高校中退という言葉にびびって、いじめがエスカレートしても学校をやめるという選択肢を選べなかった。
 それでもこの空間から逃げ出したい。 

 淡い銀色の光を放つ包丁を眺めながら、犯罪でも起こして父のつまらない名誉をぶち壊すことも考えた。
 紺野陽菜も、担任のくせにいじめを見て見ぬふりをした平塚も大嫌いだから、この包丁で……。
 私は首を横にふった。

 人を刺す勇気を持ち合わせていない。

 ふたりを消さないのなら、私が消えればいい。
 県内トップレベルの進学校でいじめがあることを知らしめて、有名俳優の娘が自殺するというショッキングな事件を起こす。これらはすべて、マスコミが喜んで飛びつきそうなネタだ。

 同時に私も、つまらないこの世からさようなら。
 今以上の苦しみはもう訪れない。

 一石二鳥、いや、三鳥にも四鳥にもなりそうで、どうしても死にたくなった。だからダイヤル式の鍵から手が離れない。
 ひとつ、ひとつと番号を合わせてみる。
 ダイヤルが小さくて堅いから、すぐに指が痛くなっても止まらない。

 私は決めたのだ。

「絶対に開けて、飛び降りてやる」

 狂気を込めてダイヤルを回し続けても開かない。
 鉄の扉は冷たく私を見下ろしているだけ。
 一時間目が終わり、二時間目も。さらに時間が進んでも四桁の番号にたどり着けなかった。

「今日もダメなの?」

 うまくいかない腹立たしさを感じながら、ふと教室に戻ることを考えた。
 今は英語の時間だから、教室には平塚がいる。きっと偉そうな顔で遅刻した理由を聞いてくるだろう。
 その姿を思い浮かべただけで、悔しさが胸を突き破りそうだった。
 
「どうせ死ぬんだ。いまさら授業なんて関係ない」

 鍵は五千番台を超えても外れない。
 とうとう焦りと苛立ちがピークに達して、目の前に立ちはだかる鉄の扉を思いっきり蹴り飛ばした。
 でも鉄の扉は大きな音を立てただけで、足の裏がジンジンと痛い。

「バカみたい……」
 
 目から大粒の涙がこぼれ落ちると、次から次へとこぼれ落ちて止まらなくなった。

「どうして何ひとつ自分の思い通りにならないの?」

 幸せに包まれた家族もいない。
 友だちもいない。
 いつだって私はひとり。
 
 中学ではトップレベルにいたのに、ここではもう勉強にもついていけない。
 目の前の扉ですら、私を拒む。
 扉を、扉を開けたい。
 早く死にたいのに……。

 張り裂けそうな胸を押さえて、その場に崩れ落ちた。
 声が漏れないように唇を噛んで、手足をギュッと体の中心に寄せた。
 いつまでたっても変わらない世界を恨めしく呪いながら、私を拒絶する鉄の扉にドンッと頭をぶつけた。

「……そこに、誰かいるのか?」

 誰もいないはずなのに、注意深くなにかを尋ねるような大人の声がした。
 心臓が大きく跳ね上がると、手足から血の気が引いていく。
 顔がみるみる強張(こわば)っていくのを感じた。

 ここで誰かに見つかったら停学。いや、【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を無視して授業をサボっているから、退学になる可能性だってある。
 もし退学になってしまったら『久遠寺公康の娘が自殺。進学校での壮絶ないじめを担任は見て見ぬふり』という計画が消えてしまう。 

 そんなことを考えながら隠れる場所を探したけど、ここには鉄の扉しかない。
 カバンを抱きしめて顔を隠した。

 どうしよう……誰か来る。
 どうしよう……。
 階段をあがって来るのは誰?

 これから起こり得る最悪な事態を想像しながら、落ち着けと言い聞かせて息を飲み込んだ。
 できることは、たったひとつ。
 顔を隠してどこまでも逃げる。

 慌てて階段を踏み外さない限り大丈夫。走りには自信があった。
 私は身を屈めて唇を固く結んだのに。 

「おぅーい。そこに誰かいるなら、助けてくれぇ」
「えっ?」

 ドンドンと鉄の扉をたたく音と共に、弱々しく頼りない男の声がする。
 鉄の扉に耳を当てると、また声がする。
 
「屋上にいたら、鍵、閉められて……。八七二五だ。そこに誰かいるなら鍵を開けてくれぇー。頼むよぅ」

 やはり鉄の扉の向こうに誰かいる。
 警戒したけど、屋上から聞こえてくるのは情けない声。
 言われるままに番号を合わせてみた。すると鍵はカチリッと小さな音を立てて、呆気なく外れた。
 力を込めて鉄の扉を開けると強い風が流れ込み、何者かがふわりと抱きついてきた。

「助かったぁー。ありがとう、本当にありがとう」

 いきなり抱きつかれて、普通なら悲鳴をあげている。でも、暖かい春の日差しに似た香りと、真綿で包むような優しさを感じて声が出なかった。

「あっ、ごめん。ごめんね。あれ? 授業は?」

 男はパッと離れて、不思議そうに私を見回している。

「…………」

 私は顔を強張らせたまま、なにも答えられない。
 目の前にいる男は、緩めたネクタイに着崩したワイシャツ姿だが、学校関係者用のネームタグをぶら下げていた。

「へぇ、この学校でサボりとは、いい度胸だな。僕は数学科の水樹(みずき)奏人(かなと)だ」

 事務や用務の職員ならでまかせを並べてなんとか誤魔化そうと考えたのに、数学の先生。
 やはりここは逃げるしかない。
 駆け出そうとした瞬間、先生は私の手首をつかんだ。
 
「痛い、離してッ」
「まあそう言わずに。助けてくれたお礼がしたい」
「はあ?」

 水樹は私を屋上へと連れ出した。
 暗く冷たい場所から、まぶしい光の下へと引っ張られる。

「ちょっと、離してよ」

 鉄の扉をくぐり、冷たい風が通り抜けたかと思うと強すぎる日差しが目に突き刺さった。
 思わず目をギュッと閉じた。

「ようこそ、僕の学び舎へ」

 おそるおそる目を開けると、水樹が両手を広げている。その後ろには、雲ひとつない抜けるような青空がどこまでも果てしなく続いて、青がすべてを吸い込んでしまいそうだった。

「ここの空、綺麗だろ?」
 
 その声はしっかりと耳に届いている。だけど私はうなずくことも忘れて、青いガラスのように輝く雄大な空に圧倒されていた。

「……すごい」

 青すぎる空の色に、その言葉しか出て来ない。それと同時に、いつもうつむいていたことを思い出す。
 胸がズキンと痛むから、空を見るのをやめた。
 視線が下がると、汚れたままの靴下が真っ先に目に入る。陽菜たちの不快な笑い声が聞こえてくるようだった。

「手首、痛かった? ごめんね」

 うつむくと、にこやかな笑顔がフッと目の前に現れた。
 私が知っている数学の先生は、白髪のおじいちゃんばかり。水樹はどう見ても二十代。

 小さな顔の上に形のいい目と鼻が並んで、最高の形をつくっている。柔らかい風に揺れている前髪は羨ましいほどサラサラで、すっきりしていた。
 そして何より、まぶしい。

 日差しが強いせいかもしれないけど、水樹の周りだけが白く輝いているように見えた。
 私の心に、いつもと違う心臓の音が響く。
 戸惑いや悔しさを忘れて、胸の奥に暖かいものを広げてくれる音がする。

「大丈夫、痛くない……です」
「それはよかった。うん、よかった」

 水樹は満足そうに顔をほころばせて、大きく背伸びをした。
 天高く突き上げたあの手で、さっき抱きしめられたこと。
 手首をつかまれたこと。
 今、屋上にはふたりしかいないこと。

 あれこれ考えはじめると急に恥ずかしさが込み上げてきた。

「きょ、教室に戻らないと。まだ授業中だし、ここは立ち入り禁止ですよ。誰かに見つかったら大変ですよね。私のことは見なかったことにしてください。あ、そうだ! お互いなかったことにしましょう。今日のことは水に流して、綺麗さっぱり忘れるの。ふたりだけの秘密といことで。そうすれば丸く収まります。叱られることもないし、退学にもならない。一石二鳥、それでいいですよね?」

 恥ずかしさを隠して、できるだけ冷静に話しかけたつもりだけど、なれない敬語はメチャクチャ。
 舌を噛みそうなほど早口で、額に嫌な汗がにじんでくる。

「ここの空、綺麗だろ」
「えっと、そういうことじゃなくて……」
 
 一刻も早くここから立ち去りたいのに、水樹は聞いてくれない。
 春らしい季節の風に目を細めて、気持ちよさそう。

「今日の空なら、つかめそうな気がする。まあ、つかまらないけど」

 水樹は笑いながら大きな手を広すぎる空にかざした。
 空はどこまでも高くて遠いはずなのに、あと少しで本当につかめそう。

「空なんて、久しぶりに見た気がする」
「それはもったいない」
「どうして?」

「春は空に桜が咲くだろ。夏になれば冒険心をそそる雲でいっぱいだ。秋は月明かりを楽しんで、冬は空から雪が落ちるのを眺める。日本は一年中空を楽しめるんだぞ」

「空に桜が咲くって?」

「木の下から見上げると空が真っ青な地面に見えて、そこから花が迫ってくる気がしたんだ。普通、花は地面からぐんとのびて咲くのに、空から咲く花もあるってこと。もちろん目の錯覚だけど、天を仰げば美しさが広がってるだろ。これはきっと地球からのプレゼントなんだ。地球は今日も僕に優しい」

 目を輝かせて説明してくれても、私は首を傾げた。思いっきり怪訝そうな顔をしてやった。それなのに水樹はまったく気にしていない。
 身振り手振りで楽しそうにしゃべり続けている。

「入道雲が輝く夏の空は、様々な形の雲が心を躍らせるだろ。あの雲の向こうになにかあるんじゃないかって。薄暗い部屋にまばゆい光を届ける秋の月はとても神秘的だけど、どこか悲しげなんだ。それから冬の空はねずみ色で綺麗じゃないのに、空からこぼれ落ちるのは真っ白な雪。雪には儚い美しさがあると思わないか?」
  
 足もとばかりを見ていた私は、どの話にもついていけない。ただ「はぁ」と気の抜けた返事をして、時々「ははは」と愛想笑いを浮かべる。
 ここでようやく水樹の整った顔が曇った。

「おっかしいなぁ、空はどこまでも広くて、すべてを優しく包み込んでくれる。今日の空も素晴らしい青だ。この青空を眺めるだけでワクワクするだろ?」
「しない……かなぁ」

「んー、それは残念だ。あ、まったく関係ないけどタンポポは踏みつけるための花だったなぁ。今思えばかわいそうなことをしたけど、全部子どもの頃の話だからな。大人になってからは踏んだりしないからな」
「……そりゃ……ねぇ」

 水樹はそこらにいるちょっとかっこいい男とは違う。
 羨ましいほどサラサラな髪をして、背も高い。
 形のいい目に鼻筋も通って、男なのに美しいと思えるほどかっこいい。

 それなのに、子どものように目を輝かせてよくわからない話を一生懸命している。
 それが不思議すぎて変な人だと思ったら、自然と頬が緩むのを感じた。

「水樹……先生は、ここでなにをしてたの?」
「今日は朝から天気がいいだろ。まだ四月だけど五月晴れだ。写真でも撮ろうと思ってここへ来たら、ガチャリと閉め出された」

 私は首を傾げた。

「スマホを持ってるなら、誰かに連絡すればいいのに」
「痛いところを突くなぁ。スマホがあっても連絡できる相手がいない」
「ぶはっ、なにそれ。水樹もボッチなんだ」
「僕のことはどうでもいいだろ。それより本当に助かった。腹も減ってきたし、このままじゃ死んでしまうと思ったよ」

 ――死ぬ。

 その言葉に緩んでいた私の頬が再び凍りつく。
 ゆっくり見回すと、足をかければ簡単に乗り越えられそうなフェンスが。

 私はこの世から消えるためにここへ来た。

 水樹のペースにのせられて、危うく忘れそうだった。
 早くここから飛び降りないと、また苦痛に満ちた日々がはじまってしまう。

「いかなきゃ……」

 ふらつく足取りでフェンスに向かった。

「おいおいおいッ、ちょっと待て!」

 慌てた顔の水樹に腕をつかまれた。

「ここと、ここの赤い線よりフェンスに近づいちゃいけない。下から見えてしまう。屋上に人がいるのがバレたら、南京錠どころか、鉄の扉は二度と開かないようにされてしまう。いいか、ここと、ここの線より外に出るな」

 コンクリートにペンキのようなもので赤い線が引いてある。
 私はチラッとそれを確認したけど、強い力で水樹の手を振り払った。
 水樹は目を見開いて驚いた顔をしたが、すぐに私をつかまえる。

「ここは僕にとって大切な場所なんだ。奪わないでくれ。頼むッ!」

 本当に変な先生だ。
 授業をサボっている私を叱るどころか、空の話をいきなりはじめて、先生のくせに頭を下げてお願いをする。
 もし、私がこのまま飛び降りたら……。

 陽菜や、いじめをなかったことにしたい平塚よりも、自殺を止められなかったすべての責任が水樹に降りかかるだろう。
 鍵の番号はわかったし、わざわざ今すぐここで事件を起こさなくてもいい気がしてきた。

「……わかった。線から出ない」
「絶対の絶対、約束だからな。僕がここにいなくても、この線から外には出るなよ」

 両手をしっかりと握り、まっすぐ私を見つめる水樹の顔は先程の朗らかな笑顔ではない。
 恐ろしいほど真剣な顔つきだったけど、あまりにも凜々しくてかっこいい。思わず目をそらして顔を伏せた。
 それでも水樹は強引に小指を絡めてくる。

「ゆーび切り拳万、ウソついたら……。うーん、そうだなぁ、なにがいいかな? 僕の命令をなんでも聞く。これでOK。はい指、切った」
「はあ?」
 
 指切り拳万と言えば『ウソをついたら針千本飲ます』なのに、命令? なんでも聞く?
 大人の男が女子高校生に?
 無茶苦茶な指切りに慌てて顔をあげた。

「そんなに慌てなくても大丈夫。ウソをつかなきゃいいんだよ。久遠寺さん」

 水樹は悔しいほど爽やかな笑顔を見せて、軽くウィンクした。
 
 私の目の前には晴れ渡る青空と、屋上に閉じ込められていたわけのわからない先生がいる。
 暗く沈んだ心に真新しい風がすっと通り抜けるような、とても不思議な感じがした。