一匹の赤とんぼが、すいっと薄雲のかかる空を滑るように飛んでいた。
 私は空に向かって手をのばしたのに、十月の空も高くて遠い。

 香奈恵さんが骨髄提供のために入院するから、私はマンションに戻った。
 自由に使っていいのに、と言ってくれたけど、水樹の息づかいを感じる家でひとりになりたくない。
 どうせひとりになるなら、自宅がいい。

 ふと寂しくなっても、私にはスマホがある。待ち受け画面は、病室で撮ったはじめてのツーショット。
 水樹がかっこいいのだ。
 顔全体のパーツが一番いい形のバランスで並んで、ちょっと眠そうでも、朗らかに笑っている。……それに比べて私は、変な顔。

 急に肩を抱かれて、熱い息が首筋にかかるから……。
 耳もとで「笑って」とささやくから、真っ赤っかでみっともない。

「おっと、急がないと」

 これから水樹のいる病院へいく。
 水樹に会えるかどうかわからないけど、骨髄提供のために入院している香奈恵さんから『暇』というメールが届いた。

 これは「退屈だから見舞いに来い」という意味だった。
 電車に揺られながら、香奈恵さんも友だちがいないのでは? と考えてしまう。

「ユイ、こっちー」

 病院にたどり着くと、すぐに声をかけられた。
 病院のロビーはどこか緊張感を含んでいるのに、大きく手をふる香奈恵さんの周りは空気が違う。

 ひとりだけスポットライトを浴びているような、美しさ。
 病院が用意した冴えないパジャマ姿でも、可憐に見える。

「ケーキ、おごってあげる。ついてきて」
「あ、あの……水樹は?」

 水樹もここに入院している。
 香奈恵さんが入院する少し前に、骨髄移植に向けた前処置もはじまっていた。

「初日はケロッとしてたのに、やっぱり甘くないね。胃の中が空っぽでも、ずっと吐いてる。それでも薬は飲まないといけないし、色々なチューブにつながれたままで辛いみたい。自分が自分でない。もうわけがわからない状態だって。今から会いにいく?」

 すぐに返事ができなかった。

「まあ、どうせ会えないと思うから、おいで」

 香奈恵さんは私の手首をつかんで、ずんずん進んでいく。そして一緒に月を眺めた病室ではなく、完全無菌室の前で足を止めた。
 ガラス越しに、透明なアクリルのような箱が見える。でもその中はカーテンで遮られて見えない。

「ここの電話でカナ兄ぃと話ができるけど、カーテンが閉まってるときは無理。話しかけるなって意味だから、ごめんね」

 すぐそこに水樹がいる。
 一目、一言、……会いたい。
 冷たいガラスに手を添えた。

 青白い月明かりの中で水樹が倒れそうになったのに、私はうろたえることしかできなかった。
 あのとき、水樹は歯を食いしばって無理をしようとした。私がいたら、苦しい状況でも平気なふりをする。そんなこと、させてはいけない。

「香奈恵さん、ケーキ。私、三つくらい食べますよ」

 その言葉に、香奈恵さんはちょっと驚いた目をした。でもすぐに、ニッと笑う。

「それじゃ、あたしの無駄話にもたっぷり付き合ってもらうからね」
「任せてください。耳栓を用意してますから」
「なにそれ、ムカつく~」

 冗談ですよと笑いながら、歩きはじめた。
 だけど水樹を置き去りにしたような気がして、後ろ髪を引かれる。我慢できずに振り返ろうとすると、

「ユイ、このまま前に進もう。カナ兄ぃもそれを望んでる」

 柔らかく、優しい声が耳に届いた。
 不意に涙がこぼれそうになったから、慌てて上を向いた。それからエレベーターのボタンを押したとき、はじめて香奈恵さんに出会った日を思い出した。
 私と一緒に帰るのは嫌だと言って、エレベーターにのらなかった。それが今では。

「なんか、面白い」
「急にどうしたの。泣いたり、笑ったり、忙しい子ね」

「はじめて香奈恵さんとしゃべったとき、すごく感じが悪かった」
「嫌いだったから、当然でしょう。今もたいして変わってないよ」

「えっ」
「驚くことないでしょう。カナ兄ぃが治療に専念するためなら、あたしはなんでもする。ユイのことが嫌いでも仲良くするよ」

 ふふんと鼻の先で笑ってエレベーターに乗り込んでいく。

「私は、香奈恵さんに感謝してますよ」

 勇気を出して素直な気持ちを口にしたのに、無視された。でも一階に到着して扉が開くと、

「ユイが嫌いでもお弁当はつくるし、勉強も見てあげる。もともとカナ兄ぃがユイにしてあげたかったことをしてるだけだから、感謝するならカナ兄ぃにして。あたしは関係ないし」

 白いはずの頬を赤くして、早口にまくし立てられた。
 香奈恵さんはよくわからない人だけど、ちょっと私に似ているかも。
 そう考えるとやっぱりおかしくて、また笑ってしまう。
 
「ケーキ、いらないの?」

 限りなく冷たいまなざしで睨まれたけど、もう怖くなかった。

 それからひっそりとしたカフェで、オレンジジュースとイチゴタルトを注文した。
 キラキラと輝くイチゴに、甘さ控えめのカスタードクリームをたっぷりのせてパクリッ。甘さと酸味が絶妙で濃厚。厚めのタルト生地もしっとりサクサクで完璧なおいしさ。

 パクパク食べていると、香奈恵さんは全身麻酔の話をしてくれた。

「あれって不思議なのよね。睡眠ガスを吸うと五秒で寝てしまうの。話には聞いてたけど、信じられなくて」
「絶対に寝るもんか! って気合いを入れてもダメなんですか?」
「そうなの。強靱な精神力を見せつけてやろうと思ったのに、気がつけば手術が終わってた」
 
 香奈恵さんは紅茶を一口飲んで、また「不思議なの」と繰り返す。

「眠くなりますよ、って言われたときは、まったく眠くないの。意識もハッキリしてるから、麻酔が効いていない? とか思っていると、もう全部終わって病室で寝てるわけ。本当に記憶がバッサリ抜けてるから、気持ち悪いというか、不思議というか」
「変な感じですね」
「うん、そうなの。でもあたしは目が覚めたから。あのまま目が覚めなければ、死んだこともわからないだろうなって」

 死、という嫌な言葉が飛び出した。
 腕を組んで、短い息を吐いた香奈恵さんは、きっと水樹のことを考えている。
 私は考えたくないから、黙々とケーキを食べ続けた。

 そして香奈恵さんが退院してから数日後、はじめて水樹からメールが来た。

 発熱や悪寒。常にインフルエンザのような症状が続いている。そのような状態でも、身の回りのことはひとりでやらなければならないから、辛い。
 せっかく会いに来てくれたのに、ごめんな。

 今は骨髄移植が終わって、新しい血液をつくり出すのを待っている。
 順調にいけば、三月に退院。四月には会える、と。

 水樹らしい報告書のようなメールだった。

「早く会いたいなー」

 カレンダーに目を移して、一、二、三、と指を折って数えた。するとまた、水樹からのメールが届く。
 目を通すと、一通目とは様子が違っていた。

 真っ先に、私が自宅に戻ったことを心配している。
 ご飯はバランスよくしっかり食べろとか、寒くないか? 寂しくないか? 勉強は大丈夫か? そろそろ進路先は決めたのか? と、質問だらけ。

「完全に子ども扱いだ……」

 ムスッとしながらスマホをタップして、返事を考える。

 自宅に戻っても、前のように寂しく感じない。香奈恵さんが花やぬいぐるみを置いていくから、華やかになった。
 ご飯は、ちゃんと食べている。時々自分でつくるけど失敗して、……失敗する。たまに成功するから、もっと腕を磨いて水樹を驚かせたい。
 勉強と進路は……、正直に書くと水樹が真っ青になって心配しそう。だから、赤点や補習がなくなったことだけを知らせよう。

 あれこれ考えていると、急に頬が緩んでにやけてしまう。
 きっとはじめのメールを送信したあと、内容が報告書みたいで味気ないと思ったんだろうな。だからすぐに、私を気遣うメールを送ってくれた。

 辛くて大変なときでも、水樹は私の心配をしている。なんだかとても愛されているみたいで、スマホをギュッと抱きしめた。
 水樹がいるだけで、心強い。寂しさや不安も感じない。

 春になれば――。
 今まで味わったことのない幸福感に包まれて、その日は眠った。

 そして、水樹のことばかり考えていたから、夢を見た。
 平凡な景色を眺めていると、水樹の声が聞こえてくる夢。どこにいるのか探していると、薄紅色の桜が豪華な春を彩っていた。

『水樹、桜だよ』

 大きな声を出したのに、返事がない。
 やがて花びらがひとつ、踊るようにひらひらと落ちてくるから、両手でそっと受け止めた。すると花びらは溶けるように消えていく。

『雪みたい』

 そのつぶやきに水樹が『違うよ』と答えて、空を仰ぐ。
 そして形のいい目に悲しみの色を浮かべて、ハッキリ言った。

『それは、僕の命だよ』

 息が凍るような恐ろしさを感じて、目が覚めた。

 心臓がバクバクして、胸がギュッと締めつけられる。ただの夢だとわかっていても、薄紅色の淡い光がすっと消えていく感触がまだ残っていた。
 嫌な夢を見たせいで、その日は一日中、調子が悪かった。でも、時は何事もなくすぎていく。

 朗報も届いた。
 白血球の数も、血小板の数も上昇している、と。
 いい数値が出たのなら、少しずつ確実に回復していると思っていた。

 夢のことも忘れて、このまま順調に進むと信じていた。その話を香奈恵さんにしたら、「それは違うよ」と、あっさり否定された。

「白血球が増えたら、リンパ球も増えるの。リンパ球の主要種類は?」
「T細胞、B細胞、ナチュラルキラー細胞?」

「正解。リンパ球たちが活発になれば、どうなると思う?」
「バイ菌を退治してくれるんでしょう」

「そう。もともとあたしの中にあったリンパ球たちが、骨髄移植でカナ兄ぃのところへ移動してるでしょう。だからカナ兄ぃの正常な臓器を異物と判断して、攻撃しちゃうの。その逆もあって、カナ兄ぃの免疫細胞が、あたしの移植片を異物扱いして、攻撃する。合併症なんかもあって」

「危険なんですか?」
「軽い反応なら問題ないというか、むしろ大歓迎。再発が減って、予後もよくなるの。重傷の場合は大変だけど、カナ兄ぃはまだまだ感染症の心配もあるし、楽観視はできないよ」

 口を酸っぱくして教えてくれた。
 不安や心配になっても、骨髄移植は成功した。水樹なら大丈夫と心のどこかで決めつけてしまう。
 その二日後の早朝、スマホがけたたましくなった。
 眠い目をこすって「もしもし」と尋ねると、香奈恵さんの改まった声が耳に届く。

『ユイ、落ち着いて聞いてね。昨夜、カナ兄ぃの様態が急変した。すぐに来て』
「は? なに言ってるんですか。……そんなこと」

 あるわけない。



 病院に到着すると、言葉より先に香奈恵さんが私を抱きしめた。

「大丈夫だから、きっと大丈夫だから」
「なにがあったんですか?」
「歩きながら説明する」

 急ぎ足で一直線に進んでいくから、慌ててあとを追いかけた。

「詳しい説明はまだ受けてないけど、呼吸困難になったみたい。酸素マスクをつけてもうまく呼吸ができないようで、暴れたって」
「水樹が?」

「気力も体力も落ちてるのに、ありったけの力で酸素マスクをぶん投げたみたい。たぶん、なにをやっても苦しくて、息ができないから、もうやめてくれって……ことだと思う」
「でも、治療をやめたら」

「やめるわけないでしょう。ここは病院なんだから。でも、血圧が限界まで下がって、いつ終わりが来てもおかしくないから、親とユイを呼んだ」
「さっき、大丈夫って」

 思わず足が止まった。
 長い廊下の先にある実情を知るのが怖い。

「ユイ、止まらないで。モルヒネを投与してるから会話はできないけど、カナ兄ぃに会えるのは今しかないの」

 私は首を横にふっていた。

「下がりきった血圧も上昇して、安定してる。声は届いてるから、お願いッ!」

 強引に腕を引っ張られて、集中治療室へ。
 消毒液の嫌な匂いと、ピッピッピッとなり続ける機械音に顔をしかめた。そして水樹は、信じられない数の点滴と医療装置をつけられて眠っている。

「水樹……」

 怖かった。
 酷く痩せて、血の気を失った顔は、真っ白い紙のよう。

「……ユイだよ」

 話しかけても答えてくれない。
 いつだって朗らかな笑顔を見せてくれたのに、形のいい目が開かない。

「お願いだから、目を開けて。ひとりにしないで」

 手を握ったけど、冷たい。

「香奈恵さん、これで生きているって言えるの? 本当に大丈夫なの?」
「今は回復を信じるしかない。でも、心肺機能が限界に達しているから、このままだと数日で」

「嫌だ」
「あたしだって嫌よ。だから、心肺機能が回復するまで人工呼吸器をつけて、回復を待つ方法もあるの」
「だったら、それを早くッ。水樹がいなくなったら――」

 生きていけない。
 
「……そっか、だからあのとき水樹は」

 ――僕がいなくなっても、絶対にこの赤い線から外に出るな。

 この言葉は「僕が死んでも、命を捨てるな」という意味だった。

「ずるいよ、四月に会う約束は? 桜を見るって言ったよね。私には約束を破るなと言って、自分は……」

 涙で前が見えなくなった。

「香奈恵さん、水樹を助けて。もう治療はしたくないって言っても、水樹がいなくなるのは嫌だ。人工呼吸器でも、なんでもいいから」
「回復しなかったら?」

「えっ?」
「人工呼吸器をつけても、回復する保証はどこにもないの。もし回復しなかったら、カナ兄ぃはずっとこのまま。植物状態になってしまう」

「そんな……」
「カナ兄ぃはすでに治療を拒んでる。苦痛から解放してあげた方がいいのか、植物状態になるリスクを覚悟して、苦しみを与え続けた方がいいのか。あたしひとりでは決められない。親と相談して」

 底知れぬ絶望感に襲われた。

「一分一秒を争う状態でしょう。早く助けてあげて。水樹が死んじゃう。水樹を殺さないでッ!」

 冷たい手を強く握りしめて、酷い言葉を口にしていた。
 誰も死を望んでいない。助けたいと願っている。わかっているけど、冷静になれない。
 香奈恵さんに八つ当たりをして、最低だ。

「…………イ」

 激しく息を吸い込む音と共に、かすかな声が聞こえた。

「水樹?」

 冷たい手の指先もかすかに動いて、キュッと握り返している。

「カナ兄ぃ、気がついたの? あたしは……、あたしはどうすればいい?」

 水樹が苦しそうに顔をゆがめて唇を動かしているのに、聞こえない。
 香奈恵さんが私を押しのけて、水樹の手を奪った。

「結果はどうなるかわからない。それでもいいなら、手を握り返して」

 水樹の手は動かなかった。でも、「サク……ラ」と。

「ユイと一緒に桜が見たいの? それとも」

 香奈恵さんは下唇を噛んで、言いかけた言葉を止めた。
 傷つけないように、「一緒に桜を見ない」という選択肢を口にできないでいる。
 私が言わなきゃ。そう思っても足が震えて声が出ない。石のように黙っていたら、 

「奏人ッ!」

 甲高い、悲鳴に近い声が集中治療室に響いた。
 上品な顔立ちの夫婦が、息を切らせている。一目で水樹の両親だとわかった。

「どうしてこんなことに……」

 悲愴な面持ちで嘆いてから、爆発したかのように怒鳴り出した。

「あなたは医者でしょう。どうして奏人がこんなになるまで、気がつかなかったのよッ」
「おまえだって家を出たくせに。母親が傍にいないから、奏人が」

 なじりあうだけの言い争いがはじまった。

「いい加減にしてッ! こんなところで喧嘩をしないでよ。全部、カナ兄ぃには聞こえてるのよ。親の喧嘩がどれだけ辛いのか、わからないの?」

 香奈恵さんまで語気を荒げると、水樹の横にある機械からピーッという警報音が鳴り響いた。すると看護師さんが慌ただしくやってきて、脈を測る。

「水樹さん、聞こえますかー? ゆっくり息をしてください」

 反応がない。

「奏人、しっかりして!」
「カナ兄ぃ」
「奏人ッ」

 この場にいり人たちがみんな声を出しているのに、私はじりじりと後ずさりをしていた。

「おっと」

 頭に白いものが混じる、日焼けした医師とぶつかった。

「ご家族の方ですか?」
「いえ……違います」

「すみませんが、ここからはご家族だけでお願いします……って、もしかして久遠寺ユイさん? 水樹さんの主治医をしている、熊谷です」

 驚いて顔をあげると

「水樹さんからよく話をうかがってますよ。ここからは、我々に任せてください」

 熊谷先生が自信に満ちた笑みを浮かべた。