 複雑な家庭環境。
 ユイほどではないが、僕のところも似ていた。

 研究家の母は日本を飛び出して帰ってこない。医者の親父とはそりが合わない。
 やっとひとり暮らしをはじめても、たった数年で「ここは駅前で大学に通いやすいから」と、香奈恵がやってきて親父からの電話が増えた。

 最初はちょっとした医療事務の依頼。
 小遣い稼ぎになるから快く引き受けたが、「奏人が医者になってくれたら」からはじまって、「香奈恵はどうしてる?」で、あとはずっと香奈恵の話。

 親父は香奈恵のことが心配で、僕に仕事を運んでくる。
 自分の娘なのに、わざわざ僕を通さないといけない不器用な人だ。

 母への不満も僕に押しつけて、愚痴ばかり。そんな親父の盾になるのが嫌で家を出たんだけどなぁ……。
 まあ香奈恵の生活費として、なにかと資金援助してくれるのはありがたい。それなのにユイには「大人には大人の考え方がある」なんて偉そうに言って。

 ――水樹はいい先生だよ。

 ふと必死になって慰めようとする、ユイの姿を思い出した。

 いい先生は、叱られたことを生徒のせいにしないし、愚痴なんてこぼさないんだよ。
 クビになるかも、なんて情けないことも言わない。

 責任感の強いユイのことだから、僕の言葉を気にしているかもしれない。
 悪いことしたなぁ。

『奏人、聞いてるのか?』

 野太い親父の声にハッとした。

「聞いてます。今日は疲れてるのでまた……」

 最近疲れやすくて、長時間立っていられない。
 ふぅと肩で息をして、椅子に腰かけた。

「ねえ、やっぱりなにかあったでしょう」

 香奈恵が心配半分、好奇心半分な顔で聞いてきた。
 適当に誤魔化そうとしたが、じっと僕を見据える香奈恵の目は、小さなウソひとつ逃すまいと真剣だ。

「少し前に、生徒が突き飛ばされるところを見たんだ。助けに入ったら、翌日からクレームの嵐で、今日なんか」
「女子生徒を助けたの?」

 ムッとした声に話が途切れた。

「今まで女子生徒に関わっていいことあった?」
「目の前でいじめがあったら、見逃せないだろ」
「大学の近くで、今川(いまがわ)桃佳(ももか)に会ったわよ。カナ兄ぃのこと聞かれた。また同じことを繰り返すつもり?」
「…………」

 鋭利な刃物のように、鋭く突き刺さる言葉。
 今川は、おとなしくて真面目な生徒だった。

 長い髪をおさげにして、前髪はきっちり眉毛の上。校則に文句を言う生徒が多い中、誰よりも校則を守っていた。
 あまりにも几帳面な性格だから、新任の僕が頼りなく見えたのだろう。
 指導教官役の先生よりも鋭い目を光らせて、僕が失敗する前に色々とフォローしてくれた。

 頼りになる生徒、それが今川だった。
 だから自然と話す機会が増えていく。

 だが、最初に違和感を覚えたのは「水樹先生の家にいきたい」と言い出したとき。
 教壇に立っても、僕はまだ一年目。試用期間に過ぎない。
  
 公私ともに問題を起こせば、採用を取り消されることもある。 
 丁寧に断ったが、今川は諦めなかった。

 偶然、街中で今川と出会った。
 控えめなロングスカートだが、化粧をしている。学校では絶対に見せない、意外な姿で似合っていない。

 軽く挨拶をして、その場を離れようとしたが「水樹先生、一枚だけ! 一緒に写真、お願いします」と、スマホを差し出した。
 一枚ぐらいなら……、それが過ちだった。

 おとなしくて控えめな今川が僕の腕にしがみつき、シャッター音がなる。
 それからだ。教室の雰囲気がガラリと変わった。

 生徒たちとの距離が微妙に開いた。ヒソヒソ話す声も聞こえる。
 少し戸惑ったが、仕事が山のようにふってくる。

 若いからと言って、運動部をふたつも任された。
 働かない先生の仕事まで押しつけてくる。
 休む暇もなく、がむしゃらに働いたが、校長室に呼び出された。

『今川桃佳くんと付き合ってるという話は、本当か?』

 耳を疑った。
 校長は一枚の写真を僕に突きつけた。
 今川には色々と助けてもらっていたから、一枚ぐらいならと撮った写真。

 腕を組んでいるが、そんなんじゃない。
 僕は激しく抗議した。

 クラスのよそよそしい態度。デマがどこまで広がっているのか。そもそも誰がそんなウソを……。
 厳重注意を受けたあと、僕の仕事がますます増える。
 無意味な研修会に、無駄な出張。クラスの生徒と話す機会がぐんと減って、担任らしくない担任になっていた。
 
 一生懸命になればなるほど、ズブズブと沈んでいく泥沼のような道。それでも助けてくれる先生の手を借りながら、必死に頑張っていた。
 それなのに、また今川が――。

『水樹先生は、生徒を蔑ろにしてサボってる』

 僕の忙しさを一ミリも知らないくせに、騒ぎ立てた。
 ムカついた。腹が立った。そもそも誰のせいでこんなことに……いや、僕が悪かった。
 今川が頼りになるから、都合よく甘えている部分もあった。
 贔屓(ひいき)しているつもりはなかったが、そう見られても仕方がない。

 今川から大きく距離をとった。
 これ以上のトラブルはごめんだから、他の生徒より冷たくなったかもしれない。
 すると今川が狂いはじめた。

 家の周りをウロウロしている。
 妹の香奈恵を彼女と勘違いして、「未成年の女を連れ込んでいる」と警察に通報したり、あのときの写真をばらまいたり。

 とうとう、保護者を呼び出しての話し合いになった。
 そこでも今川は普通ではなかった。
 血走った目を僕に向けて「私は水樹先生を愛してます!!」と。

 付き合っている、結婚の約束をした、その証拠はこの写真。ビリビリと耳に響くほどの大声で、ウソばっかり。
 はじめて女が怖いと思った。

 今川の保護者もかんしゃく持ちで、「娘をたぶらかした」とか「洗脳した」とか理不尽な言葉がずらりと並ぶ。
 僕はひとつずつ、丁寧に説明をして、今川の矛盾点をつくしかなかった。

 最終的に、これまでのことはすべて今川の暴走で、付き合った事実はない。結婚の約束もしていない。ウソを暴くことに成功したが、これだけのゴタゴタを起こせば、二年目はない。
 そこの学校は一年間でさようなら。思い出しただけでも気が滅入る。

 今川は災難しか運んでこなかったが、多くのことも学べた。

「……結婚したい」
「カナ兄ぃが結婚? 相手は、誰なの?」

 香奈恵が僕の胸ぐらをつかみ、容赦なく揺さぶった。

「やめろ、苦しい。結婚してたら「妻がいるから」で、全部片付くだろ」
「バッカねぇ、あのストーカー女がそんなことで諦めると思う? カナ兄ぃが結婚したら、お嫁さんを刺しに来るわよ」

 鼻で笑われた。

「そこまでするか?」

 まったく、理解できない。
 人を刺すような人間と添い遂げたいなんて思うはずがない。
 好かれたいはずなのに、なぜ嫌われるようなことをするのか。その神経がわからない。

「ストーカーのおぞましい事件、たくさんあるよね。もと教え子だとしても、油断しないで。ここがバレたら、絶対に押しかけてくるよ。ご近所さんを巻き込んで大騒ぎになったら、また引っ越し。それでもいいの?」

 ふと視線を宙に浮かせて、貯金残高を考えた。
 引っ越し費用を考えると頭が痛くなる。

「そのときは僕だけで引っ越すから安心しろ」
「だいたい、カナ兄ぃは昔から女に甘いのよ。女子生徒には近づかない! これだけでいいのに、すーぐ優しくするから。勘違いした女は怖いよ~」
「でも目の前で突き飛ばされたら」

 ユイが本当に危ない転び方をしたから、ついカッとなった。
 そのあとは、思い出すだけでも恥ずかしい。

 そもそも僕は、あまり喧嘩をしてこなかった。殴り合いも、激しい言い争いも記憶にあるのはほんの数回。だから紺野との言い合いは、まるで子どもの喧嘩だ。
 みっともない姿を見せたのに、ユイは目に涙を浮かべて嬉しそうな顔をした。

 すぐ怒るし、僕のことは呼び捨てだし、生意気なことも多いけど、表情が猫の目のみたいにくるくるとよく変わる。
 急にフラフラとフェンスに近づくユイの目と、この世から消えたいと願う顔。
 あれがなくなったのだから、ユイの手をつかんでよかったはずだ。

 僕はあの目とあの顔を昔に見たことがある。だからユイの手を離してはいけない。でも、近づきすぎてしまったかもしれない。

「はあああぁぁ、どうしてこうなったんだろ」
「もう、うっとうしいため息をつかないでよ。カナ兄ぃは、いい先生なんでしょう? 先生が嫌ならお父さんの病院で働けばいいのに」
「医師免許、持ってないぞ」

 実家が小さな診療所だから、幼い頃から医者になると決めていた。
 兄の智也《ともや》と一緒に、どんな病気も治す医者になろうとしたのに、幼すぎる夢は中学生になって消えた。
 もともと病気がちだった兄が、小さな骨となって帰宅したからだ。

 親父は医者だ。
 必ず智也を救ってくれると信じていたのに、裏切られた。その怒りを親父にぶつけてしまった。
 それからずっと深い溝ができたまま。

「あたしが医者になって家業を継ぐから、カナ兄ぃはサポートをしてよ。それで万事解決でしょう?」
「ふざけるな。妹の世話にはなりたくない」

 香奈恵ならいい医者になれるだろう。僕と違って努力家だ。
 ひとつの道を見つけたら、それに向かってまっすぐ進む妹。「智也と同じ病に苦しむ子どもを、ひとりでも多く救いたい」と家を出た、母に似ている。

 母は家族よりも、新薬の開発に命をかける人。
 智也の死をきっかけに、それぞれが自分の道を進み、家族はバラバラになった。

 ユイにも生きる道を見つけてほしい。
 死にたいと願う顔は、もう二度と見たくなかった。

「ちょっと疲れたから、少し寝る」
「ご飯は? 最近、また食が細くなったでしょう。マッチョになれとは言わないけど、カナ兄ぃはもっと食べて太らないと」

「梅雨が明けて急に暑くなったから、ただの夏バテだよ」
「よし、それならウナギね。特上うな重、ふたつ~♪ カナ兄ぃのおごりで」

「並、にしてくれ」
「特上ひとつ、並、ひとつね。りょうかーい」

 香奈恵は全然わかっていない。非常勤講師の給料の少なさを。
 これでは本当に、近い将来妹の世話になっていそうだ。
 魂まで抜け落ちそうなため息をついて、僕は部屋に戻った。

 このままの状態を続けたら、ユイも今川みたいになってしまうのだろうか?

 ――ユイって、呼んでよ。

 失敗した。
 紺野を羨ましがるユイが不思議で、正直な気持ちを伝えた。「ユイの方がかわいいと思うよ」と。
 あのときどうして、久遠寺さんと呼ばなかったんだろう。

 ――名前で呼んでくれますか?

 どうしてそこで敬語になるんだ。
 羞恥に耐えられないといった態度で目をうるませて、生意気なユイらしくない。
 そして僕も、僕らしくない。
 ゆっくり目を閉じた。

 様々なユイの姿を思い出すけど、最後に浮かぶのは兄、智也だ。
 狭い病室に閉じ込められて、窓の外を見ることもできない。

『なあ、奏人。お願いがあるんだ』

 白い天井を見つめたまま、感情のない声が耳に届く。
 その先は聞きたくない。
 どれだけ拒んでも、いつも同じ夢を見る。
 眠りたくない。
 必死に抵抗しても、意識はまどろみの中へ吸い込まれていった。

 夢の中で僕は中学生だった。
 兄が生きていた頃の、なつかしいけど苦しい思い出。
 入院先の病院まで、無我夢中で自転車をこいでいる。

 季節は夏で、過酷な太陽が照りつける中、きっつい坂道をのぼっている。
 壁のような坂道を、あと少し、もう少しと念じながら進む。重たくなったペダルに体重をかけると、汗が滝のように流れた。

『再発した。智也はもうダメかもしれない』

 セミの鳴き声がうるさすぎて、聞き間違いだと思った。でもすぐに二段ベッドのひとつが空になって、家から兄が消えた。
 辛い闘病生活がはじまっても、兄は我慢強く治療に向き合う。

 病を克服するために、ICU(集中治療室)に入るほどの重篤な状態に陥っても持ち直して、頑張っていた。
 僕はただそれを見ているだけ。

 智也のためになにかしたい。
 壁のような坂道を立ち止まることなく進めたら、兄の病を消してくれ。そのようなことを勝手に願って、挑戦して、息が苦しくなって、足が止まる。

 今日もダメだったとうなだれて、ゼーゼーと肩で息をしながら、智也を救えないもどかしさに半泣きだ。
 そのことを話すと、派手に笑いやがった。

『あの坂道を、自転車で? バカだろ。そんなことしないで、空、見てみろよ。面白いから』

 坂の下から空を見上げて進んでみた。
 街路樹の、葉と葉の隙間からふり注ぐキラキラとした輝きに目が痛い。だが、それ以上に空が青い。

 坂道をのぼるにつれて、空がどんどん近づいてくる。青いガラスのように美しい空が、手に届きそう。
 目の前のきつい坂道が、どこまでも広がる青い空へと(いざな)う道に見えてくる。
 心が躍るのを感じた僕は、さっそく兄に報告した。

『すげぇ、空だった。退院したら、一緒に見にいこう』

 約束をしたのに、病は次から次へと襲いかかってくる。
 体を痛め、内臓を蝕み、やがて精神を壊していく。
 薄暗い病室で、兄ははじめて弱音を吐いた。

『奏人、俺を助けてくれないか?』

 助けたい。でも、僕は無力でなにもできない。
 どうすればいいのか尋ねると、か細い息のような声で『……殺してくれ』と。
 そんなこと、できるはずがない。

『なあに、簡単だよ。そこの果物ナイフで俺を刺せ。血を流せばもう止まらない』

 皮と骨だけになった、細すぎる体。
 くぼんだ目の奥に底なしの闇が広がって、血の気のない唇からは絶望の言葉しか出てこない。

 ――やめてくれ!

 強すぎる風が吹いた。
 僕は、窮屈なネクタイを外して屋上にいる。

『いかなきゃ……』

 空は青くて美しいのに、ユイがフラフラとフェンスに近づいていく。

 飛び降りる気だ。
 手をのばした。
 でもつかめない。
 いつだって届かない。

 それは、僕が逃げたから。
 親父は医者を続けている。
 母は研究に没頭して、命を救うことだけを考えている。

 香奈恵も医学の道を選んだ。
 逃げて選んだ、教師への道。
 僕は、いい先生にはなれない。

『辛そうだな』

 振り返ると智也がいる。

『奏人もこっちへくるか?』

 小さな手が差し出された。
 これをつかむと、どうなる?

「カナ兄ぃ、起きてッ!!」

 香奈恵の大声に、ハッと目が覚めた。

「夢……。智也の夢を見たよ」
「知ってる。兄ちゃんってつぶやいてた」
「そっか」

 右目から涙がこぼれた。
 苦しい闘病生活に「……殺してくれ」と頼む姿。
 暗くて冷たい、生気を失ったまなざしで死にたがる姿。
 僕はなにもできなかった。

「カナ兄ぃ、ご飯だよ。あったかいうちに食べよう」

 テレビや映画をみて涙ぐむと「男が泣いてみっともなぁーい」とはやし立てるのに、こういうときはなにも言わない。
 香奈恵の心遣いが身に染みる。
 ふとどこかの詩人の言葉を思い出した。

 人の心は見えない。でも「心遣い」は見える。それと同じように、胸の奥にある思いは誰にも見えない。けれど「思いやり」は見える。そんな感じの言葉。

 ユイが僕に「いい先生」を求めるなら、それに応えよう。
 光を失った死んだ目を見るのはもう嫌だ。
 傷つけ、傷つけられる未来かもしれないが、それでもユイが無事に卒業できることを願っている。
 そのときはふたりで笑っていると……いいな。