青空と月夜の約束

 もう疲れた。
 電話で言い争ったあと、香奈恵さんからのメールは常識を越えていた。

 数日分のお泊まりセットを持って、家に来い。……なんてあり得ないでしょう。
 でも、香奈恵さんの家は水樹の家。この誘惑に負けてスーツケースを引きずっていた。

「こっち、こっち」

 改札口を出ると、香奈恵さんが手をふっている。……胃が痛い。これはなんの罰ゲームなんだろう。
 すれ違う(ひと)がみんな香奈恵さんに見とれていた。

 笑顔になると艶やかなローズピンクの唇が、優しい曲線を描くから、美しさに磨きがかかっている。
 香奈恵さんのいる場所だけが白く輝いているようで、並んで歩くと惨めな気分になる。

「その荷物、貸して」
「えっ」

 断る前にスーツケースを奪われた。
 キャスターつきでも重いのに、スタスタと歩いていく。
 見失わないように小走りで追いかけると、緑の多い公園に入った。

 休日の公園は賑やかで、子どもたちが生き生きと走り回っていた。
 無邪気な笑い声が響いて、親子連れも多い。

 水樹なら小さな子どもを肩車したり、キャッチボールをしたり、そんな姿も似合いそう。私は……。
 幸せそうに笑う親子を眺めていると、羨ましすぎて足が止まってしまう。

「どうしたの?」
「あ、なんでもないです」

 誤魔化そうとしたのに、香奈恵さんは私の目線の先を確認する。そしてぽつりとつぶやいた。

「今日からあんたはひとりじゃないから」

 ちょっと嬉しかった。でも――。

「あんた、じゃない。私の名前は久遠寺ユイです。いい加減に覚えてください」
「……かわいくない。ほら、ここのマンションの二階。これが一般人の家よ」

 水樹の家。ドキドキが増してきた。
 玄関は暗くて狭いけど、中に入ると明るい。
 
 すぅっと息を吸い込むと、心が落ち着く木の香りと、日なたの香りがする。なつかしい香りだった。
 どこからか水樹の声が聞こえてきそうで、胸が熱くなる。

「そっちがトイレで、こっちがお風呂。リビングにあるものは好きに使って。それから、ユイはあたしの部屋を使って。こっちはカナ兄ぃの部屋だから、あたしが使う。もちろん立ち入り禁止だからね。わかった?」
「はい、はい。わかってます」

 うんざりした口調で答えても、今日の香奈恵さんは怒ってこない。じっと私の顔を見かえしてくるだけ。
 その顔も綺麗だから、逆にこっちがたじろいでしまう。

 私の負けだ。
 どうしても勝てない。
 がっくり肩を落としていると、香奈恵さんはポケットから、かわいい鈴ウサギのついた鍵を取り出した。

「それから、これ。家の鍵。絶対になくさないでよ」
「え、でも……」
「あたしの方が早く家を出るから、ないと困るでしょう」

 そうじゃなくて……と言いかけて口をつぐんだ。
 家の鍵はとても大切なもの。

 そういえば水樹も、数学研究室の鍵を迷うことなく渡してきた。
 あのとき、私は怒った。
 鍵ひとつ渡して、あとはお好きにどうぞと突き放された気がして。

 私にとって鍵は、閉じ込めるものだった。
 幼い頃から、首にぶら下げた鍵で玄関の扉を開ける。あとはお母さんに叱られないようにじっとして、ビクビクしながら息をひそめていた。
 鉄の扉にぶら下がった鍵も、私が屋上へ出るのを拒んだ。

 鍵があるから、私はいつもひとりだった。
 でも、数学研究室の鍵は学校に居場所をつくってくれた。香奈恵さんからの鍵は――。

 ――今日からあんたはひとりじゃないから。

 私を疑うこともなく、それが当たり前のように、鍵を渡してくれた。まるで家族の一員のように。
 不意に涙がこぼれそうになったけど、ぐっとこらえた。

「……なにか、企んでます?」

 相手はあの香奈恵さんだ。きっとなにか裏がある。
 疑いのまなざしを向けると、香奈恵さんはふふんと鼻の先で笑った。

「ここでは普通の生活をしてもらいます。掃除に洗濯、アイロンがけ。食生活を考えた料理も、きっちり教えるからそのつもりで」
「……私がするの?」

「当然でしょう。ハウスキーパーなんて雇えないんだから、自分たちでしないと。ほら、荷物を置いてきて。掃除機の使い方を教えてあげるから」
「それくらい、知ってます」

 ムッとして答えたけど、よそのお家に泊まるのは、はじめて。お泊まりなんてドラマの世界だけかと思っていた。
 目に映るものすべてが新鮮で、ワクワクする。
 
 香奈恵さんの部屋は、机と本棚にベッド。それだけでいっぱい。ただでさえ狭いのに、キュートなぬいぐるみがたくさん。パステルカラーのクッションはマカロンみたいでかわいい。

 デフォルメ水樹の絵をべた褒めしていた理由がわかった。スタイリッシュでクールな美人だけど、ファンシーでかわいいものが大好きなんだ。

「ちょっと意外」

 水樹の部屋も香奈恵さん好みになっていたりして。……そんなことを考えはじめると、気になる。
 そぉーっと水樹の部屋に近づいてみると「なにをしてるの?」と、鋭い声が飛んできた。それから、継母(ままはは)や姉たちにいじめられる、シンデレラみたいに家事をさせられた。

 夕食は途中で私がぶち切れて、ぎゃー、ぎゃー言い争いながらハンバーグをつくった。
 所々焦げてるけど「まあまあね」と食べてくれた。

 香奈恵さんがつくった方が絶対においしいのに、まずいとは言わなかった。

 もし私にお姉ちゃんがいたら、今日みたいに喧嘩をしながら、賑やかに過ごしていたのかな?
 水樹、私は幸せだよ。
 あなたに出会えて、本当によかった。

 そして朝、目が覚めると香奈恵さんがいなかった。
 昨日が賑やかすぎて寂しく感じたけど、食卓の上に置き手紙とお弁当が置いてある。

「えっと、朝食は、おかかとベーコンのおにぎり。ツナマヨ、梅、わかめとじゃこのおにぎり。好きなのを食べて、って全部食べよ♪」

 ふわふわ卵のかき玉汁に、ピーラーで薄切りにしたズッキーニのサラダもある。
 視覚にも味覚にもこだわった手料理は、大満足のおいしさでつい食べ過ぎてしまう。
 電車の時間を思い出して、慌てて家を出た。

「暑いなぁ……」

 そろそろ秋の気配を感じたいのに、夏のような日差しが肌をジリジリ焼いてくる。それでも朝の空気はどこか澄んでいて、体いっぱいに吸い込むと元気が出た。

 毎朝、この道を水樹が歩いていた。そう考えるだけで、一緒にいるような気分になれる。ずっと笑みが止まらない。

「あっ!」

 そういえば昨日、気になる話を聞いた。
 水樹のお兄さん、智也さんが入院していた病院が、ここよりもさらに南の方角にあるらしい。

 坂の上の病院。
 いいことも、嫌なことも、すべて受け止めてくれる空。空しか見えない坂道。
 水樹が私にも見せたいと言っていたから、見てみたい。

 電車を待つ間に、スマホの地図で病院の場所を確認してみた。
 ここから少し離れているけど、このまま逆方向の電車にのれば、すぐにいける。
 どうせ学校はつまらない。
 
 一日ぐらいサボっても……。
 通学カバンをギュッと抱きしめた。するとお弁当箱のお箸が、カタカタと音をたてる。

「……サボれないな」

 香奈恵さんがつくってくれたお弁当は、学校で食べなきゃ。
 次の休みにいってみよう。そう決めたのに、暇な時間が意外にも早く訪れた。

 学園祭の準備で、午後からの授業がない。しかも、私は美咲のいるポスター班。宣伝用のポスターをつくって、指定の場所に貼るだけ。
 下絵は完成しているから、お弁当を食べながら色をつけた。

「わっ、ユイちゃんのお弁当、おいしそう。いただきー」

 美咲が葉っぱカットされたウィンナーをひょいとつまんで、パクリと食べた。いきなりのことで驚いたけど、美咲はポスター班全員のお弁当から、次々とおかずを奪っていく。

 その食べっぷりが豪快で、ポスター班のみんなもケタケタ大口を開けて笑っていた。
 普段はチョークの音しか響かない教室なのに、笑い声やおかずを奪われた叫び声が飛び交っている。
 私も一緒に笑っているのが不思議だった。
 
 同じ制服を着ていても、周りのみんなはいつも明るくて、なんの支障もなく楽しそうで、自信をみなぎらせているように見えていた。 
 私だけが補習で、赤点で、うまくやっていけない人だと思っていた。

 でも、みんなでお弁当を食べている。
 一緒にポスターに色を塗って、たくさん笑って、……できないと思っていたことが、できている。

「よし、ポスター班のみなさん、よく頑張りました! 今日はこれにて解散ー」

 班長のかけ声と共に、みんなでハイタッチをする。
 パンッと弾ける音が心地よかった。

「ユイちゃん、またねー」

 美咲はトレーニングウェアに着替えて、部活へ。私はスマホの地図を眺めていた。

「急行で……六つ先の駅か」

 太陽の光をたっぷり浴びたアスファルトが、むわっとした暑さを放出している。早く帰って涼みたい気持ちもあるけど、坂の上の病院へいってみよう。
 ワクワクした気持ちを抱えて、電車に飛びのった。 

 電車の中は涼しくて、ウトウトと眠りそうになった頃、目的地に到着した。
 駅前のバスターミナルには、二、三台のバスがとまっている。病院行きのバスも探せばありそう。でも、水樹は自転車で通っていたから、歩いてみることにした。
 
 お気に入りの音楽を聴きながら、お散歩気分で歩く。ところが、まだまだ暑い午後の日差しの中を、歩いているのは私だけ。
 交差点を曲がって、さらに緩やかなカーブを曲がると足がピタリと止まる。

「……これが坂?」

 目を丸くして、思いっきり見上げた。
 涼しげな街路樹がずらりと並んで、歩道はおしゃれな石畳。でも問題なのは、壁にしか見えない坂。

 坂というより、大きく立ちはだかる壁。
 壁の一番高いところに、かろうじて青い空が見えている。

「え、この壁を自転車で?」

 とても信じられなかった。
 歩いても、歩いても頂上が見えてこない。
 汗が滝のように流れて、すぐに音楽を聴く余裕も奪われた。

 やっぱりバスを利用すればよかったと、激しく後悔した。それでも引き返せない。
 長距離走者のような息づかいで、立ち止まってはフラフラと亀のようにゆっくりと歩む。お茶もあっという間に飲み干してしまった。
 
 空のペットボトルにため息をぶつけて周囲を見回したけど、自動販売機なんてものはない。街路樹の葉と葉の隙間からふり注ぐ、キラキラとした輝きも容赦なく、私の体力を奪う。

「来る時期を間違えたかな」

 息苦しくて、のどがカラカラしすぎて痛い。
 それでも少しずつ大きく広がる空は、あの日みた空と同じ。美しいガラスのように、青く輝いている。

 目の前の大きな空は、もう一度見たかった青い空。
 自然と笑みがこぼれた。

「このまま……空に……のぼれそう……」

 傍に水樹がいなくても、この色があれば頑張れる。
 あと少し、あと少し。と、呪文のように唱えながら空に向かって歩く。

 いつの間にか流れる汗が消えて、近づいたはずの空がフッと遠のくと、コンクリートの大きな塊のような病院が見えた。
 そこでやっと、壁のような坂のてっぺんにたどり着いたことに気づく。
 青い空には届かなくても、登り切った達成感で胸がいっぱいだった。

 四月になって水樹に会えたとき、今日の頑張りを話して褒めてもらおう。
 そんなことを考えていると、突然、ふわふわと雲の上を歩いているような、乗り物にゆられているような、変な感覚に襲われた。

 体に異常を感じても、声すら出ない。足もとから力が抜けていき、すべての音がすっと遠のいた。同時に、目に見えるすべての景色が真っ白になった。

 次に気がつくと、クリーム色の薄汚れた天井が見えた。
 消毒液の嫌な臭いと、ピッピッと、なにかの機械的な音がする。
 まったく状況がわからない。目をパチパチさせながら体を起こすと、顔や膝に痛みが走った。

「久遠寺さん、気がつきましたか? 病院の前でよかったですね。一歩間違えれば危険でしたよ」

 小柄な看護師さんがにっこり笑っている。
 左腕に点滴の針が刺さっていたので、ここでようやく理解した。
 私は壁のような坂を登り切ったあと、熱中症で倒れた。

白川(しらかわ)さん、お嬢さん無事でしたよー」

 看護師さんが廊下に向かって大きな声を出すと、ガタンッとパイプイスが激しい音を立てた。
 その音にビクッと身をすくませる。
 白川は母の名字だ。

 熱中症で倒れたから、母のもとへ連絡がいった。そして今、そこにある扉から鬼のような形相で現れる。迷惑ばかりかけてと、殴られる。
 ふとんの端をギュッと握って、目をつぶった。

「ユイちゃん、大丈夫かい?」

 母の声ではなかった。
 安心して目を開けると、おばあちゃんがいる。

 私の手を強く握って「よかったね。無事でよかったね」と、涙を浮かべて何度も繰り返す。その姿に胸が痛んだ。
 中学生のとき「勉強が忙しいから、話しかけないで」と、生意気な口をきいた。おばあちゃんはいつも私を見守ってくれたのに、ずっと素直になれなかった。

公康(きみやす)さんから電話があってね。もうびっくりしたよ」
「お父さんから?」

 きっと制服を着ていたから、学校へ連絡がいったんだ。そこから保護者である父のもとへ。
 でも、父はこんな場所に来ない。
 もちろん母も……。
 だからおばあちゃんが来てくれた。

「よりによってこの病院に運ばれるだなんて、ばあちゃんの心臓が止まるかと思ったよ」
「……ごめんなさい」
「ここはユイちゃんが小さい頃に、ユイちゃんのお母さんが運ばれた病院だよ。覚えてるかい?」

 首を左右にふった。
 母が薬を大量に飲んで、病院に運ばれたのは覚えている。まさかこの病院だなんて……。

「やっぱり……、ユイちゃんは、ばあちゃんのところへ来ないかい?」

 その言葉に嬉しさを感じた。
 おばあちゃんと一緒なら、もう寂しい思いをしない。返事をしようとしたのに、

「久遠寺さん、気分はどうですか?」

 白衣を着た中年の医師が、丸々と太ったお腹を斜めにして、おばあちゃんと私の間に割って入った。

「平気です」
「点滴が終われば、ご自宅に戻っていただいても構いません。でも、熱中症には十分気をつけて、水分補給と……」

 その説明は耳に入ってこなかった。
 大人の保護なんていらない。差し伸べられた親切を拒絶することが「独り立ち」だと思っていた。だからひとり暮らしをはじめたけど、やはり誰かと一緒に暮らしたい。

 医師の姿が消えると「おばあちゃん、あのね」と、ようやく素直な気持ちがこぼれはじめる。でも――。

「あぁ、ごめんね。ユイちゃんにはお父さんがいるもんね。余計なこと言って、ごめんね」
 
 大人はいつも話を聞いてくれない。「これが正しい」と、私の声を聞く前に答えを押しつけてくる。

「実は……ユイちゃんのお母さんが再婚することになったのよ。療養中に、とても親切にしてくださる人がいてね」
「…………」

「もちろん、再婚してもユイちゃんのお母さんはお母さんだよ。おばあちゃんも、ユイちゃんのおばあちゃんのままよ。いつでも遊びにおいで」

 ふとんを握る手に力が入った。

「これから式の日取りを決めにいくのよ。ユイちゃんはもう大丈夫? ひとりで帰れる?」
「大丈夫だよ。心配しないで」

 胸の中がザラザラして気持ち悪いのに、明るい声が出る。
 笑いたくないのに、笑顔をつくるのは簡単だった。

「でも、ひとり暮らしだと大変でしょう? 困ったことはない?」

 親切に聞いてくるけど、おばあちゃんは知っている。私が「助けて」と言えないことを。
  
「友だちが遊びに来るから、楽しく過ごしてるよ。休みの日も買い物したり、カラオケにいったり」

 遊びに来るような友だちなんていない。
 現実とはまるで違う、理想を語っている。言葉と心が違いすぎて気持ち悪い。
 ウソが口からこぼれるたびに、なにかが壊れていく。
 
「お母さんに、おめでとうって伝えて」

 虐待していたくせに、新しい家庭でリスタートして幸せになるんだ……。私を置いて。
 
「ごめんね、ユイちゃん」

 謝るなら、来るなッ!
 昔からおばあちゃんは優しくて、いつも会うのが楽しみで、ひとつのよりどころだった。「一緒に暮らそう」と言ってくれたのに。すごく嬉しい言葉だったのに、最後の最後で手を離された。

 点滴が終わると、またひとりぼっち。
 考えるのをやめよう。
 看護師さんにお礼を言って、病室を出た。

「そっかぁ、ここがあの病院だったのか」

 水樹のお兄さんが入院していた病院と、母が薬を大量に飲んで運ばれた病院が同じだった。
 古い記憶を頼りに、椅子がたくさん並ぶ待合室を通り越して、狭い廊下を曲がる。すると自動販売機があった。

「まだあったんだ」

 そっと自動販売機に手を当てて、迷子になった私を助けてくれたお姉さんを思い浮かべた。
 親切にしてくれる人がいる。

 水樹の家に戻ったら、香奈恵さんがいる。私はひとりじゃない。深く考えるな。
 心に言い聞かせても、黒いものが渦巻いていた。

 水樹も香奈恵さんも他人だよ。
 血のつながった親子ですらバラバラなのに、赤の他人がいつまでも傍にいてくれると思う?

「……水樹は違う……よね」

 朗らかに笑う水樹の姿を思い出すと、もうダメだった。
 堰を切ったかのように涙があふれ、止まらない。

 迷子の子どもみたいに泣きながら歩いた。すれ違う人が驚いた顔をするけど、誰も声をかけてくれない。
 スマホを取り出して、助けを求めた。

『ちょっと、ユイ! 今、何時だと思ってるの』
「香奈恵さ……ん。水樹に……」

『は? 今、どこにいるの?』
「……水樹に会いたい」

 ただそれだけしか言えなかった。
 どうしたの? と聞かれても、体が壊れてしまいそうなほど大きな声をあげて、泣くことしかできなかった。