水樹と出会ってから一週間がすぎた。
今日の空は薄雲が一面に広がって、せっかくの青を霞ませていた。
「あっ、まただ」
授業中でもふと気がつけば空を見上げている。
脳裏に焼きついて離れない空をもう一度見てみたいのに、澄んだ光を放つ青に出会えない。
はあっと落胆的なため息をつくことしかできなくて、春らしいポカポカ陽気でも心が沈む。
「どうせ私の願いはいつだってかなわない。はいはい、そうでした」
四時間目が終わったばかりの廊下で、愚痴をこぼした。
あの日からスカッと晴れ渡る空を見ていない。
数学の先生だと言った水樹もいない。
「うまくいかないのはいつものこと、忘れちゃえ」
うん、うん、と、ひとりでうなずいても、つい考え込んでしまう。
水樹は私のことを「久遠寺さん」と呼んだ。初対面なのに、私の名前を知っていた。
どうして? が頭の中をグルグル回りはじめると、いても立ってもいられない。
水樹に会って確かめよう。
でもひとつだけ、怖いことがある。
久遠寺公康の娘ってことが先生の間でも有名になっていたら、どうしよう。
やはり『私』ではなく、俳優の娘だから声をかけた。
それが答えなら失意の底に叩き落とされそうだけど、とにかく心の中のモヤモヤをすっきりさせたい。
ただそれだけなのに、それすらかなわないなんて……。
昼食のパンを食べる前に職員室をのぞき込んだ。
あれだけのイケメンだからすぐ見つかると思っていたのに、どこにもいないなんておかしい。
本当にこの学校の先生だったのか。それすら怪しくなってきた。
もしかして、精神的に追い詰められた私は、都合のいい幻を見ていた! なんてバカなことを本気で考えてしまう。
こんなときに友だちがひとりでもいてくれたら、水樹のことを聞き出して一緒に捜すのになぁ。
陽菜とクラスが離れても、私はひとり。
会いたいなら自分で捜すしかない。
コンコン、ではなくドンドンと荒々しくノックして職員室の扉を開けた。
「こら、久遠寺。ドアを壊す気か?」
すぐさま平塚の声が飛んできた。話しかけるのも嫌だけど、水樹を捜すには同じ先生の平塚を頼るしかない。
「水樹先生を見かけませんでしたか?」
「ん? 水樹先生なら、今日は帰ったかもしれないな」
「帰った? 先生なのに? 午後の授業は? いったい何者ですか? 本当にここの先生ですか?」
「ちょっと落ち着け。そんないっぺんに質問するな。水樹先生は非常勤だから、授業のあるときだけこの学校にいる。用事があるなら伝えとくけど?」
「あ、いや、その……結構です」
「遠慮するな。どうせ久遠寺のことだから、先週のお礼をまだしてないとかだろ?」
「お礼?」
眉をひそめると、平塚は首を傾げた。
先週、私は屋上から飛び降りることだけを考えて授業をサボった。サボりにはきついお仕置きが待っている。
親の呼び出しや停学はもちろん、成績不振なので退学なんてことも考えられる。
そこで水樹が「気分が悪くなって廊下の隅でうずくまっていた、ということでどうだ? うん、そうしよう」と言い出した。
ふたりで悪巧みをする子どものように話を合わせていた。
「あっ! そうです。それ、倒れたときのお礼を……。でも大丈夫です。お礼は自分の口から言いたいので」
あのとき、水樹は端整な顔をさらに真面目にしてウソを重ねてくれた。
屋上でばったり出会ったことは話さず、一階の廊下でうずくまる私に声をかけたことにして、その後はずっと保健室に。
保健室の先生も「水樹先生がそうしてほしいなら」と言って、頬を赤く染めながら保健室の利用書を書いてくれた。
平塚に利用書を見せると、鋭いまなざしが言葉よりも早く語りかけてきた。「どうせサボりだろ?」と。
見透かされて心拍数があがったのに、水樹は涼しい顔でまたウソの説明をする。
するとどうだ。私のことは一切信じようとしないのに、イケメンの言うことなら一欠片の疑いを持たずにコロッと態度を変えたのだ。
今だって水樹と話がしたいから、私をダシにするつもりかもしれない。そんなことさせるもんかと平塚の申し出を断ったら……。
「話はそれだけか?」
「えっ、あ、はい」
「それなら早く教室に戻れ。昼食、まだだろう」
平塚はもう私を見ていない。
忙しいのに話しかけるな、と言いたそうな横顔を見せつけるだけ。
ムカついたけど「ありがとうございました」と軽く頭を下げて廊下に出た。
大人は嫌いだ。あんな大人にはなりたくない。
でも水樹は違う。どんよりとした暗い世界にパッと明るい色を届けてくれた。
だからもう一度会って、話がしたい。
そう願って耐えてきたのに、やっぱり学校は面白くない。
息苦しい。すべてを終わらせたい。
突然心に飛び込んできた美しい空の色を胸にしまって、本来の望みをかなえよう。
私は屋上へ向かった。
「今日でやっと……さようなら、だね」
冷たく見下ろす鉄の扉は怖くない。
私を拒み続けた鍵の番号も、しっかりと記憶している。
ドキドキする胸を押さえて、大きく息を吸い込んだ。
「あれ?」
よし! と気合いを入れて手をのばしたのに、あるべきはずのものがない。
何度も何度も私の邪魔をしたダイヤル式の鍵がない。
トクンと心臓の音が変わるのを感じた。
誰かが鍵を開けて、屋上にいる。
それはきっと――。
私はおそるおそる重たい鉄の扉を開けた。
すると予想よりも強い風が吹き込み、押し寄せる風に髪が乱れて前が見えなくなった。
「また来たの?」
のんきな声に鼓動が加速する。
慌てて髪を整えると、朗らかな笑顔が目の前にあった。
「み、水樹……先生。どうしてここに?」
「いやいやいや、ここは僕の学び舎で大切な場所だって、先週言ったけど覚えてない? 久遠寺さんこそ、どうして」
屋上から飛び降りるために来た……なんて口が裂けても言えない。
黙っていると水樹が意地悪げな笑みを浮かべた。
「もしかして、僕に会いたくなったとか」
「んなッ、違うわよ。そんなわけないでしょう!」
全身で否定したけど顔が、頬が、耳まで熱い。きっと茹で蛸よりも真っ赤っかだ。
恥ずかしくて死にそう。
チラッと水樹を見たらいつもと同じように朗らかな笑みを浮かべて、形のいい目を優しくした。
「僕は久遠寺さんと話がしたかった。ここの空、気に入ってくれたなら嬉しいよ」
水樹が天を仰ぐから、私も空を見上げる。
薄雲で霞んでいたはずの空が、まったく違う顔をしていた。
ホイップクリームのような雲を点々と広げて、その隙間からちょこんと見える水色がかわいい。
「ここの空は……嫌いじゃない。いいと思うよ」
「そうか、そうか。それならもっと楽しくしてやろう」
水樹はいたずらを思いついた少年のようにニカッと笑った。それから四角いリュックに手を突っ込んで、次々と荷物を出していく。
空色のレジャーシートに、アウトドア用のピクニックテーブル。
「紙コップは飛んでしまうから、これどうぞ」
わけがわからず瞬きばかりする私に、ポイッとコップを投げてきた。慌ててキャッチしようとしたけど、ワタワタして落としてしまう。
「どうしよう、割れた?」
「あー、平気。プラスチック製だから」
落ちたコップを軽くはたいて、水樹は側に置いた。
「ちょうど昼休みだから飯にしよう。妹が料理好きで量が多いんだ」
リュックから別のコップを取り出して、今度はゆっくりと手渡ししてくれた。
小皿を並べて、箸を置いて。最後に大きなお弁当箱がドンと音を立てる。
「お相撲さんが食べるお弁当みたい……」
「だろ? 妹はよく食うけど、僕は小食だから。ほら、座って」
戸惑う私をよそに、水樹は鼻歌交じりでとても楽しそう。
もし水樹に尻尾があったら、ビュンビュンふってよってきそうなほど人懐っこい。
ふとおばあちゃん家にいた豆柴の「コロン」を思い出した。
ご飯になるといつもソワソワして、くるりんと丸まった尻尾をビュンビュンふって、泣き虫な私をよく笑わせてくれた愛犬。
今はもういないけど、大切な家族だった。
「外で食うのは気持ちがいいぞ」
「水樹……先生のお弁当なのに、食べていいの?」
「遠慮するなって」
お弁当箱の蓋が開くと、目を見張った。
とにかくカラフル!
から揚げやエビフライの間にプチトマトやパプリカ、ブロッコリーにかまぼこ。
かまぼこは飾り切りして可憐なバラに。
ウィンナーも飾り切りでひまわりに変身している。
「すごい! こんなかわいいお弁当、はじめて。水樹の妹ってプロの料理人?」
「普通の大学生だよ」
手間も時間もたっぷりかけたお弁当は、見ているだけでお腹が空く。
ひとり暮らしをはじめてから味や彩りよりも、片付けが楽なものばかり食べてきた。だから夜はコンビニのお弁当で、お昼は――。
「いつもパンばっかり食って、成長期には肉が必要だ。さ、好きなだけどうぞ」
誰かと一緒にご飯を食べる。
久しぶりすぎて目の縁が熱くなるのを感じた。
「……いただきます」
小さな声を出して大好物のエビフライを食べた。
ぷりぷりの歯ごたえと衣がサクサクで、一口食べると止まらない。
あまりにもおいしいので二本目に手がのびる。三本食べてから、お箸はから揚げをつかまえた。
「このから揚げ、冷めてるのに油っぽくない。おいしい」
「米粉を使ってるんだ。米粉は油を吸いにくいし、サクッとあっさり仕上がるから、時間がたってもベタベタしないって妹が言ってた」
「へぇー、妹さん、すごいね」
手作りのご飯を食べたのは、いつぶりだろう。
そもそもひとり暮らしをはじめる前から家に帰るとテーブルにお金が置いてあるだけ。
煌びやかな世界で活躍している父は帰ってこない。
病んだ母は寝ているか、怒っているか。家族はみんなバラバラで、そろって食事をした記憶はあまりない。
給食の時間が誰かと一緒にご飯を食べる、唯一の時間だった。
高校に入ってからは陽菜が邪魔しに来るから、校舎の裏でパンをかじって空腹をしのいでいた。
惨めな姿を思い出すと心が沈むけど「こっちもうまいから食べて、食べて」と、ニコニコと嬉しそうに笑う水樹の姿が、心の奥底を温かくしてくれた。
「食べきれなかったら、持って帰ってもいいぞ。なんなら、一緒に夕食も食うか?」
「大丈夫。食べきる」
誰かと一緒にご飯を食べる。
ただそれだけなのに、こんなにも心が温まるとは思いもよらなかった。
私はいつの間にか泣きながらから揚げを食べて、塩味が丁度いいおにぎりを頬張った。
泣きながらご飯を食べる異様な姿なのに、水樹はずっと優しい目をしている。
不思議な人だ。
「ん?」
私は涙を拭いて顔を上げた。
さっき水樹は「いつもパンばかり食って」と言った。
隠れてパンをかじっていたことも知っている。
そうだ、はじめて出会った日も「久遠寺さん」と私の名前を呼んだ。
そのことが気になるから水樹を捜していたのに、お弁当がおいしくて忘れるところだった。
ようやく訪れた絶好の機会を逃してはいけない。グビッと一気にお茶を飲み干した。
「いい食べっぷりだな。明日も妹に頼んで弁当をつくってもらうよ。また一緒に食べよう。あっ、そうだ。これも久遠寺さんに渡さなきゃ」
それは一枚のプリント。
「園芸部の……入部届?」
「ここにサインしてハンコも。部活に入ってないんだろ」
「参加したくない」
「幽霊部員でいいよ。園芸部に入れば、屋上菜園の管理という名目でここに来られる。平塚先生が担当だから」
「やだ」
即答した。
幽霊部員でも平塚と関わりたくない。
「わがまま言うな。そのうち梅雨になるし、ほかの誰かに見つかったら大変だ。僕はクビ、久遠寺さんは……。もっとここの景色を見てほしいけど、面倒なことが多いからなぁ」
不満げな声をこぼして、水樹は空に手をのばしている。
つかめそうで、つかめない空。
見上げた空はこんなにも広くて近いのに、倫理とか規則とか煩わしいことが気になると、窮屈な箱に閉じ込められた気持ちになる。
だから思わず「狭いね」とつぶやいた。
「なにが?」
私の声は誰にも届かないと思っていた。それなのに、小さな独り言のようなつぶやきでも水樹はちゃんと聞いていた。
「ここは見晴らしがいいのに、窮屈に感じる。世界が狭い、みたいな?」
「狭い……か」
水樹は手をおろして、じっと空を眺めている。
空を映す水樹の目は澄んでいるのにどこか寂しげだった。
「ずいぶん昔の話になるけど、僕は約束をしたんだ」
「約束?」
「うん。世界が狭いって泣くから、広い世界に連れ出してやるって、約束をしたことがあってね。久遠寺さんの世界も広くなるといいのに」
「私の世界はどうでもいいよ。流されるまま適当にどうにかなるから」
「若いのに冷めてるな。ま、明日からはここに来ないで、数学研究室においで。教科書を持ってな」
「どうして?」
「英語と数学、苦手だろ? このままの成績だと三年生になれないぞ」
私の名前や、ひとりでパンをかじっていたこと。それに加えて、あの酷く無残な成績まで……。
「水樹はどうして私のこと、そんなに知ってるの?」
「それは秘密。教えない」
やっと水樹らしい笑顔を見せたけど、赤点連続の英語に、救いようのない数学の点数まで筒抜け。顔から火が出そうだった。
「まだ本気を出してないだけだもん」
「ほいほい、それじゃ明日は勉強道具を忘れるな。さ、そろそろ昼休みが終わるぞ」
腑に落ちないことだらけでも、時間が来るから仕方がない。
片付けて教室に戻った。
でも、心の引っかかりが山のように増えてしまった。
水樹が広い世界に連れ出そうとした人って誰なんだろ?
生徒かな?
眉を寄せて考えてみたけど、ずいぶん昔の話なら生徒じゃない気がする。
そうなるとやっぱり彼女とか、好きな人とか。かっこいいしモテそうだから、絶対に女の人だ。
晴れ渡り堂々とした輝く色とは違う、どこかシュンとした悲しい色が心に広がって、私を混乱させる。
「詳しく聞きたかったなぁ」
水樹のことをもっと知りたくなった。
今日の空は薄雲が一面に広がって、せっかくの青を霞ませていた。
「あっ、まただ」
授業中でもふと気がつけば空を見上げている。
脳裏に焼きついて離れない空をもう一度見てみたいのに、澄んだ光を放つ青に出会えない。
はあっと落胆的なため息をつくことしかできなくて、春らしいポカポカ陽気でも心が沈む。
「どうせ私の願いはいつだってかなわない。はいはい、そうでした」
四時間目が終わったばかりの廊下で、愚痴をこぼした。
あの日からスカッと晴れ渡る空を見ていない。
数学の先生だと言った水樹もいない。
「うまくいかないのはいつものこと、忘れちゃえ」
うん、うん、と、ひとりでうなずいても、つい考え込んでしまう。
水樹は私のことを「久遠寺さん」と呼んだ。初対面なのに、私の名前を知っていた。
どうして? が頭の中をグルグル回りはじめると、いても立ってもいられない。
水樹に会って確かめよう。
でもひとつだけ、怖いことがある。
久遠寺公康の娘ってことが先生の間でも有名になっていたら、どうしよう。
やはり『私』ではなく、俳優の娘だから声をかけた。
それが答えなら失意の底に叩き落とされそうだけど、とにかく心の中のモヤモヤをすっきりさせたい。
ただそれだけなのに、それすらかなわないなんて……。
昼食のパンを食べる前に職員室をのぞき込んだ。
あれだけのイケメンだからすぐ見つかると思っていたのに、どこにもいないなんておかしい。
本当にこの学校の先生だったのか。それすら怪しくなってきた。
もしかして、精神的に追い詰められた私は、都合のいい幻を見ていた! なんてバカなことを本気で考えてしまう。
こんなときに友だちがひとりでもいてくれたら、水樹のことを聞き出して一緒に捜すのになぁ。
陽菜とクラスが離れても、私はひとり。
会いたいなら自分で捜すしかない。
コンコン、ではなくドンドンと荒々しくノックして職員室の扉を開けた。
「こら、久遠寺。ドアを壊す気か?」
すぐさま平塚の声が飛んできた。話しかけるのも嫌だけど、水樹を捜すには同じ先生の平塚を頼るしかない。
「水樹先生を見かけませんでしたか?」
「ん? 水樹先生なら、今日は帰ったかもしれないな」
「帰った? 先生なのに? 午後の授業は? いったい何者ですか? 本当にここの先生ですか?」
「ちょっと落ち着け。そんないっぺんに質問するな。水樹先生は非常勤だから、授業のあるときだけこの学校にいる。用事があるなら伝えとくけど?」
「あ、いや、その……結構です」
「遠慮するな。どうせ久遠寺のことだから、先週のお礼をまだしてないとかだろ?」
「お礼?」
眉をひそめると、平塚は首を傾げた。
先週、私は屋上から飛び降りることだけを考えて授業をサボった。サボりにはきついお仕置きが待っている。
親の呼び出しや停学はもちろん、成績不振なので退学なんてことも考えられる。
そこで水樹が「気分が悪くなって廊下の隅でうずくまっていた、ということでどうだ? うん、そうしよう」と言い出した。
ふたりで悪巧みをする子どものように話を合わせていた。
「あっ! そうです。それ、倒れたときのお礼を……。でも大丈夫です。お礼は自分の口から言いたいので」
あのとき、水樹は端整な顔をさらに真面目にしてウソを重ねてくれた。
屋上でばったり出会ったことは話さず、一階の廊下でうずくまる私に声をかけたことにして、その後はずっと保健室に。
保健室の先生も「水樹先生がそうしてほしいなら」と言って、頬を赤く染めながら保健室の利用書を書いてくれた。
平塚に利用書を見せると、鋭いまなざしが言葉よりも早く語りかけてきた。「どうせサボりだろ?」と。
見透かされて心拍数があがったのに、水樹は涼しい顔でまたウソの説明をする。
するとどうだ。私のことは一切信じようとしないのに、イケメンの言うことなら一欠片の疑いを持たずにコロッと態度を変えたのだ。
今だって水樹と話がしたいから、私をダシにするつもりかもしれない。そんなことさせるもんかと平塚の申し出を断ったら……。
「話はそれだけか?」
「えっ、あ、はい」
「それなら早く教室に戻れ。昼食、まだだろう」
平塚はもう私を見ていない。
忙しいのに話しかけるな、と言いたそうな横顔を見せつけるだけ。
ムカついたけど「ありがとうございました」と軽く頭を下げて廊下に出た。
大人は嫌いだ。あんな大人にはなりたくない。
でも水樹は違う。どんよりとした暗い世界にパッと明るい色を届けてくれた。
だからもう一度会って、話がしたい。
そう願って耐えてきたのに、やっぱり学校は面白くない。
息苦しい。すべてを終わらせたい。
突然心に飛び込んできた美しい空の色を胸にしまって、本来の望みをかなえよう。
私は屋上へ向かった。
「今日でやっと……さようなら、だね」
冷たく見下ろす鉄の扉は怖くない。
私を拒み続けた鍵の番号も、しっかりと記憶している。
ドキドキする胸を押さえて、大きく息を吸い込んだ。
「あれ?」
よし! と気合いを入れて手をのばしたのに、あるべきはずのものがない。
何度も何度も私の邪魔をしたダイヤル式の鍵がない。
トクンと心臓の音が変わるのを感じた。
誰かが鍵を開けて、屋上にいる。
それはきっと――。
私はおそるおそる重たい鉄の扉を開けた。
すると予想よりも強い風が吹き込み、押し寄せる風に髪が乱れて前が見えなくなった。
「また来たの?」
のんきな声に鼓動が加速する。
慌てて髪を整えると、朗らかな笑顔が目の前にあった。
「み、水樹……先生。どうしてここに?」
「いやいやいや、ここは僕の学び舎で大切な場所だって、先週言ったけど覚えてない? 久遠寺さんこそ、どうして」
屋上から飛び降りるために来た……なんて口が裂けても言えない。
黙っていると水樹が意地悪げな笑みを浮かべた。
「もしかして、僕に会いたくなったとか」
「んなッ、違うわよ。そんなわけないでしょう!」
全身で否定したけど顔が、頬が、耳まで熱い。きっと茹で蛸よりも真っ赤っかだ。
恥ずかしくて死にそう。
チラッと水樹を見たらいつもと同じように朗らかな笑みを浮かべて、形のいい目を優しくした。
「僕は久遠寺さんと話がしたかった。ここの空、気に入ってくれたなら嬉しいよ」
水樹が天を仰ぐから、私も空を見上げる。
薄雲で霞んでいたはずの空が、まったく違う顔をしていた。
ホイップクリームのような雲を点々と広げて、その隙間からちょこんと見える水色がかわいい。
「ここの空は……嫌いじゃない。いいと思うよ」
「そうか、そうか。それならもっと楽しくしてやろう」
水樹はいたずらを思いついた少年のようにニカッと笑った。それから四角いリュックに手を突っ込んで、次々と荷物を出していく。
空色のレジャーシートに、アウトドア用のピクニックテーブル。
「紙コップは飛んでしまうから、これどうぞ」
わけがわからず瞬きばかりする私に、ポイッとコップを投げてきた。慌ててキャッチしようとしたけど、ワタワタして落としてしまう。
「どうしよう、割れた?」
「あー、平気。プラスチック製だから」
落ちたコップを軽くはたいて、水樹は側に置いた。
「ちょうど昼休みだから飯にしよう。妹が料理好きで量が多いんだ」
リュックから別のコップを取り出して、今度はゆっくりと手渡ししてくれた。
小皿を並べて、箸を置いて。最後に大きなお弁当箱がドンと音を立てる。
「お相撲さんが食べるお弁当みたい……」
「だろ? 妹はよく食うけど、僕は小食だから。ほら、座って」
戸惑う私をよそに、水樹は鼻歌交じりでとても楽しそう。
もし水樹に尻尾があったら、ビュンビュンふってよってきそうなほど人懐っこい。
ふとおばあちゃん家にいた豆柴の「コロン」を思い出した。
ご飯になるといつもソワソワして、くるりんと丸まった尻尾をビュンビュンふって、泣き虫な私をよく笑わせてくれた愛犬。
今はもういないけど、大切な家族だった。
「外で食うのは気持ちがいいぞ」
「水樹……先生のお弁当なのに、食べていいの?」
「遠慮するなって」
お弁当箱の蓋が開くと、目を見張った。
とにかくカラフル!
から揚げやエビフライの間にプチトマトやパプリカ、ブロッコリーにかまぼこ。
かまぼこは飾り切りして可憐なバラに。
ウィンナーも飾り切りでひまわりに変身している。
「すごい! こんなかわいいお弁当、はじめて。水樹の妹ってプロの料理人?」
「普通の大学生だよ」
手間も時間もたっぷりかけたお弁当は、見ているだけでお腹が空く。
ひとり暮らしをはじめてから味や彩りよりも、片付けが楽なものばかり食べてきた。だから夜はコンビニのお弁当で、お昼は――。
「いつもパンばっかり食って、成長期には肉が必要だ。さ、好きなだけどうぞ」
誰かと一緒にご飯を食べる。
久しぶりすぎて目の縁が熱くなるのを感じた。
「……いただきます」
小さな声を出して大好物のエビフライを食べた。
ぷりぷりの歯ごたえと衣がサクサクで、一口食べると止まらない。
あまりにもおいしいので二本目に手がのびる。三本食べてから、お箸はから揚げをつかまえた。
「このから揚げ、冷めてるのに油っぽくない。おいしい」
「米粉を使ってるんだ。米粉は油を吸いにくいし、サクッとあっさり仕上がるから、時間がたってもベタベタしないって妹が言ってた」
「へぇー、妹さん、すごいね」
手作りのご飯を食べたのは、いつぶりだろう。
そもそもひとり暮らしをはじめる前から家に帰るとテーブルにお金が置いてあるだけ。
煌びやかな世界で活躍している父は帰ってこない。
病んだ母は寝ているか、怒っているか。家族はみんなバラバラで、そろって食事をした記憶はあまりない。
給食の時間が誰かと一緒にご飯を食べる、唯一の時間だった。
高校に入ってからは陽菜が邪魔しに来るから、校舎の裏でパンをかじって空腹をしのいでいた。
惨めな姿を思い出すと心が沈むけど「こっちもうまいから食べて、食べて」と、ニコニコと嬉しそうに笑う水樹の姿が、心の奥底を温かくしてくれた。
「食べきれなかったら、持って帰ってもいいぞ。なんなら、一緒に夕食も食うか?」
「大丈夫。食べきる」
誰かと一緒にご飯を食べる。
ただそれだけなのに、こんなにも心が温まるとは思いもよらなかった。
私はいつの間にか泣きながらから揚げを食べて、塩味が丁度いいおにぎりを頬張った。
泣きながらご飯を食べる異様な姿なのに、水樹はずっと優しい目をしている。
不思議な人だ。
「ん?」
私は涙を拭いて顔を上げた。
さっき水樹は「いつもパンばかり食って」と言った。
隠れてパンをかじっていたことも知っている。
そうだ、はじめて出会った日も「久遠寺さん」と私の名前を呼んだ。
そのことが気になるから水樹を捜していたのに、お弁当がおいしくて忘れるところだった。
ようやく訪れた絶好の機会を逃してはいけない。グビッと一気にお茶を飲み干した。
「いい食べっぷりだな。明日も妹に頼んで弁当をつくってもらうよ。また一緒に食べよう。あっ、そうだ。これも久遠寺さんに渡さなきゃ」
それは一枚のプリント。
「園芸部の……入部届?」
「ここにサインしてハンコも。部活に入ってないんだろ」
「参加したくない」
「幽霊部員でいいよ。園芸部に入れば、屋上菜園の管理という名目でここに来られる。平塚先生が担当だから」
「やだ」
即答した。
幽霊部員でも平塚と関わりたくない。
「わがまま言うな。そのうち梅雨になるし、ほかの誰かに見つかったら大変だ。僕はクビ、久遠寺さんは……。もっとここの景色を見てほしいけど、面倒なことが多いからなぁ」
不満げな声をこぼして、水樹は空に手をのばしている。
つかめそうで、つかめない空。
見上げた空はこんなにも広くて近いのに、倫理とか規則とか煩わしいことが気になると、窮屈な箱に閉じ込められた気持ちになる。
だから思わず「狭いね」とつぶやいた。
「なにが?」
私の声は誰にも届かないと思っていた。それなのに、小さな独り言のようなつぶやきでも水樹はちゃんと聞いていた。
「ここは見晴らしがいいのに、窮屈に感じる。世界が狭い、みたいな?」
「狭い……か」
水樹は手をおろして、じっと空を眺めている。
空を映す水樹の目は澄んでいるのにどこか寂しげだった。
「ずいぶん昔の話になるけど、僕は約束をしたんだ」
「約束?」
「うん。世界が狭いって泣くから、広い世界に連れ出してやるって、約束をしたことがあってね。久遠寺さんの世界も広くなるといいのに」
「私の世界はどうでもいいよ。流されるまま適当にどうにかなるから」
「若いのに冷めてるな。ま、明日からはここに来ないで、数学研究室においで。教科書を持ってな」
「どうして?」
「英語と数学、苦手だろ? このままの成績だと三年生になれないぞ」
私の名前や、ひとりでパンをかじっていたこと。それに加えて、あの酷く無残な成績まで……。
「水樹はどうして私のこと、そんなに知ってるの?」
「それは秘密。教えない」
やっと水樹らしい笑顔を見せたけど、赤点連続の英語に、救いようのない数学の点数まで筒抜け。顔から火が出そうだった。
「まだ本気を出してないだけだもん」
「ほいほい、それじゃ明日は勉強道具を忘れるな。さ、そろそろ昼休みが終わるぞ」
腑に落ちないことだらけでも、時間が来るから仕方がない。
片付けて教室に戻った。
でも、心の引っかかりが山のように増えてしまった。
水樹が広い世界に連れ出そうとした人って誰なんだろ?
生徒かな?
眉を寄せて考えてみたけど、ずいぶん昔の話なら生徒じゃない気がする。
そうなるとやっぱり彼女とか、好きな人とか。かっこいいしモテそうだから、絶対に女の人だ。
晴れ渡り堂々とした輝く色とは違う、どこかシュンとした悲しい色が心に広がって、私を混乱させる。
「詳しく聞きたかったなぁ」
水樹のことをもっと知りたくなった。