水樹が陽菜を撃退してから、いじめはパタリとなくなった。
偶然、陽菜と廊下ですれ違っても笑ってこない。
クセ毛をバカにしてこない。教科書も上靴も無事だ。
雲のように集まっていた傍観者も、中心になる核がおとなしくなれば霧のように去っていく。
霧が晴れれば青空が見えるのと同じで、陽菜の顔色をうかがっていた人たちが、少しずつ話しかけてくれるようになった。
これは嬉しいこと。
反対に、困ったこともある。
水樹に会いたくて校舎の隅っこに足を運ぶけど、数学研究室に入るとなぜか緊張してしまう。
お弁当だってモグモグ食べていたのに、顔をあげれば水樹がいる。
フライドチキンにかぶりつくことができない。大口を開けて食べるのが恥ずかしい。
だから教科書を持ち込んで、難しい数式を解きながらお弁当を食べることにした。
問題を解いている間は冷静で、顔が熱くならない。でもお弁当のおいしさが半減して、頭も疲れる。
そしてさらに困ったことがある。
「ほら、あの人。久遠寺さんを助けた先生だよね?」
同じクラスの赤佐美咲が、三年生の教室を指さした。
あの日以来、水樹はすっかり有名人だ。
「え、水樹がいるの?」
そこらのサラリーマンになったらモテそうにない人でも、学校の先生なら「かっこいい」と言われる不思議な世界。
本当にかっこいい人がいたら……、目と心を奪われる。
水樹のことを知りたがる人が増えて複雑な気分。
「ほら、こっち。絶対にあの先生だから」
二年生の私が三年生の教室には近づきたくないけど、強引に腕を引っ張られた。
教室の後ろの扉からそっと息をひそめてのぞき込んだ。
片手で教科書を持った水樹がいる。
黒板にチョークの音を走らせたり、プリントを配ったり。少しかすれた声で難しい授業をしていた。
「本当に先生だったんだ」
それが正直な感想。
水樹は屋上に閉じ込められた変な人で、空を眺める瞳は少年みたい。
初対面でも親しみやすい雰囲気があって、ビュンビュン尻尾をふってよってくるコロンにそっくり。それなのに、教壇に立つ水樹は朗らかな笑みを浮かべない。
形のいい目が優しさを失って、どこか冷たい感じがする。ロボットみたい。
淡々と授業を進める姿は先生らしいけど、別人に見える。
いつもの水樹の方がいいな、なぁーんて考えていたのに「かっこいいね」の声があちこちから聞こえる。
廊下にハートマークがたくさん飛んでいるようで、嫌な気持ちになった。だからここから離れようとしたのに、水樹と目が合ってしまった。
今まで感じたことのないドキッに襲われた。
見つかったという感覚とも違うし、会えて嬉しくなる気持ちとも違う。
慌てて顔を背けても、目線は再び水樹のもとへ。
授業を進めていた水樹の手が一瞬止まったけど、すぐに涼しい顔をして授業を進めていた。
……なんだろう。軽く無視された気分。
胸の中がザラザラして気持ち悪い。
もっとたくさん話がしたいのに、笑いながらお弁当を食べたいのに、心にブレーキがかかって素直になれない。
いったい私はどうしちゃったの?
ついこないだまでできたことが、まったくできない。
心が「会いたい」「話したい」って叫んでいるのに、反対のことばかりしてしまう。
「教室に戻るね」
美咲に言ったのに、水樹に夢中で聞いていない。
つかめそうでつかめない空を思い出した。
先生と生徒。水樹と私の距離も同じ。
出会った頃の私なら、微妙に開く距離に不満を抱いて水樹にぶつけていた。
気に入らないことがあれば「離れてしまえばいい」と平気だった。
なのにいまは、苦しい。
「あ、そうだ。久遠寺さん、知ってる? あの先生の好きなタイプ」
「知らない」
「部活の先輩からちょっと聞いたんだけど、『ありがとう』とか『ごめんなさい』がきちんと言える女性だってぇー。いかにも「先生」って感じの答えでしょう」
「へぇー、そうなんだ」
軽く笑いつつ、顔が引きつっていく。
お弁当を食べるとき「いただきます」と「ごちそうさま」はちゃんとしているつもり。
時々怒って片付けをしなかったけど、「ありがとう」を言った記憶がない。
陽菜から守ってくれたのに、まだお礼もしていない。
「逆に人の顔をこっそり見にくる人や、キャー、キャーいう女の子は苦手なんだって」
「うっわぁ、いかにもモテ男の台詞って感じ。あ……れ? こうやってのぞき見してるのって」
「あ、嫌いなタイプになっちゃうね」
美咲はケラケラ笑っているけど、立っているのが苦しくなるほどの目まいがした。
今、私はこっそり水樹を見ている。しかも、お礼ができない最悪な女。
嫌われるようなことばかりしていた。
さっきの態度、目が合ったのに無視してきたのはきっと幻滅したんだ。
もう合わせる顔がない?
せめてお礼だけして……って、できる?
ゴチャゴチャ考えはじめるともうダメだった。
『ユイの方がかわいいと思うよ』
あの言葉がなければ普通に話ができて、フライドチキンの軟骨までバリバリ食べたと思う。
そうだ。全部、水樹が悪い。
私は知らなかった。「恋の病」という言葉を。
好きな気持ちがふくらむと緊張してしまうこと。
顔が赤くなってしまうこと。
何気ない一言をいつまでも深く考えてしまうこと。
もっと好きになると、どうなってしまうのか。
私はなにも知らなかった。
いつもの自分になれない私は、とうとう数学研究室にもいけなくなった。
目を閉じれば、いつだって水樹の声と姿が思い浮かぶのに、そのあとにやってくる心の鼓動が邪魔をする。
それでも水樹に会いたい。
今日こそは、今日こそは、今日こそは……を何度も繰り返して、無駄な日々を過ごしていた。
「あっっつい……」
いつの間にかうっとうしい雨雲が姿を消して、空は初夏の輝きを放っている。
澄み渡る空の色は、はじめて屋上で目にした青にそっくり。
「よし、決めた!」
ぐっと拳を握りしめて、校舎の隅っこへ。
青すぎる空に勇気をもらった私は無敵だ! ……でもこういう日に限って水樹はいない。
ほろ苦いコーヒーの香りがまだ残っているのに、数学研究室はもぬけの殻。
だけど私は知っている。
今日の空はどこか胸を躍らせる。こういう日にはきっと。
久しぶりに屋上への階段を駆け上がった。
「当たりだね」
鉄の扉にいまいましい鍵がなかった。
鼓動が加速して一瞬ためらったけど、もう一度あの空が見たい。
青すぎる空の色を真下で、水樹と一緒に。
ありったけの勇気と力を込めて鉄の扉を押した。
「ぃでっ!」
ドゥォンと鈍い音がして、痛そうに頭を抱える水樹がいた。
「わわわ、ごめんなさい。そこに座ってるとは思わなくて」
「なんだ、久遠寺さんか。ここには来るなって言っただろ? いってぇ……」
「あ、えっと、そのぉ……、ごめんなさい、天気がいいから」
「そっか、久しぶりに綺麗な空だもんな」
いつもならここでニコッと笑ってくれる。そう思っていたのに、朗らかな笑みはなかった。
冷たく突き放すような視線を放り投げて、水樹は立ちあがった。
水樹が水樹じゃない。
やっぱり手遅れ? 嫌われた?
バクバクとなる鼓動が、重苦しくて泣きたくなる。それでも今日は言わなくちゃいけない。
「あのね、水樹。いつも、いっぱい助けてくれたのに、私……ごめんなさい」
「どうした? さっきから謝ってばかりで」
「お弁当のお礼を言ってなかった。陽菜のことだって。本当に守ってくれてすごく嬉しかった。そのお礼も言ってないし、こっそり教室を覗いちゃって……」
「あー、この前の。子猫がドアを開けてくれって、ニャアニャア鳴いてるみたいで噴き出しそうになった。三年生は大事な時期だから、ああいうのはやめてくれ」
「……ごめんなさい」
いつもと雰囲気が違う。
初夏らしく澄み渡る空のもとで、手をのばせば届きそうな距離にいる。それなのに、生徒に数学を教えているときの顔だった。
水樹がとても遠い。
ここで一緒にお弁当を食べて、笑いあった日がウソのよう。
「はあぁ、やっぱり僕はダメだな」
突然深いため息と共に肩を落としてうなだれた。それから弱々しい笑みを浮かべて「叱られた」と。
「どうして?」
「……生徒の問題に介入しすぎだって」
「生徒の問題って私と陽菜のこと? すごく助かったのに? とっても嬉しかったんだよ。それがいけないことなの?」
「僕にもよくわからない。やっぱり、教師に向いてないのかな」
「そんなことない!」
私は忘れていた。
あの陽菜が、屈辱を受けたままで終わるはずがない。
ちょっと喧嘩しただけなのに水樹が大袈裟に騒いだとか、たくさんの生徒の前で責められて辛かったとか。お得意の名演技を披露したに違いない。
しかも担任ではなく、より権限のある学年主任の先生に。
「水樹がいなかったら……私……」
屋上から飛び降りて死んでいた。と言いかけて口をつぐんだ。
これは言ってはいけない言葉。でも、水樹は悪くない。
「い、いじめを見て見ぬふりをする先生よりも、水樹の方が立派な先生だよ。私は助かったんだよ。話しかけてくれる人が増えたし、教科書も上靴もなくならないし。それのどこがいけないの? 水樹を叱るなんて、絶対におかしい」
「そう言ってくれるのは久遠寺さんだけだよ。……ありがとう」
優しくほほ笑むけど、その表情が痛々しくて私の胸を貫いた。
きっと私の言葉は水樹に届いていない。
同情や慰めだと思われている。
違う。そんなんじゃない。
「水樹のバカッ!」
「えっ?」
「この前はユイって呼んでくれた。それなのに、久遠寺さん、久遠寺さんって、どういうこと?」
なにを言ってるんだーッ、と頭の中が大騒ぎ。
陽菜との問題に水樹を巻き込んだから、辛い思いをさせている。まずそれを謝るべきなのに、水樹はどこまでも大人で、先生で、この縮まらない距離がもう嫌だった。
「水樹がいなかったら……、水樹がいてくれたから……」
泣くのを我慢すると声が出ない。
それでも伝えたい。
私は「ありがとう」を言いたくてここに来た。だから冷静になれと言い聞かせてもダメだった。
私の口からこぼれた言葉は――。
「ユイって、呼んでよ」
えっ、とまた驚く声がした。
いきなり「水樹のバカッ!」って言われたときよりも目を丸くしてるから、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
あとで、絶対に、変なこと言わなきゃよかった、と必ず後悔する。
その姿がありありと浮かぶのに、止まらなかった。
「名前で呼んでくれますか?」
水樹は返事に困っている。
妙な沈黙と張り詰めた空気が、私の失敗を物語っていた。
「ご、ごめんなさい。久遠寺さんでいいです。とにかく、水樹はいい先生だよ。大丈夫。数学、とってもわかりやすく教えてくれたから、ちょっとだけ点数があがったよ。平塚もびっくりしてた。これも全部、水樹のおかげ。だから」
困らせたくないから早口に励ます言葉を並べてみたけど、薄っぺらい。
水樹とはじめて出会った日、私の瞳に映った空は青いガラスのように輝いていた。
あのときから好きがふくらんで、大好きがあふれて、割れちゃった。
でも胸の奥がすっきりしている。
思いは通じなくても、水樹の幸せを願うことはできる。少しでも笑顔を取り戻したい。
「ありがとう、ユイ」
「はひ?」
ものすごく間抜けな声が出た。
名前で呼んでほしいと言っておきながら、足の先から頭のてっぺんまでボッと火がついたみたいに熱い。
「えーっと」
水樹が照れくさそうに頭をかいた。
でもすぐに空を見上げて、大きく背伸びをした。
「なんか元気が出た。次の授業も頑張るよ」
「うん!」
優しい声に、朗らかな笑顔。
いつもの水樹に戻ってくれた。それがとても嬉しくて、私は気がつかなかった。
青すぎる空を眺める瞳に映った、水樹の気持ち。
辛さで心が痛んだままだってことを。
偶然、陽菜と廊下ですれ違っても笑ってこない。
クセ毛をバカにしてこない。教科書も上靴も無事だ。
雲のように集まっていた傍観者も、中心になる核がおとなしくなれば霧のように去っていく。
霧が晴れれば青空が見えるのと同じで、陽菜の顔色をうかがっていた人たちが、少しずつ話しかけてくれるようになった。
これは嬉しいこと。
反対に、困ったこともある。
水樹に会いたくて校舎の隅っこに足を運ぶけど、数学研究室に入るとなぜか緊張してしまう。
お弁当だってモグモグ食べていたのに、顔をあげれば水樹がいる。
フライドチキンにかぶりつくことができない。大口を開けて食べるのが恥ずかしい。
だから教科書を持ち込んで、難しい数式を解きながらお弁当を食べることにした。
問題を解いている間は冷静で、顔が熱くならない。でもお弁当のおいしさが半減して、頭も疲れる。
そしてさらに困ったことがある。
「ほら、あの人。久遠寺さんを助けた先生だよね?」
同じクラスの赤佐美咲が、三年生の教室を指さした。
あの日以来、水樹はすっかり有名人だ。
「え、水樹がいるの?」
そこらのサラリーマンになったらモテそうにない人でも、学校の先生なら「かっこいい」と言われる不思議な世界。
本当にかっこいい人がいたら……、目と心を奪われる。
水樹のことを知りたがる人が増えて複雑な気分。
「ほら、こっち。絶対にあの先生だから」
二年生の私が三年生の教室には近づきたくないけど、強引に腕を引っ張られた。
教室の後ろの扉からそっと息をひそめてのぞき込んだ。
片手で教科書を持った水樹がいる。
黒板にチョークの音を走らせたり、プリントを配ったり。少しかすれた声で難しい授業をしていた。
「本当に先生だったんだ」
それが正直な感想。
水樹は屋上に閉じ込められた変な人で、空を眺める瞳は少年みたい。
初対面でも親しみやすい雰囲気があって、ビュンビュン尻尾をふってよってくるコロンにそっくり。それなのに、教壇に立つ水樹は朗らかな笑みを浮かべない。
形のいい目が優しさを失って、どこか冷たい感じがする。ロボットみたい。
淡々と授業を進める姿は先生らしいけど、別人に見える。
いつもの水樹の方がいいな、なぁーんて考えていたのに「かっこいいね」の声があちこちから聞こえる。
廊下にハートマークがたくさん飛んでいるようで、嫌な気持ちになった。だからここから離れようとしたのに、水樹と目が合ってしまった。
今まで感じたことのないドキッに襲われた。
見つかったという感覚とも違うし、会えて嬉しくなる気持ちとも違う。
慌てて顔を背けても、目線は再び水樹のもとへ。
授業を進めていた水樹の手が一瞬止まったけど、すぐに涼しい顔をして授業を進めていた。
……なんだろう。軽く無視された気分。
胸の中がザラザラして気持ち悪い。
もっとたくさん話がしたいのに、笑いながらお弁当を食べたいのに、心にブレーキがかかって素直になれない。
いったい私はどうしちゃったの?
ついこないだまでできたことが、まったくできない。
心が「会いたい」「話したい」って叫んでいるのに、反対のことばかりしてしまう。
「教室に戻るね」
美咲に言ったのに、水樹に夢中で聞いていない。
つかめそうでつかめない空を思い出した。
先生と生徒。水樹と私の距離も同じ。
出会った頃の私なら、微妙に開く距離に不満を抱いて水樹にぶつけていた。
気に入らないことがあれば「離れてしまえばいい」と平気だった。
なのにいまは、苦しい。
「あ、そうだ。久遠寺さん、知ってる? あの先生の好きなタイプ」
「知らない」
「部活の先輩からちょっと聞いたんだけど、『ありがとう』とか『ごめんなさい』がきちんと言える女性だってぇー。いかにも「先生」って感じの答えでしょう」
「へぇー、そうなんだ」
軽く笑いつつ、顔が引きつっていく。
お弁当を食べるとき「いただきます」と「ごちそうさま」はちゃんとしているつもり。
時々怒って片付けをしなかったけど、「ありがとう」を言った記憶がない。
陽菜から守ってくれたのに、まだお礼もしていない。
「逆に人の顔をこっそり見にくる人や、キャー、キャーいう女の子は苦手なんだって」
「うっわぁ、いかにもモテ男の台詞って感じ。あ……れ? こうやってのぞき見してるのって」
「あ、嫌いなタイプになっちゃうね」
美咲はケラケラ笑っているけど、立っているのが苦しくなるほどの目まいがした。
今、私はこっそり水樹を見ている。しかも、お礼ができない最悪な女。
嫌われるようなことばかりしていた。
さっきの態度、目が合ったのに無視してきたのはきっと幻滅したんだ。
もう合わせる顔がない?
せめてお礼だけして……って、できる?
ゴチャゴチャ考えはじめるともうダメだった。
『ユイの方がかわいいと思うよ』
あの言葉がなければ普通に話ができて、フライドチキンの軟骨までバリバリ食べたと思う。
そうだ。全部、水樹が悪い。
私は知らなかった。「恋の病」という言葉を。
好きな気持ちがふくらむと緊張してしまうこと。
顔が赤くなってしまうこと。
何気ない一言をいつまでも深く考えてしまうこと。
もっと好きになると、どうなってしまうのか。
私はなにも知らなかった。
いつもの自分になれない私は、とうとう数学研究室にもいけなくなった。
目を閉じれば、いつだって水樹の声と姿が思い浮かぶのに、そのあとにやってくる心の鼓動が邪魔をする。
それでも水樹に会いたい。
今日こそは、今日こそは、今日こそは……を何度も繰り返して、無駄な日々を過ごしていた。
「あっっつい……」
いつの間にかうっとうしい雨雲が姿を消して、空は初夏の輝きを放っている。
澄み渡る空の色は、はじめて屋上で目にした青にそっくり。
「よし、決めた!」
ぐっと拳を握りしめて、校舎の隅っこへ。
青すぎる空に勇気をもらった私は無敵だ! ……でもこういう日に限って水樹はいない。
ほろ苦いコーヒーの香りがまだ残っているのに、数学研究室はもぬけの殻。
だけど私は知っている。
今日の空はどこか胸を躍らせる。こういう日にはきっと。
久しぶりに屋上への階段を駆け上がった。
「当たりだね」
鉄の扉にいまいましい鍵がなかった。
鼓動が加速して一瞬ためらったけど、もう一度あの空が見たい。
青すぎる空の色を真下で、水樹と一緒に。
ありったけの勇気と力を込めて鉄の扉を押した。
「ぃでっ!」
ドゥォンと鈍い音がして、痛そうに頭を抱える水樹がいた。
「わわわ、ごめんなさい。そこに座ってるとは思わなくて」
「なんだ、久遠寺さんか。ここには来るなって言っただろ? いってぇ……」
「あ、えっと、そのぉ……、ごめんなさい、天気がいいから」
「そっか、久しぶりに綺麗な空だもんな」
いつもならここでニコッと笑ってくれる。そう思っていたのに、朗らかな笑みはなかった。
冷たく突き放すような視線を放り投げて、水樹は立ちあがった。
水樹が水樹じゃない。
やっぱり手遅れ? 嫌われた?
バクバクとなる鼓動が、重苦しくて泣きたくなる。それでも今日は言わなくちゃいけない。
「あのね、水樹。いつも、いっぱい助けてくれたのに、私……ごめんなさい」
「どうした? さっきから謝ってばかりで」
「お弁当のお礼を言ってなかった。陽菜のことだって。本当に守ってくれてすごく嬉しかった。そのお礼も言ってないし、こっそり教室を覗いちゃって……」
「あー、この前の。子猫がドアを開けてくれって、ニャアニャア鳴いてるみたいで噴き出しそうになった。三年生は大事な時期だから、ああいうのはやめてくれ」
「……ごめんなさい」
いつもと雰囲気が違う。
初夏らしく澄み渡る空のもとで、手をのばせば届きそうな距離にいる。それなのに、生徒に数学を教えているときの顔だった。
水樹がとても遠い。
ここで一緒にお弁当を食べて、笑いあった日がウソのよう。
「はあぁ、やっぱり僕はダメだな」
突然深いため息と共に肩を落としてうなだれた。それから弱々しい笑みを浮かべて「叱られた」と。
「どうして?」
「……生徒の問題に介入しすぎだって」
「生徒の問題って私と陽菜のこと? すごく助かったのに? とっても嬉しかったんだよ。それがいけないことなの?」
「僕にもよくわからない。やっぱり、教師に向いてないのかな」
「そんなことない!」
私は忘れていた。
あの陽菜が、屈辱を受けたままで終わるはずがない。
ちょっと喧嘩しただけなのに水樹が大袈裟に騒いだとか、たくさんの生徒の前で責められて辛かったとか。お得意の名演技を披露したに違いない。
しかも担任ではなく、より権限のある学年主任の先生に。
「水樹がいなかったら……私……」
屋上から飛び降りて死んでいた。と言いかけて口をつぐんだ。
これは言ってはいけない言葉。でも、水樹は悪くない。
「い、いじめを見て見ぬふりをする先生よりも、水樹の方が立派な先生だよ。私は助かったんだよ。話しかけてくれる人が増えたし、教科書も上靴もなくならないし。それのどこがいけないの? 水樹を叱るなんて、絶対におかしい」
「そう言ってくれるのは久遠寺さんだけだよ。……ありがとう」
優しくほほ笑むけど、その表情が痛々しくて私の胸を貫いた。
きっと私の言葉は水樹に届いていない。
同情や慰めだと思われている。
違う。そんなんじゃない。
「水樹のバカッ!」
「えっ?」
「この前はユイって呼んでくれた。それなのに、久遠寺さん、久遠寺さんって、どういうこと?」
なにを言ってるんだーッ、と頭の中が大騒ぎ。
陽菜との問題に水樹を巻き込んだから、辛い思いをさせている。まずそれを謝るべきなのに、水樹はどこまでも大人で、先生で、この縮まらない距離がもう嫌だった。
「水樹がいなかったら……、水樹がいてくれたから……」
泣くのを我慢すると声が出ない。
それでも伝えたい。
私は「ありがとう」を言いたくてここに来た。だから冷静になれと言い聞かせてもダメだった。
私の口からこぼれた言葉は――。
「ユイって、呼んでよ」
えっ、とまた驚く声がした。
いきなり「水樹のバカッ!」って言われたときよりも目を丸くしてるから、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
あとで、絶対に、変なこと言わなきゃよかった、と必ず後悔する。
その姿がありありと浮かぶのに、止まらなかった。
「名前で呼んでくれますか?」
水樹は返事に困っている。
妙な沈黙と張り詰めた空気が、私の失敗を物語っていた。
「ご、ごめんなさい。久遠寺さんでいいです。とにかく、水樹はいい先生だよ。大丈夫。数学、とってもわかりやすく教えてくれたから、ちょっとだけ点数があがったよ。平塚もびっくりしてた。これも全部、水樹のおかげ。だから」
困らせたくないから早口に励ます言葉を並べてみたけど、薄っぺらい。
水樹とはじめて出会った日、私の瞳に映った空は青いガラスのように輝いていた。
あのときから好きがふくらんで、大好きがあふれて、割れちゃった。
でも胸の奥がすっきりしている。
思いは通じなくても、水樹の幸せを願うことはできる。少しでも笑顔を取り戻したい。
「ありがとう、ユイ」
「はひ?」
ものすごく間抜けな声が出た。
名前で呼んでほしいと言っておきながら、足の先から頭のてっぺんまでボッと火がついたみたいに熱い。
「えーっと」
水樹が照れくさそうに頭をかいた。
でもすぐに空を見上げて、大きく背伸びをした。
「なんか元気が出た。次の授業も頑張るよ」
「うん!」
優しい声に、朗らかな笑顔。
いつもの水樹に戻ってくれた。それがとても嬉しくて、私は気がつかなかった。
青すぎる空を眺める瞳に映った、水樹の気持ち。
辛さで心が痛んだままだってことを。