どうしてこのような事態に陥ったのか。頭をひねって考えても、答えが出てこない。
中庭の隅で陽菜と喧嘩をしていたら、突然、香奈恵さんが現れた。
これだけでも思考が追いつかないのに、香奈恵さんはいつも通り言いたい放題。
きっと穏やかで優しい水樹が甘やかしたんだ。
叱ってくれる人がいないから、わがままで思ったことをすぐ口にする。……私も似たところがあるけど、香奈恵さんは大学生で大人。
「あれじゃ、顔がよくても性格に難ありね」
そもそも私の家に来て、なにをするつもり?
部屋は片付けたし、見られて困るものはない。
まさか、久遠寺公康の娘と知って、本当に父がいないか確認する気かも。
はあー、やってらんない。面倒くさい。
それでも笑顔をつくって、香奈恵さんを招き入れた。
「ど、どうぞ……」
「すごいところに住んでるのね。オートロックは珍しくないけど、コンシェルジュがいて、二十四時間体制の警備員とか。目的階にしか止まらないセキュリティカードまでもらったわよ」
「他は違うの?」
香奈恵さんは顔をしかめた。
「暴力女……紺野陽菜だっけ? あんたのこと大嫌いって言った意味が、よぉーく、わかったわ」
深いため息のあと、きつく睨まれた。
でもその目は形がよくて、水樹にそっくり。
やっぱり妹なんだ……という複雑な気持ちと、ふとした表情と仕草にドキッとしてしまう。
じっと眺めていても飽きない。整った顔立ちの人はいいなー、すっきり顔を出せて。わざわざ輪郭を髪で隠す必要がないから、羨ましい。
「うわッ、きったなぁーい。角にホコリがたまってる。髪の毛も落ちてるし、ちゃんと掃除してるの?」
おまえは小姑かッ! と、怒鳴りたくなるけど、ここは我慢。我慢するしかない。
性格の悪い香奈恵さんのことだから、今日のことを水樹に報告するはず。私の欠点を探し出して告げ口する気だ。
できるだけ穏やかに。にこやかに。さっさと帰ってもらおう。それがいい。
「お茶でも飲みますか? 外は暑かったでしょう」
「いらない。それよりも、なに、このキッチン。真っ新じゃない。自炊できないとか言わないよね?」
「ちょっと、勝手に見ないで」
怒っても、どこ吹く風。次は冷蔵庫のチェックをはじめている。
どこまで非常識な人なの。
「こっちも酷い有様ね。肉も野菜もないなんて。いったい、なに食べてるの?」
「関係ないでしょう」
「成長期なんだから、体をつくる糖質やたんぱく質を意識してとらないと。あ、もう手遅れか。残念ね」
私の胸を見て、ふふんと鼻で笑いやがった。
さすがに言われっぱなしだと頭にくる。
「で、用件はなんですか? お父さんなら本当にいませんよ」
「あんたの父親になんか興味ないわよ」
「えっ、でも久遠寺公康って俳優の」
「テレビとか見てる暇なかったから、よく知らない。なに? 有名人の娘ですって自慢したいの?」
言い知れない恥ずかしさに包まれた。
私はずっと、久遠寺公康の娘という目で見られるのが嫌だった。それなのに、自分から久遠寺公康の娘だと言おうとしていた。
自分の醜さを目の当たりにしたようで、ばつが悪い。
「用がないなら、帰ってください」
「大事な用件があってここに来てみたけど、本当になにもない部屋ね」
「余計なことはもういいから、用件だけどうぞ」
「スリッパもないし、カウンターテーブルに椅子がひとつ。食器もこれだけ?」
「ちょっといい加減にしてください。あちこち触らないでッ」
声を荒立ててしまった。でもこれ以上、我慢できない。
私は臨戦態勢で身構えたのに、香奈恵さんは知らん顔で部屋を見回している。
「女の子の部屋ならアクセサリーやかわいい小物。ぬいぐるみのひとつぐらいあってもいいのに」
「そんなこと、香奈恵さんには関係ないですよね?」
「関係ないよ。関わりあうつもりもなかった。本を渡して帰るだけだったのに、最悪な日ね。あー、やだやだ」
さっぱり意味がわからない。
ただ文句をいって貶しに来ただけなら帰ってほしい。腹の探り合いはもうやめた。
「どうせ水樹のことで話があるんでしょ?」
「正解! 足りない頭でよくわかったわね。来月、カナ兄ぃは結婚するの」
「……え?」
怒りも苛立ちも、一瞬で消えてしまった。
「水樹が……結婚? え、……ウソ……だ」
「ウソに決まってるでしょう」
「はああああ?」
一瞬で消えたはずの怒りが、さらに数倍の大きさになって爆発した。
「さっきから言いたい放題でウソまでついて。いったい、なにがしたいわけ? 私も暇じゃない。バカにしたいだけなら、帰って!」
「さっき学校で、フラれてもすぐ次にいない。想ってるだけなら、なーんてしおらしいこと言ってたけど、やっぱりウソつきね」
「ウソつきはそっちでしょう!」
「カナ兄ぃからフラれるなんて、これっぽっちも思ってないくせに。好きって言われたから、バカみたいに信じて、ずっと待つつもりだよね。それが迷惑だって、話がしたいの」
香奈恵さんがぐいっと睨みつけてきた。
さっきからずっと痛いところを突いてくる。
水樹と同じ形のいい目で、酷いことばかりされる。
「私、香奈恵さんになにかしましたか?」
「カナ兄ぃが病気で死にそうなの。このままだと、あんたまで死にそうだから心配してあげてるの。どうせ大人の男に憧れて流されてるだけでしょう。他の人を探した方が幸せかもね」
「どうしてそんなウソが、次から次へとポンポン出てくるの? 信じられない」
「今の話は本当。水樹奏人がこの世から消えても、あんたはちゃんと生きていける?」
またウソの話をしている。
そう思ったのに、前髪で形のいい目を隠した香奈恵さんの頬に、無色の色がひとつこぼれ落ちた。
「やっぱりきついなー。心構えはできてるはずなのに、言葉にすると涙が出るよ」
香奈恵さんらしくない姿に、心臓がギュッと締めつけられた。
水樹がこの世から消える?
心の中でその言葉を繰り返すと、苦いものが湧きあがる。それを無理やり押し込めて、声を絞り出した。
「冗談でも笑えないです。言っていいことと、悪いことがありますよ」
「信じたくないなら、信じなくてもいいよ。カナ兄ぃは六月頃から調子が悪くて、帰宅しても寝てばかりだった」
香奈恵さんはひとつしかない椅子に腰をおろして、じっと私の様子をうかがっている。
形のいい目が「話の続き、聞く勇気ある?」と尋ねているようだった。
思わず小刻みに首を横にふると、一瞬、しらけたような顔を見せた。でもすぐに短い息を吐いて、続きを話しはじめた。
「カナ兄ぃはリンパ腺の腫れが気になったみたいで、病院にいったの。血液検査をしたら、即入院。それからより詳しい検査があって」
「香奈恵さん……」
「あんたも病院で会ったよね。ほろ苦い香りの、コーヒーショップを覚えてる? あの日、医師から血液の癌かもしれないって言われたの」
「いい加減にしてください!」
いつまでたってもからかうそぶりを見せないから、声をあげて香奈恵さんの言葉を遮った。
「入院中でも、水樹はいつもの水樹だった。普段通りの会話をして、朗らかに笑って、退院が……決まったって……」
思い当たる節がいくつもある。
「病気で死にそう? そんなこと、あるわけない! ウソつきは嫌いです。帰ってくださいッ」
あの日、水樹はコーヒーを飲まなかった。
大好きなコーヒーが飲めないほど体が悪い、そう感じた。
病状を聞き出すチャンスはいくらでもあったのに、怖くて聞き出せなかった。私がいつも水樹の足を引っ張っていたから……。
「ごめん、帰れない。あたしはこの話をしにきたの」
「水樹はいつも笑ってた。絶対に……ウソだ」
全身の力が抜けていく。
立ちくらみをしたように、へなへなと座り込んだ。
首が折れたみたいにうなだれてしまったけど、頭の中は「ウソだ!」と叫んでいる。香奈恵さんの言葉に偽りがないか、必死になって探している。
「転院先でも絶対安静だったのに、学校へいって、血が止まらないって」
ハッとして顔をあげた。
汗がにじむ夏の香りと、吸い込まれそうな青い空が鮮明によみがえる。
屋上には爽やかな風が吹いて気持ちいいのに、水樹はずっと変だった。
もう二度と会えなくなるような口調だったから、悲しくて想いをぶつけた。
受け止めてもらえたけど、手のひらについた血を眺めて、動かない。唇の端からも血が流れて……。
「カナ兄ぃはすべての血球、……白血球、赤血球、血小板がうまくつくない病気なの。軽症なら薬で治るけど、血が止まらないってことは、薬で治る範囲を超えて重症になった……ってこと」
「水樹は、新しい目標ができて学校を辞めたんじゃないの? お父さんがお医者さんで、香奈恵さんも医学部だから、しばらく病院へいくって」
「カナ兄ぃは口がうまいな。入院するって言ったら心配するから、誤魔化したのね」
頭の中でざわつく「ウソだ」の声が、力をなくして消えていった。
しばらく会えなくなっても、次に会ったとき「よく頑張ったな」って褒めてほしいから、わがままを封じた。 順調にいけば四月に会えるって……。
ぞくりとした冷気が背中を這いあがってくる。
順調にいかなかったら?
「香奈恵さん、水樹は今どこにいるの?」
「……病院」
「そうじゃなくて、どこの病院にいるの?」
「無菌室にいるから、家族以外の人と面会はできないよ。これは意地悪じゃなくて、カナ兄ぃの命を守るために、病院が決めたルールなの」
いつも蚊帳の外。
水樹はなにも教えてくれなかった。
大事なことを言う必要がないくらい、私はちっぽけな存在なんだ。
「うっ……ぐ」
大粒の涙がこぼれると、もうダメだった。
「水樹は私の心に寄り添ってくれたのに……、いつまでたっても……近づけない」
水樹のことを知ろうとすると、すぐ遠くへいってしまう。
「やっとつかめたと思ったのに」
勇気を出して、私から抱きついた。
真夏で暑いのに、水樹の温もりが心地よくて、四月まで我慢しようと決めた。それなのに、命に関わる病気?
夏休みの屋上で、私、ひとりだけが浮かれていた。
これほど惨めなことはない。
「つかめて……なか……たの?」
青い、ガラスのように輝く空に向かって、水樹はよく手をのばす。ギュッと堅く拳を握るけど、その手に空はつかめない。
ぐんと迫ってくるほど近くに見えても、遠い。あの青すぎる空と水樹は一緒だ。とても綺麗なのに、届かない。
「ユイ、落ち着いて。確かにカナ兄ぃは危険な状態だけど、悪い話ばかりじゃないから」
泣きじゃくる手を、そっと握ってくれた。
「今は輸血で命をつないでる。その次の治療方法も提示されてるから、すべてが終わったらちゃんと話してくれると思う」
「……治療がうまくいかなかったら?」
「成功する確率は八割から九割なのよ。悲観する要素はないでしょう」
「でも一割はダメなんでしょう。一割の人は確実に」
死ぬという言葉を口に出すのが怖かった。
九割が成功だとしても、水樹と同じ病気の人が十人いたら、そのうちのひとりは助からないと断言している。
そのひとりに入らない保証はどこにもない。
「せっかく人が明るい話題を提供してやろうと思ったのに、ネガティブなことばかり言われると、嫌な気分になる。ちょっと立ちなさい」
え? え? とクエスチョンマークを飛ばしても、香奈恵さんは私の腕を引っ張って立たせた。
「はい、ここをまっすぐ歩いて」
意味がわからない。ふてくされていると「早くしなさい」と腰をはたかれた。
仕方がないから五、六歩、前に進む。
「はい、ストップ。それじゃ、そのまま戻ってきて。顔はまっすぐ前を向いたまま、後ろ向きで。ほら、後ろは見ないで戻ってくる」
「そう言われても……わ、難しい」
たった五、六歩の距離でも、涙目だからふらついた。
「ほーらね、人生は前向きに歩きなさい。後ろ向きに歩いても、歩きにくいだけでしょう」
「なにそれ……」
また無茶苦茶なことを言ってる。
半分あきれたけど、半分はそうかもしれないって感心してしまう。
ほんの少しだけ笑みをこぼしたら、
「それではもうひとつ、いいことを教えてあげよう」
香奈恵さんは胸を張って「感謝しなさいよ」と言いたげな顔をした。
「骨髄移植で助かる道があるの。骨髄移植は、リンパ球や血液細胞をほぼ完全に破壊してから、正常な細胞を移植して血液細胞をつくらせる方法だけど、わかる?」
細胞をほぼ完全に破壊してからって……、そんなことをして大丈夫なのか不安になる。だから正直に「ちょっとよくわからないです」と答えたのに、バカ発見、と言いたそうな目をしただけ。
「骨髄移植には骨髄を提供するドナーが必要で、これはあたしがすることになってるの」
今度は、水樹を救えるのは自分だけだと自慢してきた。
好き勝手やっている香奈恵さんの骨髄なら、力強くて移植も成功しそう。それはいい話だけど、鼻をすすりながら早く帰れと念じてしまう。その表情に気づいても、香奈恵さんは語り続けた。
「あとは移植する日を決めるだけ。……でもカナ兄ぃが嫌がってるの」
「どうして? 助かる道があるのに」
「そんなの決まってるでしょう。妹のあたしが命よりも大切だからよ」
「…………」
どこまでが本当で、どこからがウソなのか。またわからなくなってきた。
「ドナーにもそれなりのリスクがあるのよ」
「本当にそれだけですか?」
疑いのまなざしをぶつけると、香奈恵さんは目をそらした。
「あとは、HLAかな。知ってる?」
「あ、生物基礎で習いました。ヒト白血球型抗原のことですよね」
「そう、それ」
「確かHLAをつくり出す遺伝子は、第六染色体上にある六対存在して、六対の遺伝子は多くの対立遺伝子を持つ……えっと、複対立遺伝子だからその組み合わせは二千万種類とか」
「よく覚えてるわね。生物好きなの?」
「補習で、HLA遺伝子が同じなら拒絶反応は起こらない。同じ両親から生まれた兄弟間で拒絶反応が起こらない確率を聞かれたから」
「生物も補習だったの?」
「……水樹には言わないで……ください」
弱々しい声でお願いしても、香奈恵さんはニヤッと口元に笑みを浮かべた。
告げ口、決定ー♪ と言いたそうな顔。
慌てて話題を変えた。
「HLAのどこが問題なんですか? 血縁者の香奈恵さんがドナーだから、HLAが一致したんでしょう」
「一致したと言ってもHLA抗原型の完全一致で、HLA遺伝子型が若干違うの。昔は遺伝子の配列まで調べられなかったけど、今は違うでしょう。遺伝子配列が違うと、移植後に起こる合併症のリスクが高まるの」
「水樹はそれを知ってるの?」
「たぶん、知ってる。主治医の先生は、HLA抗原型の完全一致ばかりを強調して安心させようとしてるけど、逆効果になってる。リスクはつきものなのに、妹のあたしが大切だから迷ってるのよ」
ドナーになれば、健康な体に傷をつける。移植した骨髄が牙をむく可能性もある。そのとき、骨髄を提供した香奈恵さんがどう思うのか。
水樹が悩む気持ち、少しはわかるけど。
「水樹は生きたくないの?」
「カナ兄ぃは昔から自分のことより、周りを気遣う人だから」
「命がかかってるのに?」
「まあ、その辺はあたしがうまく誘導するよ。やっぱりここへ来て正解だった。ようは天秤ね。この左手があたしで、右手がカナ兄ぃの命なら、左手の方が重い。でも右手に、四月に会えると信じてるユイが加わったら」
「どうなるんですか?」
身を乗り出して尋ねると、香奈恵さんはきつい目をして睨んできた。そして私の顔を指さす。
「鼻水の痕がついてるよ」
「ぇえええ!?」
さっき泣いたから顔はぐちゃぐちゃかもしれない。
「顔、洗ってきます」
恥ずかしい。鼻を押さえて洗面所に走った。
鏡の前に立つと、目の周りが真っ赤で酷い顔をしている。でも鼻水の痕なんてついていない。
また騙された……。
がっくり肩を落として、腹の底にたまった空気を全部吐き出すつもりで、長い息を吐いた。それから冷たい水で顔を洗って、さっぱりした。
今度こそ言い返してやろう。
「香奈恵さん、鼻水なんて……んなッ!!」
部屋に戻ると、香奈恵さんはクローゼットを開けている。
一冊のノートを手にして、キラキラ輝いた目をしていた。
「ねえ、ねえ、この絵。すごくかわいい! これ、カナ兄ぃ?」
暇なときに、デフォルメした水樹をたくさん描いたイラストノート。
他人には絶対に見られたくないノートだった。
「……かっ」
「か?」
「帰れえぇぇぇぇーッ!!」
ノートを奪い取って、カウンターテーブルにたたきつけた。
「ちょっ、なに? えっ? やだ、耳まで赤くして」
「帰れ、帰れ、帰れーッ!」
「嫌よ。ねえ、あたしも描いてよ」
「描くわけないでしょうッ」
「生物も補習。カナ兄ぃが知ったら、どぉー思うかなぁ?」
歯が砕けそうなほど食いしばって、怒りをあらわにしても香奈恵さんは動じない。
乱暴にノートを破って、ペンを握った。
「香奈恵さんも、基本は水樹だから……」
サッと水樹を描いてから少しまつ毛を長くして、髪をひとつに束ねて。
「すごい! うまい! 上手ね。かわいいー」
はじめて褒められたけど、あまり嬉しくない。
「はい、どうぞ。さようならッ!」
「ありがとうー。またね」
二度と来るなッ!
玄関のドアを閉めると、疲れがどっと押し寄せてくる。
突然やってきて、家の中をチェックして、散々かき乱していった。
香奈恵さんは嵐のような人だ。苦手だけど、来てくれなかったら……。水樹のこと、ずっと知らないままだった。
カウンターテーブルに頬杖をついて、静かになった部屋をぼんやり眺めた。それからふと手をのばしたけど。
「ない……」
ガタンと椅子が鋭い音を立てた。
カウンターテーブルの上にたたきつけたノートがない。
デフォルメ水樹を気に入っていたようだから、持って帰っちゃった?
「まさか水樹に……見せ……る……?」
目まいがしてぶっ倒れそうになったけど、スマホを取り出した。
教えてもらった連絡先に、何度も、何度も電話をする。でもスマホからは、留守番電話の機械的な音声が繰り返されるだけだった。
中庭の隅で陽菜と喧嘩をしていたら、突然、香奈恵さんが現れた。
これだけでも思考が追いつかないのに、香奈恵さんはいつも通り言いたい放題。
きっと穏やかで優しい水樹が甘やかしたんだ。
叱ってくれる人がいないから、わがままで思ったことをすぐ口にする。……私も似たところがあるけど、香奈恵さんは大学生で大人。
「あれじゃ、顔がよくても性格に難ありね」
そもそも私の家に来て、なにをするつもり?
部屋は片付けたし、見られて困るものはない。
まさか、久遠寺公康の娘と知って、本当に父がいないか確認する気かも。
はあー、やってらんない。面倒くさい。
それでも笑顔をつくって、香奈恵さんを招き入れた。
「ど、どうぞ……」
「すごいところに住んでるのね。オートロックは珍しくないけど、コンシェルジュがいて、二十四時間体制の警備員とか。目的階にしか止まらないセキュリティカードまでもらったわよ」
「他は違うの?」
香奈恵さんは顔をしかめた。
「暴力女……紺野陽菜だっけ? あんたのこと大嫌いって言った意味が、よぉーく、わかったわ」
深いため息のあと、きつく睨まれた。
でもその目は形がよくて、水樹にそっくり。
やっぱり妹なんだ……という複雑な気持ちと、ふとした表情と仕草にドキッとしてしまう。
じっと眺めていても飽きない。整った顔立ちの人はいいなー、すっきり顔を出せて。わざわざ輪郭を髪で隠す必要がないから、羨ましい。
「うわッ、きったなぁーい。角にホコリがたまってる。髪の毛も落ちてるし、ちゃんと掃除してるの?」
おまえは小姑かッ! と、怒鳴りたくなるけど、ここは我慢。我慢するしかない。
性格の悪い香奈恵さんのことだから、今日のことを水樹に報告するはず。私の欠点を探し出して告げ口する気だ。
できるだけ穏やかに。にこやかに。さっさと帰ってもらおう。それがいい。
「お茶でも飲みますか? 外は暑かったでしょう」
「いらない。それよりも、なに、このキッチン。真っ新じゃない。自炊できないとか言わないよね?」
「ちょっと、勝手に見ないで」
怒っても、どこ吹く風。次は冷蔵庫のチェックをはじめている。
どこまで非常識な人なの。
「こっちも酷い有様ね。肉も野菜もないなんて。いったい、なに食べてるの?」
「関係ないでしょう」
「成長期なんだから、体をつくる糖質やたんぱく質を意識してとらないと。あ、もう手遅れか。残念ね」
私の胸を見て、ふふんと鼻で笑いやがった。
さすがに言われっぱなしだと頭にくる。
「で、用件はなんですか? お父さんなら本当にいませんよ」
「あんたの父親になんか興味ないわよ」
「えっ、でも久遠寺公康って俳優の」
「テレビとか見てる暇なかったから、よく知らない。なに? 有名人の娘ですって自慢したいの?」
言い知れない恥ずかしさに包まれた。
私はずっと、久遠寺公康の娘という目で見られるのが嫌だった。それなのに、自分から久遠寺公康の娘だと言おうとしていた。
自分の醜さを目の当たりにしたようで、ばつが悪い。
「用がないなら、帰ってください」
「大事な用件があってここに来てみたけど、本当になにもない部屋ね」
「余計なことはもういいから、用件だけどうぞ」
「スリッパもないし、カウンターテーブルに椅子がひとつ。食器もこれだけ?」
「ちょっといい加減にしてください。あちこち触らないでッ」
声を荒立ててしまった。でもこれ以上、我慢できない。
私は臨戦態勢で身構えたのに、香奈恵さんは知らん顔で部屋を見回している。
「女の子の部屋ならアクセサリーやかわいい小物。ぬいぐるみのひとつぐらいあってもいいのに」
「そんなこと、香奈恵さんには関係ないですよね?」
「関係ないよ。関わりあうつもりもなかった。本を渡して帰るだけだったのに、最悪な日ね。あー、やだやだ」
さっぱり意味がわからない。
ただ文句をいって貶しに来ただけなら帰ってほしい。腹の探り合いはもうやめた。
「どうせ水樹のことで話があるんでしょ?」
「正解! 足りない頭でよくわかったわね。来月、カナ兄ぃは結婚するの」
「……え?」
怒りも苛立ちも、一瞬で消えてしまった。
「水樹が……結婚? え、……ウソ……だ」
「ウソに決まってるでしょう」
「はああああ?」
一瞬で消えたはずの怒りが、さらに数倍の大きさになって爆発した。
「さっきから言いたい放題でウソまでついて。いったい、なにがしたいわけ? 私も暇じゃない。バカにしたいだけなら、帰って!」
「さっき学校で、フラれてもすぐ次にいない。想ってるだけなら、なーんてしおらしいこと言ってたけど、やっぱりウソつきね」
「ウソつきはそっちでしょう!」
「カナ兄ぃからフラれるなんて、これっぽっちも思ってないくせに。好きって言われたから、バカみたいに信じて、ずっと待つつもりだよね。それが迷惑だって、話がしたいの」
香奈恵さんがぐいっと睨みつけてきた。
さっきからずっと痛いところを突いてくる。
水樹と同じ形のいい目で、酷いことばかりされる。
「私、香奈恵さんになにかしましたか?」
「カナ兄ぃが病気で死にそうなの。このままだと、あんたまで死にそうだから心配してあげてるの。どうせ大人の男に憧れて流されてるだけでしょう。他の人を探した方が幸せかもね」
「どうしてそんなウソが、次から次へとポンポン出てくるの? 信じられない」
「今の話は本当。水樹奏人がこの世から消えても、あんたはちゃんと生きていける?」
またウソの話をしている。
そう思ったのに、前髪で形のいい目を隠した香奈恵さんの頬に、無色の色がひとつこぼれ落ちた。
「やっぱりきついなー。心構えはできてるはずなのに、言葉にすると涙が出るよ」
香奈恵さんらしくない姿に、心臓がギュッと締めつけられた。
水樹がこの世から消える?
心の中でその言葉を繰り返すと、苦いものが湧きあがる。それを無理やり押し込めて、声を絞り出した。
「冗談でも笑えないです。言っていいことと、悪いことがありますよ」
「信じたくないなら、信じなくてもいいよ。カナ兄ぃは六月頃から調子が悪くて、帰宅しても寝てばかりだった」
香奈恵さんはひとつしかない椅子に腰をおろして、じっと私の様子をうかがっている。
形のいい目が「話の続き、聞く勇気ある?」と尋ねているようだった。
思わず小刻みに首を横にふると、一瞬、しらけたような顔を見せた。でもすぐに短い息を吐いて、続きを話しはじめた。
「カナ兄ぃはリンパ腺の腫れが気になったみたいで、病院にいったの。血液検査をしたら、即入院。それからより詳しい検査があって」
「香奈恵さん……」
「あんたも病院で会ったよね。ほろ苦い香りの、コーヒーショップを覚えてる? あの日、医師から血液の癌かもしれないって言われたの」
「いい加減にしてください!」
いつまでたってもからかうそぶりを見せないから、声をあげて香奈恵さんの言葉を遮った。
「入院中でも、水樹はいつもの水樹だった。普段通りの会話をして、朗らかに笑って、退院が……決まったって……」
思い当たる節がいくつもある。
「病気で死にそう? そんなこと、あるわけない! ウソつきは嫌いです。帰ってくださいッ」
あの日、水樹はコーヒーを飲まなかった。
大好きなコーヒーが飲めないほど体が悪い、そう感じた。
病状を聞き出すチャンスはいくらでもあったのに、怖くて聞き出せなかった。私がいつも水樹の足を引っ張っていたから……。
「ごめん、帰れない。あたしはこの話をしにきたの」
「水樹はいつも笑ってた。絶対に……ウソだ」
全身の力が抜けていく。
立ちくらみをしたように、へなへなと座り込んだ。
首が折れたみたいにうなだれてしまったけど、頭の中は「ウソだ!」と叫んでいる。香奈恵さんの言葉に偽りがないか、必死になって探している。
「転院先でも絶対安静だったのに、学校へいって、血が止まらないって」
ハッとして顔をあげた。
汗がにじむ夏の香りと、吸い込まれそうな青い空が鮮明によみがえる。
屋上には爽やかな風が吹いて気持ちいいのに、水樹はずっと変だった。
もう二度と会えなくなるような口調だったから、悲しくて想いをぶつけた。
受け止めてもらえたけど、手のひらについた血を眺めて、動かない。唇の端からも血が流れて……。
「カナ兄ぃはすべての血球、……白血球、赤血球、血小板がうまくつくない病気なの。軽症なら薬で治るけど、血が止まらないってことは、薬で治る範囲を超えて重症になった……ってこと」
「水樹は、新しい目標ができて学校を辞めたんじゃないの? お父さんがお医者さんで、香奈恵さんも医学部だから、しばらく病院へいくって」
「カナ兄ぃは口がうまいな。入院するって言ったら心配するから、誤魔化したのね」
頭の中でざわつく「ウソだ」の声が、力をなくして消えていった。
しばらく会えなくなっても、次に会ったとき「よく頑張ったな」って褒めてほしいから、わがままを封じた。 順調にいけば四月に会えるって……。
ぞくりとした冷気が背中を這いあがってくる。
順調にいかなかったら?
「香奈恵さん、水樹は今どこにいるの?」
「……病院」
「そうじゃなくて、どこの病院にいるの?」
「無菌室にいるから、家族以外の人と面会はできないよ。これは意地悪じゃなくて、カナ兄ぃの命を守るために、病院が決めたルールなの」
いつも蚊帳の外。
水樹はなにも教えてくれなかった。
大事なことを言う必要がないくらい、私はちっぽけな存在なんだ。
「うっ……ぐ」
大粒の涙がこぼれると、もうダメだった。
「水樹は私の心に寄り添ってくれたのに……、いつまでたっても……近づけない」
水樹のことを知ろうとすると、すぐ遠くへいってしまう。
「やっとつかめたと思ったのに」
勇気を出して、私から抱きついた。
真夏で暑いのに、水樹の温もりが心地よくて、四月まで我慢しようと決めた。それなのに、命に関わる病気?
夏休みの屋上で、私、ひとりだけが浮かれていた。
これほど惨めなことはない。
「つかめて……なか……たの?」
青い、ガラスのように輝く空に向かって、水樹はよく手をのばす。ギュッと堅く拳を握るけど、その手に空はつかめない。
ぐんと迫ってくるほど近くに見えても、遠い。あの青すぎる空と水樹は一緒だ。とても綺麗なのに、届かない。
「ユイ、落ち着いて。確かにカナ兄ぃは危険な状態だけど、悪い話ばかりじゃないから」
泣きじゃくる手を、そっと握ってくれた。
「今は輸血で命をつないでる。その次の治療方法も提示されてるから、すべてが終わったらちゃんと話してくれると思う」
「……治療がうまくいかなかったら?」
「成功する確率は八割から九割なのよ。悲観する要素はないでしょう」
「でも一割はダメなんでしょう。一割の人は確実に」
死ぬという言葉を口に出すのが怖かった。
九割が成功だとしても、水樹と同じ病気の人が十人いたら、そのうちのひとりは助からないと断言している。
そのひとりに入らない保証はどこにもない。
「せっかく人が明るい話題を提供してやろうと思ったのに、ネガティブなことばかり言われると、嫌な気分になる。ちょっと立ちなさい」
え? え? とクエスチョンマークを飛ばしても、香奈恵さんは私の腕を引っ張って立たせた。
「はい、ここをまっすぐ歩いて」
意味がわからない。ふてくされていると「早くしなさい」と腰をはたかれた。
仕方がないから五、六歩、前に進む。
「はい、ストップ。それじゃ、そのまま戻ってきて。顔はまっすぐ前を向いたまま、後ろ向きで。ほら、後ろは見ないで戻ってくる」
「そう言われても……わ、難しい」
たった五、六歩の距離でも、涙目だからふらついた。
「ほーらね、人生は前向きに歩きなさい。後ろ向きに歩いても、歩きにくいだけでしょう」
「なにそれ……」
また無茶苦茶なことを言ってる。
半分あきれたけど、半分はそうかもしれないって感心してしまう。
ほんの少しだけ笑みをこぼしたら、
「それではもうひとつ、いいことを教えてあげよう」
香奈恵さんは胸を張って「感謝しなさいよ」と言いたげな顔をした。
「骨髄移植で助かる道があるの。骨髄移植は、リンパ球や血液細胞をほぼ完全に破壊してから、正常な細胞を移植して血液細胞をつくらせる方法だけど、わかる?」
細胞をほぼ完全に破壊してからって……、そんなことをして大丈夫なのか不安になる。だから正直に「ちょっとよくわからないです」と答えたのに、バカ発見、と言いたそうな目をしただけ。
「骨髄移植には骨髄を提供するドナーが必要で、これはあたしがすることになってるの」
今度は、水樹を救えるのは自分だけだと自慢してきた。
好き勝手やっている香奈恵さんの骨髄なら、力強くて移植も成功しそう。それはいい話だけど、鼻をすすりながら早く帰れと念じてしまう。その表情に気づいても、香奈恵さんは語り続けた。
「あとは移植する日を決めるだけ。……でもカナ兄ぃが嫌がってるの」
「どうして? 助かる道があるのに」
「そんなの決まってるでしょう。妹のあたしが命よりも大切だからよ」
「…………」
どこまでが本当で、どこからがウソなのか。またわからなくなってきた。
「ドナーにもそれなりのリスクがあるのよ」
「本当にそれだけですか?」
疑いのまなざしをぶつけると、香奈恵さんは目をそらした。
「あとは、HLAかな。知ってる?」
「あ、生物基礎で習いました。ヒト白血球型抗原のことですよね」
「そう、それ」
「確かHLAをつくり出す遺伝子は、第六染色体上にある六対存在して、六対の遺伝子は多くの対立遺伝子を持つ……えっと、複対立遺伝子だからその組み合わせは二千万種類とか」
「よく覚えてるわね。生物好きなの?」
「補習で、HLA遺伝子が同じなら拒絶反応は起こらない。同じ両親から生まれた兄弟間で拒絶反応が起こらない確率を聞かれたから」
「生物も補習だったの?」
「……水樹には言わないで……ください」
弱々しい声でお願いしても、香奈恵さんはニヤッと口元に笑みを浮かべた。
告げ口、決定ー♪ と言いたそうな顔。
慌てて話題を変えた。
「HLAのどこが問題なんですか? 血縁者の香奈恵さんがドナーだから、HLAが一致したんでしょう」
「一致したと言ってもHLA抗原型の完全一致で、HLA遺伝子型が若干違うの。昔は遺伝子の配列まで調べられなかったけど、今は違うでしょう。遺伝子配列が違うと、移植後に起こる合併症のリスクが高まるの」
「水樹はそれを知ってるの?」
「たぶん、知ってる。主治医の先生は、HLA抗原型の完全一致ばかりを強調して安心させようとしてるけど、逆効果になってる。リスクはつきものなのに、妹のあたしが大切だから迷ってるのよ」
ドナーになれば、健康な体に傷をつける。移植した骨髄が牙をむく可能性もある。そのとき、骨髄を提供した香奈恵さんがどう思うのか。
水樹が悩む気持ち、少しはわかるけど。
「水樹は生きたくないの?」
「カナ兄ぃは昔から自分のことより、周りを気遣う人だから」
「命がかかってるのに?」
「まあ、その辺はあたしがうまく誘導するよ。やっぱりここへ来て正解だった。ようは天秤ね。この左手があたしで、右手がカナ兄ぃの命なら、左手の方が重い。でも右手に、四月に会えると信じてるユイが加わったら」
「どうなるんですか?」
身を乗り出して尋ねると、香奈恵さんはきつい目をして睨んできた。そして私の顔を指さす。
「鼻水の痕がついてるよ」
「ぇえええ!?」
さっき泣いたから顔はぐちゃぐちゃかもしれない。
「顔、洗ってきます」
恥ずかしい。鼻を押さえて洗面所に走った。
鏡の前に立つと、目の周りが真っ赤で酷い顔をしている。でも鼻水の痕なんてついていない。
また騙された……。
がっくり肩を落として、腹の底にたまった空気を全部吐き出すつもりで、長い息を吐いた。それから冷たい水で顔を洗って、さっぱりした。
今度こそ言い返してやろう。
「香奈恵さん、鼻水なんて……んなッ!!」
部屋に戻ると、香奈恵さんはクローゼットを開けている。
一冊のノートを手にして、キラキラ輝いた目をしていた。
「ねえ、ねえ、この絵。すごくかわいい! これ、カナ兄ぃ?」
暇なときに、デフォルメした水樹をたくさん描いたイラストノート。
他人には絶対に見られたくないノートだった。
「……かっ」
「か?」
「帰れえぇぇぇぇーッ!!」
ノートを奪い取って、カウンターテーブルにたたきつけた。
「ちょっ、なに? えっ? やだ、耳まで赤くして」
「帰れ、帰れ、帰れーッ!」
「嫌よ。ねえ、あたしも描いてよ」
「描くわけないでしょうッ」
「生物も補習。カナ兄ぃが知ったら、どぉー思うかなぁ?」
歯が砕けそうなほど食いしばって、怒りをあらわにしても香奈恵さんは動じない。
乱暴にノートを破って、ペンを握った。
「香奈恵さんも、基本は水樹だから……」
サッと水樹を描いてから少しまつ毛を長くして、髪をひとつに束ねて。
「すごい! うまい! 上手ね。かわいいー」
はじめて褒められたけど、あまり嬉しくない。
「はい、どうぞ。さようならッ!」
「ありがとうー。またね」
二度と来るなッ!
玄関のドアを閉めると、疲れがどっと押し寄せてくる。
突然やってきて、家の中をチェックして、散々かき乱していった。
香奈恵さんは嵐のような人だ。苦手だけど、来てくれなかったら……。水樹のこと、ずっと知らないままだった。
カウンターテーブルに頬杖をついて、静かになった部屋をぼんやり眺めた。それからふと手をのばしたけど。
「ない……」
ガタンと椅子が鋭い音を立てた。
カウンターテーブルの上にたたきつけたノートがない。
デフォルメ水樹を気に入っていたようだから、持って帰っちゃった?
「まさか水樹に……見せ……る……?」
目まいがしてぶっ倒れそうになったけど、スマホを取り出した。
教えてもらった連絡先に、何度も、何度も電話をする。でもスマホからは、留守番電話の機械的な音声が繰り返されるだけだった。